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4

宿に帰って来るや、賢翁は慌ただしくスケッチブックや鉛筆、色鉛筆をテーブル一杯に広げた。


「今から描くのか」

「ごめん、ちょっと待って」


そう言ったきり、賢翁が口を開く事は無かった。

テーブルは占領されてしまったので、暇つぶしに畳の上で宿題を片付けることにした。


部屋はたちまち静かになった。

鉛筆が走る音と、紙が擦れる音、窓の向こうから聞こえる夥しい数の蛙の声。

蛙……といえば、この村は民家の数より田んぼの方が多いように見えた。

きっと蛙も山のようにわんさか居ることだろう。

電車に乗っていた時も、アオサギを数羽見つけた。

自分たちの住む場所ではアオサギが1羽、空を飛んでいるだけでも騒ぎになるというのに。

思い返してみると、田舎というのも中々面白い所だ。

光の知らないことが沢山散らばっているに違いなかった。


賢翁は賢翁でこの旅を満喫しているようだった。

その胸の中で何かしらの変化は起こっただろうか。

あの満天の星空に”何”を見ただろうか。

彼は今、スケッチブックにそれを写しているが、それがこの先賢翁の希望に成り得るだろうか。

……なってくれた嬉しいけれど。

ともあれ、この旅の目的が1つ達成された訳だ。


──後に残すは、明日の賢翁の母親の墓参りである。


墓参りの話が出たのは、昨日の打ち合わせの時。

電車のルートを確認していたら、途中の駅名を見て賢翁が言ったのだ。

この近くに母さんの墓がある、と──

物凄い偶然もあったものだ。

彼の両親はそれぞれの家の墓に葬られてしまったらしい。

父親の墓は県内にあって、賢翁が足を運べるぐらいに近い所にあるが、母親の墓は遠くて今まで行けなかったそうだ。

もちろんその話を聞き流す光ではないので、その墓参りも日程に組み込んだのである。

幸い帰りしなに通る駅だから、光としても全く問題は無い。

乗り換えが必要で遠かったとしても、関係無く行ったと思う。

賢翁のためだ。


……泣き出したらどうしよう。

本当に泣いたところなんて見た事無いから、想像できないし心の準備が出来ない。

それとも、アイツのことだから墓石を描きたいとか言って何時間も居座ろうとするんじゃないだろうか。

そちらの方が有り得る話である。

……墓石って描いてもいいのか。

不謹慎だ、とか言われて地元の人に怒られたら厄介だ。

明日は無事に帰って来れるだろうか。


──いつの間にか鉛筆の走る音が止んでいだ。

耳鳴りがはっきりと聞き取れる静けさを感じて、後ろを振り返ろうとした。


「てやっ」

「ぐはっ!」


肺の空気を一気に押し出された。

賢翁が飛びかかって来て、勢い良く身体を押しつぶされたのだ。

重い!

しかも、上手く息が吸えない。

命の危機に迫られ、たまらず光は賢翁を振り払った。


「ぅっ、げほっげほっ」


開口一番文句を言おうとして、結局咳き込む。

賢翁が何食わぬ顔で背中をさすってきた。


「ばかやろっ……殺す気か!」

「急に飛びかかりたくなった」

「犬かお前!あっ……下に響いたんじゃないのか」

「あ」


2人して慌てて黙り、じっと耳を澄ませる。

おばちゃんに怒られたらどうしよう。

思春期効果も相まって、かなり恥ずかしい出来事かつ人生最大の汚点になるには違いない。


……しかし幸い、下の階から物音は聞こえて来なかった。


「……今度は静かに飛びかかる」

「もう飛びかかんなくて良い」

「はーい……」


つまんなそうに返事をした賢翁だったが、次の瞬間には、もう別の事を思いついていたらしい。

間もなく背後に移動して、光の首に抱きついて来た。


「今度は何だ」

「何でもない」


光の左肩と首の辺りに顔を埋めて──賢翁は黙り込んだ。

髪の毛が首筋をさわさわ撫でてくすぐったい。


「お前今日変だぞ」

「いっつも変だもん」

「つーか野郎の肩抱いて何か楽しいか?」

「安心する」

「………」


茶化して聞いたら、色々反応に困る答えが返ってきた。


「賢翁」

「何?」

「……いや、何でも無い」

「そっか」


しばらく賢翁は黙って光にくっついていた。

じっと、動かずに。

暑いはずなのに、賢翁の体温はもちろん温いのに、光は引っぺがす気にはなれなかった。

……不安なんだろうか。

だから、抱き着いてきたのだろうか。

賢翁と触れ合った場所から、彼の寂しさと足下のぐらつくような不安が伝わる気さえする。


──いつも笑っているけど。


背中の少年が、本当に心許無い存在なのだと。

光はひしひしと感じざるを得なかった。


それから……10分、いや5分だろうか。

ただ抱き着かれている光にとっては、何だか長くも短くも感じられた。


やがて賢翁は、「もう少し絵描くわ」と言って机に戻って行った。

光は宿題の道具を片付けた。

それから部屋の隅に置かれた布団を、2組とも敷きにかかった。

敷きながら……実のところ光は狼狽していた。


いや、まさか……そんな。


抱き着かれてる間、光には思ったことがあった。

もやもやして不明瞭であったが、光にとって思ってもみなかった感情である。

それによって、何かとてつもなくヤバいフラグが立ちそうな気がした。


いかんいかん。

馬鹿なことを考えてる。

気のせいだ。

こんな遅くまで起きてるから、おかしなことを思いついたのだ。

……早く寝てしまおう。

きっと、起きた頃には色々リセット出来てる、はず。


ぐるぐる頭の中を巡って、考えが止まらない。

光は慌てて頭を振った。



とにかく、寝よう。

俺は寝るんだ。



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