ダイナマイトボーイ バレンティン・ナックアウト・ブラウン(1891-1948)
年季の入ったボクシングファンでも、バレンティン・ナックアウト・ブラウンをご存じの方はかなり少数だろう。マッチョで童顔、体型もそれほど恰好いいわけではないのに、倒しっぷりがよく、新聞のスポーツ欄を独占するほど人気があったらしい。百年以上前の選手だが、動画が発掘されないものだろうか。
「ナックアウト・ブラウン」などというリングネームは何ともありきたりで、まるで十九世紀の草拳闘試合にしょっちゅう出てきそうなほど安直なネーミングである。
実際、アメリカのプロボクサーの中にも「ナックアウト・ブラウン」を名乗った者は数多いが、そのほとんどが前座止まりのローカルファイターであり、一流どころとなるとシカゴのジョージ・ナックアウト・ブラウンとニューヨークのバレンティン・ナックアウト・ブラウンの二人しかいない。
この二人は奇しくも同時代のボクサーだが、シカゴの方は本名ジョルジオ・タンタスというスパルタ生まれのギリシャ系移民で、シカゴのミドル級チャンピオンだった。公式記録は十三勝二十四敗七引分け(十KO)とパッとしないものの、KO以外は決着をつけない無判定試合が多く、ジャック・ディロンやバトリング・レビンスキー、ハリー・グレブといった強豪世界王者とも数多く手合わせしていることもあって、シカゴでは試合のたびに地元新聞で取り上げられるほどの人気者だった。
ただし大物相手には一度も勝つことができず、何度も対戦したハリー・グレブあたりからは毎回いいようにあしらわれていた。
サインする時には「George Knockout Brown of Chicago」と、あえてシカゴの地名を加えていたことから察するに、本人もコピー商品的存在であることを自覚していたのかもしれない。
もう一人は本名がバレンティン・ブラウンハイムというドイツ系アメリカ人で、一六一センチという小柄ながら、ムキムキに鍛え上げられた逞しい上半身から放たれる左フックに一撃必倒の破壊力を秘め、三十六勝十二敗二引分(三十KO)とリングネームに恥じない戦績を残している。
彼の場合も百を超える無判定試合があるため、実質的なKO率となると四割にも満たないが、クインズベリー・ル-ルが採用されて以降の近代ボクシングという時代区分において、最初に成功したサウスポーとしてボクシング史にその名を留めている。
バレンティン・ブラウンハイムことバレンティン・ブラウンが初めてプロのリングに上がったのは一九〇八年、十六歳の時で、業界では知らぬ人がいない大物マネージャー兼セコンドのダニエル・F・モーガンのお気に入り選手だった。
「ダム・ダン(のろまのダン)」の愛称で親しまれ、七十歳を過ぎても選手のセコンドを務めていたモーガンは、支配下の選手には冷徹さを求める一方で非常に慈悲深い男でもあったため、彼を慕う選手は多く、その門下からは数々の強豪選手が出た。
世界ウエルター級チャンピオンのジャック・ブリットン、世界ライトヘビー級チャンピオンのバトリング・レビンスキーはモーガンが指導した代表的な名選手だが、生前最も印象深いボクサーとしてレビンスキーとブラウンの二人を挙げているように、無冠で終わったブラウンに対しても相当な思い入れを持っていたようだ。
フェザー級でスタートしたブラウンは、ニュースペーパー・ディシジョンを含めるとデビュー以来十七連勝(六KO)の快進撃で、地元ニューヨークでは期待の若手の一人として注目をされるようになった。
そもそも童顔で小中学生のような髪型をしていたせいか、どう見ても中学1,2年生くらいの年頃の少年がリングに上がっているようにしか見えなかったことから「キッド・ブラウン」の愛称で親しまれ、ベースボールカードと同じくらい人気があったボクシングカードにもなるが、背が低くガニ股の彼が鳩のような足取りでヨチヨチとリング上を駆け回るファイティングスタイルは、格好良さとは程遠いものがあった。
タフで打たれ強かったので相手を選ばず試合をしたが、その人気を決定づけたのが、現役世界ライト級チャンピオン、アド・ウォルガストとの二連戦である。
「ミシガンの山猫」の異名を取ったウォルガストは、猫のようにすばしっこくアグレッシブなファイターで、人間離れしたタフガイとして知られるバトリング・ネルソンに四〇ラウンドの長丁場の末にストップ勝ち(TKO)するという大金星を挙げ、世界の頂点にたどり着いた。
一九一一年二月八日のブラウン戦を控えたウォルガストの戦績は四十二勝一敗(二十二KO)九引分けという素晴らしいもので、ここまで四十連勝中と絶好調だった(無判定試合は除く)。
ネルソンを破って一年余り、ノンタイトル戦でお茶を濁してきたウォルガストは、三月十七日に決まった初防衛戦に備えてのスパーリング気分でブラウン戦に臨んだのだろう。KO以外は無判定の六回戦というエキジビション並みの条件だったにもかかわらず、このガニ股サウスポーのパンチの嵐には防戦一方で、さすがのタフガイも四ラウンドにはグロッギーに陥ってしまった。
セコンドのモーガンはKOチャンスと見て一気にたたみかけるように指示を出していたが、ウォルガストはなりふり構わぬクリンチでこのピンチを乗り切り、何とかKO負けだけは免れた。
試合後、モーガンが途中でブラウンの手数が減った理由を問いただすと、クリンチの最中にウォルガストが「おい、ブラウン。何でお前さんは自分の見ているところを打たないんだ」とわめき散らすので気勢を削がれた、とのことだった。
防御勘のいいウォルガストは、相手の視線を注視しながらパンチを見切るのを得意としていたが、斜視であるブラウンはどこを見ているのかわからず、視線だけ追っていると思わぬ方向からパンチが飛んでくるため混乱してしまったのだ。
幸い規定に基づいて無判定試合となったため、連勝ストップは避けられたものの、新聞各紙はブラウンの勝利を支持していた。
いたくプライドを傷つけられたウォルガストは、防衛戦が間近に迫っているにもかかわらずブラウンの地元でのノンタイトル十回戦に応じ、両者はわずか一ヶ月後の三月三日、ニューヨークのナショナルスポーツクラブで再度拳をまみえることとなった。
完全決着を期してリングに上がったウォルガストは無尽蔵のスタミナにモノをいわせて初回からガンガン飛ばしたが、これはフットワークで劣るブラウンにとってはかえって思う壺だった。頑強なブラウンはウォルガストのパンチをクリーンヒットされても平気な顔をして打ち返してくるため、至近距離での打ち合いでは明らかにウォルガストが押されていた。
四ラウンドに強打を浴びて足元がおぼつかなくなったウォルガストは、クリンチを多用しながら反則のキドニーブローやエルボーを再三ブラウンに叩き込むものの、ブラウンは全く動じない。観客席からはクリーンファイトに徹するブラウンに対し、チャンピオンのプライドを捨て去ったかのようなウォルガストの汚いファイトに野次が飛び始めた。
九ラウンドにはワン・ツーが顎と心臓に入り動きが止まったウォルガストにとって絶体絶命のピンチだったが、ブラウンがカウンターを警戒するあまり慎重になりすぎてとどめを刺すことができなかった。
最終ラウンドこそウォルガストがブラウンをコーナーに追い詰めて連打を浴びせ、ブラウンがエプロン下に転落しそうになるシーンも見られたが、これはパンチではなく腕で押し出されたもので、ダウンとはならなかった。
終わってみればまたしてもブラウンの完勝だった(KOではないため公式記録は無判定)。
翌日の新聞のスポーツ欄はブラウン一色で、十九歳のハードパンチャーの評価はさらに高まった。
ありとあらゆる反則技を駆使しながらブラウンに事実上の連敗を喫したウォルガストの方はと言えば、二週間後の防衛戦をKOで飾ると、その後の防衛戦も次々とKOで片付けてゆき王者の貫禄を示したが、ブラウンとのタイトルマッチだけには首を縦に振ることはなかった。
名うてのアイデアマンとしても知られるモーガンが、双方が一万ドルずつ出し合ってウィナーテイクスオール方式(勝者が報酬を総取りする)での試合を持ちかけてみたものの、ウォルガストはこの挑発にも乗らなかった。
そこでライト級タイトルを諦めたモーガンとブラウンのコンビは、一階級下のフェザー級に照準を合わせることにした。この時、世界フェザー級王座に君臨していたのは、当時史上最年少の十八歳で王座を獲得し、すでに在位九年にも及ぶ天才ボクサー、エイブ・アッテルだった。
アッテルはデビューから連続KOで売り出したハードパンチャーだが、本業のボクシング以外でも凄腕のギャンブラーとしても知られていたように、実に抜け目のない試合巧者で、一階級上のウォルガストやネルソンと引き分けたこともある。
一九一二年一月十八日、ゲンのいいナショナルスポーツクラブでアッテルと対戦したブラウンは、七ポンドの体格差を生かして無敵フェザー級王者を一方的に打ちまくり、公式記録上では無判定試合ながらニュースペーパー・ディシジョンでは文句なしの勝利を飾った。
試合後アッテルは、痛めていた肩に注射してもらった鎮痛薬にコカインが混入されていたためリング上で身体が思うように動かなかった、とコミッショナーに訴え出たが、所詮はこじつけだった。
長期政権を築いたアッテル王朝は、ブラウンによって引導を渡されたも同然だった。一ヶ月後に行われた防衛戦でジョニー・キルベーンに敗れて王座を明け渡した後は、泣かず飛ばずのまま引退に追い込まれている。
フェザーとライトの強豪王者に連勝したブラウンはここまで公式記録上の敗北は二度しかなく、二十歳という若さも含めると前途は洋々と思われていたが、強すぎてチャンピオンサイドから嫌われ、タイトル挑戦の機会を模索し続けているうちに、選手としてのピークは予期せぬスピードで過ぎ去っていった。
アッテル戦から一年余りのちの一九一三年四月十五日、十五戦全勝十三KO勝ちの強打者、バド・アンダーソンとの二十回戦で十五ラウンドに失神KO負けを喫してからというもの、その類稀なタフネスにも陰りが見え始めた。
第一ラウンドのゴングから猛烈なアタックをかけ、カウンターを狙い打ってくる相手さえも力でねじ伏せてゆくさまがダイナマイトの爆発に例えられたほどのブラウンも、試合過多の影響かガス欠が早くなり、打たれた後の回復力も著しく衰えてきたのだ。
また一度引き分けたことのあるアンダーソンにしかり、一流どころにサウスポーが少なかった時代だけに、初めて対峙すると戸惑うボクサーが多く、右利きとみっちりスパーリングを積んでいるブラウンの方がその点有利だったが、攻撃が単調であるがゆえに研究され慣れられてしまうと攻め手を欠いた。
翌一九一四年になると、まだ二十三歳の若さであるにもかかわらず、「商品価値はなくなった」と辛辣に書き立てられるようになり、一九一六年一月六日、二線級のバンティ・ルイスにTKO負けを喫したところで潔く引退に踏み切った。
世界王者にはなれなかったが、生涯獲得賞金は約十四万ドルに達しており、仮にモーガンの取り分が半分だったとしても、当時の一流メジャーリーガーの十年分の報酬と変わらない。無冠でも報酬が高かったのは、ホームタウンのニューヨークでキャパの大きな会場で試合をする機会が多かったからだろう。
堅実な性格ゆえに報酬にはほとんど手をつけていなかったというから、引退時二十四歳の青年としては相当なセレブである。
運命とは皮肉なもので、ブラウンが下降線を辿り始めた一九一四年からモーガンがマネジメントを引き受けることになったミドル級のアル・マッコイは、同年四月七日に全階級を通じて史上初のサウスポーの世界チャンピオンに輝き、ブラウンの果たせなかった夢を実現している。
しかし、十九歳の若さで王座に就いたマッコイも燃え尽きるのが早く、チャンピオンになってからのノンタイトル戦では負けてばかりだったため、“チーズチャンプ(腰抜け王者)”と揶揄される有様で、全くの不人気だった。
モーガン門下ではジャック・ブリットンも一九一五年に世界ウェルター級チャンピオンになっているが、彼もまたサウスポーだった。
ブラウンの名は古いボクシング誌で一度見かけたくらいで、私の記憶では日本で本格的なプロフィールが紹介された例はないはずだ。そこで自分なりに英語の文献を漁って調べてみたのだが、引退後のことはわからずじまいだった。リングを降りた後も幸せな人生を送ったのかどうか今でも気になって仕方がない。




