第4話
レスター様の私室を案内してもらった後は別棟に移動して、屋敷で働く人々が利用する食堂でベルタさんと昼食をとった。
食堂には住み込みで働く独身者の宿舎が隣接していて、一階は男性、二階と三階は女性用と分かれている。
屋敷の近辺に住んでいる人やベルタさんのように既婚の場合は、住み込みではなく家から通っているらしい。
食堂では、隣の席に座っていた庭師の男性が話しかけてくれた。
見応えのある白鬚をたくわえたその好々爺は、庭師のブルーノさんといって、ベルタさんと同時期にお屋敷に仕え始めたそうだ。
二人は三十年来の付き合いになるらしい。
レスター様がいない夜に、子猫のルルとリッテをよく預かっている庭師とはブルーノさんのことだった。
「以前は王都から乗合いの馬車で通っていたんだけどなぁ。二年前に妻が亡くなってからは、ここの宿舎に住まわせてもらってるんだよ。子猫達がいるとずいぶん寂しさがまぎれてねぇ」
「本当は私もあの子達を連れて帰りたいのだけど…家が敷地外にあるから、それも難しくて。ブルーノがいてくれてとても助かっているわ」
食事をしていると、時折若いメイドや庭師達がベルタさんとブルーノさんに丁寧に声をかけていく。
新参者の私も都度、挨拶がてら話に混ぜてもらった。
中には若干の敵意を滲ませて私を見るメイドもいたが、ベルタさんとブルーノさんがいるためか、あからさまに睨まれることはない。ありがたいことに、今のところ風当たりは強くなかった。
この日は屋敷の案内と大まかな仕事の説明を受けて、午後は荷解きと宿舎の私室を整えるための時間にさせてもらった。
そのまま退勤でいいとのことで、昼食後にベルタさんとお別れする。
私が割り当てられた部屋は、ニ階の角部屋だった。
当然ながら勤務時間中なので、宿舎は静まり返っている。
宿舎も食堂も簡素な造りだが、隅々まで清掃が行き届いてピカピカに磨かれていた。大貴族に仕える仕事人達は、身の回りの整頓もぬかりないようだった。
事前に送っていた荷物を解いて、貸与されたメイド服をクローゼットに掛ける。
紺の襟付きワンピースと、同色のリボンスカーフ。
そして真っ白なエプロンドレスをそれぞれ2セット渡された。
エプロンドレスはシミやシワが目立ちそうで、管理が難しそうだ。これを見れば着ている人が几帳面か否か、周りは分かりやすいだろう。
換気のために部屋の窓を開けると、その向こうには色とりどりの花が咲く裏庭が広がっていた。
庭師達が水をやったり、土いじりをしている。
一際目を引いたのは、小さな淡い桃色の花だ。
ーー私の故郷の森に群生して咲く、ナリヤという花。
そよ風に気持ちよさそうに揺られている。
亡くなられた公爵夫人が大切に育てていた花だと、食堂でブルーノさんに教えてもらった。公爵夫人は私と同郷で、王国西部の出身らしい。
ナリヤは今も変わらず、庭師達の手で大切に育てられている。
窓の向こうに見える景色は、すぐに私のお気に入りになった。
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翌日。
この日はレスター様が一週間ぶりに屋敷に戻る日だった。
ご家族揃って夕食をとれるように日暮れ前に帰宅して、今夜はそのまま一泊し、明日の昼頃には王都に戻る予定らしい。
私はベルタさんに付いて、お部屋の整頓や、夕食の間で着用する服と寝巻きの準備など、その他にも屋敷内を歩き回りながら仕事を教わっていった。
もちろん合間に子猫たちのお世話も忘れずに。
二匹がメインルームのシャンデリアに飛びつこうとした時は流石に肝が冷えたが、速攻でベルタさんに叱られ、子猫達は何だか気まずそうに別室へ去っていった。
去っていく後ろ姿にどことなく哀愁が漂っていて、不謹慎にも少しだけ笑ってしまった。
三階の廊下の清掃も済ませて日が傾き始めた頃、ようやく一通り準備が終わった。
レスター様が帰宅するまでに時間が少し余ったので、ベルタさんにメインルームのテーブルに飾る花を庭師に見繕ってもらうよう、お遣いを頼まれた。
宿舎の部屋から見えた裏庭に、ブルーノさんや他の庭師もいると教えてもらったのでそちらに向かう。
花の苗を運んでいたブルーノさんは私に気づくと、別の場所から摘んできた爽やかな水色と白い花を快く差し出してくれた。
花を分けてもらい、レスター様のお部屋に戻って扉をノックする。
ベルタさんが扉を開けてくれたので、さっそく入ろうとしたその時だった。
私の足元を、小さな影が目にも止まらぬ速さで駆け抜けていった。
一瞬赤いリボンが見えてハッとする。
「あっ」
「あらまあ」
声を上げた時には遅く、影を追ってそちらに視線を向けると、ルルが素早く廊下を走っていく姿が見えた。
ベルタさんが眉を下げて微笑む。
「ごめんなさい、驚かせてしまったわね。ああしてたまに扉を開けた瞬間に出ていってしまうの」
「私も捕まえられず申し訳ありません。連れ戻してきます」
「ありがとう。ルルもリッテも怖がりだから、部屋を出ていっても外に出たりはしないわ。階段の辺りで一人遊びしてるんじゃないかしら」
「分かりました。行ってきます」
「助かるわ、お願いするわね」
ベルタさんに花を渡して、私は小走りでルルが走り去った方に向かった。本当に見つかるか不安だったが、子猫はあっという間に見つかった。
二階と三階を繋ぐ階段をのぼりきった所の正面の壁には、草原が描かれた大きな絵画が飾ってある。その絵画の額縁上部をルルは器用に歩いていた。
絵画は私の身長よりもかなり高い位置にあり、試しに手を伸ばすものの、全く届きそうにない。
それにしてもあんなに狭い所を歩こうと思いつくなんて。
人間からすれば綱渡りしているようなものだ。
歩いては立ち止まってを繰り返しつつ、ルルは興味深そうに周囲を眺めている。
しばらく降りてくるのを待っていたが、一向にその気配がないので声をかけてみた。
「そろそろ戻らないと、ご主人様が帰ってきますよ」
当然ながら子猫のルルに私の言葉はちっとも届いていないらしく、どこ吹く風。
終いには腰をおろしてしまった。
「…ルル。お部屋で待っていた方が、ご主人様が喜ぶんじゃないですか?早く戻りましょう」
「にゃーん」
「……」
のんびりとした返事に、がくりと項垂れる。
呼びかけていても埒があかないので、踏み台になりそうなものを借りて捕まえるのが早そうだ。
すぐそこに花瓶を飾るための華奢なサイドテーブルがあったが、私の全体重を支えきれず破壊しそうなので使うのはやめておく。
大人しくベルタさんに使っていい椅子や台があるか聞いてこよう。
そう思い立って、踵を返そうとしたその時だった。
「ルル」
突然後ろから声がして、心臓が一気に跳ね上がった。
私が声の方を振り返るより早く、額縁の上にいたルルが唐突にその場から飛び降りた。
危なげなく着地すると、てくてくと私の横を通り過ぎていく。
ルルの進む先を目で追いながら振り返ると、擦り寄ってきた子猫を撫でる軍服姿の青年がそこにいた。
華やかな金の髪に、月のように冴えた美貌。
どことなく醸し出される気品によって、思わず近づくのを躊躇うような、侵しがたい境界を感じさせる人物だった。
切れ長の青い瞳は子猫に向けられていて、そこに柔らかい光を宿している。
ーーレスター・ラングフォード。
予定より少し早めの帰宅になったらしく、 よりにもよって懸命に子猫に喋りかけていた所で鉢合わせてしまった。
すると、ルルに向いていた視線が不意に持ち上って私に向けられた。
その瞬間に彼の纏う空気が一変して、まるで抜き身の刃を前にしたような感覚に陥る。
ルルを見下ろしていた時とは大違いの、鳥肌が立つような威圧感だった。
凍りつきそうになったが、残された気力でなんとか頭を下げる。
「お初にお目にかかります。こちらのお屋敷で働かせていただくことになりました、エレイン・ホールデンと申します」
「聞いてるよ。どうぞよろしく」
恐る恐る顔を上げると、彼の視線は再びルルに移っていた。
先ほどまでの威圧感はいつの間にか影を潜めている。
レスター様はルルの喉元を撫でながら、呟くように言った。
「父上が何か企んでいるらしいね」
その言葉が、今回私がここに来た理由を指していることに気づいて、周囲に視線を走らせた。
それを察したのか「聞かれて困る者はこの場にいないよ」と声がかかる。
今この場で話していいものかと考えあぐねていると、レスター様はルルを抱き上げて私室の方へ歩き出した。
一人で向かわせるのもおかしい気がしてその後ろをついていく。歩きながら、レスター様はため息混じりに愚痴をこぼした。
「一から十まで話してくれる人じゃなくてさ。困ったことに触りだけ伝えて、あとは放置」
「…レスター様は、私がこちらにお邪魔することになった経緯をご存じでしょうか」
「父にはあなたの恋人役を演じろとだけ言われているよ。何の話かさっぱり分からなくて、少し調べさせてもらった。…銀獅子の宝飾店だっけ?面白いことしてるよね」
依頼の件は聞き及んでいるらしい。
…まあ、それはそうか。公爵令息で軍人という立場上、独自の情報網を持っていることは想像に易い。
説明の手間が省けてこちらとしては大変ありがたい。
レスター様が恋人役に応じてくれるかは怪しいとリディア様は言っていたが、公爵からもそこだけは話があったようなので、流石に協力してもらえるだろう。
内心ほっとしていると、レスター様は私室の扉の前で立ち止まって、不意に斜め後ろに控えていた私を振り返った。
…なんだ?
こちらに向けられたその表情が、なんだか悪巧みを思いついた少年のように見えた。
晴天を写しとったような青い瞳に、不穏な光がさす。
「父上達の手のひらで踊っても構わないけど、それだけではつまらない。あなたもそう思わない?」
つまるつまらないはともかく、私は問題なくこの任務を終えたいだけなのですが…。レスター様と私の思考回路は構造がだいぶ違うらしい。
返答しかねていると、レスター様は「ま、いいや。詳しい話はまた後日」と言ってさっさと扉を開けて部屋に入っていってしまった。
後ろに続いて私も入室すると、花瓶に花を生けていたベルタさんがこちらを見て目を丸くした。
「まあまあ、坊っちゃま。お帰りなさいませ。お出迎えせずに申し訳ありません」
「構わないよ。予定が繰り上がって帰りが早くなったんだ。連絡せずに申し訳ない」
「とんでもないことですわ。……あら、ルル?坊ちゃまに連れてきていただいたのね」
「絵画の額縁の上で遊んでいたよ。そちらのメイドさんを困らせていたから回収してきたんだ」
ベルタさんの軽やかな笑い声が響く。
「困った子だこと。坊ちゃまの帰りを待っていたのかしら…ああそうだわ。エレインさん、ご挨拶はもう済んだかしら」
「はい。先ほどさせていただきました」
ついでに坊ちゃまから身の危険を感じる凄まじい威圧感もいただきました、とは言えない。
「それならよかったわ。坊ちゃま、新しくお部屋付きになったエレインさんです。一生懸命、頑張ってくれていますよ」
「よろしくお願いいたします」
改めてお辞儀すると、レスター様は「こちらこそ、どうぞよろしく。エレイン嬢」と持ち前の美貌に笑顔を作って返事をしてくれた。
こんな風に優しく笑いかけられたら、普通は心を奪われる…のかもしれない。私にはその感覚が分からないので、あくまで推測だ。
どんな人物か知るべく注意深く観察していたものの、それからレスター様が朗らかな微笑みを崩すことはなかった。