「本当にあったかもしれない」部分
「本当にあったかもしれない」部分投稿。「ある意味怖い話」部分は、来週投稿の予定。
統合失調症の陽性症状の一つに、「幻視」「幻聴」がある。
そこにないものが見えてしまったり、聞こえないはずの音が聞こえてしまったりという症状である。
テレビやマンガなどで「危ない人」を描写する際、「空から降ってきた濁った電波が、俺に命令するんだ!」などと言わせたりするが、あれが典型的な「幻聴」。同じように「あそこに真っ黒なオバケが立っている!」などとなにもないところをみて叫んだりしている場合、「幻視」を見ている可能性が高い。
原因は違うが、同じような症状に「譫妄」がある。
これは、病気が原因ではなく、意識低下を原因として幻視を中心とした幻覚を見たりする症状のことをいうらしい。
病気だったり、「意識が低下した」状態だったりするのだから、幻覚も、きっとうすぼんやりした、よくわけの分からない、曖昧なものだったりするのかなと、私(筆者)はごく最近まで思っていたのだが、どうもこれが違うという。
幻視も幻聴も、感じている当人にとっては、現実とまるきり区別がつかないほどにリアルで、真に迫ったものであるらしいのだ。
だからこそ、それらの幻覚にとりつかれた人は、周囲の人間が不審に思うほどに怯えたり、怒ったりしてしまう。いきなり刃物を持った人間が現れて襲いかかってきたり、自分の悪口をひそひそささやく声が四六時中聞こえてきたりすれば、冷静に行動できる方がおかしい。
だが、これらの幻覚を幻覚だと本人が悟らない限り、統合失調症の治療は始まらない(周囲の人間に無理矢理受診させられることはあるだろうが)。
目の前の「人物」がこの上なくリアルに見えていて、しかもその相手がそれほど奇矯な行いをしない場合、「この人は幻覚だ」と、判断できるものなのだろうか?
ああ、いらっしゃい。
久しぶりですね。最後にあってから、かれこれ10年?いや、もっと……ああ、そうですか、そんなになりましたか!
こういう生活していますと、どうしても年月の流れというものに疎くなってしまうようで。いや、それにしても、まさか20年ぶりとは!道理で僕も、年を取るわけです。
月日の経つのは本当に早いですね。
それにしても、あなたは変わりませんね。昔と――学生時代と同じように、いや、あの時よりもさらに若々しくて、背筋がしっかり伸びて、笑顔がよく似合ってて。
失礼ですが、体型もあの頃とそれほど変わってらっしゃらないのでは?
ああ、やはりそうですか。風の噂では、ご結婚なさって子どもさんもいらっしゃるとか。それなのに、そこまで昔と変わらない雰囲気を保っていらっしゃるなんて、これはもう、奇跡としか思えませんよ。
懐かしいですね、学生時代。
あの頃の僕は無口で引っ込み思案で、授業中はいつでも窓際の一番後ろの席に座って、講義を聞き流しながら、外ばかり見ていた。
初夏の明るい光の中、並木道をはつらつと歩いて行くまぶしい女子の群れを、目を細めて見るのが好きだった。
秋風に吹かれたポプラの枯れ葉が舞う中、マフラーに首をうずめて身をすくめる女子の、寂しそうな姿を見るのが好きだった。
なんて言うと、女子の姿ばかり目で追っていたように聞こえますけど、違いますからね。あの頃の僕は、なんというか、キラキラ輝いて見えるものが好きだったんです。
くすんで、ぱっとしない、モヤモヤしてる自分と違って、顔中を笑顔にしたり、体中で不機嫌を表現しながら愚痴を言い合っていたり、なんだかんだ思い切り「今」を生きているように見えた女の子達は、中でも輝きがすごく強いように感じて、だからつい、目で追ってしまうことが多かったんですよ。
……あれ?となると、やっぱり女の子ばかり目で追っていたことになっちゃうか。参ったな。
まあ、その頃は――今だってそうですが――女性に憧れるのが精一杯、お付き合いするのなんて夢のまた夢、って生活を送っていましたからね。若気の至りだと思って、大目に見てください。
今?いや、さすがにもう今は、そういうことも……いや、確かに言いましたよ、今も女性とは無縁だって。でも、さすがにこの年ですからね。こんなおじさんがずっと道行く若い女性を目で追っていたりしたら、通報されちゃいますから。
本能的なあれこれも、だいぶん弱まりましたし。
今は、久々に晴れた秋空に浮かんだうろこ雲が、きちんと整列したまま空を渡っていったりするのとか、大雨の後に増水した水路の水がものすごい勢いで暗渠に流れ込んでいくのとか、そういうものをじっと眺めていることが多いですかね……それはそれで挙動不審かもしれませんが。
え?誰も見ていない今なら、思い切り見つめてもいいんじゃないですか、ですって?
いやいやいやいや。それじゃあ、あなたに失礼……本人が許可しているんだから、失礼なことなんてない、存分に見てください?
またそんなことを。だんなさんに怒られますよ。
構わない!?いえいえいえいえ、そこは構ってください、お願いですから。
僕まで、とばっちりでだんなさんに怒られちゃうじゃないですか。
嫌ですよ、家庭不和の原因になったり、離婚騒動に巻き込まれたりとか。それでなくても今まで……。
なんですか、笑ったりして。
え?そこまで真剣に考えなくたって?
そう言われても、真剣にもなりますよ、急にあんなこと言われたら……あ。
はじめから、からかってたんですね。
あーあ、やられました。
思い出しましたよ。
昔から、あなたはいきなり人をびっくりさせるようなことを言うのが、好きでしたよね。
今より若くて未熟で純情だったから、そのたび僕は引っかかって、おたおた、わたわたして。
そんな僕を見て、あなたはくすくす笑う。
ああ……懐かしいな。
あの当時は、そうやってからかわれるたび、子ども扱いされてる気がして、ぶすくれてましたが、今考えれば、あれは、きっかけを作ってくれてたんですよね。僕ときたら、そうやってからかわれでもしない限り、じっと押し黙ったまま、座ってばかりだったんですから。
ああ、懐かしいな。あの汚い部室の、一番奥の隅にあった、僕の指定席。
どこかから拾ってきた汚い机の上に山積みにされたマンガ。
今にも崩れそうな棚に突っ込まれた、先輩達の残していったらしい古いゲーム盤。
そして、なぜか置いてあるバットとグローブ。
なにもかもが懐かしい。
あの頃、僕がかろうじて現実の尻尾に取りすがり、生き抜いてこられたのは、あなたや、他の皆がいてくれたからだった。
まぶしく光るものがうらやましくて仕方なかった授業中も、冷たい布団にくるまり、くすんだ灰色しかない毎日をひしひし実感するアパートでの生活も、あなたたちがいてくれたから――授業の後、部室に顔を出せばきっと誰かが来てくれたから、なんとか耐えることができた。
本当に感謝してます。こんな僕なんかを、見捨てずにいてくれて。
一緒にいてくれて。
え?それなら、どうして急にいなくなったりしたのか、ですか?
ああ……聞きますか、それを。まあ、聞きますよね。
あなたたちと一緒に過ごすのは、本当に楽しかった。
それまで生きてきて、これほど楽しい時間を感じたことなどなかったし、あれ以降、あの時のように大笑いしたり、思い切りはしゃいだりすることなんか、一度もなかった。
掛け値なしに、あなたたちと過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものだったんです。
部室にやってくるのは、大体僕が最初だった。
管理室から鍵を借りて、鉄でできた重たい――少しひしゃげて床に擦ってるせいで余計に重たい扉を開け、中に入る。
電気をつけて、荷物をそこら辺に放りなげて、来る途中自販機で買った飲み物を机の上に置いて、奥の椅子にどっかり腰をすえて。
それからしばらく、チェス盤とか駒とか磨いたり、人生ゲームのなくなったピンの代わりを木やプラ板を削って作ってたりすると、扉が開いて、他のメンバーが入って来る。
最初に――っていうか、正確には、僕の次に、ですけど――入ってくるのは、たいがいあなただった。
体ごと預ける感じで重たい扉を開けながら、初夏なら「あっついね今日!もう体中汗だく!」とか、 梅雨時なら「やーもう土砂降り!せっかくかわいく頭巻いてきたのにすっかりぐしょぐしょ!」とか、真冬の寒い日なら「うー、さむさむ!校舎からここまで歩いてくるだけで背骨まで凍り付きそう!」とか、必ず一言いいながら入ってきましたよね。でもって、重たそうに背負っていた荷物を「よいしょ」って椅子の上に置くと、「もう、我慢大会じゃあるまいし、なんてこんな暑い中じっと座ってんの?窓開けようよ、窓!」とか、「ものすごくほこりっぽいよ、この中!ちょっと掃除するから、掃除機とって!」とか、「うー、さぶさぶ!こんな中でじっとしてたら風邪引いちゃう!ね、さっさとストーブつけてよ!」とかあれこれまくし立てながら、くるくる、てきぱきと動き出して。そのたび、薄暗い部室の中が、ぱあっと明るくなったように感じました。
とはいえ、お相手してるのがなにしろ僕一人で、「ああ」「うん」「だね」ぐらいしかいわないものだから、直にその明るさも尻すぼみになって。結局、二人して難しい顔で向き合ってチェスのコマ動かしてみたり、ジェンガしてみたり。
あの頃はごめんなさい。僕は十分楽しかったんですけど、きっとあなたは退屈でしたよね。
もっといろいろ面白いこととか話したりできればよかったんですが、なにしろあの頃の僕ときたら、本当に人と話すのに慣れてなくて。どんな話題がいいのか全然分からなかったし、たまたま思いついた話題があったとしても、こんなこと、あなたにはつまらないんじゃないかとか、こんなバカなこと話したりして、嫌われたりしないかとか、そんなことばかり考えて、結局なにも言わずじまいで。
あ……でも、人慣れしていないのは、今も同じか。
あの、大丈夫ですか?こんな話ばかりで、しかも、さっきから僕ばかり話してばかりで、その、退屈してませんか?
……そうですか。ならよかった。
え?……あはは、そうですか。そうですよね。思えば、あなただって、同じ思い出を共有していたんですから、こういう話、懐かしいですよね。
そうそう、それで……二人で向き合ってゲームしてるぐらいのタイミングで、大体皆がどやどやっとやってくるんでした。
「ひょー!なんだお前ら、また二人で先に来てたのかよ。全くいつもながら熱いね~!むっひょー!」
とかいいながら、オオスミ君がどたどたと入ってきて、
「ほほう。ジェンガとは、また非生産的なゲームをやっておりますな。小生、このような破壊をテーマとしたゲームはどうもあまり好きにはなれませんで。ま、既に対戦なさっているのならば、見物だけはさせていただきましょうか」
したり顔でスワノ君――すっさんがテーブルに顔を寄せる。
「あれ?今日はポテチとかないんすか?飲みモンも、ウーロン茶しかない?なんだ、それならそうと先に言っといてくださいよ、俺、買ってきましたのに!」
食いしん坊で小太りのカワシマ君――カワちゃんが世にも切なそうな顔をすると、ちょっと意地悪なミヤさん――ミヤマ先輩が、
「そんなに腹減ってるなら、これでも食っとけ!」
なんて言いながら、手近にあったぬいぐるみをぐりぐり彼の口に突っ込む。
「わぶっ!うわ、ほこり臭い!ちょっと先輩、なにするんすか!」
カワちゃんが泣き言を言うと、
「うるさい!お前は俺のおもちゃなんだから、黙って遊ばれてればいいんだ!」
と、ミヤさんが笑いながら切り捨て、「ええ~、ひどいっすよ~!」なんて、カワちゃんがやっぱり笑いながら身をよじるのを見て、皆で笑って……。
楽しかったなあ。皆といると、本当に退屈しなかった。
ボードゲームサークルなのに、ゲームなんかほとんどせず、やるとしても、僕とあなたが対戦するぐらいで、他の皆は、はたで見ながらやいのやいのはやし立てるだけ。
でも、その喧噪の中でゲームをするのが、たまらなく楽しかった。
「あ~、今のって悪手じゃないですかあ?」
とか、カワちゃんがうれしそうに言うのを聞きながら、「ああ、確かに失敗したなあ。これはよくなかった」とか、こっちもニヤニヤしながら返したり。
彼が言うと、イヤミな言葉も全然イヤミっぽく聞こえないんですよね。
「ええっ、ちょっとちょっと、マジかよ!お前はいつまで経ってもうまくならんな。もう少し頑張らんと」
そう言いながら、ミヤさんがため息交じりに顔を寄せてきたりするから、そちらに目をやりつつ、
「そうなんですよね。僕も一応頑張ってはいるんですけど、なかなか上達しなくて。相手してくれるサクラさんに申し訳なくて」
なんて僕も頭を掻いてみせると、ミヤさん、困ったねえ、って顔でほほえんでくれたり。
あの人、普段は乱暴で、なにかって言うとカワちゃん追いかけ回したりしてたけど、根は優しくて、頼りになりましたよね。
そうだ、思い出しました。サクラさんだ。
あの当時、僕達、あなたのことをそう読んでましたよね。
ただのサークル仲間ってだけなのに、女の方に向かってそんな呼び方するなんて、ちょっとなれなれし過ぎないかって思ったんですが、あなたは普通に「いいよ」って言ってくれて、それからはずっと「サクラさん」だった。
今だから言いますが、あの当時、あなたに「サクラさん」って呼びかけるたび、ドキドキしてました。
本当に女性に免疫なかったんですよ、中高男子校で、学部も男子ばかりのところでしたから。あ、いや……正直言って、昔だけでなく、今でも免疫ないですね。プライベートで女性に会うことなんて、めったにありませんから。だから、告白すると……「サクラさん」って呼びかけたら、今もやっぱりドキドキすると思います。
いや、お恥ずかしい。いい年した男の言うことじゃありませんね。
え?……いいんですか?でも……はあ、いや、でも……そうですか?
それじゃあ……。
サクラさん。
……あはは、思った通り、やっぱりドキドキしますね。
いや、そんなにやにやしないでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか。
え?カワイイ?
やめてくださいって……余計に恥ずかしくなるじゃないですか。
いやいやいやいや……勘弁してください。
え?きっと楽しかったんでしょうねって、サクラさんは楽しんでいらっしゃらなかったんですか?
もしそうだったなら、大変申し訳ないことを……
え?……ああ、そうですか。それならよかった。
嫌々つきあってくださっていたわけじゃなかったんですね。なにしろあの頃のサークル仲間ときたら、ちょっと常軌を逸した連中ばかりでしたから。
「お、そうきますか。なかなか分かっていらっしゃる」とか言いながら、すっさんがごく真面目な顔であなたの顔のすぐそばまで顔を寄せたり、オオスミ君は、突然「うひょー」とか「ひゃっはー」とか奇声を上げるし、カワちゃんは「なんだか眠くなっちゃいました~」とかいってすぐくっつこうとするし、ミヤさんはミヤさんで、そんな皆を止めるどころか、自分から率先して「うおお、今日は暑いなあ!」とか叫ぶなり、いきなり上半身ハダカになったりするし。
そのたび、サクラさんに失礼なんじゃないか、いい加減嫌になって、部室に来なくなっちゃうんじゃないかって、はらはらしてたんですが……面白がってくださっていたんならよかった。
まあ、でも、そうですよね。
よくよく考えれば、あなたが僕らを嫌うなんてこと、ないはずですから。
え?
ずいぶん自信があるんですねって……いえいえ、そういうことじゃないんです。
それは、つまり……ある日突然、僕が消えた、そのことにも関係がありまして。
ええ。
そうですね……サクラさん、最初から、そのことを聞きたがっていらっしゃいましたし。
じゃあ……。
きっかけはね、ほんのちょっとしたことだったんです。
あれは、いつぐらいでしたでしょうかね。
部室に毎日顔を出すのが、もう当たり前になってた頃でしたから……もう三年生にはなっていたのかな。ジャケットは着ていったけれど、暑くて部室の鍵開けるとすぐに脱いだ覚えがあるので、5月くらいでしょうか。
例によって僕が一人で部室にいる時に、管理委員会から呼び出しがあったんですよ。
すぐに、管理室に顔を出しなさいって。
なんだろ、今年の部員届けはもう提出したし、呼び出されるようなことはないはずだけど、っていぶかしみながら受付に行くと、おもむろに、僕らのサークルの活動認可届を出されましてね。
「活動計画表、年次が間違って去年になってたんで、書き直してもらわないといけなくて、連絡したんです。お願いしますね。それと、困りますよ、代表者の連絡先はちゃんと連絡のつくものにしておいてくれないと。この番号、いつかけてもつながらないじゃないですか。こういう書類とか手続きの不備が重なると、部室使用許可の取り消しもあり得ますからね。気をつけてくださいね!」
つっけんどんに――大学の事務職の方って、あの頃大体ぶっきらぼうで素っ気ない態度でしたよね――そう言われ、ハア、ええ、あ、ハイ、はあ、すいませんとかなんとか、もごもご返事してなんとかごまかして、無事手続きを終えて出てきたんですが、どうも引っかかりましてね。
その時の部長って、ミヤさんだったんですけど、四年生で、もうほとんど単位は取り終わって、後は卒論書くだけって言ってたし、親がそこそこ裕福だとかで、バイトもやってないって言ってたし、電話に出る暇もないぐらい忙しいなんてこと、ないはずだったんですよ。
なので試しに、管理室を出たところで、ミヤさんに電話かけてみたんです。
コール音が、1回……2回と鳴ったところで、
「ん、俺だ。なんだ?」
ちゃんと出たんですよ。
なので、
「あ、ミヤさん。ちょっと待ってくださいね」
と保留にして、そのまま管理室の中に戻り、さっきの人に、
「あの、代表につながりましたんで。どうぞ」
って、仕返しとばかりにつっけんどんに言いながら、電話渡したんです。
「つながった?本当に?」
相手は、やや怯んでいるような、疑っているような表情になりましてね。
しぶしぶ、といった感じで保留を解除し、電話を耳に当てたんです。
その顔が、みるみる不審そうな顔に変わったかと思うと、そのまま、じいっと僕の顔を見つめましてね。
「……つながってないですよ」
そう言って、電話を渡すんですよ。
「え、そんなはずは」
慌てて受け取って耳に電話を当てたんですが……ツーッ、ツーッっていう、今となっては懐かしい話し中音が聞こえてくるだけ。確かに相手の方の言うとおり、つながってないんですよ。
「え?そんな!」
慌ててもう一度リダイヤルしたんですが、やはりつながらない。
もう一度。
つながらない。
さらにもう一度。
やっぱりダメ。
それ以降、何回やっても、もう二度とつながらないんです。
当惑と焦りとでどっと汗が噴き出ているところへ、
「だから、言ったじゃないですか。ちゃんとつながるようにしておいてくださいね!」
ダメ押しとばかり、きつい口調でそう言われて、僕はぺこぺこ頭を下げながら、逃げるように管理室から飛びだしたんです。
額の汗をぬぐいながら、部室へ帰る道々、もう腹が立って仕方ありませんでした。
適当でおおざっぱな人だとは思ってたけど、かけた電話をいきなり切って、しかもその後一切電話に出ないとはどういうことだ、今日あったら、絶対文句言ってやる……
そう思って、一人がうがうと血圧を上げながら、皆が来るのを待っていたんです。
で、夕方遅く、ミヤさんがいつものように部室にやってきたんです。
早速とがめるような視線と共に、「ちょっと、ひどいじゃないですか、さっきの電話……」と言いかけたところで、
「いやいや、俺、管理手続きとか面倒なの嫌いだし。やる気ないし。お前、さっさと自分の番号に連絡先変更しとけよ」
なんて、すごむように言われてしまって。
「あ、はあ……」
怒ってはいたものの、面と向かって先輩と口げんかするほどの度胸も図太さも持ち合わせていなかった僕は、そのままなにも言えなくなって……それで、その場は終わったんです。
でも、おかしいですよね?
だって、僕、電話で一言も、「サークルの管理手続きのことで」とか言ってないんですよ。
なのに、なんでミヤさん、僕の電話が管理室前からで、しかもちょっと面倒な内容だって分かったのか。
ね?
変ですよね。
それでちょっと、疑いを持つようになってしまって。
そうなると、考えれば考えるほど、おかしいことが多いんですよ。
部室では毎日のように会うのに、学内の他の場所では決して会わないのはなぜなのか。
部室を閉めて帰る時、どうしていつの間にか、誰もいなくなっているのか。
この後飲みに行こうか、なんて誘っても、だれも、1回も一緒に行ったことがないのはおかしくはないのか。
気になり始めてしまうと、もうどうしようもなくて。
それで、探してみることにしたんです……ミヤさんを。
大変でしたよ。時間かかりました。
個人情報について、今ほどうるさくなかったとはいえ、なにせ「学部は確か工学部で」とか、その程度のぼんやりしたことしか分かりませんでしたから。しょうがないので、一つ一つ学科の研究室を回って、「こういう人、この研究室にいませんか?」って聞いて回ったんです。
で……全部の研究室を回って、念のために学部の学生課の方にも聞いて、ってしたんですが、結局、見つからなかったんですよ。
研究室に所属していないだけでなく、学生課にも登録されていない。それどころか、学部の誰一人として、そんな人、見たことも聞いたこともなかったんです。
見つからなかったというか、いなかったんですよ、ミヤさんなんて人間、はじめから。
それが分かった時、本当に怖かった。
それまで同じ大学で、気のいい先輩だと思っていた人が、素性の知れない、学生かどうかさえはっきりしない人だって分かってんですから、そりゃ、怖いですよね。
でも、事実はもっと「怖い」ことだった。
ミヤさんが学生じゃないって分かってから、僕は、ちょっと距離を置くというか、こわごわ接してたんです。ですが、ミヤさん自身は相変わらずで、カワちゃんつかまえてじゃれたり、突然脱いだりと、やりたい放題してたんです。
その時、ふと、決定的におかしいことに気がついたんですよ。
ミヤさん、その日、確かに脱ぐ前はイギリスだかアメリカだかの有名ロックバンドのTシャツ着てたんです。
それを脱ぎ捨てて……ひとしきり踊ったりはしゃいだりした後、「ああ、遊んだ遊んだ。落ち着いたら、寒くなってきたな」なんて言いながら、脱ぎ捨てたそのTシャツに、もう一度袖を通したんです。
そしたら……。
ええ、その通り。
柄がね、全く変わっていた。当時流行っていたアニメキャラのTシャツになっていたんです。
ざあっと、血の気が引いていくのが分かりました。
ミヤさん、どこの誰とも分からない人だったどころか、「人」でさえなかった。
自分は一体、今まで「なに」と笑い、じゃれ合い、共に長い時間を過ごしてきたのか。
あまりに怖くて、体中が震えて止まらない。
「ごめんなさい、なんか……風邪引いたみたいで」
ぶるぶる震えながら、真っ青な顔でそう告げると、それは大変だ、早く帰って休め、後始末はやっておくからなんて、みんな相変わらず優しいんですよ。
でも、ミヤさんがヒトではないなにかだと分かった以上、他の皆だって、わからない。
そう思うと、怖さ以上に、こんないい人たちを疑っている――疑わざるを得ない自分が、なんともイヤらしい、汚らわしい存在に思えて、吐き気までこみ上げてきて……。
僕は逃げ出しました。
トイレに駆け込み、吐いて、吐いて、しまいに黄色い胃液さえ出てこなくなるまで吐いて……ふらふらになりながら、その足ですぐ、大学でてすぐのところにあるコンビニに駆け込んだんです。
「お願いです、助けてください……」
最後の力を振り絞って、それだけを口にすると、店員さんやお客さんが驚いた目で見つめる中、なにも分からなくなって……。
気がついたら、病院のベッドの上でした。
身じろぎするとすぐ、枕元にいた泣きはらしたような目をした母親が、くしゃくしゃに顔をほころばして、ぎゅっと手を握ってくれて……難しい顔の父親が、「看護師さん呼んでくる」と病室を出て行って。
出て行く直前、ちらりと僕を見て、無念この上ない、って表情になったのを、今でもよく覚えています。
やがて、髪の毛が半白の、やけに鋭い目をした白衣の医者が、ぞろぞろと看護師さんを引き連れて、病室に入ってきましてね。
そこで、言い渡されたんですよ。
「君は、少々精神を病んでいる。ご両親の過剰な期待や大学の勉強について行けない焦燥感、そして、学校生活があまりに孤独なせいで、つい、頭の中に架空の友人達を作り上げてしまったんだ。簡単に言えば、君は統合失調症だ」
ショックを受けるかと思っていたんですが、むしろ逆に安心しました。ああそうか、彼らは皆、僕の心が作りだした、心の中にだけいる友達だったんだ、道理で皆、かなりおかしかったわけだ。そりゃそうだよ……。
そう思ったら、なんだか急におかしくなって。思わずクスッと笑ったんです。そしたら、それが止まらなくなって。
父親が先ほどの無念な表情をさらに濃くし、母親はあからさまに声を上げて泣き出してしまう中、ずっと――医者の指示で精神安定剤を注射されるまでずっと、くっくっくっくっと声を上げて、僕は笑い続けていたんです……。
そこからがまた、大変でした。
「この病気は寛解まで普通はかなり時間がかかるよ。だから、あせらずゆっくり、気を楽にして、少しずつ元気を取り戻していこう」
なんていう医者の言葉通り、本当によくならないんですよ。
なるべく刺激の少ない、安定した生活を送る方がいいからっていうので、大学は休学。しばらくは入院してたんですが、やがてそこも出なきゃならなくなって、結局実家に戻りました。
自分の部屋にこもり、テレビも見ず、ネットもせず、散歩と、毒にも薬にもならないような本やマンガだけを頼りに、ひたすら長い1日が過ぎていくのを耐える。これも治療のためだ、社会復帰するためだと言い聞かせて、そんな味気ない生活を続けてたのに……それでも、彼らはやってくるんですよ。
「うっひょー!実家、こぉんなに大きな家だったんですねえ!びっっくりしたよお!でも、なああんにもないところだねえ」
「よう、遊びに来たぜ。いつまでこんなつまんねえ生活続けるつもりだ?もうそろそろいいだろ、大学出てこいよ。また一緒に、楽しく過ごそうぜ」
「あ、万年床じゃないですかあ。だめですよお、こんなだらだら生活してちゃ」
「外からの情報を遮断する必要は認めますが、なにもここまでしなくてもいいように思われます。少しは外界への窓を開いてもよろしいのではないでしょうか」
昼夜構わず、ある時は四人揃って、ある時は一人一人、オオスミ君、ミヤさん、カワちゃん、すっさんが押しかけて……外へ行こう、大学へ戻ろう、楽しく騒ごう、好きに生きようって誘惑するんです。
「薬が効いて、しばらくすれば自然と消えていくよ」
そう医者は言うんですけど、どれだけ待っても効果が出なくて。そのことを訴えると「じゃあ、もう少し強い薬に換えてみようか」ってなるんですが……強い薬って、その分副作用もひどいんですよね。不眠になったり、気分がずーんと落ち込んだり、便秘したり、ものすごい頭痛に襲われたり。
体がどんどんボロボロに蝕まれていくのを自覚しながら、これも治療のため、自分のためと必死で言いかけて、ついには日がな一日寝て過ごすような状態にまでなって……それでも、彼らはやってくるんですよ。
「よう、またきたぞ」ってね。
その時の絶望的な気持ち、分かってもらえますか?
ひょっとすると、自分は一生このままかもしれない。こいつらにとりつかれたまま、なにもない部屋に閉じ込められ、薬の重い副作用に苦しんで、苦しんで、苦しみぬいて老いさらばえ、死んでいくのかもしれない。
いっそ、この場で今すぐ死んだ方がましなのかもしれない……何度そう思ったことか分かりません。
でも、後に残される父母がどれほど悲しみ落胆するかと思うと、それもできなくて。
身動きできないまま透明な重たい壁にゆっくりと押しつぶされていくような、底なしのねばこい水の中にゆっくり沈められていくような、重苦しい閉塞感。
光の見えない生活を続けて、続けて……3年ほど過ぎた頃でしょうか。
頭痛に苦しむ枕元で、相変わらずの馬鹿騒ぎを続けているオオスミ君を見ているうち、突如、ものすごい勢いで怒りが湧いてきたんです。
なにもかも、こいつらのせいだ。
こいつらがとりついているせいだ。
僕が、僕一人だけが苦しみ、取り残されていくのも、全てはこいつらのせいなんだ!
そう思ったら、もう止まりませんでした。
手足を大きく振り回しながら、大声で脳天気にアニソンを歌う彼の背後にそっと回り込むと、両手を首に回し……思い切り、力を込めたんです。
気がつくと、僕はまくらを両手でぎゅっと握りしめたまま、万年床の上に座り込んでいました。
辺りはしんとして、かすかに聞こえる虫の声以外、なにも聞こえてこない。
そこへ、遠慮がちなノックの音が聞こえ……ひどく深刻な表情を浮かべた母が、そっと部屋をのぞき込んだんです。
え?という目線を送ると、心配げな表情の上に戸惑った顔を上塗りしながら、下のリビングにまで聞こえるほどの大声で歌を歌っていたのが急に途切れたから、ちょっと心配になって見に来た、と言うんです。
それで、分かりました。
僕はどうやら、オオスミ君と離れることができたらしい、ってね。
薬も療養も大事だけど、それより、僕自身の決別の意志をはっきり行動で示すこと。それが、妄想に打ち勝つために必要なことだったんだって、ようやく理解できたんです。
それがわかったことで、知らぬうちにふわっとしたあやふやな笑顔が顔に浮かんでいたらしく、母親は、ますます不安げな今にも泣き出しそうな表情になりました。そんな彼女に、大丈夫、心配いらない、ようやく自分を取り戻しただけだからと告げ、半ば無理矢理部屋の扉を閉めさせたところで、僕は重力に引き寄せられるまま、布団に仰向けで倒れ込みました。
そして、数年ぶりに心から満たされた気分で、嫌な夢を見ることもなく、ぐっすりと眠ったんです。
その後、オオスミ君が訪ねてくることは二度とありませんでした。
それからというもの、僕は、以前の友達が訪ねてくるたび、同じように首を絞めて、葬ってきました。
医者は、びっくりしてましたよ。
これまでの間、一向に回復へと向かう様子がなかったのに、いきなりどうして症状が軽くなったのか、とね。
僕は、ただ笑って、なにも答えませんでした。
不思議なのは不思議だけど、よくなっているのは間違いないのだからと、薬は軽いものになったし、その量も徐々に減りましてね。副作用による体調不良もなくなり、外出も、徐々に許可されるようになって……そして、最後に残ったミヤさんと決別したことで、ようやく寛解したんです。
その時はもう、いい年になっていましたから、今さら大学に戻る気にはなれませんでした。
知り合いのところでバイトさせてもらいながらハローワークに通って、そこでアドバイスしてもらった通り、職業訓練に通って、資格とって。それでも空白期間の長さのせいでなかなかうまくいかなかったんですが、ようやく就職することができて。あ、といっても、正社員じゃなくて派遣社員ですけどね。それでも、もう一度、社会の一員として自分の手でお金を稼ぎ、生活することができるようになったのは、本当にうれしいことでした。
このまま世界の片隅で、好きな本を読みながら、散歩したり、お茶を飲んだり、時折おいしいものを食べに行ったりして、ゆっくり、穏やかに年を取って死んでいければいいと思っていました。以前の苦しかった日々を思えば、それだけで十分満ち足りている、それ以上のことは何も望まない、今のままで十分だと思って、寛解からずっと、生きてきたんです。
ただ……そんなひっそりした落ち着いた生活をしながら、ただ一つ、ずっとつきまとって離れてくれない不安がありました。
え?……再発?
ああ、はい。まあ、広い意味で言うとそうなりますね。今でも継続的に薬は飲んでますけど、それがいつか効かなくなって、また病気が出たらどうしようって、結局はそういうことなんでしょうね。
あ、いや……ですから、ただ「再発」を恐れるっていうより、僕の不安はもう少し具体的な、はっきり形のあるものなんですよ。
つまり、再訪です。
オオスミ君、すっさん、カワちゃん、ミヤさん。
四人をこの手で、完全に葬り去ることで、僕は精神の安定を取り戻しました。
ですが、もしまた誰かが訪ねてきたら。
それも、出会った頃と同じ姿でやってきたら。
それって間違いなく、また自分がおかしくなった、ってことですよね。
それを、ずっと恐れてきたんです。
だって、まだ、訪ねてきてない方が一人、残ってましたから。
ええ、そう。あなたです。
サクラさん。チャイムが鳴って、ドアを開けたらあなたが立っていた時、僕がどれほど驚き、懐かしく思ったか、そして、どれほど深く絶望したか、分かりますか?
たとえただの妄想に過ぎなかったとしても、あなたとの思い出だけは、大事に胸の奥にしまっておきたかった。
二人で部室で過ごしたあの短い時間を、死ぬまで抱えて、生きていきたかった。
でも、もうダメです。
こうして、あの頃のままの姿で訪ねてこられてしまっては……やるしかありません。
眠れず、不安で、怒りと恐怖に駆られるあの日々に戻ることだけは、嫌なんです。
お願いですから、そんな目で見ないでください。
僕だって、こんなことしたくないんです。でも、仕方ないんだ。
そんなに暴れないで。なるべく早くすませますから。
嫌なのは分かります、けど……ごめんなさい。
体重差がこれだけあると、楽ですね。すぐに押さえ込むことができる。ミヤさんの時は、本当に大変でしたから。
苦しいですよね、ごめんなさい。
僕も、本当に残念です。
あなたとの最後の思い出が、こんなつらい行動で上塗りされてしまうことが。
でも……どうしてもやらなきゃいけないんです。
ごめんなさい……さよなら……
永遠に、さよなら……。