役に立たない耳で、あなたの嘘だけ聞こえました
役に立たない耳で、あなたの嘘だけ聞こえました
婚約破棄を告げるなら、せめて食事の済んだあとにしてほしかった。伯爵令嬢の澪がそう思ったのは、晩餐会の卓に出された梨の砂糖煮を、まだ一口しか食べていなかったからだ。銀の匙を皿に置くと、向かいに立つ婚約者のアルノーが何かを言い始めた。
広間には四十人ほどいた。皿の触れ合う音、衣擦れ、窓を打つ雨粒が重なり、澪にはアルノーの声が聞こえていても、言葉の形にならない。彼の唇を見ようとしたが、横から恋人のリゼットが進み出て、その口元を隠した。
「……会話も……できない……妻には……」
拾えたのは、それだけだった。澪は膝の上に置いていた小さな帳面を開き、鉛筆で〈もう一度、ゆっくりお願いします〉と書いて見せた。アルノーは帳面を見たまま、広間の人々へ顔を向けた。
「ご覧ください。大事な話さえ、こうです。私はこれ以上、まともに会話のできない方と結婚するつもりはありません」
最後の一文は、澪にも読めるほどゆっくりと唇が動いた。壁際で給仕が水差しを持ち直し、氷が縁に当たる。アルノーは澪の帳面に手を伸ばさず、リゼットの肩を抱いた。
「リゼットには何も責任がありません。私が彼女を愛するようになったのは、澪との婚約を解消すると決めたあとです」
ちん、と細い金属音がした。
澪は顔を上げた。給仕の手は止まっており、食器にも誰も触れていない。幼いころから、人が嘘を口にした瞬間だけ聞こえる音だった。初めは遠くの鈴だと思い、何度も部屋を探したが、鳴る場所は見つからなかった。
音が教えるのは、その人が嘘を言ったということだけだ。何が事実なのかも、なぜ嘘をついたのかも教えてはくれない。澪は帳面の新しい頁に、アルノーが言った時刻と、聞き取れた一文を書いた。
リゼットが一歩前へ出た。澪の前で立ち止まり、両手を胸のあたりで組む。彼女は口を大きく動かし、広間中に届く声で言った。
「私たちは、あなたを傷つけないようにしてきました。今日だって、婚約破棄の知らせを前もってお届けしたでしょう?」
ちん、と鳴った。
澪はリゼットに帳面を向けた。〈通知は受け取っていません〉と書いた頁を、相手が読み終えるまで動かさなかった。リゼットは目を落としたあと、扇で口元を隠した。
「受け取ったことを忘れたのでしょう。いつも聞き間違える方ですもの」
また、ちん、と鳴った。澪は鉛筆を持ち直し、同じ頁に時刻と発言を書き足した。遠くの席で誰かが咳をしたが、その言葉までは聞き取れなかった。
アルノーは澪の帳面を閉じようとした。澪は手首を引き、立ち上がって一歩離れた。壁際にいた法務官の妙が、折り畳んだ紙を手に歩いてくるのが見えた。
妙とは、半年ほど前から婚姻契約のことで筆談を重ねていた。初めて会った日、妙は澪の返事を待たずに話を進めてしまい、翌週、謝罪を書いた紙と新しい筆談用の帳面を持ってきた。それ以来、彼女は人前でも澪に話しかける前に紙を差し出す。
妙は澪の隣に立ち、紙を開いた。〈今、示してよろしいですか〉と書いてある。澪は頷いてから、その下に〈先に、私から尋ねます〉と書き足した。
「アルノー様。リゼット様と親しくなったのは、婚約を解消すると決めたあとだとおっしゃいましたね」
澪はアルノーの口元が見える位置に立った。彼が頷いたのを確かめ、帳面に挟んでいた一通の手紙を取り出す。三か月前、屋敷の庭師が拾い、宛名を見て澪に届けたものだった。
「これは、あなたがリゼット様に送った手紙です。拾い主から受け取った日も、封筒に記録してあります。『澪との婚約はまだ続ける。今は彼女の持参金が必要だ』と書かれています」
アルノーの唇が動いた。澪には言葉がつながらなかったが、首を振っていることは分かった。妙が紙に短く書き、澪へ向ける。〈本人は偽物だと言っています〉。
「では、署名を確認してください。妙さんが原本を保管しています。あなたに今、お見せしたのは写しです」
ちん、と鳴った。アルノーは紙から手を引き、澪を見た。澪は帳面を開き、次の頁に書いた質問を自分で読み上げた。
「リゼット様。事前に届けたという通知は、いつ、誰に渡しましたか」
リゼットは扇を握り直した。窓際に立つ侍女を指し、昨日の午後、澪の屋敷へ使いを出したと言う。澪は妙を見る。妙は用意していた二枚目の紙を広げた。
婚約破棄の通知が出されたのは、今日の夕刻だった。妙が王都の文書受付で受理した時刻と、宛先が記されている。宛先は澪の屋敷ではなく、この晩餐会の主催者だった。
「私には届いていません。こちらを見てください」
澪は受理時刻を指で押さえて、リゼットへ紙を渡した。リゼットが読み終えたのを見てから、澪は主催者にも同じ箇所を示した。広間での口頭の宣言より前に通知があったことには、これでできなかった。
アルノーが再び何か言いかけた。澪は帳面を開き、〈書いてください〉と記した頁を彼へ差し出した。彼は鉛筆を受け取らず、澪の耳元に顔を寄せようとした。
「離れてください」
澪が言うと、妙が二人の間に立った。アルノーは足を止めたが、澪の帳面に視線を落とさない。澪は三か月前の手紙と、今日の日付が入った通知を並べて持った。
「あなたの言葉は聞き取れません。でも、嘘をつく音だけは、よく聞こえます」
広間が静かになった。澪には誰かの囁きが分からなかったが、アルノーが差し出された鉛筆をようやく受け取るところは見えた。彼は一行だけ書き、帳面を返した。
〈婚約を解消したい。それだけは本当だ〉
澪はその下に返事を書いた。〈承知しました。持参金の返還日と方法は、妙さんを通して書面で決めましょう〉。彼が読み終えると、澪は帳面を閉じた。
卓に戻ると、梨の砂糖煮はすっかり冷めていた。澪は銀の匙を取り、残りを食べた。妙が隣の席に腰を下ろし、小さな紙を皿の脇へ滑らせる。〈お茶もお持ちしましょうか〉と書いてあったので、澪は鉛筆で〈お願いします。熱いものを〉と返した。




