第七話 秘密の夜
レオンは屋敷に帰り着くと、いつも通り何かあったら駆けつけられるように、ルイーザが寝支度をするのを隣室で待っていた。
カーテンが閉められていないのに気づき、それを閉めようと窓に近づく。そこに映るのはほんの八年前まで孤児院でボロを着ていたとは思えない、上質な衣装に身を包んだ背の高い男だった。
ルイーザと出会った頃は、一歳年下の彼女と身長が変わらなかった。背は伸びたが中身は何も変わっていない。
彼女に泣かれるとどうして良いのか分からないのは今も同じだ。
いや、本当は抱きしめて、その涙を拭ってやりたいが、自分にはそんな権利はない。彼女に自分勝手に触れる権利も、気持ちを伝える権利も。
と、そこで内扉からメイドたちが出てきた。長く見知った者しかいない。魔力が弱く、魅了の力に影響を受けにくい体質の、信用のおける者しか彼女の近くには置けないからだ。
全員が退出すると、彼は内扉をノックをしてルイーザに声を掛ける。異常が無いか確認してから彼も部屋に戻るのが決められた手順だった。
いつものように彼はノックをした。しかし彼女の返事はない。こういう場合は瞬時に行動する。何が起こっているか分からないからだ。
レオンはその扉を開けた。そこにあったのは体の線に沿ってなだらかに彼女の体を包む、薄い寝巻き姿の彼女の後ろ姿だった。その肩はわずかに震えていた。
彼は今すぐに扉を閉めるべきだと思った。押さえ込んできた欲望が膨らむのを自覚したからだ。
だが、泣いているであろう彼女をどうして一人きりにしておけるだろうか。
彼は己を律すると、静かに彼女に歩み寄った。
◆
ルイーザは一人になってレオンの声を聞いた途端に溢れ出した涙を止めようと必死だった。
返事が出来ずにレオンが慌てて飛び込んできた時も、彼の方を向けなかった。あまりにも情け無い。自分の気持ちを押し殺すのには慣れているはずなのに。
後ろで衣擦れの音がしたと思ったら肩からガウンが掛けられた。鼻を啜りながら、それをきちんと着込む。
お礼を言いたいのに口から漏れるのは嗚咽だけだ。
「お茶でも入れさせるか。それとも話を聞こうか?」
彼の声に安心する。いつも、少しぶっきらぼうで、そしてとても優しい。
「っはなし、を」
しゃっくりをあげた彼女はガウンの袖を掴んだレオンに連れられて、部屋の壁際に置かれたソファに腰掛けた。一人分の間を空けて、盛装姿のレオンが足を組んで腰掛けた。
ひどい顔をしているのを見ないようにしてくれているのだろう。彼の視線はルイーザとは反対の方向を向いている。
ソフィアは初めて出来た友人だった。そう思っていたのはルイーザだけだったわけだが、感動する程に嬉しかったあの気持ちも、今では苦い思い出だ。
そうなってしまった事が、無性に悲しくなってしまったのだ。
ルイーザがつっかえながらそう言葉を並べると、悩むように顎をさすったレオンが口を開いた。
「実は、言おうか迷っていた。あのソフィアってやつは、ルイーザと友達になれるか、他の奴らと賭けをしていたようなんだ。その婚約者がソフィアになびくかどうかも。
俺、あの女が魅了の力を持っているなんて思いもよらなくて。それでルイーザがあの女を受け入れたのだと分かったら、もっと早く引き離せたのに」
レオンは本当に悔しそうだった。
「俺、魔力ないから。役に立たなくてごめん」
彼はそう言うが、魔力のある無しと魅了の力に気づけるかは関係がない。そうであれば、ルイーザの方が気づかないといけなかった。
レオンは俯きながら言った。
「ルイーザが楽しそうだったから言い出せなかった。このまま卒業を迎えればあの女との接点はほとんど無くなるはずだったし、いい思い出になるのだろうと。ヘイゲンにしても、まさかあんな風にルイーザを裏切るとは思っていなかった。でも間違ってたよ」
「そうだったのね」
彼の話を聞いていて、いろいろな感情がストンと腑に落ちた。
ルイーザが見ていたソフィアの顔は本当の彼女のものではなかった。婚約破棄の後、学院で彼女と話した時に気づいた。彼女の魅了の力の影響を遮断してから見た彼女の顔は、確かにルイーザを侮っているようだった。
ルイーザがソフィアの魅了の力に当てられて、自分の幻想を、理想の友人像を彼女に投影してしまっていただけだったのだろう。
それが魅了の力というものだという事が初めて理解できた気がした。
昔、まだ子どものルイーザを襲おうとした家庭教師が、「ルイーザが私に恋人になって欲しいと思っていたからそうしたのだ」と言った事がある。
その時は意味が分からなかったが、あれは彼の願望のようなものを事実のように錯覚させてしまっていたのだろう。
ルイーザは魅了の力を押さえ込む事ばかりしてきたために、その何たるかを今まできちんと理解すらしていなかったのだと思い知った。
「本当に、嫌になっちゃうわね」
ルイーザがつぶやくと、すかさずレオンが言う。
「おまえのせいじゃないだろ」
ルイーザは彼の怒ったような早口に思わず笑ってしまった。今では慰めようとしてくれているのは分かるが、その口調は出会った頃から変わらない。
体は随分と大きくなったし、声も大人の男性のものに変わった。でも、彼は変わらない。それが嬉しかったのだ。
「俺、何か変な事を言ったか?」
「違うの。レオンがいてくれて良かったと思って」
「俺もルイーザがいて良かったよ」
いつものようにレオンはそう言ってくれる。
それなのに、彼も本心は違うのではないかと、ふと嫌な考えが頭をよぎった。ルイーザを慰めるために嘘をついているのかもしれないと。
彼に限ってはそんな事はないと言う思いと、誰もが裏切ると言う経験から来る強迫観念のようなものが、ルイーザの中でせめぎ合っていた。
彼の立場ではルイーザが不快に感じる事は言えないかもしれない。これまでも、もしかしたらそうだったのかもしれないと思った。そして考え無しにもそれを口にしてしまった。
「本当にそう思っているの?」
「……なに?」
「だって、私の事がなくても、あなたならどこか良いお家に引き取られていたかもしれない。こんな窮屈な思いをする必要もなくて、こんな面白みもない相手に四六時中付き合わされる事も……」
「おい、それ本気で言ってんのか?」
レオンの声は低かった。怒っているのだろうと思った。
ルイーザは涙をこらえながらレオンの顔を見た。でもその顔は眉を寄せていて。まるで、泣き出しそうで。
「レオン……?」
ルイーザは彼のそんな顔を見た事がある。まだ打ち解けたばかりで、二人で何をしても楽しかった頃の事だった。
二人でいたずらをして家具をだめにしてしまって母に怒られたのだ。感情を抑え込んだルイーザとは違い、レオンは顔をゆがめていた。彼が一生懸命涙をこらえているのが珍しくてよく覚えている。それまで同年代の子どもなんて近くにいた事なんて無かったから。
そうだった。レオンはいつも誠実でいてくれた。彼はルイーザを叱ってくれる事も多い。なぜ疑うような事を言ってしまったのだろうか。
「ごめんなさい、レオン。嫌な言い方をして。許してくれる?」
彼の気持ちが知りたくて、思わず彼の頬に手を伸ばした。指先がそこに触れた瞬間、レオンは飛び退いた。
ルイーザは手を引っ込めて、呆然と彼を見つめる事しか出来なかった。彼に拒否されたのだと思った。
レオンにそうされるのは辛い。なぜか分からないけれど、いつの間にか頬を涙が伝った。
「ルイーザ、頼む。一度隣の部屋に行ってくれ。俺は動けない」
「……ごめんなさい。あんな事を言って……嫌われても仕方ないわね……」
レオンの顔が歪んだ。
「何でそうなるんだよ。お前を押し倒しそうだから、逃げろって言ってるんだ」
ルイーザは彼の言うことが分からなかった。他の人に同じ事を言われたら、心を乱している彼女が魅了の力を溢れさせてしまったのだと思うだろう。
しかし、レオンには彼女の力は何の影響も及ぼさないはずだ。
彼女がそう言うと、呆れたような顔をして、そして諦めたように彼は言った。
「好きだからだよ。魅了の力なんてものは関係ない。ただ、弱ってるルイーザを押し倒してめちゃくちゃにしたい。たくさん泣かせて、そして慰めたい。そんな事で頭がいっぱいの、危険な男がここにいる。だから逃げろと言っているんだ」
ルイーザの頭の中は混乱していた。魅了の力の影響も無いのに、好きだとはどういう事だろうか。その感情はルイーザにはよく分からない。
でも今レオンから離れるなんて考えられなかった。そばにいて欲しい。逃げろなんて言わないで欲しい。何をされてもいいから。
「レオン。私は逃げないわ」
ルイーザはそう言った次の瞬間、ソファに寝転んでいた。彼女の上にはひどく顔を歪めたレオンがいる。
ルイーザは婚約者が出来てすぐに閨教育を受けている。だから、この状況が何を意味するのかは分かった。それでも構わないと思った。
レオンの短くて硬い茶色い髪に手を伸ばしてそれを撫でると、髪よりも少し暗い色の茶色い瞳が見開かれ、そして細められた。
「優しく出来る気がしない」
レオンはルイーザのガウンの紐を解きながら言って、彼女が何も言えないでいるうちに唇が触れ合った。何度かそれが繰り返された後、レオンの舌がルイーザの口に忍び込んで口内を舐める。
ルイーザはそれを受け入れながら、そこからじわじわと広がる、初めて知る快感に身を震わせた。
◆
レオンは起き上がって服を着た。
じきに公爵夫妻が帰って来るだろう。ベッドの端に追いやられていた彼女の寝巻きを取ってルイーザの体の上に掛ける。
それを抱きしめらようにしながら、ゆっくりと上体を起こしている彼女に、レオンはどうしても言わなければならない事があった。
彼は言いたくはなかったが、こんな関係は許されないのもまた事実だった。
「部屋に戻るよ。今日の事は、お互い忘れるべきだと思う。今まで通りでいよう」
ルイーザはいつも通りの無表情で頷いた。
そうするしかないのは彼女も分かっているはずだった。
彼は起き上がった彼女に「ゆっくり休んで」といつものような挨拶をすると、振り返りたいのを我慢して、その部屋を後にした。
つづく……