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海軍モノ

第二高速艦隊 第三戦隊

作者: 仲村千夏

 黄昏が海を染める頃、艦隊は静かに速力を落としていた。


 筑波型高速戦艦二隻――その長大な艦影は、夕闇の中でもひときわ重く、だが不思議なほど軽やかに見えた。三連装主砲塔を前後に備えたその姿は、誰が見ても戦艦だ。しかし同時に、その喫水線の低さと細身の船体は、「追いつかれない」ことを第一に考え抜かれた設計であることを雄弁に物語っている。


 その後方、やや距離を置いて瑞雲型軽空母が航行していた。全通甲板の上にはまだ何もなく、艦載機はすべて格納庫内だ。昼の間、この艦は目立たない。ただの軽空母、ただの随伴艦――それがこの艦の仮面だった。


 さらに外側を取り囲むように、軽巡洋艦一隻と駆逐艦六隻が配置されている。水雷戦隊としては標準的な数だが、その間隔、航路、信号の頻度は、どこか過剰なほど厳密だった。


 艦隊司令は軽巡の艦橋に立ち、無言で海を見つめている。訓練航海である。敵はいない。撃つ相手もいない。それでも艦隊は、実戦さながらの緊張を保っていた。


「……いつもと違いますな」


 参謀の一人が、低い声で言った。


「夜間訓練に空母が入るのは、珍しい」


「珍しい、ではない」

 司令は短く訂正した。

「前例がないだけだ」


 瑞雲型は、これまでの日本海軍のどの空母とも違う。攻撃隊の発進を主とせず、制空権を奪うことも目的としない。だが、艦隊の行動予定表には、瑞雲型を中心にした時刻表が組まれていた。


 日没後三十分。

 偵察機発艦準備。

 夜間索敵開始。


 それは、戦艦ではなく空母を基準にした時間割だった。


 筑波型の艦橋では、砲術長が腕を組んで暗くなる海を見ている。


「敵が見えないまま撃て、と言われるよりはましだな」


「見せてもらえる、というわけだ」

 副長が答えた。


 これまでの夜戦は、勘と経験に頼る部分が大きかった。照明弾、探照灯、時には音――それらを総動員して敵を探す。しかし今回は違う。艦隊の“目”は、すでに空へ向かう準備を整えている。


 軽巡から発せられる灯火信号が、静かに瑞雲型へ送られた。


 訓練開始。


 駆逐艦が散開し、外周警戒につく。軽巡は艦隊中央に位置し、情報の集約点となる。筑波型二隻は、互いに絶妙な間隔を保ちながら、並走を始めた。


 その配置は、美しいほど合理的だった。


 だが同時に、誰の目にも「奇妙」に映るはずの編成でもある。戦艦二隻に空母一隻。しかも夜戦訓練。――常識的な教本には載っていない。


 瑞雲型の飛行甲板に、赤色灯が灯る。

 格納庫内で、偵察機のエンジンが静かに息を吹き返し始めた。


 まだ撃たない。

 まだ戦わない。


 だが艦隊はすでに、夜へ踏み出していた。



 瑞雲型軽空母の飛行甲板に、赤色灯が規則正しく並んだ。夜間発艦用の最低限の照明である。白色灯は一切使われない。海面から見れば、甲板はほとんど闇に溶け込んでいた。


「第一偵察機、発艦準備完了」


 発令所からの声は淡々としている。だがその背後では、搭乗員も整備員も、無言のまま動いていた。彼らにとってこの訓練は、空母という艦の存在理由そのものを問われる場だった。


 エンジン音が低く唸り、偵察機が一機、二機と射出されていく。夜の海へ向かって滑り出すその姿は、派手さとは無縁だ。爆弾も魚雷も積んでいない。ただ、長時間飛ぶための燃料と、観測機材だけを抱えている。


 発艦を終えると、瑞雲型は速やかに艦隊の位置を下げた。前に出る必要はない。索敵の主役は、すでに空にいる。


 軽巡の作戦室では、地図台の周囲に参謀たちが集まっていた。無線員が、短い報告を次々と読み上げる。


「偵察第一線、予定高度到達。異常なし」

「第二線、予定針路維持中」


 報告は簡潔で、感情がない。だが、その一つ一つが、艦隊の動きを微妙に変えていく。


 筑波型の艦橋では、これまでにない光景が広がっていた。索敵報告が、砲術科や航海科を経由せず、直接艦橋へ流れ込んでくる。距離、方位、推定速度。まだ敵はいない。それでも数値が積み上がっていく感覚は、従来の夜戦とはまるで違っていた。


「……見えるな」


 艦長が、ぽつりと言った。


 見えているのは敵ではない。空白だ。どこに何もいないか、それが分かる。これは大きな違いだった。


 駆逐艦隊は、その情報をもとに、さらに外へ広がる。敵影なし、という確認があるからこそ、思い切った展開が可能になる。雷撃隊形の訓練も、無駄な警戒動作が省かれ、滑らかだった。


 やがて、瑞雲型から次の指示が出る。


「偵察第三線、針路変更。仮想敵艦隊、出現想定」


 訓練である。だが、その想定は、あまりにも具体的だった。距離、針路、速度――すべてが数値で示される。


 軽巡の司令は、一瞬だけ目を細めた。


「……随分と親切だな」


「親切すぎるくらいです」

 参謀が答える。

「まるで、実際に敵がいるかのようだ」


 筑波型二隻は、ゆっくりと進路を変えた。砲塔が微妙に旋回し、照準訓練が始まる。探照灯はまだ使われない。照らす前に、撃てる位置にいるかどうか――それを確認する訓練だった。


 瑞雲型の艦橋では、艦長が報告を聞きながら、静かに頷いていた。


「撃たせる準備は整っているか」


「はい。敵がいれば、ですが」


「それでいい」


 この艦は、撃たない。撃つのは筑波型であり、水雷戦隊だ。瑞雲型は、ただ夜を整理する。


 艦隊全体が、一本の意志で動いているようだった。信号は少なく、無駄な確認もない。情報は自然に流れ、各艦が自分の役割を理解している。


 参謀の一人が、低く呟いた。


「……これが訓練だというのが、信じられませんな」


 司令は答えなかった。ただ、地図上に描かれた航跡を見つめている。


 そこには、従来の艦隊運動にはない、奇妙な規則性があった。


 夜は、もう恐怖ではなかった。

 夜は、使える時間になりつつあった。



 最初の異変は、ささやかなものだった。


「第三偵察線、応答途絶」


 軽巡の作戦室に、短い報告が落ちた。無線員の声に、わずかな緊張が混じる。


「再呼びかけ中……応答なし」


 訓練であっても、夜間索敵機の通信断は珍しくない。機器不良、電波状態、あるいは操縦上の判断ミス。だが、これまでの夜戦訓練なら、その時点で艦隊の動きは一瞬止まっていた。


 今回は違った。


「第三線、喪失と仮定。第二線、補完せよ」


 司令の命令は即座だった。声は低く、平坦で、感情がない。


 瑞雲型から新たな指示が発信され、別の偵察機が高度と針路を変える。索敵網に“穴”が開いた瞬間、それを前提にした動きが始まる。


 筑波型の艦橋では、艦長が一瞬だけ眉を動かした。


「敵が見えなくなる、という想定か」


「はい。ですが――」

 航海長が続ける。

「見えなくなった“場所”が分かります」


 それが答えだった。


 艦隊は減速しない。進路も変えない。索敵情報が完全でないことを、あらかじめ織り込んでいる動きだった。


 駆逐艦隊に、警戒強化の信号が飛ぶ。外周の一隻が、さらに前へ出た。雷撃隊形は崩さず、間隔だけを詰める。夜の海に、無言の調整が広がる。


 さらに追い打ちをかけるように、天候が変わった。


 雲が厚くなり、月が隠れる。視程が一気に落ち、探照灯の使用も制限される。通常の夜戦訓練なら、この時点で「中止」か「条件変更」になるところだ。


 だが司令は、ただ一言だけ命じた。


「続行」


 瑞雲型の艦橋では、気象報告を受けた艦長が、静かに確認する。


「発艦中の機は?」


「全機、雲上に出ています。問題ありません」


「よし」


 偵察機は、雲の上で索敵を続ける。海面は見えなくても、敵の位置は“線”として把握できる。完璧ではない。だが、十分だった。


 軽巡の作戦室に、新たな想定情報が入る。


「仮想敵、進路変更。速力増加」


 それは、敵がこちらの存在に気づいた、という設定だった。


 筑波型二隻の艦橋に、同時に号令が響く。


「戦闘配置」


 主砲塔が旋回し、測距儀が目標を追う。まだ撃たない。だが、いつでも撃てる。


 ここで初めて、艦隊は一瞬だけ“止まった”。進路を保ったまま、すべての艦が、同じ時間を共有する。次の一手を確認するための、わずかな間。


 そして司令が言った。


「この状況で、敵は我々を見失う」


 参謀たちは一瞬、言葉を失った。


「……我々が、ですか?」


「そうだ。夜と雲と速度がある限り、敵の方が遅れる」


 瑞雲型の偵察網は、完全ではない。だが敵の索敵もまた、同じ条件下にある。違いは、こちらには“整理された夜”があるという点だった。


 艦隊は再び動き出す。

 速度を保ち、隊形を崩さず、夜に溶け込む。


 この訓練は、もはや砲撃や雷撃の練習ではなかった。

 見えないまま、優位を保つ訓練だった。


 誰もが気づき始めていた。


 この編成は、事故に強い。

 欠けても、曇っても、崩れない。


 夜が乱れても、艦隊は乱れない。


 訓練終了の信号が発せられたのは、夜明け前だった。


 東の空が、わずかに色を変え始めた頃、艦隊はようやく速力を落とす。長時間の高速航行と緊張から解放され、各艦の機関が低く、落ち着いた音を取り戻していく。


 だが、艦内に安堵の空気はなかった。


 筑波型の艦橋では、艦長が双眼鏡を下ろし、黙って海を見つめていた。水平線は静かで、訓練の痕跡などどこにもない。だが、この夜、確かに艦隊は「何か」を試し、それを手にした。


「……速力は、逃げるためのものじゃないな」


 誰に向けた言葉でもなかった。副長が、短く応じる。


「はい。位置を選ぶためのものです」


 瑞雲型軽空母では、帰投した偵察機が次々と着艦を終え、飛行甲板に整然と並んでいた。派手な成功も、劇的な戦果もない。それでも航空長は、整備員たちの動きを眺めながら、深く息を吐いた。


「一機も無理をさせなかった……」


 夜戦、悪天候、高速艦隊との連動。そのすべてが重なっても、運用は破綻しなかった。それは機体や搭載数ではなく、「使い方」が正しかった証だった。


 軽巡の作戦室では、訓練記録の整理が進められていた。通信途絶、視程悪化、索敵線の欠損。どれも、通常なら問題点として赤字で記される項目だ。


 だが、今回の報告書では、違った。


「致命的影響なし」


 その一文が、何度も繰り返されている。


 水雷戦隊の司令は、駆逐艦隊の報告を読み終え、静かにうなずいた。


「夜が味方になるとは、こういうことか」


 速力のある主力艦、空からの目、そして外周を固める駆逐艦。どれか一つが欠けても、全体は崩れない。これは“強い艦”の集まりではなく、“壊れにくい構造”だった。


 夜が明け、太陽が海面を照らす頃、艦隊は所定の海域を離脱した。


 遠目には、ただの訓練帰りの艦隊にしか見えない。重厚な戦艦の威容も、航空機の大編隊もない。むしろ、地味ですらあった。


 だが、その静けさこそが、この戦隊の本質だった。


 後日、提出された総括報告の最後に、司令はこう記した。


 ――本戦隊は、敵を圧倒することを目的としない。

 ――敵が判断を誤る状況を、意図的に作り出す。

 ――速力とは、そのための時間と位置を確保する手段である。


 それは戦訓というより、思想だった。


 この夜の訓練で、筑波型と瑞雲型、そして水雷戦隊は、ようやく一つの答えに辿り着いた。


 速いから強いのではない。

 選べるから、生き残れる。


 夜明けの海を背に、艦隊は次の訓練海域へと向かっていく。


 まだ、誰にも気づかれないまま。

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