第5話「姦姦蛇螺・2」
現実が物語に侵食され、塗り替えられる瞬間はいつも劇的だ。
すでにそこにある異界に入り込むのとは違い、皮膚の内側にある筋肉と脂肪の裏側、内臓までが水で洗われるような独特な感覚を味わう。
ひさご庵は消えていた。
その代わり、闇が上から覆いかぶさり森が現れる。
鳶瀬山の森ではない。
魔的な霧が漂う妖山の樹海。
秋水はそこで、六角形の儀式場内に囚われている。
思っていたより、広い。
大量の札が貼られた、六本の木柱。
木柱は注連縄と綱、有刺鉄線で結ばれていて、風もないのに紙垂が揺れている。
通常の紙垂とは違い、少し独特な四角形の連なり。
斜めに曲線を描くそれは、何処と無く蛇の形代のようでもあって。
紙垂と紙垂の間に結ばれた鈴が、六角形の六辺すべてから、けたたましく鳴り響く。
と同時に、秋水のズボンからは携帯端末も激しく鳴り響いた。
協会の霊視局から、緊急アラートの連絡だ。
ポケットから取り出し、秋水は呼び出しに応える。
「鳶瀬山。対応中です」
「早ァ!?」
即座に通話を切り、倶利伽羅剣を物質化させる。
直後、人頭蛇身が迫り来た。
【忌避ひひひひひひッ!】
姦姦蛇螺本体ではなく、分霊、いや、さらに切り分けられた末端のような怨霊。
女の顔と蛇のカラダだけを持ったバケモノが、金切り声をあげながら何匹も飛びかかってくる。
サイズは大型犬と同等だ。
大型犬がムカデのように空を這い跳ぶと言えば、怖気は理解しやすいか。
秋水はそれらを力づくで押し返しながら斬り払い、同時には対処できない数に関しては炎波で滅却する。
異界の中心で、姦姦蛇螺はそんな秋水の様子をニヤけたツラで見下ろしていた。
鳶瀬山千歳の身体を奪い、見るもおぞましい六本腕の異形と化しながら。
その体躯は次第に、どんどん大蛇の威容を顕していく。
白い蛇。
畏れ多き古の、神に連なる大蛇の下半身。
まるで白妙のようなうねりだ。
木立の合間を瞬く間に埋め尽くし、四方八方から視界を圧迫するのは、白木蓮柄の鱗。
キラキラと輝きながら、天然自然の諸力を覗かせる春の神気。
然れど、今やその霊威は荒ぶる怨念そのもの。
伝承では姦姦蛇螺は、巫女の上半身と大蛇の下半身を持つと語られていたが。
その接合部はラミアのそれとは違っていた。
大顎を開けた大蛇が、巫女の下腹部から下を喰んでいる。
牙を突き刺し、爛れた傷口から瘴気を垂れ流し。
蛇の目はどんよりと半濁。
巫女の足代わりとして、使われているようだった。
【にィぃぃィぃぃぃ】
〝この姿を目にし、生きて帰れたモノはいない〟
禁忌法則の具現化。
世界各地の神話や伝説、物語には。
振り返ってはいけない。
見てはいけない。
食べてはいけない。
などの、○○をしてはいけない系の禁止事項が度々登場する。
そしてそれらは、お約束と言っていいほど必ず破られる。
結末は物語によって異なる。
しかし、姦姦蛇螺の場合、封印を破って蛇の下半身を見てしまったモノは助けられない。
そういうルールが存在する。
怪談系の物語だと、だいたいは悲劇や惨劇で終わるのだ。
秋水は初手で禁止事項を破らされた形だった。
「勝手に見せておいて、よく言う」
【にィぃぃィぃぃぃ】
〝あな怨めしや。あな呪わしや。剣を抜いたな? 刃を見せたな?〟
「だったらなんだ」
〝人を呪わば穴ふたつ。その腕、スッパリと断ってくれようぞ!〟
術式が発動された。
姦姦蛇螺は伝奇術師だった巫女がA.N.O.M.A.L.Y.化した怪異だ。
ならば術式を持つのは当然。
六本の腕の内、ひとつが虚空に爪を掻き立てる。
人差し指を使って、上から下にまっすぐ線を引くように。
直後、不可視の斬撃が飛んで来た。
秋水が倶利伽羅剣を握っているほうの腕を、ちょうど肩口から落とすような位置へ縦にまっすぐ。
不可視であるのに察知できたのは、秋水があらかじめ火の粉によるチャフを巻いていたからだ。
チャフというより、薄い幕を張っていたと言うのがより正確には正しいが。
それによって、目には見えない何かが接近しても、不自然な揺れによって兆しを察知できた。
狙いが正確な分、横にズレるだけで回避は容易だった。
姦姦蛇螺が巻き起こす超常現象が、腕を狙ったものになるのも、物語の内容を知っていればあまりにも予想し得る。
が、もちろん。
そんな事は元退魔巫女である姦姦蛇螺も予想の範囲内。
このくらいはやるだろうと。
爪による虚空の掻き立ては、即座に六本の腕を用いた合計三十本の指で行われ、連続するようになった。
まるでオーケストラの指揮者のように。
不可視の斬撃が間断なく、縦に横に斜めに奔る。
時には格子状に、十字を切り、面制圧となって襲い来る。
末端怨霊、人頭蛇身の魑魅もすかさず秋水の足元や背後に回り込んで跳んで来て。
【にィぃぃィぃぃぃ】
〝死ぬが佳い、不動の倶利伽羅!〟
当たれば即死ぞ。
だが喰ろうてやる。
心配するな。
丸呑みだ。
腕は邪魔ゆえ落とすのよ。
不遜にも調伏をうそぶいた現代の術師に、大怪異は必殺の咒を謳った。
だが。
「ひとつ聞かせてくれ。これはもう、調伏の儀式の最中なのか?」
〝!?〟
秋水は無事だった。
不可視の斬撃、ことごとく避けて躱して。
跳びかかる人頭蛇身、ことごとく焼き斬り払い。
炎の渦を廻転させて、逃場の少ない封印区内を生き延びる。
熱波が、肌を炙るようにアツい。
姦姦蛇螺の咒が焦げる匂いが、独特な悪臭となって漂う。
けれど男に、冷や汗は流れていない。
表情の変化は特にない。
ただ淡々と。
少年は降りかかる呪いに対処していた。
姦姦蛇螺はその異常性に、なぜだ? と理由を考える。
伝奇術師の異能は、あらゆるすべてが劣化互換。
原典に劣る猿の書き写し。
否、書き損じに等しい惰弱さだというのに。
いまやオリジナルと化した姦姦蛇螺の術式が、どうして通用していないのか?
法則は手中にある。
ルールマスターは姦姦蛇螺。
物語に囚われておいて、定められた筋書きに逆らえるなどあり得ない。
考えられるとすれば、それは──
【……貴様】
「なんだ。普通に喋れるんじゃないか」
姦姦蛇螺は目を見開いた。
鳶瀬山千歳の双眸ではない。
巫女の怨念に呑まれた大蛇の蛇眼。
半濁していた二つの眼が、奥底に眠っていた本能を呼び起こされて覚醒する。
途端、鈴の音はさらに耳障りに鳴り響いた。
姦姦蛇螺は苦鳴に呻いて、身をよじらせる。
神の霊威が強制的に鎮められる。
蛇の眼が再び半濁する。
秋水の問いは、正しい。
これまで姦姦蛇螺は、何代にも渡って鳶瀬山家の力を消耗させて来た。
今代に至り、ついに封印が再び緩み始め。
北汐坐町の霊脈は、ゆっくりとだが着実に汚染された。
愚かな人間の無意識に働きかけ、その愚かしさを増長させ。
山の禁域を幾つか破らせるコトで、さらに封印の力を弱めるコトにも成功した。
なのに、姦姦蛇螺が予期していた思惑とは異なり。
封印は決定的な瓦解に至らなかった。
ダムが決壊するような致命的な崩壊を。
忌まわしき鳶瀬山の血筋に、絶望と恐怖をもたらそうとしていたのに。
千祠の森では卒塔婆祈角まで、刺激してやったというのに!
どれもすべて、信じられない速度で鎮圧されてしまった。
その原因が秋水だ。
姦姦蛇螺は千歳の目と耳を通して、すぐに悟った。
この男だ。
この術師だ。
恐らくは現代で、最高位に立つ異能者。
コイツを潰せば、目論見が叶う。
ゆえに少々無理を通し、邪魔者を直接的に排除しようと顕現した。
千歳と秋水の出会いは偶然だったが、だからこそ千載一遇のチャンスと行動に踏み切ったのだ。
そう。封印はまだ、完全には破られていない。
ああ、だから当然、展開される物語領域も封印の内側である。
けれどそれが? なんだと言うのか?
人間の異能が真のA.N.O.M.A.L.Y.に、どれほど牙を突き立てられる?
巫女は勝てなかった。
人食いの大蛇に半身を食われ、助けるため手を貸した村人どもには恩を仇で返された。
伝奇術師の生涯など、この世界では磨り潰されて消費されるだけ!
血の繋がった家族にさえ、疎まれ妬まれ貶められる!
鳶瀬山の巫女一家は、とかく不愉快だった。
和気藹々と、温んだ陽だまりで現実から逃避するように。
朝寝から覚めれば、母娘のぬくもりに安らいで。
互いの御髪を仲睦まじく梳いては、季節の花の香りがするだとか。
炎天のにじむ青い夏、汗を流す氷菓に眼を細め。
今日もいいことがあったから、明日もきっといいことがあるよねだとか。
紅葉の落ち葉を踏みしめ、歩くたびに漏れる木漏れ日を眩しげに見上げ。
夕凪に紛れる暗闇へ、いつだって恐怖を忘れられなかったくせに。
月の落ちた池の水面を見つければ、永遠が映っているなどと姉妹で綻ぶ。
蜻蛉の飛び去った冬木立、寒さは孤独を突きつけ死を漂わせても。
雪間から覗いた石階段、夜、オリオンの彼方に決まって春の兆しを見出した。
姦姦蛇螺はここにいるのに。
鬱陶しいのだ。
目障り、不愉快、嫌悪が止まらぬ!
それでも。
それでもなお、これだけの咒を調伏し、降魔せしめると言うのなら。
絶対忿怒の姿で顕れ、煩悩諸魔を破壊する明王の倶利伽羅剣。
ああ、見せてみるがいい──!
すべては無為無情の塵芥ッ!
理は覆らない。
世界のルールは変わらない。
多少の形勢不利など、物ともするはずがない。
姦姦蛇螺は直観を否定し、掌印を結んで秋水へ特大の咒を送り込む。
封印が破られていないなら、物語と同様に慮外者に破らせるまで。
異界の中央には箱がある。
箱には姦姦蛇螺を模した楊枝の象形がある。
この象形が箱にある限り、姦姦蛇螺は自由を取り戻せない。
そういう物語だ。だからこそ、
さぁ、崩せ──!
象形を崩させてしまえば、呪いは斬撃など必要とせずとも秋水の両腕を両断する。
姦姦蛇螺は異界の主として、行動を強制しようとした。
──しかし。
「いま、操ろうとしたな? ってことは、まだ封印の内側──これは調伏の儀式を利用した顕現か」
〝っ!〟
その選択がかえって、秋水に確信を与える。
姦姦蛇螺の異界に囚われてすぐ、秋水が卒塔婆祈角を祓ったときと同様、即座に大火力に訴え出なかった理由はふたつある。
ひとつ、状況が鳶瀬山千歳の無事を保証するものか分からなかったため。
ふたつ、姦姦蛇螺へ攻撃を行えば、自分が千歳を殺してしまうのではないかと恐れたため。
事が調伏の儀式。
第三者を巻き込んだ不完全な復活だと判明したなら、秋水が手をこまねく理由は無くなる。
したがって。
「──〝最初に言葉あり。言葉は原初の咒なり〟」
〝伝奇詠唱か!〟
「〝咒は言霊なり。言霊は物語なり。物語は咒式なり〟」
姦姦蛇螺の放った呪いを迦楼羅炎のバリアで退け、秋水は呪文を詠唱する。
だがそれは、不動明王の倶利伽羅剣──原典に依った内容ではない。
秋水が独自に、というか、世界に広く膾炙した一般的な基礎呪術概念を踏襲して発明した一種の宣誓だ。
すべての伝奇術師は、二段階目に到達できる。
絶対忿怒の姿で顕れ、煩悩諸魔を破壊する明王の倶利伽羅剣?
たしかにそうだが。
ここから先、秋水が握るのは倶利伽羅剣のもうひとつの名だ。
青墨秋水は妹を救うため、己が術式に『調伏』特化の切れ味を求めた。
「〝ならばこれより謳うは讃歌なり。ああ、揺るぎなき守護者の名を冠する大日大聖不動明王よ〟」
【 怨 ッ ! 】
「〝願わくば汝の智慧を授け、この利剣に業魔の三毒を焼き浄める威力を下賜するがいい〟」
然すれば我が手、我が口舌は不動となって衆生に忘却を禁じよう。
文殊の智慧あってこその不動倶利伽羅。
滑らかに紡がれる咒式は、感情をうかがわせない平坦なものだった。
「〝智慧の利剣・火血刀〟」
【 !? 】
然れど変化は、劇的だ。
黒剣の刀身が、真紅に変わる。
紅蓮の血潮のように、秋水の足元から大量の糸が波濤となる。
波濤は異界を瞬く間に埋め尽くして行き、その隙間からこれまた血のように真っ赤な彼岸花が、噎せるほどの香気を漂わせて咲き乱れた。
姦姦蛇螺は驚愕する。
否、驚愕を飛び越し戦慄した。
秋水の成した偉業を、瞬時に理解してしまったからだ。
不動明王の倶利伽羅剣には、智慧の利剣と言って貪瞋痴──それぞれ欲望、怒り、愚かさを指す仏教概念、三毒打破の権能が宿っている。
つまりこれは、魑魅魍魎や業魔悪霊の類いにとって、天敵と言ってしまっていい光明剣。
端的に言えば。
魔物の魔性を断ち、怪異の凶気を断ち、強制的に悪心を断って無害化しながら、術師の走狗へ変える『人外を調伏する剣』
秋水の姿は変じていた。
伝奇正装……物語の主人公に相応しい、一眼でそうと分かる特殊な出で立ち。
現在の秋水は、黒袴に緋色の上衣。
そして、黒地に赤い糸で彼岸花と揚羽蝶を縫われた襟付きの羽織を纏っていた。
その横には!
「ハァ、なぁにここ? 夏乃が怒っていたわよ、秋水」
「許せ、ヒナギク」
「謝るのなら、私じゃなくて妹にしなさいな」
姦姦蛇螺よりも格上の。
地獄の官位を持つと思われるA.N.O.M.A.L.Y.が。
似たような和装にゴシックロリータな意匠を織り交ぜて。
妖艶に、大胆に、白い肩と豊かな胸元を晒しながら。
分厚い目隠し布をして、顕現していた。
カラカラと、空にて巨大な糸車が回る。
血を吸って舞い飛ぶ赤燐の揚羽蝶。
長く高貴な黒髪は、ストンと流れながらも重さを含み。
その首と手首、両の小指には、スゥーっと通った薄い傷跡。
傷跡の周りには、赤い糸が結ばれている。
まるで運命の赤い糸のように。
少女は漆黒の和傘を差して、忽然と顕れ。
姦姦蛇螺の物語領域を完全に乗っ取っていた。
その傘の裏側には、曼荼羅が描かれ。
地獄の入り口、三途を意味する悪道が表されている。
火血刀とは、仏教において火途・血途・刀途の三悪道。
猛火で焼かれる地獄道に、互いを食い合う畜生道、刀杖で傷つけられる餓鬼道を意味し。
では、それなる死後の裁きを一振りの刀剣として凝結させ。
恐らくはすでに、調伏済みのA.N.O.M.A.L.Y.の力を以って、新たな術としているのなら。
【 貴様は……貴様はァァ……! 】
青墨秋水は既存の術式使いに当て嵌まらない。
幾多、幾編の物語を使役する異端の倶利伽羅使いだ。
姦姦蛇螺は後ずさるコトもできなかった。
逃げ場などもう、どこにも無かったからだ。
男が唇を開き、忌むべき言霊を並べ出す。
「姦姦蛇螺。オマエのルーツは豊穣を司る蛇神だ」
言霊は刃となり、怪異の恐怖を斬り落としていく。
どんな悪霊、どんな怪異、どんな祟りも。
その来歴を紐解かれ、正体を暴かれてしまえば恐ろしさを奪い取られる。
智慧の利剣は物語を解体する。
なのに、姦姦蛇螺には抵抗のしようがない。
抵抗をしようとしても、秋水の隣に立つA.N.O.M.A.L.Y.が放つプレッシャーに、全身の自由を制限されている!
重圧が身動きを封じ、地面からは大量の赤糸が蛇の鱗を縫い止め始めていた。
ここはすでに、罪人に判決を言い渡す地獄の法廷。
「蛇は不死と再生の象徴。洋の東西を問わず、これは世界的に共通した話」
【 賢しらにッ、何を語る! 】
「この国でも古来、蛇は春の神だった。特に白蛇は縁起がいいとされ、繁栄をもたらす動物として信仰を集めた」
姦姦蛇螺が歯ぎしりを鳴らしても、秋水は喋るのをやめない。
言葉は咒、原初の咒、言葉なくして物語は成立せず、ゆえにこそ咒には言の葉が不可欠。
術師として当然、弁えているのだろう。
悔しいが、姦姦蛇螺がもし同じ立場だったら……やはりそうする。
だが果たして、どこまで紐解ける?
生半可な言霊では、姦姦蛇螺の根源は斬り裂けない。
見当違いもいいところの的外れな論を展開するなら、その時こそ逆襲の機だと姦姦蛇螺は全身に力を入れた。
秋水に一矢報いるのは、もう無理だろう。
だが、憑依した千歳の肉体に傷を残す程度であれば、まだ容易い話だった。
それを理解しているか、いないのか。
男の顔には焦りも不安も浮かんでいない。
ポーカーフェイスめ……!
「さてこの蛇、信仰を集めれば必然、ほかの多くの豊穣神と同じように女神と目されるのは当然。女は子どもを産み、命を育む。多産は繁栄と豊穣の証であり、日本書紀や古事記にもそうした女神は多い」
その中に、豊玉毘賣なる一柱がある。
「現代では豊玉姫と呼ばれ親しまれるこの女神は、竜宮に住んでいた海神の娘で、真の正体は八尋の大和邇とされている」
和邇の正体には、音の通りに爬虫類のワニだとする説や、巨大な鮫とする説などがあるが。
海に棲息するのは鮫のほうなので、恐らくはワニザメを指しているものと思われる。
もっとも、これは現代人の解釈でしかないため、真実など分からない。
和邇には日本書紀のなかで、龍という表現が用いられたり、和邇が這う、などといった表現もあるからだ。
海棲生物が陸上を這うワケがないのに。
「注目すべきは、豊玉姫の有名な逸話。この女神は火折尊──通称、山幸彦という神武天皇の祖父と結婚して出産する際に、海辺で真の姿を晒して腹這いになり、蛇のようにうねっていたと伝わっている」
「出産の過程を見られたくなくて、夫には覗かないようお願いしていたのに、豊玉姫は辱められてしまうのよね」
「そう。そしてこれと似た話は、フランスの妖精メリュジーヌの民間伝承にも共通していて、蛇の下半身を持ちドラゴンの翼を持った女が、真の姿を晒して入浴しているところを夫に覗かれてしまう」
どちらも同じ、異類婚姻譚だ。
キーワードは、水、蛇、龍、禁。
海をも超えて似たような話が残されているのは、人類史において蛇が同じ信仰を集めた存在の証。
同じイメージを抱かれた証。
「神話は大昔の話だ。大昔の人間は、今より学が無いし識字率が終わっている。だから伝え聞くイメージ像から同じような姿形をしている生き物には、やはり同じような名前を使うことも珍しく無かった」
これはなんだ?
蛇じゃないか?
手足が無くうねうねした生き物に対して、人々は総称として蛇の呼び名を使った。
そこから、同一化が始まった。
「女のカラダに《蛇》の特徴を持った女神」
大地と水は相性がよく、水の霊気を備えた神格がそのまま豊穣を司るのは不自然でも何でもない。
ヒナギクと呼ばれたA.N.O.M.A.L.Y.が、だがそこでクスリと笑う。
忽然と現れ、状況が何なのかも理解し切れていない素振りだったのに。
女は自分の役割を、心得たりと言わんばかりに秋水へ相槌を打つ。
調伏の儀を、円滑に進めるための言葉で。
「でも、残念よね。蛇は後々、時代が進むにつれて毒虫と恐れられたわ」
【 ッ! 】
蛇はムカデやゲジゲジ、危険な害虫と似たような見た目でもあった。
蛇の字には虫が含まれている。
蛇のなかには毒を持つ種類もいる。
人々は次第に、蛇を忌避するようになった。
「その通り。蛇女神の零落だな。かつて信仰を集めた畏れ多き古の神は、そのうち人間を害する危険なアヤカシとまで格を貶められる」
西洋でもそれは変わらない。
ドラゴンは悪魔と同一視され、邪竜退治の伝説が次々生み出された。
北欧のジークフリート、聖ゲオルギウス。
龍殺しの英雄も数多く誕生し。
「日本で有名なのは、ヤマタノオロチ退治か」
「八本の首と八本の尻尾。そんなカラダの大蛇って、要は八峰の尾根を持った雄大な山の化身でしょう?」
「山には湧水もある。八脈の水気を象徴する化身でもあったかもしれない」
だがヤマタノオロチは、怪物として退治された。
ヤマタノオロチならざる大蛇といえども、同じ蛇。
毒虫がどうして人々に、退治を懇願されないと言えようか?
「ましてそれが、人食いの大蛇にまで落魄れた化生ならば」
【 おの、れ…… 】
「姦姦蛇螺。いいや、春の白蛇。オマエにとって巫女を食うのは、渡りに船でもあったんだろう」
巫女の霊力は優れていて、力を失うばかりだった太古の蛇神は、なんとしてでも巫女の霊力を取り込みたかった。
姦姦蛇螺のお話のなかで、どうして大蛇が村人たちの提案を受け入れたのか?
「巫女と戦って、疲弊していたのももちろんあるだろう。だがオマエは、最初から巫女が狙いだったんじゃないのか?」
「でなければ、わざわざ霊力に優れた巫女のいる村で、危険を冒してまで村を襲うメリットもないわよねぇ」
「誤算があったとすれば」
春の白蛇は、巫女の怨念を甘く身過ぎていた。
巫女の霊格を侮りすぎていた。
「巫女は神子とも、御神子とも云う」
「神楽を舞い、祈祷をし、占いをし、神託を得て神なるものを降ろしめす口寄せを行ったり」
「心身ともに清らかなる乙女には、神気も宿るそうだ。西洋の聖女伝説とも似ているな?」
「そして、この国の呪術史では」
高位の巫女は、“媛巫女”と云う。
大蛇は媛巫女を食らい、霊力を取り込んだ後で。
霊力を取り込んでしまった後で。
「皮肉な話だ。神に近しいモノを堕とせばどうなるかなど、オマエは誰より知っていたはずなのに」
人食いの大蛇は、かつての力と信仰を取り戻すどころか、よりバケモノらしいバケモノに変わってしまった。
「神代に返り咲くと言えば聞こえはいいが、オマエのいまの姿は相性が良過ぎたがゆえの弊害だ」
巫女は失った下半身の代わりを求めていた。
怨念を晴らすために、大蛇の体を足にすると決めた。
腕が六本に増えたのは、こちらも失ったものを取り戻したかったからだと推測できるが。
「奇しくも、俺の不動明王と同じだ。インドにはサラスヴァティーと言って、複数の腕を持つ水と豊穣の女神がいる」
「仏教では弁財天。弁天様って親しまれて、長寿や富を授けるって信じられてる女神よね」
現在では財福の神、七福神にも数えられ。
「弁財天の神使は、蛇だ。これはヒンドゥー教で、ナーガと呼ばれる蛇の水神との関連もあるだろう」
【 もうやめろォ! 】
「蛇は成長すると大蛇になり、やがて雲を呼んで龍となるとも言われた。皐月の鯉のぼりとも似ている話だ。龍は雨を降らせると信じられて、各地に龍神信仰も普及していったが、これは元々のルーツが水の気を持つ神性なんだから不思議は無い」
つまり。
「姦姦蛇螺とは現代に、姿を変えて現れた春の水神その零落にして」
因業に引き摺り込まれた誤ちの化身。
「いまその罪を濯ぎ、真名を顕せ」
地獄の裁きが、怨猛る咒を祓う。
秋水の握る紅刀が、姦姦蛇螺の霊核を刺し貫いた。
その後。
「よし」
無事に調伏を終え、意識を失っていた千歳を鳶瀬山神社に送り届けた秋水は、混乱の最中にある退魔巫女たちに名乗りもしないまま禹歩で帰宅した。
帰宅する前、ひさご庵でしっかり抹茶のバスクチーズケーキを三つ平らげ。
店員から持ち帰りもできると聞くと、追加でさらに六つ買って鳶瀬山家に渡しに行った。
その際、女たちは一度消えて再び戻って来た秋水を今度こそ引き止めようとしたが、やはり禹歩のせいで見失ってしまった。
数刻後、詳細を知った妹は頬を引きつらせた。
「はー? なにも〝よし〟じゃありませんわー?」
このクソボケ激メロお兄様め!
────────────────────
tips
◆姦姦蛇螺(術式)|脅威レベル5
鳶瀬山の退魔巫女家系に取り憑いたA.N.O.M.A.L.Y.の分霊。
だがほとんど本体と変わらない。
本作ではその正体を、春司る豊穣と水の蛇女神が零落したモノと定めた。
森の木立の隙間から、波打つようにうねる白き蛇身は白妙のようで。
キラキラと輝く白木蓮模様の鱗は、春の係累その証。
術師であった巫女の肉体、霊力、怨念と混ざり合い、堕ちた女神として復活。
両腕を切断する斬撃術式を持つが、このたび敢えなく調伏される。
術師殺害率:90%
※一般人の場合は見逃す事もある。




