#8 ポピ先生の助手(2)
ポーンと高い音がしてエレベーターの扉が左右に開いた瞬間、カカオ豆の香ばしい匂いがした。
大学病院の十一階はフロア一面が院内カフェになっていて、市街を見渡せる眺望と薫り高いコーヒーが同時に楽しめる学生たちに人気のスポットなの。
(さーて、逃げた学生たちは居るかな・・・?)
「ゲッ、先生!」
私を見た途端、薄い天板のカフェテーブルに勢いよく膝を打ち付けた男子学生は、青くなりながら苦痛に顔を歪めた。
「マズ・・・。」
大きな声で実習のグチを吐き出していた女子学生たちは気まずそうに目を伏せた。
「よくここが分かったな⁉」
「消去法よ。エレベーターが停まっていた階が、教授の部屋がある階とここの二択だったから。
さあ、そのコーヒー飲み終わったら実習室に帰ろうね。」
無言で席を立った女子学生たちは、早足で私の脇をすり抜けようとする。
ポピさんの鬼の形相を思い浮かべた私は、必死に学生たちの前に回り込んだ。
「わわ、待って。逃げないで!」
「この人、しつこい。」
ウッ。お願いだから、言葉のトゲはプチプチみたいな緩衝材で優しく包んでから喋ってほしいな。
「私で良かったら聞くから、話してみない?」
「・・・先生に言っても、アタシたちの気持ちなんて分からないよ。」
苛立ちを隠さない態度は、単に自分がナメられているんだと思った。
けど、目も合わせないで立ち去ろうとする学生たちの背中には、私は懐かしい切なさを覚えた。
(このトゲトゲした感じ、知ってる。
私もウイルス感染が発覚して隔離されたときに、そうだったもの。)
「本当のこというと、私は先生じゃないの。」
私の告白にエレベーターに乗り込もうとしていた学生たちが、足を止めた。
「ウソだ。ポピ先生が私たちに、あなたを助手だって紹介したじゃないですか。」
「私はただの滅菌室の助手なだけだよ。だから、君たちを叱ったり咎めたりする権利はないんだ。でもね、これだけは言える。
占い師とかに相談するとお金がかかるけど、私なら無料だよ?
得にはならなくても、損しない相手になら話しても良くない⁇
ノーリターン、ノーダメージ! オッケー?」
三人は顔を見合わせて振り向くと、一斉にふき出した。
「プッ・・・変なひと!」
手首に巻いたミサンガをいじりながら、唇を尖らせた女子学生は男子学生をチラ見した。
「どうする?」
「まあ、悪い人じゃなさそうだし話してもいいか。」
ノックと名乗った男子学生が包帯を巻いた自分の手を見つめながら、急に深刻な表情を浮かべた。
「実はこの包帯を取ると、俺の手の内部で飼っている古の黒龍が暴走して、ウロング・アースを滅ぼしてしまうんだ。だから、手を洗うこの実習には参加できない・・・以上だ。」
こくりゅう・・・?
リアクションに困っていると、分かりやすくドン引きの女子たち二人が後退した。
「怪我しているのかと思っていたけど、厨二病だったんだ!」
「チッ、神を恐れぬニュータイプめ。
そういうナーシとケアは俺さま以上の崇高な理由があるんだよな?」
「もちろんよ。」
ナーシと呼ばれた、うさぎのように髪を耳の上で結んだ女子学生が鼻息荒く進み出てきた。
「私はこの前、推しメンのライブに参戦したの。シロ君が投げたサインボールをキャッチしたこの手、絶対に洗うわけにはいかないわ!」
あらら。どんぐりの背比べ!
「フン、やっすい理由だな。」
「スタッフが書いたサインボールかもしれないしね。」
ノックとケアに一笑に付されたナーシは、むくれてケアを指さした。
「裏切者! あんたこそどうなの、ケア?」
「私は、このミサンガに願掛けしているから濡らしたくないわ。」
「どんな願掛けなの?」
「どーせ、大したことない願いだろ。」
ケアは手首のミサンガを反対の手でギュッと握りながら答えた。
「小っちゃい時から飼っていたウチの老犬の体調が最近良くないの。
だから、少しでも長生きできますようにって、このミサンガに願掛けしてるんだ。」
(それゼッタイ泣けるヤツ!)
ノックが赤くなった鼻をすすりながら、ケアの肩に優しく手を置いた。
「よし、お前は合格だ! 帰っていいぞ。」
「何が合格よ!」
ケアは心底嫌そうにその手をはねのけた。
「汚い手で私の肩に触れないで!」
「そうよノック、あんたは不潔なだけだから実習に参加したほうがいいわ。」
三人が急に仲違いを始めて、現場はカオスな雰囲気になってしまった。
「まあまあ、みんなの話は分かったから・・・。」
ケンカを制しようと学生たちの輪の中に入った私は、彼らに突き飛ばされてフロアにコロコロと転がった。
わーん、ひどいわ!
ポピさんといいこの子たちといい、私をボールか何かと勘違いしていない?
もう、こうなったら・・・。
「清浄部隊消毒班、イーオ参上!」
私がドデカい声でタンカを切ると、フロアにいる人たちの視線が私に集まった。
「手のひらには100万個のウイルスが存在するんだよ。
病気は自分がうつらないことも大切だけど、人にうつさないことも重要!
人を介して増殖するウイルスや菌が、動物にだってうつらないと言い切れる?
これだけは言わせて。
あなたたちが頑固に手を洗わないことがデブリスを引きよせる原因になるなら、私はあなたたちを消毒対象物とみなして倒します!」
ハァハァ・・・。
ウウッ、恥ずかしッ!
全部がエチルさんの受け売りだけど、叫ばずにはいられなかった。
だって、医療従事者のタマゴたちがこんな初歩的なことを拒否していたら、明日の医療はどこにもないじゃない!
「嫌だよ。」
ボソッと聞こえたつぶやきに、私は学生たちを見つめた。
「私についたウイルスが、周りまわって推しを苦しめるかもしれないなんて、嫌だよ。」
「確かに、動物に菌やウイルスがうつらないとはかぎらないよね。」
「ああ、俺は理解したよ。
今日が包帯を取るXデーなんだってことをな!」
伝わったーーー。
温かい気持ちが胸にフワフワ溜まって、満たされるのを感じる。
すべては平和に解決した、と思ったのよ。この時はね。
※
「デブリスみたいに倒されちゃうから、イーオ先生の言う通りにしますか。」
「だから、私は先生じゃないんだってば!」
ノックが私をからかいながらスルッと包帯を外した瞬間、その手から何かがポロポロこぼれ落ちた。
「何か落ちたよ。」
私が落ちたものを拾うために屈んだけど、すぐに驚いて手を引っ込めたの。
床に転がったそれは・・・ピクピク痙攣したように蠢く、芋虫のようなデブリスだった‼
「キャッ!」
あっという間にノックの手からものすごい数の小さな黒いデブリスが床にこぼれ落ちてきて、フロア内は一瞬で修羅場と化したの。
「グワァッ! 俺さまの手から黒龍じゃなくて、デブリスが出てきただと⁉」
学生たちや周囲にいたカフェの客の阿鼻叫喚に混じって、私にだけ小さな声が聞こえた。
『イエ コワレタ』
『コッチノイエ ヒッコス』
「家って何?」
そう思った瞬間、真っ黒なデブリスの集合体がノックの手からケアのミサンガ目がけて猛然と襲いかかり、あっという間に全身を黒く埋めつくした。
ノックとシーアが悲鳴をあげてケアから離れると、ケアがデブリスに覆われた隙間から手を出して、私に助けを求めたの。
「イーオさ・・・!」
私は頭まで鳥肌が立ち、全身の血が逆流する気がした。
(どうしよう! ケアの全身に消毒スプレーを直接吹きかけるわけにはいかないわ。
目に入ったら失明するおそれもあるし、粘膜がただれる危険もある。
私の推しならどうする? 私の推しなら・・・。)
頭がグルグルして、考えがちっともまとまらない。
私は思わず叫んでいた。
「エチルさーーーん!」
その時、むせかえるようなシャボンの香りがして、大量の水がケアを襲った。
水を浴びたケアが、むせびながら悲鳴を上げた。
「洗浄班・オレイン参上!
看護学生が知れへんうちにデブリスを育てとったとは、灯台下暗しやな!」
「消毒班隊長・エチル参上。」
銀色の長髪に狼の耳と尻尾を持つ青年と、魔法陣から水を出すピンクの髪の青年が目の前にいる。
もちろん、銀髪の美青年は私の推しだ!
「エチルさん♡」
助けに来てくれたエチルさんに後ろから抱きつこうとした私は、すぐに振り向きざまのアイアンクローで制された。
今日も今日とてつれないけど、私の推しは素敵です‼
「今度はポピさんの助手でヤンスか。よっぽど彼はイーオを気に入ってるようだね。」
え? エチルさん、それは大きな勘違いよ。舎弟とか、子分とかならまだ分かるけど。
気に入っている相手の尻を毎回蹴るようなら、私はポピさんに狂気を感じるわ。
「消毒班はちょっと待ちぃ。まずは基本の予洗浄や!」
オレインが手を動かすたびに、光る魔法陣から出る流水が形を変えて学生を取り込んだデブリスたちに襲いかかった。
「これで六割のデブリスを落とせんで!」
オレインの言葉通り、デブリスは流水にもみくちゃにされながら流されていき、ケアの身体から黒いかたまりがズルリと落ちたのよ。
「それから、セッケンの泡洗浄! 手の甲、指先、爪先、指の間、特に親指の付け根と手首は忘れがち!
30秒以上こすり合わせるのがベストやで!。」
泡にまみれたケアは、オレインに言われた通りに必死に手をこすり合わせている。
すでにミサンガも泡だらけだけど、デブリスまみれよりはいいはず。
「ほんだら最後に流水でよく洗い流して、ペーパータオルで拭いてから蛇口を閉めるんや!
これでデブリスは九割減少するわ!」
エチルさんが私を振り向いて微笑んだ。
「最後に消毒用エタノールを手洗いと同じ手順ですりこめば効果倍増でヤンス!
イーオ、やってみるかい?」
私はコクンと頷いてケアに叫んだ。
「ケア、もう一度私を信じて、手をこちらに出してください!」
「イーオさん! お願いします。」
ケアの手に勢いよく消毒スプレーを吹きかけると、私はそのままケアの手に消毒液をすり込む実演をした。すると、デブリスの断末魔の声がフロア全体に響きわたり、小さなデブリスの種がバラバラとケアの手の間からこぼれ落ちた。
「消毒完了!」
私が消毒宣言をすると、すでにエチルさんに消毒をされていたノックとナーシの手からも小さな種が落ちたようで、床には黒い種が山のように積もっていた。
「これでわかったでヤンスね。手指消毒は何のためにやるのかを?」
エチルさんが学生たちに問いかけると、学生たちは胸に手を当てて元気よく叫んだ。
「命を守るためです!」
良かった。
それは学生たちの意識が変わったこともだけど、自分が初めての【消毒完了】をしてしまったことが、とても誇らしいと同時にくすぐったくも感じた。
※
「それではここで問題です。」
それからというもの、ポピさんの実習が始まると私はすぐにトイレに行くことにした。
(ポピさんの助手はもうこりごりだわ!)