にんぎょの川
平成29年7月下旬。
8月の気配が迫りつつあるこの時期、小学校は夏休みに入ったばかりだった。
田舎に住む僕たちの行動範囲は限定的だ。
今は大抵家の中でゲーム機を触っているか、親に車でどこかへ連れて行ってもらうかで、それ以外に遊びに出かけるということは少ない。
自転車で遊びに行くにしても、夏の猛暑が邪魔をする。
ただ、そんな僕たちにも唯一近場で遊べるところがあった。
国道から分かれて段々と細くなっていく道を、奥へ奥へと進んで行った先にある大きな川だ。
流れは穏やかで水深もそこまで深くない。
周りは木々に囲まれ、耳を澄ませば鳥や虫の声が聞こえて来る。
3年前に偶然見つけた場所で、夏休みに入った最初の土曜日にそこへ集まって遊ぶのが僕たちの毎年の行事となっていた。
「ねぇ、アオ君!見てっ、小石の下にザリガニがいるよ!」
ジリジリと照り付ける太陽の下で川音が静かに流れていた。
凛としたその音に耳を傾けながら時々吹く風に心地良さを感じていると、隣にしゃがみ込む女の子が僕を呼んだ。
「ん、どこ?八重ちゃん」
「ほら、ここここっ」
百瀬八重。この中で最年長の中学2年生で、僕にとってはお姉さん的な存在だった。
指で指された場所を覗いてみると、小石の隙間から赤茶色いザリガニが1匹這い出て来たのが見えた。
「あ、ホント――だっ、ウブッ!」
川の生き物にはしゃいでいた僕は、突然頭から冷たい水を被った。
目を擦りながら見上げると、2人の男子が僕を見て笑っていた。
「もう、何するんだよ2人とも!びしょ濡れんなっちゃったじゃん」
「バーカ、涼みに来てんだぞ?んなとこでじっとしてたら暑ぃと思って、気ぃ利かせてやったんじゃんか」
「そうだぞアオっち、輝に感謝しろよな」
「まぁ、やったのお前だけどな。亮」
「おいバカ、言うなよ輝。俺が悪者になっちゃうだろうが」
「いや、だって事実じゃん、言うだろそりゃあ。お前が悪いんだし」
磯部輝に尾澤亮。
僕の同級生で2人ともいたずら好きな性格だ。
似た者同士気が合うようで、遊んでいると絶対に1回はこんな悪ふざけをして来る。
「……コホン、2人とも。私にも水がかかったんだけど?」
「あ、ヤベ……八重ちゃんがキレた。おい、輝謝れよ」
「だから何で俺なんだよ、お前が謝れ!」
「何だよ、いーじゃんかケチ。友達が困ってんだぞ?」
「お前のは自業自得だろうが。バカ亮」
「は?バカだと?おいおい、お前言っちゃったな!?言っちゃったぞ。誰がバカだって輝。やるか喧嘩ッ」
「おぉいいぜ、やってやらぁ!」
僕に言わせるなら水をかけた亮君も悪いし、それを知っていて止めようともしなかった輝君も当然悪い。どちらも悪いのだから、大人しく「ごめん」の一言を八重ちゃんに言えばいいのに。
2人がしょうもない理由で喧嘩を始めてしまったのを見て、八重ちゃんは呆れ顔で溜息をこぼしていた。
「ごめん八重ちゃん、あいつらバカなんだ」
「いーよ、どうせ水着だし。……でも、ちょっとふざけすぎだね。全くもう――おーい、2人とも!幾ら浅瀬だからって気を付けないと危ないよ!人魚に足掴まれて溺れちゃっても知らないからねぇっ」
「「はーい!」」
八重ちゃんの警告に、亮君と輝君はこちらを振り向いて大きく返事をした。
喧嘩していたにしては随分と息が合っている。
さっきのは八重ちゃんを呆れさせて怒られないようにする演技だったのではないかと疑うくらいだ。
ただ、それよりも僕は一つ気になることがあった。
「八重ちゃん、人魚って……」
「?知らないのアオ君?この辺り、昔は人魚が出るっていう噂があったんだよ。川遊びしている人を襲うんだって」
「襲うの?見たとかじゃなくて」
「うん。うちのおばあちゃんが言うには、溺れさせられてあとで食べられるんだって。だから、ちょっと前までは川で遊ぶって言うと毎回脅かされたなぁ。ふざけて溺れるふりは絶対しちゃだめだ、隙を見せたら引きずり込まれるぞって……」
「っ……」
引きずり込まれる。
その言葉がやけに鮮明に聞こえたものだから、それまで辺りに満ちているかのようだった川のせせらぎが、一瞬掻き消えたような気がした。
八重ちゃんは特に深い意味を持って言った風ではなかった。
僕はきっと、ほんの少し怖かったのだと思う。
嘘だろうと本当だろうと、去年も一昨年も、その前の年だってよく集まって遊んでいた場所にそんな話があって欲しくなかった。
だから僕は、その場で石のように固まってしまった。
「こんの、そらそら食らえ!ウォータースラッシュ」
「ぶッ、やったな輝――って、うわ!」
八重ちゃんの横顔に釘付けとなっていた僕だったが、バシャンッと水が弾ける音が聞こえてハッとする。
僕に見えたのは、輝君の隣で激しく舞った水飛沫だけだった。
けれど何が起こったかは直ぐに分かった。
水をかけられて後退った拍子に亮君が足を滑らせたのだ。
「りょ、亮!」
「「亮君ッ」」
浮かんで来ない。きっと溺れたんだ……!
咄嗟に川の中へ走って行くけれど、水に足を取られて上手く動けない。
その間にも亮君は流されて行っている。
どうしよう、と僕は頭が真っ白になった。
輝君も同じだ。亮君を見失って身動きが取れなくなっていた。
大人の人を呼ばなきゃ。僕たちは溺れた友達を助けるにはあまりに無力で、それ以外の方法を思いつかなかった。
あとで怒られるかもしれないし、たくさん周りの人に迷惑がかかるかもしれない。
まだ自分たちだけで助けられるんじゃないかという淡い期待も邪魔をして、一瞬戸惑った。
だけど、
「あ、あの……ひ、輝く――」
意を決して口を開いた瞬間だった。
「うわッ!?」
今度は輝君が川の中に引きずり込まれた。
僕が驚きに固まっていると、水面がブワッと一気に膨張して飛沫を上げたかと思うと、そこから人影が現れた。
「なーんてな、引っ掛かってやんの輝」
「ぶっふ!ゲホッ、ゲホッ……。この、やりやがったな亮てめぇ!」
暴れるように手足をばたつかせ水面から這い出た輝君が、悪戯っぽく笑う亮君を視界に捉えると水をかき分けながら詰め寄った。
「ぶねぇだろ、こんな所で足引っ張る馬鹿があるか!溺れたらどーすんだよ!?」
「ははは、悪かったって。ジョーダンじゃん輝」
「冗談ってお前、俺は本気でお前が溺れたと思ってだなぁ……」
「えぇ……マジでキレてる感じ?いや、考えてみ?フツー溺れるわけないだろこんな浅瀬で」
「わ、わかんねぇだろそんなの」
文句を言いながらも、輝君の顔には安堵の色が見えていた。
八重ちゃんもきっと同じだと思う。
僕も本当ならそうなっているはずだった。
なのに、不安が心の隅で見え隠れしてちっとも安心できなかった。
亮君は分かっていないんだ、自分がどれだけ危ないことをしたのか。
この川で溺れるフリをするとどうなるか……。
もちろん僕だって、そんなのはただのよくある怪談で、作り話なんだと頭の中では分かっていた。
もうすぐ中学生だという年にもなって、皆の前でそれを言おうものなら笑われるに決まっている。
だから僕は、人知れず抱いたその「小さな恐怖」を胸の中に仕舞った。
「ほら、亮。皆と俺に謝れよ」
「えぇー」
「いいから、やれって――のっ!」
「わッ」
バシャンッ、と輝君に背中を叩かれた亮君が勢い余って川に倒れ込んだ。
「ウブ、ゴホ――。ちょっ、た、助け――!」
手足をばたつかせ、水の中で藻掻く亮君を見て輝君は溜息を零した。
「ったく、コイツ反省してねー……。言っとくけど助けねぇからな、立ち上がれるだろその深さだったら。付き合ってらんねぇわ」
誰の目から見ても流石に動きがわざとらしかった。
輝君は呆れた顔をして川岸に足を向ける。
それが起きたのは直後のこと。
輝君がよろめいた。
「うわッ――」
こけはしなかった。
前傾しかけた体を前に出した右足で支えたのだ。
小さく安堵の息を漏らし、そして、輝君は静かに眉根を寄せた。
「おーい、輝?俺はいい加減にしろって言ったんだけどよ、なぁんでまた足引っ張ってくれてんだテメェは!?」
「えっ?」と僕は思わず声を零した。
輝君の左足を亮君が掴んだ。
水の中で、潜りながら、音もなく、しっかりと握って引っ張った。足首を。
そんなことはありえない。
いや、仮にそうだったとして、それではアレは――輝君の後ろで水飛沫を上げながら藻掻いているあの両手は一体何だ?
「ッ、輝君!逃げ――」
ザブンッ。
気付いて声をかけた瞬間、輝君は川に引きずり込まれていった。
「輝君!」
僕は川の水が足を引っ張るのにも構わず、慌てて駆け出した。
人魚だ。人魚が現れて、輝君を捕まえようとしているんだ。
このまま溺れたら、二度と助けられない。
「――ダメ、アオ君ッ!」
水中へ沈んでいった輝君に手を伸ばした僕を、強引に引き留める八重ちゃんの声。
突然で、しかも腕を掴まれたことでバランスを崩し、思わずたたらを踏んだ。
鼻先が水に触れそうなほど前のめりになって、そこで僕は呆然とした。
「え?」
水中で毛むくじゃらが真顔で僕を見つめていた。
人の顔だった。知らない長髪の女の顔で、けれどそれは魚だった。
まるで、魚が頭だけ切って捨てて人間のものと取り換え、繋ぎ合わせたような気味の悪い生き物だった。
思わず川から顔を離したけれど、奴は水中から僕を見上げるだけで、襲っては来なかった。
代わりに、口から人の腕が伸びて水面を割って出て来た。そして、バシャバシャと2つの腕をバタつかせた。
掴んで欲しそうに。
僕は震えて声も出なかった。
「アオ君、離れて!早く、ソイツから――!」
知らない。こんな化け物、知らない。
これは何だ、何て名前の怪物だ?
知らない。知らないから、唯一それらしい特徴を持った生き物の名前が浮かぶ。
「にん、ぎょ……」
けど、違う。こんなの、こんな恐ろしくて醜いの、僕の知っている人魚じゃない……。
「アオ君、アオ君、アオ君!ねぇ、しっかりしてッ。ねぇ!」
八重ちゃんに抱き締められ川から引き上げられている間も、僕は奴の手から目を離せなかった。
ずっと。そう、ずっと。視界から遠ざかって行く人魚の腕が、僕を諦めて溺れたふりをやめても、それから水の中に姿を眩ませ完全に見えなくなっても。
ショックで意識が途切れてしまうまで、僕は人魚のいたその場所を金縛りに遭ったようにずっと見つめていた――。
目が覚めたのは、その日の夜だった。
その頃には事件が町中に知れ渡っていて、警察が行方不明になった亮君と輝君の捜索に乗り出してから既に5時間以上が経っていた。
僕は病院に運ばれてから、意識が戻ると軽い検査を受けた。
特に異常はないということで、両親に連れられ帰宅。
次の日の朝、警察のおじさんに川でのことを尋ねられたけれど、僕が説明した内容は既に八重ちゃんが話していたらしかった。
捜索は2日目、3日目、4日目……と続き、一向に終わる気配を見せなかった。
当たり前だ。だって、もう手遅れなんだから。
「……言ってないんでしょ、八重ちゃん。人魚のこと。皆に」
事件から1週間、僕は八重ちゃんとまともに話せていなかった。仕方がなかった。あんなことがあって、いつも通りになんてできる訳がない。
今日だって、川の近くに置きっぱなしにしていた自転車を警察署に取りに行った途中、ばったりと出会っただけだ。
公園のベンチに横で静かに座っている八重ちゃんへ、僕はやっとのことでそれだけ聞けた。
八重ちゃんは「うん」とそれだけ答えた。
消え入りそうな声だった。心配して見てみると、長い髪に隠れてその表情までは分からなかったけれど、八重ちゃんはまるで何かを堪えるようにワンピースのスカートをギュッと両手で握っていた。
「ねぇ、アオ君……人魚って不老不死なんだよ。おばあちゃんが昔言ってた、人間の男の子を食べるからだって」
「どういう、こと?」
「命を食べて貯めるんだよ、自分の命が足りなくなって来たらそれで補うために。内臓から取るんだって。だから、そろそろ浮いて来るかも」
「……え?浮くって、何が?」
8月の猛暑日、木陰の下は静かだった。
暑さのせいか鳴かない蝉。風が吹かず囁きもしない木々。
俯いたままの八重ちゃんが何も答えてくれない。
不意にパトカーのサイレンが近付いて来るのが聞こえた。
どこに向かうのだろう。ただ、僕は警察の車が一瞬で通り過ぎて行ったのを見て胸がざわついた。
あの車の向かった方面には確か――
「……やっぱり見つかったんだ、人魚のいた川で――亮君達。要らなくなったから、もう内臓全部食べ切ったから、要らなくなって人魚が捨てたんだよ。だから浮かんで来たんだよ二人とも」
背中を寒気が撫でた。
まだ何もわかっていない。亮君達の生死も、パトカーの行き先も、僕はこの目で何も確認していない。
なのに何でこんなに怖いんだろう。
どうしてこんなに心配なんだろう。
「人魚の話、どうして?どうして今話したの?どうして僕に。……本当は、何を話そうとしてたの?」
最低だ。友達が死んだなんて話、真っ先に否定しないといけないことなのに僕はその先の話をせがんでしまった。
けれど、僕にはどうしても八重ちゃんが話の核心部に迫っているように見えなかった。
1週間も会って話そうともしなかった話題をわざわざ蒸し返すなんて、そんな傷口を開くような真似をしたのには何かワケがあるはずなのだ。
「――水。水の中に、いるの」
「……みず?いるって、何が?」
尋ねると、怯えたように見開いた目で八重ちゃんがこちらを見た。
そうして、震える声でこう言った。
「人魚が、いるの」
「え?」
僕は一瞬だけ固まってしまった。
「え、何を言って……いるって。そんな、どこに――」
「いるの!人魚が!……いたの。手を出して、溺れたふりして。それで、それで段々、近付いて来てるの」
八重ちゃんの言葉をどう受け取っていいか分からなかった。
川から離れるはずのない人魚が、人に近付けるはずがない。
八重ちゃんはやはりまともな様子じゃなかった。
今にも泣きそうな顔。強烈な不安のせいか揺れる黒目。その下には隈ができていて、寝てないのが直ぐに分かるくらいに酷い。
そんな状態で八重ちゃんは僕を縋るように見つめていた。
「終わってないんだよ、アオ君。まだ、何も終わってないんだよ。人魚の事件は」
「っ……」
「どうしよう、私。……女の子は顔の皮を引き剝がされて、人魚の顔にされちゃうって、おばあちゃんが。おばあちゃんが言ってた。どうしよう、どうしようっ――私、生きたまま顔を剥がれて殺されちゃう」
冗談にはとても思えなかった。
気が付けば口の奥まで乾き切っていて、飲んだ生唾が痛い。
けれど、いや、だからこそ――
「言おう。大人に、警察に、信じて貰えるか分からないけど、言おう人魚のこと。そ、それで助けてもらうんだ」
初めから何もかも打ち明けていれば良かったんだ。
あの川で何が起きたのかも、それ以前に僕たちがあの川を遊び場にしていたことも。
最初から全部話していればあんな怪物の住んでいる場所になんて行かなかった。
過ぎたことを今さら悔やんでも何も返って来やしない。でも、これから起きることは別だ。
「きっと、まだ間に合よ。だから……ね?」
僕の説得に八重ちゃんは涙を浮かべながら静かに頷いた。
「よし。家に帰ったら、僕もおかあさんたちに相談してみるよ」
そう約束してから、僕たちは足早に公園をあとにした。
帰り道の自転車は軽く感じた。
早く帰宅し、両親にこれまでのことの全てを打ち明けてしまえばそれで万事解決だ。
警察に町の人、先生だって味方になってくれるはず。
そう思うと心強くて、自然とペダルを漕ぐ足に力が入った。
前へどんどん進んだ。
風を切る音、息の切れる音、心臓がバクバクと早く鼓動する音。
「ただいま!おとうさん、おかあさん――」と勢い良く家のドアを開いた僕は、静まり返った玄関でぽつんと立ち尽くした。
物寂しい空気を廊下の先の部屋から感じ、思い出す。
今日は平日で両親は仕事に出ていたのだ。
だから鍵を持って自転車を取りに出かけたはずなのに、そのことがすっかり頭から抜け落ちていた。
僕はとりあえずリビングに向かい、ソファに腰を下ろして両親を待つことにした。
「……遅いな」
夕方の6時半をまわっても2人は帰って来なかった。
いつもならもうとっくに帰っている時間なのに……。
夕日が陰り始めたのかエアコンから来る冷風が肌寒く感じ、膝を胸に引き寄せて抱える。
すると、急に家の固定電話が鳴り出した。
誰からだろうと、僕はおもむろに立ち上がって受話器を取りに行った。
「はい、もしも――」
「もしもし葵!?お母さんだけど!今家に1人?」
「え、ぁ、おかあさん?うん、そうだけど……あっ、そうだ。今日、八重ちゃんと会って、それでね」
早く家で話したいことがある。おかあさんにそう伝えようとして、
「待って葵、八重ちゃんに会ったの?」
おかあさんがそう尋ねてきた。
僕は小首を傾げた。
「う、うん、お昼過ぎにちょっと。まぁ、色々あってすぐ家に帰ろうってなったんだけど」
「……本当に?」
「えっ、本当だよ。何で?」
どうしてだろう、おかあさんはすぐに答えてくれなかった。
沈黙の中、僕は返事を待つ。
何秒くらいかして、ようやくだった。
おかあさんが口を開いて言った。
「……あのね、お母さんさっきまで、八重ちゃんとこのママと話してたんだけど。その、八重ちゃん、まだ帰ってないんだって」
「え?」
その言葉に、僕は頭が真っ白になった。
「仕事終わって帰ったら家にいなくて。その、ほら……こんな時間まで何にも言わずに家出たままなんて心配だし、お母さんも今八重ちゃんのこと探してるんだけど――葵?今、変な音したけど。……葵?葵?ねぇ、どうしたの!?もしもし、葵!」
受話器を置くことすら忘れて、僕は急いで家を出た。
嫌な予感がした。八重ちゃんはあのまま家に向かったはずだ。
帰ってないなんて、そんなのおかしい。
「もしかしてっ……」
人魚が現れたのかもしれない。
それで八重ちゃんに何かあったのだ。
じゃないと説明がつかない。
……けれど、この近くに川なんて流れていただろうか。
僕は走りながらそんな疑問を抱いた。
あるのなんて、公園の中の小さな池くらいだ。
「ん?何だろアレ」
丁度、公園の前を通り過ぎようとした時だった。
夕暮れ時の赤く焼けた太陽の光に照らされる何かが、偶然、僕の目に留まった。
歩を緩めながら目を凝らしてみると白いスニーカーだった。
「っ。あ、あれって……!」
八重ちゃんのだ。
それが池の目の前に転がっていた。
僕は急いで入口へ向かって走り、スニーカーを手に取った。
「やっぱり……でも、何でこんなところに」
辺りを見渡してみても、敷地内には僕以外に人は誰もいない。
じゃあ、ここに転がっていた八重ちゃんの靴は何だというんだ。
訳が分からないまま顔を上げ、僕は茜色に染まった公園をただ見つめた。
陽が傾き始めているのか、僅かに陰り始めた景色が怪しく感じる。
荒い息遣いが徐々に収まっていく中で、ふと、池の方から何か音がしているのに気付き視線を落とした。
――水面から伸び出た腕が藻掻くような動きをして水飛沫を上げていた。
僕は言葉を失った。
それは腕を激しくばたつかせながらも、どこかおざなりな必死さだった。
だからおかしかった。だから既視感があった。
だから、その近くに浮いていたワンピースや下着、靴下が視界に移ったとき僕は自分の目を疑った。
服の周りには赤黒い液体みたいなものが漂っていて、辿っていくと、それは池の中で僕を見ていた。
思わず腰を抜かす。
「八重、ちゃん……」
「どうしたのアオ君、そんなところに座り込んで」
「!?」
背後から僕を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、八重ちゃんだった。
「?何、幽霊でも見たような顔して。ほら、行こ?」
理解が追い付かなかった。
何でここに八重ちゃんが……。
じゃあ、僕が見たあれは何だったのだろう。
幻、なのだろうか。
分からない。ただ、再び池の方を見ると、そこにはもう何もなかった。
「…………う、うん」
疑問を抱きながらも、差し伸べられたその手を僕は握った。
「帰ろっか」と言われ歩き出す。
八重ちゃんの手は少しだけ冷たくて、少しだけ湿っていた。
まるで直前まで水の中にいて、タオルで軽く体を拭き取ったみたいに。
気のせいかと思ったけれど、違う。
よく見てみれば、服や髪も若干濡れていた。
「え?」
凝視した。
僕の手を引く八重ちゃんの後ろ姿を。
その首筋を。そこに微かに残る魚の鱗のような跡を。
気付いた瞬間、僕は青褪めた。
けれどもう遅かった。僕はもう差し出された手を掴んでしまった。
「……いい、やだ……いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ――嫌だ!放して、放してよ!嫌だ、嫌だぁぁぁぁぁあ」
必死に抵抗した。
大声を上げた。
握る手を引き剥がそうとした。
連れて行かれまいと、その場から一歩も足を動かさなかった。
けれどダメだった。
声は誰にも届かず、手は痛いくらいに握られて、強引に体は引きずられていく。
連れて行かれる。冷たい水の中に、暗い闇の中に、このままだと連れて行かれる。
――そうして最後まで、僕を見つけてくれる人は現れなかった。
【人魚】:古来より水難事故に見せかけ人を溺れさせる怪物の名。その成り立ちは定かではなく、一説によると、川や海などに住まう大型の魚が溺れて死んだ人間の肉を幾度も食らったことで、人間の寿命と体の特徴を得た化生の物であるという。また、人魚の肉を食らった者は不老不死となるとされているものの、真偽は明らかになっていない。とある伝承では、人を食らい多くの寿命を得た人魚が、人間と変わらないほどまでに変化した話も残っており、その人魚は食らった女子に成り代わり、人間社会に溶け込みながら時々人を食らい、住まう場所を変えながら長い時を生きたとされている。
どうも皆様、お久しぶりです。文月です。
夏に投稿するはずだった作品を今さら投稿……という形になってしまい申し訳ございませんでした。これが一番のホラーな訳ですが、それはそれとして。
ちょっとでも「怖い」と感じて頂けたのであれば幸いです。
(☆評価、いいね、ブクマ(……は短編なので多分する意味がないかもですが)、感想なども頂ければもっと嬉しいです)
さて、今年は活動がほとんど出来なかったわけですが、ここからは「アンデッド・ゲームズ・メモリー(サブタイトルは省略)」の執筆にも力を入れていきたいなと思います。年内に1話は書きたいです。(願望)。
あと、X(旧Twitter)にて活動報告も行っていくつもりですので、文月の動向が気になる方はチェックしてみてください。
それでは、また次回の作品でお会いしましょう!




