3
闇雲にぶっ叩かれた。
義兄は腰を抜かして、揉み合う──というより賢翁が義母に一方的にやられている──2人を見ていた。
義母は見境無く、マグカップで殴った後もまた賢翁の頬を殴っていた。
マグカップはあの1回以降、床に転がっている。
「賢翁」であったから、義母もこんな真似が出来るのかもしれなかった。
そんな義母でも「女」であったから、賢翁は手を出すことを躊躇ってしまった。
顔や頭を三発、四発と思い切り張られて、殴られる。
賢翁も顔を片腕で庇いつつ、逃れようと藻掻いて暴れた。
痛みも音も、視界ですら遠のいていて、けれど殺されるという意識が強烈に頭を支配する。
冗談じゃない──!
止めなければ、止めなければ──
強迫めいた焦りが手を勝手に動かす。
床を探った。
──何かが手にカツン、と当たる。
咄嗟に掴むと、細長いプラスチックだった。
持った感覚で、これなら怪我をしないと、ぐしゃぐしゃな頭が判断した。
義母の頭を殴って気を逸らそうと、手を上げた。
しかし目敏く気づいた義母は、手のそれを鷲掴みにした。
賢翁も取られまいと抵抗する。
──力を籠めて握っていたのが不運だった。
義母が力任せにそれを引き抜いた時、腕から指に掛けて鋭い激痛が走った。
引き攣った悲鳴が、賢翁の喉の奥から迸った。
義母もぎょっとした顔で、動きを止めた。
彼女の手には、何故か刃が剥き出しになったカッター。
賢翁は心臓が凍り付く思いで、それを見つめた。
……そういえば、コラージュに使おうとしたんだ。と不意に思い出す。
刃を出しっ放しにして床に放っておいてあったのだ。
それが、賢翁の肌を容易く引き裂いたのである。
けれど、それで幸いだった。
賢翁は危うく義母にカッターを突き刺すところだったのだから。
ぱっくり開いた長い傷口から血が溢れ出すと、義母は我に返ったらしい。
血塗れのカッターを取り落とし、ふらふらした足取りで賢翁の上から退いた。
……その表情が、みるみる内に恐れをなしたものへ変わる。
「あ……明人、こっちに来なさいっ」
切迫した母の呼びかけに、義兄がたじろいた。
我を忘れ暴行に走る母を見てか、流石に顔色を失っている。
けれど「早くっ!」と怒鳴られ、彼はあたふたと立ち上がった。
2人連れ添って、逃げるように出て行く。
「もう……出て来るな!」
義母のそんな捨て台詞と共に、ドアがバンッ!と力任せに閉められた。
更に何を思ってか、外から鍵を掛けて行ってしまった。
バタバタと駆けて降りていく足音は、次第に遠ざかっていく。
賢翁は床に転がったまま、しばらくは動く気になれなかった。
……そういえば、血ってどのくらいで固まるんだろう。
顔を向けると、溢れた血は手のひらの窪みに溜まっていた。
あれは、虐待の類いじゃないだろうか。
俺は未成年で一応あの人たちの保護下に置かれている訳で、「親権」も向こうが持っているのだし……いや、最初に手を出したのは俺か。
あれ?
でも──
「……あぁ~……」
もう、いいや……
考えるのが面倒になってきた。
……それよりも、左手が熱い。
傷全体が、血管か何かの脈打つのに合わせて、うねって。
痛い、痛い──痛い。
手首まで届いた傷から伝った血が、床に到達。
床に小さな水たまりを作った。
これらを拭くティッシュの類いは部屋に無い。
この状況をなんとかしなければならないが、服を犠牲にする訳にも行かない。
……賢翁はむくり、と起き上がった。
部屋や傷の始末はさておき、これから先どうするかは、鍵をかけられた時点で決めていた。
傍にあったスクールバックと大きめのリュックサックを引き寄せて、スクールバックの中の物を右手で全部出した。
左手はどうしようもないので、やっぱり放っておく。
出した物の中から必要な物──画材道具・スケッチブック・怖い先生が担当する教科書──をリュックサックの中に移していった。
立ち上がって、更に制服や私服を詰め込む。
それから、両親が写った写真のアルバムも。
元々、私物は少ない方だが、こうやって見ると本当に必要なものは少ししかない。
極端な話、画材道具さえあれば後は何もいらない。
絵さえ描ければそれでいいのだから。
最後に、床に散乱していたデッサンの残骸を拾い集めて、クリアファイルにそっと収めていく。
これも持って行こう。
ふと壁を見て、でっかく落書きしてやろうかと思ったが、その衝動もすぐに冷めてしまった。
悲しくなるはずの状況を前にしても、頭が異様に冷めきって何の感情も湧かない。
怒りを通り越して、というよりは妙な脱力感に襲われて、それ以上何か思う気にもなれない。
でも何故だろう。
光の姿が何度も、何度も頭に浮かぶのだ。
他に入れる物がないか部屋を見回した時、ふと床に放置されたサランラップが目に入った。
これも、コラージュのために集めていたやつだ。
……しばし思案を巡らせた賢翁は、屈んでサランラップを拾い上げた。




