6 殺狐者
6 殺狐者
けものみちを歩いていると、人間によって仕掛けられた罠で脚が挟まれてしまいます。罠にはまるのは、ぼくたちキツネだけでなく、タヌキやオオカミ、シカなどいろいろな動物がいます。だから、オオカミを捕まえるために仕掛けられた罠に我々キツネが挟まれたりすることもあります。人間はおおざっぱです。
罠の周りに人間はいません。罠に脚が挟まれるとすごく痛いのですが、どんなにもがいても外れません。痛くて泣いても喚いても、喉が渇いても、腹が減っても、どうすることもできないのです。いっそのこと、自らの脚を切断して、罠から解放されたいと望みますが、切断する方法が見つかりません。自分の牙では脚の骨を噛み切ることができないのです。
痛みに苦しんで体が衰弱してくると、どうして気づいたのでしょうか、あたりにたくさんのカラスが寄ってきます。カラスが力を合わせて我々を罠から助け出してくれるのでは、と少しでも希望を持ったら、それは大間違いです。「溺れる者は藁をも掴む」という諺がありますが、「罠にかかった動物はカラスをも頼る」という諺はありません。カラスは非情ないきものだと言うことを、死ぬまで忘れてはいけないのです。
カラスは罠にかかった動物が抵抗できなくなるのをそばで死神のように待っているのです。生死を確かめるように、時々近寄ってきて、衰弱して寝そべっている我々を嘴でつつきます。罠にかかった動物が最後にわずかに残った力を振り絞って反撃すると、何のためらいもなくすぐに引き下がります。カラスは無理をすることはありません。この状況をよく理解しているのです。カラスはひたすら待つのです。どんなに時間が経とうが、その場を離れることはありません。そりゃあ、カラスにしてもできるだけ新鮮な肉が食べたいですからね。でも、脚が挟まれて痛みに耐えている身としては、かれらの定期的なちょっかいは癇に障るのです。贅沢かもしれませんが、死は静かに迎えたいではありませんか。
そのうちわずかばかりの意識が残っていたとしても、カラスのつつきに対して反撃する気力が起こらなくなってきます。全身が脱力した感じです。こうなってくると、我々も死が怖くなくなってきます。気力、体力が共になくなった時に、死を穏やかに迎えることができるのです。
遠のく意識の中で、まだ考えています。死んでカラスに発見されずに、この身が蛆に食べられ、あの鼻をつんざくような腐臭になるよりは、カラスにきれいさっぱりと食べられた方がまだましなのかもしれないと。意識がなくなったら、そんなことはどうでもいいことですが。生きているから、死んでからのことをあれこれと考えるのです。死への恐怖心がなくなると、死んだ後の体を客観的に想像することができるようになります。もう残された時間はありません。意識が砂時計の砂のように消えて行きます。
カラスが来る前に人間が見回りにやってくることがありますが、もちろん人間はぼくたちを助けてはくれません。忘れてはいけません、罠を仕掛けたのは人間なのです。良いか悪いかわかりませんが、ぼくたちは人間によってあっさりと殺されます。カラスのようにちょっかいを出すことはありません、衰弱死を待つこともありません。人間は動物を殺すことになんら躊躇はないのです。
ぼくたちの仲間や先祖はこれまでにも人間によってたくさん殺されてきました。でも、人間はワシやオオカミたちとは違って、よほどのことがない限り、ぼくたちを殺してもぼくたちの肉を食べることはありません。ぼくたちはただ殺されるだけです。死体は野原に捨てられ、結局カラスの餌食になります。人間はぼくたちを目の敵にしているようです。
どうして人間はカラスのようにぼくたちを食べないのでしょうか? 人間はぼくたちの肉を食べたら病気になって死んでしまうからなのでしょうか? そんなことはないはずです。だって、ワシやカラス、オオカミだってぼくたちを食べても死んだりはしません。ぼくたちの肉がまずくて人間の口には合わないのでしょうか? それでは少し偏食が過ぎるというものです。ワシやカラスやオオカミが食べるところをみると、ぼくたちキツネが、人間に食べられない程不味いとは思わないのですが・・・。人間はいろいろな動植物を食べて、いつの間にか口が肥えてしまったのかもしれません。
そう言えば、人間は火を使って動植物を煮たり焼いたりしています。生のまま食べることはほとんどないようです。火で煮炊きをすると美味しくなると聞いたことがありますが、やっぱり食料は生に限ります。それに煮炊きをして加工すると、見た目もそれほど美しくはありません。
それとも人間はいつも満腹なので、キツネを食べなくてもいいとでも言うのでしょうか? そもそもぼくたちを食べないならば、ぼくたちを殺す必要などどこにもないと思うのですけど・・・。カラスだってぼくたちをなぶり殺しにしますが、ただ殺すだけではありません。骨と毛を残して、きれいさっぱり食べてくれるのです。カラスも満腹の時はあると思いますが、その時は他のいきものを殺したりはしないと思います。
人間は殺すことそれ自体が快楽なのでしょうか? それだったら、とんでもないいきものです。そんないきものがこの世に存在していいのでしょうか? どんな奇妙ないきものでもその存在を否定してはいけないことは理解しているつもりですが、人間にだけは何か腑に落ちなさを感じているのです。
人間たちがぼくたちの肉を捨て、ぼくたちを毛皮だけにして、それを腰にぶら下げたり、首に巻いているのを見かけることがあります。毛皮を剥がすのが目的で、ぼくたちを殺していることもあるそうなのです。毛皮を剥ぐために殺されているのは、ぼくたちキツネだけではなくタヌキやイタチ、テン、それにオオカミやクマなどもそうです。ぼくたちキツネの毛皮は尾っぽの毛がふさふさしているのがきれいで、暖かくて肌触りがいいそうです。もし尾に毛がなかったり、尾が短かければ毛皮にされたりしないですむのでしょうか?
死んでしまった後なので、食べられようが、焼かれようが、毛皮にされようが、ぼくたちにはどうでもいいことなのですが、あえて、あえて言わせてもらいますと、死んで毛皮を剥ぐなんて、到底まともな神経ではありません。常軌を逸しています。人間は毛皮で寒さから身を守るそうなのですが、死体の抜け殻を身に付けるなんて、そもそも気持ち悪くないのでしょうか? やっぱり悪趣味です。首に巻くなら手ぬぐいもありますし、首に巻くような小さな布団を作ってもいいでしょう。ぼくたちの仲間は死んでも死にきれないじゃありませんか。
持ち主によっては、毛皮に毎日櫛をとおして、きれいに梳かしているそうです。生きている時よりもずっときれいなくらいです。でも、騙されてはいけません。きれいにしているのは、死んだキツネをいたわるためではないのです。あくまで人間のためなのです。それは自分の髪を梳くのと同じように、自分を磨くための行為なのです。
人間も死んだら自分たちを毛皮に鞣しているのでしょうか? しかし、どこにも布団を干すように、物干し竿に干してある人間の皮を見たことがありません。日に焼けるので人目のつかない暗いところで干しているのでしょうか? そんなところで干したらカビが生えたりしないのでしょうか? それとも人間は毛が生えていないので、皮を剥いたりしないのでしょうか。他の人間の皮を着ぐるみのようにすっぽりかぶれば、毛がなくても少しは暖かいと思うのですが、どうしてそうしないのでしょう?
そう言えば、我々キツネも互いに皮を剥いだりはしません。もちろん手先が器用ではないということもありますが、その分口先が器用なので我々だってやろうと思えばできるのです。ですが、キツネの仲間内で毛皮が欲しくなったら、他人(他狐)が死ぬのを待てずに殺してしまうようになるでしょう。よれよれの老人(老狐)よりもぴちぴちした若いキツネの毛皮の方が美しくて暖かいのは自明のことです。だけど、仲間同士で殺し合うことがまかり通っては、種族が絶滅してしまいます。それは動物界の禁断の振る舞いです。
人間は他のいきものを殺しても、さすがに自分たちで互いに殺し合うことはありません。いや、これは大いなる勘違いです。同じ種族で互いに大量に殺し合うのは、動物界広しと言えども、それは人間だけです。近親憎悪という言葉があるそうです。近しい者はもっと仲良くすればいいと思うのですが、人間はそうもいかないようです。
つづく