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祟らずの狐  作者: 美祢林太郎
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7 姉さんの死

7 姉さんの死


 ある天気の良い日、姉さんが捕獲したネズミをくわえて、ひょこひょこと田圃の畔道を上機嫌で歩いていました。その日も天気の良い、のどかな一日でした。


 そろそろ姉さんと兄さんは母さんから独立して一人で生きていかなければなりません。最近は二匹とも母さんから餌をもらえなくなりました。決して母さんが意地悪をしているわけではなく、子供たちの独り立ちを促しているだけなのです。

 母さんは最初の頃は殺して動けなくしたネズミを姉さんや兄さんの前に差し出していましたが、しばらくすると生きたままのネズミを姉さんたちの前に置くようになりました。姉さんたちがつま先でネズミにちょっかいを出すと、ネズミはすぐに逃げようとしました。それを再び掴み、また逃げられる、という追いかけっこをしていました。それは傍から見るとキツネとネズミが楽しくじゃれ合っているようにしか見えません。しびれを切らした兄さんがネズミをがぶりと食べてしまおうと思って口を近づけると、ネズミは兄さんの鼻を思いっきり齧って逃げて行ってしまいました。鼻を押さえて痛がっている兄さんを見て、ぼくたちはみんなで大笑いしました。だけど、いつまでもネズミと遊んでいてはお腹が空いてきます。ネズミを上手に捕まえて、殺して食べなければ自然の中で生きてはいけません。

 姉さんと兄さんは母さんの指導で、日に日に狩りが上達していきました。最近は二人とも狩りの腕前は母さんに引けを取りません。これくらいうまくなれば、一人で生活しても大丈夫だと、母さんは嬉しそうに言いました。

 もうすぐ、姉さんと兄さんと離れ離れになってしまいます。でも、それが母さんは嬉しいようなのです。ぼくたちはいつまでも一緒に生活できないのです。家族ってそんなものなのですか? ぼくは無性に寂しいです。


 のどかな畦道に耳をつんざくような銃声が一発鳴りました。


 姉さんはその場でパッと真上に飛び上り、姉さんの口元が緩んだのでしょうか、項垂れたネズミが口からぽろっと外れて落ちました。その時、姉さんの目が遠くにいたぼくの目とあったような気がしたのですが、姉さんにぼくが見えていたのかどうかはわかりません。目はぼくの更に先を見ていたようにも思えます。

 それから、口が開いたままの姉さんの体は、雑草の茂った畔道にどさっと落ち、そこからゴロゴロと転がって苗を植えたばかりの田圃にぼちゃりと入って、全身が泥まみれになり、遠くからでは姉さんの姿を認めることができなくなりました。泥の中に入った姉さんはピクリとも動かないようです。この光景をぼくは遠く離れた林から見ていたのです。

 上半身裸の日に焼けて赤銅色した男が鉄砲を肩にかけ、姉さんのところに近寄って行き、右腕を田圃の中に差し入れて、泥を丸ごと掴んで持ち上げたように見えました。よく見ると、姉さんの尻尾が掴まれて、体はだらんと垂れ下がっていたのです。美しかった姉さんの体は泥まみれで、泥水が体から滴り落ちていました。姉さんはピクリとも動きません。

 姉さんは田圃の側溝の流れに浸けられて泥を落とされましたが、全身の毛は濡れてぴったりと体にくっつき、姉さんの体がこんなに細かったのか、とびっくりさせられるほどでした。濡れた体の胸に血が滴っていました。

 ぼくは男に感づかれないように、足音を立てずにその場を静かに立ち去りました。帰宅の途中、モグラが土の中に潜んでいるのがわかったので、一瞬喜んで捕まえようかと思ったのですが、ぼくは捕まえるのをやめて、とぼとぼと家路を歩きました。姉さんが死んだのに、モグラを見つけて喜んだぼくはより惨めな気持ちになりました。ぼくは姉さんのことだけを考えていたかったのです。それなのに浅はかにも一瞬だけでもモグラのことを考えてしまったのです。決してお腹が空いていたわけではありません。決して美味しそうなモグラでもなかったはずです。ぼくは姉さんに謝らなければなりません。

 ぼくは巣に戻って、姉さんが射殺された模様を母さんと兄さんに話しました。母さんと兄さんは首をうなだれて静かにぼくの話を聞いていました。二人から涙は落ちていませんが、肩が細かく震えていました。キツネは悲しいことがあったら、誰にも見られないように心の奥深くで涙を流します。

 死とはいったい何でしょう。ぼくにはよくわかりません。それは二度と姉さんの明るい顔を見れなくなることなのかもしれません。もう話をすることができないことかもしれません。姉さんはぼくたちの前から突然消えてしまいました。死とは理不尽です。姉さんに二度と会えないと思うと胸が締め付けられます。どうして胸が締め付けられるのでしょう。ぼくにはよくわかりません。理屈などないようです。

 以前、母さんは我々キツネが人間に鉄砲で襲われるのは、晩秋から冬にかけてのことだと教えてくれたことがあります。それは寒くなって我々の毛がふさふさになるからだそうです。それに樹から葉っぱが落ち、雪が積もって我々を発見しやすくなるからだそうです。なので、春になって田植えの季節の今頃にキツネが殺されるのは、とても珍しいことだそうです。何があったのだろう、と母さんは不吉な予感がしているようでした。

 母さんの感はよく当たります。動物に感が働かないようでは、自然の中では生きていけないそうです。自然のいきものの最大の武器は、鋭い牙でも尖った爪でもなく、この感だそうです。ぼくにはまだよくわかりません。母さんが言うには、そのうちぼくも感が働くようになるそうです。特に子供ができたら、子供を守るために感が働くようになるそうです。姉さんも子供を産んでいたら、感が働いて死ななくてもよかったのかもしれません。

 隣に住んでいるキツネに聞いた話なのですが、最近、人間の飼っているニワトリがキツネに襲われたそうなのです。もちろんそのご近所さんもニワトリを襲っていないし、ぼくたち家族もニワトリを襲ってはいません。最近は、だれがニワトリを襲ったのだろうという話でキツネの世界は持ち切りですが、犯人は名乗りを上げてきませんし、目星もついていないそうです。もしかすると流れ者のキツネのせいではないかと、ご近所さんは言っています。

 人間は不思議ないきものです。ニワトリの生んだ卵を効率よく採るために、自然にいたニワトリを柵で囲って逃げないようにし、毎日餌を与えて飼うようになったのです。人間は何でも囲い込んで、自分の所有物にするのが好きです。ここでも、毎日食べきれない程の卵を手に入れるために、たくさんのニワトリを飼っています。欲張りです。一家で食べきれない卵は親戚に分けてやるかと言ったら、そんなことはしません。見ず知らずの人に売るのです。強欲です。卵が家族の人数分採れない時は、自分たちが我慢してでも、他人に売るのです。ここまで来れば、滑稽です。人間は時々常軌を逸して、滑稽なことをするのです。

 ニワトリは毎日餌をもらえてうれしそうですが、卵を採られるだけでなく、卵を産まなくなったら自分も食べられてしまうのです。かれらは逃げたくても体が異常に太って、飛ぶことができなくなっています。これも人間の作戦だってことを、目の前の餌につられたニワトリはわかっていないようです。自分の体くらい自己管理できなくては駄目でしょう。鳥が空を飛べなくなるほど太ってはいけないのです。ニワトリはあまりに太り過ぎています。人間は餌をいっぱい与えて太らせているのです。逃げないように、美味しいように。賢いカラスならば、決して人間の術中にはまらないでしょうが、馬鹿なニワトリは目先の欲に溺れてしまいます。

 ニワトリは羽の色や長さ、鶏冠の見事さ、それに鳴き声などの外見ばかりにとらわれている軽佻浮薄な奴らなので、人間も扱いやすいのでしょう。かれらはもはや自然に帰っていくことはできないのです。自然の中で自由に生活することはできないのです。たとえ自然に放たれたとしても、ニワトリは生きていくことはできないでしょう。だって、太って飛べないニワトリは我々キツネの格好の餌食だからです。人間の飼っているすべてのニワトリが一斉に野に放たれた時には、我々キツネに至福の時が訪れることになります。

 昔は人間に反抗的ですぐに嘴や脚の爪で人間に歯向かう野性味あふれるニワトリもいたそうなのですが、そうしたニワトリは全部殺されて、子孫が残せなかったそうです。今人間に飼われているニワトリは軟弱者たちの末裔なのです。誇り高きニワトリの遺伝子はどこにも残っていないのでしょうか?

 闘鶏のシャモには野生の遺伝子が残っていると主張する方もいるかもしれませんが、かれらはニワトリ同士で戦い、飼い主の顔色を窺う、内弁慶にすぎないのです。それに何といっても、かれらも空を飛ぶことができません。鳥が空を飛べなければ致命的です。もし空を飛べないならば、ペンギンのように極寒の地に棲んで、マイナス50℃の寒さに耐えるくらいの根性を見せて欲しいものです。それならば、誰も文句は言わないでしょう。

 この際ですから、ついでに話しておきますと、人間に飼われているのはニワトリだけではありません。イヌやネコも飼われています。かれらは卵を産まないので、卵を採るためではありません。肉も美味しくないので、肉を食べるためでもありません。犬や猫は愛玩されるためだけに飼われているのです。いわば人間の生きたおもちゃです。なんて情けない生き方でしょう。かれらは餌をもらえて、一生殺されることもなく大事にされるのですから、良いように思われるかもしれませんが、それは情けなさ過ぎます。動物はパンのみに生きているのではないのです。自由に生きることが大切なのです。人間の施しを受けるなんてまっぴらごめんです。これは決して負け惜しみではありません。

 イヌはもともと、我々キツネやイタチなどを人間の領分に寄せ付けないための、番犬として飼われていたそうです。かれらの先祖はオオカミだったので、ぼくたちを威嚇するどころか、捕まえて食べてしまっていました。中には、巨大な熊にも戦いを挑んでいく勇敢なイヌもいたそうです。しかし、今やぼくたちと遭遇すると、飼い主がそばにいる時は勇ましく吠えますが、飼い主がいない時は、我々が歯茎を見せて威嚇するだけでイヌは尻尾を巻いて退散します。人間に飼われたので、ご主人の顔色を窺うようになって、情けないいきものになりはててしまいました。動物は楽をして生きていると堕落する、イヌはそれを実証しているいきものです。

 ネコは人間の主食の米を食べるネズミを捕まえるので、人間に役に立つ動物として飼われ始めたそうです。それならば我々キツネは、イタチやタヌキを追い払うイヌと、ネズミを駆除するネコの一人二役をこなすことができます。体の大きなイノシシやクマにも立ち向かう勇気を持っています。ネコよりも上手にネズミを捕まえることができます。ネコがネズミを一日10匹捕まえるとするならば、我々キツネは100匹捕まえることもできるでしょう。このように我々キツネは優れているのですが、どれだけ煽てられても、人間の言うことをきくほど堕落してはいないつもりです。

 少し、我々キツネの自慢話が長くなりました。母さんからは、どんないきものも自分に誇りを持って生きているのだから、あまり外で自慢話をしないようにと釘を刺されています。ぼくたちの餌になっているバッタも自分が世界で一番のいきものだと思っているそうなのです。母さんによると、一番、二番という序列はそもそも動物の世界にはないそうです。ぼくたちが食べているバッタやネズミ、モグラもぼくたちより劣ってはいないというのです。もし、世の中からネズミがいなくなったら、ぼくたちはすぐに滅んでしまうでしょうと言います。でも、ネズミがいなくなったら、ちょっと土っぽいですがモグラを食べればいいだけだとぼくは思いますが、母さんにはそれを言えません。確かに、ネズミを追いかけられなくなったら、毎日が面白くなくなってしまいます。


              つづく

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