ある警察官に聞いた話。
ああ。
不愉快だ。
ひりひりと頬が痛む。
恐らく、赤黒い刻印が頬に刻まれているのだろう。
なぜか。それは、彼女と喧嘩したからだ。
俺はだらしなく机に突っ伏していた。
今日は十二月十日。
本格的な冬だ。さっきなんて、雪が降った。
マイペースというか、思い込んだらてこでも動かない彼女に、クリスマスイブの予定をそれとなく話したら、その内容が簡素すぎて気に入らなかったらしい。
彼女はこれでもかと、きゃんきゃん文句を言って、終いには握りこぶしを俺に叩き込んでさっさと帰ってしまった。
それも、ぶん殴られたのは人通りが多い駅のど真ん中で、だ。
「そういえば、最近喧嘩してばっかだよなぁ。」
額に入っている写真をそれとなく見つめてみた。
指を絡めて、頭をくっつけて、少し照れくさそうに笑っている自分と、満面の笑みの彼女。
確かこれは、去年の暮れに撮った写真だ。
一つのマフラーを二人で巻いて、無理やり頼んで通行人にとってもらったんだっけ。
「はぁ…」
無意識にでたため息の音を聞いて、改めてため息が出た。
彼女と付き合い始めてもう四年。
生活力があって、ちゃんとした職についているのなら結婚してもいいとさえ思ったこともある。
彼女のことを愛しているとだれかれかまわず大声で言うことだって出来る自信がある。
ただ。
《愛》とは何か。
じゃあ、本当にその彼女への想いが、本物の紛うことない《愛》なのかと誰かに問い詰められると、今は、少し考え込んでしまう。
一人悶々と考え続けていると唐突に携帯にメールが届いた。
開いてみると、警察官をやっている叔父に、四十九にして孫が生まれたという内容だった。
「へぇ〜、叔父さん、早くもおじいさんになったのか。……そうだ、叔父さん刑事だし、人生経験豊富そうだし、冷やかしがてら少し話でもしてくるか。」
俺はベッドの上から飛び起きてバイクにまたがり、叔父が好きな和菓子を買って家に押しかけた。
「こんちわっす、叔父さん。おめでとう!どんな感じだい?爺さんになって。」
「ああ、ありがとう。初孫だから嬉しいが、まだ実感は沸かないよ。ところで、何か話したいことでも出来たのかい?お土産を持って来るなんて?」
「ばれたか。いや、チョット考え事があって、それが、『愛とは何か』っていう話なんだけどさ、叔父さんなら、何かためになる話でもしてくれないかなぁってね。」
「なんだ〜?哲学にでも目覚めたのか?やめとけやめとけ、知恵熱が出るぞ!」
「うっさいな!そういうのじゃないって。ただ、少し、まじめな話さ。」
叔父さんは腕を組んで、少しだけ黙り込んで、それからゆっくりと口を開いた。
「こんな話がある。昔、私がある家の奥さんに通報を受けて、その家にいったときの話だ。」
胸ポケットからタバコを取り出し、孫のために禁煙中のため、吸い口をかんだまま、叔父は目を細めた。
/
その日は、いわゆる曇りの秋独特の木枯らしの吹く、冬の訪れ間直に感じさせる天気だった。
そして、警察に来た通報内容は、電話主こと…仮に、英子とするが、が、夫を殺したという電話だった。
私と同僚が部屋に入ると情報どおり二十歳中ごろの英子は血みどろで、そして夫は何度も包丁で刺され、人ではなく赤黒い肉の塊になっていた。
鑑識を呼びさまざまな手順を踏んで、そして私がパトカーに彼女を乗せ、そして連行しようとしたとき、彼女は私に話しかけてきた。
「おまわりさん、おまわりさんには恋人か、妻は居ますか?」
と。
その様子はとても落ち着いていた。
「妻と、子供が一人居る。」
「そう、ですか。…私は、夫を殺しました。」
一度、私の返事を飲み込むようにそうつぶやいて、そして今度はゆっくりと、息を吐き出すように彼女は淡々と続けた。
パトカーは警察署に向けて走り続けている。
「私の夫は、酒乱でドメスティックバイオレンスでした。お酒を飲んでは私を殴り、なじり、そして酔いが醒めた次の日にはまるで昨日のことが無かったように私に笑いかけて仕事に行って、そして『愛しているよ』ってささやきかけてきました。」
英子の言葉には気負いは無かった。
悟りを開いたように優しく、そしてはきはきとしていた。
「私は、そんなあの人が嫌いでした。でも、私は寿退社してしまっているし、それにあまり元気じゃない両親に心配をかけたくなかったんです。だから、離婚することも出来ない。よく男の人が結婚は人生の墓場だなんていっていますけれど、私にとって、それは本当に、本当にそうでした。」
ほぅ、と小さく英子はため息をついた。
英子の言葉がわずかばかり止まった瞬間、赤信号でパトカーが止まった。
私は英子の左隣に座っていた。
英子の右隣には誰も座っていないが、パトカーの後部座席の右側は内側から開けられないようになっている。
英子が仮に逃げようとしても、もう逃げ場は無い。
「だから殺したのか?夫を。」
まれに、パトカーに乗ってから逆上する人間が居るので密かに私は警戒しながらそう質問をした。
「そうです。でも、そうではありません。」
運転している同僚が、間、ミラー越しにこちらに視線を流してきた。
私はアイコンタクトで返事を返して、黙ったまま再び彼女を見る。
「夫は、今日は休みだからと昼間からお酒を飲み、やっぱり私を殴りました。何度も、何度も、何度も殴られて、私がいい加減にしてと、やめて頂戴と声を張り上げたら、夫は頭に血が上ったのか台所から包丁を一本持ってきて、脅すように振り上げて見せたのです。」
「正当防衛だといいたいのか?あれだけ、ガイシャを何度も刺しておいて。」
「いいえ、違いますよおまわりさん。それを見たとき、私は夫に、笑いながら『愛しているよ』といわれた瞬間を思い出したのです。その、怒り狂って包丁を振り上げている歪んだ夫の顔を見ながら。そして、ああ、私は殺されてしまうんだなって思ったんです。逃げたくても体は言うことを聞いてくれなかったですし。そう、体は、逃げたかったのにとっさに夫に掴みかかっていたんです。初めて、初めて夫の暴力に対して抵抗していたんです。」
再びパトカーは走り出した。
少し、風が吹いているのか、寒そうに外を歩く人たちの服装はもう、だいぶ冬のそれに近付いていて、町の色は寂しげな茶色と灰色が多いように感じた。
「夫は酔っ払っていました。そして、今まで一度だって私が抵抗しなかったから油断していたんでしょう。バランスを崩して簡単に倒れこんで、そして私が偶然抵抗して掴みかかっていた包丁は、夫の胸に突き刺さりました。」
私は、それが、この英子の告白が嘘だとはとても思えなかった。
実際に、かく言う彼女の服装はもみ合った後のように乱れていて、改めて見るとその隙間から見える肌には、濃い紫色ものと治りかけて茶色になっているものまで、大小様々な痣があった。
「『う、』と小さくうめいて、あの人は状況を飲み込めないのか小さく笑って、糸が切れたように倒れこみました。私は、とっさに…、きっと私も状況を飲み込めなかったんだと思います。とっさに、その包丁をあの人の胸から引き抜きました。すると、勢いよく血が噴出してきて、そして、暖かい血が私の顔にかかりました。濃い鉄錆と潮の臭いのせいか、頭がぼぅ、としました。そんな中、私が真っ先に覚えた感情はおそらく、安堵でした。ほっとしてしまったんです。死ななくてすんだんだって、もう殴られなくてもすむんだって。でもその後に後悔が津波のように押し寄せてきたんです。いつの間にか引き抜いた包丁を持つ手は震えて、止まらなくなってしまって、ずっと涙が出てきたんです。涙が止まらなくて、震えも止まらなくて、それで、ずっと泣きながら、やっとの思いで包丁を手放したんです。柄までステンレスの包丁なのに、落としても、ぬるぬるする大量の血のせいで、床にぶつかった時に鈍い音がしただけだったのが今でも耳に残っています。」
「それで、どうしたんだ?」
私の言葉で、密かに英子の手が握られた。
それは、これから自分が話す内容をもう一度反芻してから、すべてありのままに話す決意のようだった。
「やっと包丁を手放した手で、警察に電話して、それから流れ続ける涙をぬぐったんです。そうしたら、私の顔が歪んでいることに気がついたんです。口元が、頬が、目元が、歪んでいたんです。うつろな目で電話の脇の鏡を見ると、涙と血でびしょびしょになりながら、私は笑っていました。そして、気付いたんです。」
「気付いた?一体何に?」
「私は、あの人のことを好きだったんだって。愛していたんだって。私があの人を殺してしまって気付いたように、きっと、あの人は、夫は、私を殴ってそれでも私がそばに居ることに、愛を感じていたんだって。そう気付いたとき、私は再び血塗られた包丁を手に取りました。そして、あの人の死体に何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返しそれを突き立てました。それはやっと、あの人が私と肩を並べてくれたようで、そして、返り血は初めて私を優しく抱いてくれたときのように暖かくて、温かくて、だから、確認するように、確かめるように、何度も、何度も、何度も、何度も、まるで壊れたように私はあの人を刺したんです。」
英子の言葉を聞き私の頭の中に、ある一つの単語が浮かんできた。
それは、まるで雨水が禿山に滲みこまずに一気に流れ落ちるように口をついてこぼれてしまった。
「狂って…いる……」
少し驚いたように彼女は目を見開いてこっちを見てから、優しく微笑み、再び静かに語りだした。
「そうかもしれません。でも、おまわりさん、あなたは愛している人との子供が欲しいとは思わないですか?いいえ、思ったから子供が生まれたんでしょう?愛する人に入りたいと思ったから。一つになりたいと思ったから。私はあの人と一つになりたくなった。私は、あの人のことを今愛している。英語ではmadつまり『狂う』という英語に『夢中になる』スラング的意味合いでは『愛する』という意味も含まれるのはご存知でしょう?私はあの人を、あの人があの人だと分からなくなるまで壊すことで、私はあの人が私にしたのと同じように愛を感じていたんです。あの人に心から『愛しています』と言えたんです。その、ズタズタの肉の塊に。そう、私たち『夫婦』はまったく違うようで一卵性双生児のようにそっくりだったんですよ。」
其処まで言うと彼女は再び押し黙った。
彼女は、英子は警察署について取り調べのときもまったく同じことを言い、そして最後まで本当に幸せそうな穏やかな口調で、時に微笑んですらいた。
帰り道、私は一度車を止めて空を見上げた。
星空は、まるで本当に空が丸く見えるほど綺麗に見えた。
身震いをして、一本タバコに火をつけてゆっくりと吸ってから私は家へと電話を入れた。
その晩は妻とゆっくり他愛ない話をして、子供と少し将来の話をして、妻と少しだけ酒を飲んで、そして並んで寝た。
/
「それで、どうしたんだい叔父さんは?」
「いいや、どうもしないさ。それにこの話はここまで。」
「え?」
「さて、これから先は自分で考えるべきことだろう?そのための話なのだから。」
堪え切れなくなったのか、叔父はそのタバコに火をつけて、これが最後の一本だ、と一人つぶやいていた。
俺は、そんな愛は認めることは出来ない。
ただ、やはり、ならばそれは愛ではないのかと問われれば、俺には答えることが出来ない。
ただ、一つだけいえることは、俺は無性に彼女の顔を見たくなった。
声を聞きたくなった。
「ははは、人が悪いな、叔父さんは。けれど、考えは浮かんだよ。」
「そうか、それならよかった。彼女とうまくやれよ。」
「……ばれてたのか。」
「ああ、たった今ね。」
「かなわないな、叔父さんには。」
「まあ、年の功だ。もう爺さんになってしまったしな。今度、うちの孫を抱きに来るかい?」
「ああ、近いうちにまた来るよ。サンキュー、『おじいさん』」
「おいおい、やめてくれよ。それじゃあ、私のことは今度から名前で呼ぶようにしなさい。」
「はははっ、文雄叔父さん。じゃあ、そろそろ帰るとするよ。」
「飯でも食べていけばいいだろう?」
「いや、彼女の顔が見たくなった。これから会いに行ってくる。」
「ああ、そうか。バイク気をつけろよ。」
「うっす。じゃ、お邪魔しました、いってきま〜す。」
俺はライダージャケットのジッパーをしっかりと首元まで締めて、携帯で彼女に連絡を入れた。
連絡して、彼女に会って、謝罪よりも先に、一番初めに言う言葉はもう、決まっている。
きっとその時、私は今までの中で一番真摯にそれを言える気がする。
彼女は照れて笑うのだろうか。
何を馬鹿なことをいきなり言うんだと顔を背けるのだろうか。
それとも、微笑んで同じ言葉を返してくれるのだろうか。
幾度かのコール音の後に聞こえてきたのは、聞きなれた快活な、愛しい人の声だった。
やっぱり、それは『愛』じゃない。
それでもそれを『愛』だと思うことにした。
だって、私が唯一信じたモノ。
それが、血の温かさと、肉の柔らかさと、骨の厳めしさだったのだもの。
英子は言った。
私は、彼を、愛している。