第2話
「居残りになってしまってすまないね」
「いいえ、この後予定はないので」
ラスデンとハンナが退室し、部屋にはリディアとイリスの二人が残っていた。
イリスが仕事関係でリディアに呼び出され、二人きりになることは珍しくない。
それに上司とはいえ、この銀獅子の宝飾店で長年面倒を見てくれているリディアを前に、改めて緊張する必要はなかった。
ーーはずなのだが。
少し話が長くなるからとリディアが二人分の紅茶を淹れてくれた所で、なんだか違和感を感じた。
紅茶からのぼる湯気を眺めながら、胸の中に漂う違和感に戸惑っていると、カップを口に運んでいたリディアがふと呟くように言った。
「イリスがここで働き始めて、もうすぐ何年になるっけ」
「えーと、雇っていただいて七年になりますね」
「七年かー。実に感慨深いね」
イリスの生家は一応、数百年続く男爵家だった。
しかし領地は曽祖父の代で全て売ってしまったため、故郷では“名ばかり貴族のターナー家”なんて呼ばれていた。
双子の弟と妹がおり、イリスは家計を支えるために、祖父の伝手で十五歳の時に王都へ出稼ぎにやって来たのだ。
当初、メイドとして伯爵家のお屋敷に勤めていたのだが、数ヶ月経たないうちに伯爵が事業に失敗したとかで、なんとそのお屋敷が売却される事になってしまった。
早々に仕事を失い真っ青になったイリスだが、伯爵の厚意で銀獅子の宝飾店を紹介してもらい、この店の一員になることが決まった。
「じゃあ、これは勤続七周年記念の大仕事になるかな」
リディアがハイッと書類を差し出す。
王都の南方を描いた地図だった。
「新しい依頼ですね」
「その通り。わが国の大貴族、南のラングフォード公爵家、北のブライトウェル伯爵家を知っているね?」
「……はい、もちろんです。どちらも国を代表する大貴族なので」
初っ端から登場した予想外の家名に、イリスは表情はそのままに内心仰天していた。
建国前、アルナンの地は南と北を異なる部族が治めており、千年ほど前の戦で南の部族が勝利したことをきっかけに、北を併合する形でアルナン王国が建国された。
ひとつの王国として統一されたものの南北の対立は根深く、武力衝突を繰り返してきた。
しかし二十年ほど前に、南のラングフォード公爵家、北のブライトウェル伯爵家が南北の貴族を代表して、改めて平和協定を交わしたことで、現在は大きな衝突もなく平穏な時が流れていた。
リディアは紅茶のカップをソーサーの上に置き、艶然とした笑みを浮かべて「実はね」と切り出した。
「来年、協定の締結二十周年に際して、ラングフォードの次男坊とブライトウェルの令嬢の縁談が水面下で進んでいたんだ。南北の和平をより強固な形にするというのが目的の、重要な縁談でね。王族の仲介もあって、長年強硬姿勢を貫いてきた北から持ちかけた縁談だそうだ」
「それは…何としてもうまく進んで欲しい縁談ですね」
南北ともに現在は穏健派な当主であること、そしてこれまで静観していた王族が交渉の橋渡しをしたことで、この縁談が実現したらしい。
そのまま滞りなく縁談がまとまると思いきや、事態は思わぬ展開を見せる。
「最終調整の段階になって、ブライトウェルの令嬢に意中の男性ができてしまったらしくてね。本人がこの縁談は白紙にしてほしい、でなければ意中の男性と心中するなんていう、とんでもないことを言い出したそうだ」
「……」
この七年は働き詰め、青春を仕事に費やしてきたため恋愛事はさっぱりなイリスだったが、流石にそれがまずいという事は理解できる。
対立してきたとはいえ、ブライトウェル伯爵家が縁談を持ちかけた相手は格上の公爵家。
そこに王族の仲介と和平も絡むとなれば、ここまで来て伯爵家からからやっぱり白紙に戻して欲しいとは言えるはずもない。
ブライトウェル伯爵家は令嬢の説得を試みるも、相手にすっかり心酔していて聞く耳を持たないらしい。
「ここからが本題だ。今回、君にはラングフォード公爵邸に侍女として潜入してもらう。そして公爵家の次男坊を射止めて、恋愛関係になってほしい。“伯爵令嬢との縁談はどうぞ破談にしてください。僕はこの人を愛しています!”と言わしめることができればエクセレント」
「……」
国の平和が懸かったとんでもない任務を言い渡された気がして、ポーカーフェイスが評判のイリスもさすがに目が点になった。
思考停止しかけたが、どうにか言われた事を脳内で反芻して言葉を紡ぐ。
「リディア様。和平が懸かった重要な縁談なんですよね。それが白紙になれば、南北関係に影響があるんじゃ」
「ああ、その辺りは心配ないよ。既に公爵家と伯爵家の間で調整が済んでいるからね。ちなみに縁談が成立して婚約に進む可能性もゼロ」
あっさりそう返されて、イリスの頭の中はますます疑問符だらけになる。
「…両家の間で破談になっても問題ないと確認がとれているのでしたら、銀獅子の宝飾店に依頼が来て、私たちが形だけ残されている縁談に介入する流れに違和感がありませんか?」
「まあね、そこが今回の肝なんだよ」
リディアはテーブルに頬杖をついて、碧眼を妖しげにきらめかせた。
「まだ詳らかには言えないのだけどね、伯爵令嬢の意中の相手が訳ありなんだよ。どうも縁談を壊すために、故意に彼女へ近づいた節がある。しかもそれを裏で手引きする者がいるみたいでね」
「…平和を望む者がいればその逆もまた然り、南北に亀裂が入る事を望む者がいるということですね」
「おそらくは。縁談を進めていた事を知っているのは、わずかな関係者のみ。そして両家の破談の合意を知らない者からすれば、今も破談と南北関係の亀裂は同義だ」
そこに現れた私が、公爵家のご次男と結婚を見据えた付き合いに発展すれば、公爵家も縁談を反故にしたい理由ができる。
破談の合意を知らない、南北関係の亀裂を望む者から見れば、結果的に円満な破談を招きそうな私の存在は邪魔だ。
つまり、この回りくどい任務の真の目的は、敵を誘き寄せるための撒き餌となることだ。
公爵家の次男を籠絡することに非ず。
イリスは自分の中にそう書き留めて、改めて渡された地図に視線を移した。
「恋愛関係を演じればいいんですよね。それなら公爵のご次男に、恋人役の協力を依頼してもいいですか?」
「めざといなぁ」
リディアは不満そうに眉尻を下げた。
「いいのかい?相手は天下の大貴族。君がその気になってくれるなら、任務どうこうの話は次男坊に隠して潜入するのもアリだよ。うまーく惚れさせればとんでもない玉の輿だ」
「百戦錬磨のリディア様ならともかく、恋愛経験が皆無の私に、公爵令息が興味をもつはずがありません。公爵家に協力を依頼させてください」
イリスは一点の迷いもなく言い切った。
その言葉の通り、彼女はこれまで生きてきた二十二年の人生で恋愛をしたことは一度もない。
任務でも、恋愛系の案件に携わった実績は皆無である。
そんな自分になぜこの依頼が来たのか理解できなかった。
優雅に紅茶を飲みながら、リディアがふふっと笑みを漏らした。
「いいところのお坊ちゃんは案外、君のような擦れていない、色恋沙汰に不慣れな美人に弱いものだよ?」
「いいえ。あり得ません」
「頑固だなぁ。でも恋人役になってくれーと頼んでも、あのひねくれ次男坊が素直に協力してくれるかはかなり怪しいよ」
「…そうなんですか?」
やりにくそうな相手だなとイリスは不安になった。
そもそもこの依頼がどこから来たものなのかが謎だが、今の段階でリディアが明かすことはできないとのことだった。
「大変残念だが…とりあえず、こちらとしては恋愛関係を二人で演じてもらう方向でも構わないよ。公爵にも、次男坊に恋人役の協力依頼をしてもらうように連絡を取っておこう」
「ありがとうございます」
「じゃ、詳細は後日連絡するから今日はこれで解散。勤務開始は五日後の予定だから、準備よろしくねー」