その日
「そこの求人誌持ってる人ー!」
梅雨の中、真っ赤な傘を差した男子がこちらを見ている。
寝癖だらけの髪と、全体的にすっきりとした爽やかな顔立ち。
見知らぬヤツだった。
……そもそもクラスメイトの顔すらまともに覚えちゃいないから、誰であろうが結局「見知らぬヤツ」である。
この日、傘を忘れた光は、学校の裏手にある非常口で雨が止むのを待っていた。
手には開いた状態の求人情報誌がしっかり乗っている。
「うん、そう。そこのアナタ」
怪訝な光の視線を受けて、2、3度頷く男子。
その間にも彼は雑草を踏み分け、足早にこちらへ向かっている。
……変な奴に目を付けられたかもしれない。
関わる前に立ち去ろうと腰を浮かしかけたものの、その時には見知らぬ男子がもう目の前まで来てしまった。
「……何?」
警戒した態度を隠す事無く見上げる光。
正面に佇む赤傘男子は、特に気に留めた様子も無くニコリと笑った。
「ここによくいる人でしょ?」
彼の言葉に光は目を丸くしてしまった。
2人が居る非常口には小さいながら雨避けの屋根が設けられており、更に正面には横に長いコンテナハウスの倉庫が鎮座している。
つまり上からも下からも人目に触れない訳で、この男子のようにわざわざ裏へ回って来なければ、光が度々ここを訪れることも知るはずが無いのだ。
「俺もよくここに来るよ。スケッチしに」
赤傘男子のスラックスには黄緑色の絵の具が擦っていた。
美術部、という単語が頭を閃く。
「雨宿り?」
「あぁ、まぁ……。そっちは?絵とか描くのか?」
「描こうか迷ってるトコ。あ、お隣失礼します」
傘を閉じた彼は、光の隣りに腰掛けた。
赤傘男子はその後5分程、よく喋った。
特に光が話を振らなくても、向こうから質問をしてきた。
それに答えると、内容に合わせた話題がポンポンと赤傘男子から飛び出してきた。
赤傘男子は光と同じ1年生で、予想通り美術部員であることも分かった。
「暇つぶしであの倉庫とかそこらの草とか描いてみたりするけど、今日はなぁ……」
「倉庫?……あれ描いてて楽しいか?」
「楽しいときは楽しい」
……変わってる。
スケッチとはいえ、何時間も倉庫を見て何が楽しいのだろう。
光には到底理解が出来ないものだった。
「何か……足とか描いてみたい気分なんだなぁ」
「ふぅ〜ん。……え?」
足?
「で、物は相談だけど、あのさ。足のモデルやってくんないかな?」
……おいおい。
最初冗談かと思ったが、本人は至って真面目な顔で光を窺っている。
冗談を言っている雰囲気ではなかった。
「……無理」
「何で?」
「あのさ……俺ら初対面だろ」
「うん。……で?」
そんなの関係なくない?
と、言いたげに首を傾げられてしまった。
「や、『で?』じゃなくて……──」
そこまで言って、不意に答える気を失う。
話が通じない気がしたのだ。
初対面の人間に「足描かせて」って……。
やっぱり、変な奴だった。
光は求人情報誌を仕舞って今度こそ立ち上がった。
不躾な行為と分かっているが、何と思われても良い。
少しでも怪しいなら、関わらない方がいい。
「おろ?待って、まだ交渉中──」
「あのさ……初めて会った人間に、足描かせろっておかしいだろ」
指摘すると、今度は変人男子の方が目を丸くした。
雨はまだ降っていたが、そこの変わり者に付き合って面倒なことになるより、ずぶ濡れになって帰る方が遥かにマシだと思う。
……しかし光が立ち去ろうと一歩踏み出したその時、男子に手首をガシッと掴まれた。
「離せって」
「濡れるっしょ」
咄嗟に手を振り払おうとしたが、目の前にズイッと何か突き出され、思わず動きを止める。
あの赤い傘だった。
「持ってって」
「いらない」
早く離せよ。
手を離す気配の無い彼を光は思い切り睨みつけたが、それでも傘を貸そうとする善意に内心怯む。
一方の赤傘男子改め変人男子は、睨み返すことも無ければ怯む様子も無く……何か思案を巡らす顔つきをしている。
と、思った矢先。
手首が解放された。
変人男子は傘を置いた。
そしてバッと脱兎の如く外へ駆け出した。
「え」
呆気に取られて咄嗟に動けない光。
変人男子の背中はあっという間に曲がり角へ消えてしまった。
……逃げられた?
後に残された光は、ただ突っ立つのみ。
置いてきぼりの傘と、変人男子が走り去った曲がり角。
……訳が分からない。
敵意剥き出しの人間に傘貸すか?普通。
しかも受け取らないと傘を置いて、とどめに逃げる。
光が逃げるはずだったのに、変人男子が先に逃げる。
自分が濡れるのも構わず、光に傘を持たせようとする。
……本当に意味が分からない。
一体何なんだ。
いや、それよりも問題なのは光の足元に置いてかれた傘だ。
これは……、
なんて。
悩もうにも、「正しい答え」なんて考えるまでもなく出ている。
結局光は傘を拾い上げた。
これは置いていけないだろう。
流石にそこまで性格は悪くないし……罪悪感だってない訳じゃない。
バサッと開いて、雨の中を歩き出す。
いつも黒い傘を差しているから、赤色が不思議と鮮やかに映る。
後で返しに行かないと。
──何処へ?
──美術室へ。
「はぁ~……」
さっきの変人振りと一緒に美術室を思い出したら、重い溜め息が出た。
「──あ」
そういえば、「となりのトトロ」にこんなシーンが無かっただろうか。