15 狐インフルエンザ
15 狐インフルエンザ
ペットキツネを飼っていた大学生の佐和子が、突然39.2℃の熱を出して寝込んだ。コホン、コホンと咳をして、風邪をひいたようだ。熱のために何も食べられずに、日に日に衰弱していくのがわかった。うわごとのように何かを呟いている。それが「タ、タ、タタリ」なのか、「タ、タ、タタミ」なのか、「タ、タ、タダシ」なのか、何度聴いても判然としない。佐和子にタダシという名の元カレはいなかったはずだし、実家が畳屋なわけでもない。まさか、タタリって、佐和子は何かに祟られているのか? 佐和子は他人に恨みを買うような女ではない。意地悪や悪事とは無縁な、のほほんとした女だからだ。佐和子はペットキツネのタマをとても可愛がっているのだから、タマから祟られることもないはずだ。
佐和子の友人の武志が彼女を病院に連れていったが、風邪だろうということで、解熱剤を処方され、しばらく自宅で安静にしておくように言われて帰された。佐和子は5日間高熱が続いたが、その後熱が引いて何事もなかったように、けろっと治った。佐和子は病気が治ったのは、毎日心配して頬を舐めてくれたタマのおかげだと、タマに感謝のほおずりをした。
佐和子と同じように、風邪を引いて高熱にうなされる者が頻発し、病院にかかるようになった。患者の多くは10代から20代の若者たちである。患者の中には、呼吸が苦しくて緊急入院し、人工呼吸器や人工心肺の世話になる重篤な患者も現れた。その頃には、この風邪は新型のウイルス性の感染症ではないかと疑われるようになり、ウイルスの特定が進められたが、なかなかその正体がわからなかった。
新型感染症の患者は、最初東京で発表されたが、翌日には関東一円に拡がり、一週間が経つと名古屋、大阪、北海道、愛媛、福岡、その2日後には全都道府県で感染者総数が1000人を超えた。そして、ついに新型感染症の死者が出た。致死率は10.2%と非常に高いことが判明し、国民は震撼とした。
最初の感染者の発見から一ヶ月も経つと、世界中に新型感染症が拡がって、世界の感染者総数が5万人に達した。新型感染症の発生源とされる日本は、世界からバッシングを受け、肩身の狭い思いをすることになった。
新型感染症は空気感染することがわかり、国民は不要不急の外出を控えることになり、外に出る時はマスクをすることが義務付けられた。国は首相の下に対策会議を設置し、医師から構成された専門部会は、人々の濃厚接触を避けるように政府に勧告した。政府は緊急事態宣言を発令し、学校や会社はリモートによる授業や仕事に切り替えられた。飲食店は夜8時までに限った営業となり、街の明かりは早く消えるようになった。あらゆるスポーツ観戦やコンサートは中止に追い込まれた。世の中が一瞬にして暗転したかのようだった。若者たちは生命の危険に怯える毎日を過ごすようになった。一人でアパートに籠ってうつ状態になる若者が増えていったが、精神科の医者は新型感染症の感染を恐れて、診療を拒絶した。医療崩壊が起こった。
そうこうするうちに、感染症を引き起こす新型のインフルエンザウイルスが特定され、世界中でワクチンと特効薬の開発が急がれた。ワクチンはアメリカでmRNAワクチンが開発され、世界に提供され、感染リスクと重症化の確率が高い30歳未満の若者が優先的に投与されることになった。ワクチンによって、感染の拡大は一瞬抑えられたかに見られたが、ウイルスの変異によって、すぐにワクチンが効かなくなり、新たなワクチンの開発が急がれた。一方、待ち望まれた特効薬の開発は遅れた。
あるテレビ局がこの新型感染症の特集をした際に、自宅で療養する患者の映像を流し、その映像には患者の横にペットキツネがいて、キツネが患者と一緒にコホコホと咳き込んでいた。この番組を見た視聴者の一人が、SNSにペットキツネが感染源ではないかと書き込んだ。するとすぐに、次のような書き込みが続いた。
「友だちの知り合いから聞いた話ですが、ペットキツネの飼い主が入院したそうです」
「電車の中の知らない人の会話ですが、その人の隣の部屋の住人が新型感染症にかかっているらしいのですが、その住人もペットキツネを飼っているそうです」
「ペットキツネと散歩している人にすれ違った人から聞いた話ですが、飼い主とペットキツネが一緒に咳をしていたそうです。恐ろしいですね」
これに類するコメントがネットにたくさん掲載されるようになった。
他のテレビ局がペットキツネと新型感染症の関連を特集し、感染症の専門家や獣医がコメンテーターとして登場したが、ペットキツネが感染源であるという確たるエビデンスは何一つ示されなかった。同じように、ペットキツネが感染源ではないと断言する者もいなかった。ペットキツネも風邪を引いて高熱を出すことはあるが、抗原検査やPCR検査からは、新型感染症に感染していることは示されたことはなかった。
ペットキツネが新型感染症に感染したというエビデンスがないにも関わらず、ネットではペットキツネ排斥運動が声高に唱えられるようになった。ペットキツネを保健所に差し出し、そこで薬殺してもらおう、という意見が出てきた。この主張は日増しに多くなっていった。
過激な過激な連中の中には、隣の家のペットキツネを捕まえて、殴り殺す者まで現れ、かれは窃盗と動物殺しの罪で警察に逮捕された。SNSの中で、その犯人を英雄視する者たちがいた。もちろんペットキツネに同情する人たちもそれなりにいた。世論は二つに分かれた。家に閉じ籠った国民の頭の中は、新型感染症とペットキツネのことでいっぱいになっていった。
アメリカの新型感染者による一人目の死亡者は、日本から個人輸入したペットキツネを飼っていた有名な若いIT実業家であることが判明した。このことをきっかけにして、アメリカでも新型感染症の感染源はペットキツネだという情報が、まことしやかにネットに拡散していった。
アメリカでは、日本がペットキツネを使って世界征服を目論んでいる、という陰謀論まで出てきた。すでに日本は特効薬も開発し、自国民には内緒で特効薬を投与しているという。アメリカや中国、ロシアの首脳は、この特効薬欲しさにすでに重要な国家機密や天然ガス、さらには核兵器までをも日本に渡しているという。この荒唐無稽な陰謀論に同調する者は思いのほか多かった。アメリカの元大統領がこの考えをテレビで支持し、演説の最後を「リメンバー・パールハーバー」と言って締めくくり、反日感情を煽った。
日本車の不買運動が起こり、日本車をハンマーでたたき壊すデモンストレーションも行われた。また、スーパーマーケットの前で中国人が何者かに襲われた州もあった。これは日本人に間違われて襲われたことが後になってわかった。アメリカ人には中国人と日本人の区別はできない。アジア人の外出が自粛されるようになった。
アメリカの市民の間で、新型感染症は日本型キツネインフルエンザ(略称:JFI)と呼ばれるようになったが、これはあくまで通称で、公的にはどこからもオーソライズされた呼び名ではなかった。
WHOの調査団が日本にやって来て、新型感染症の感染源の調査をし、市中に出回っているペットキツネやキツネパークのキツネからDNAのサンプルを採取していった。そのサンプルを詳しく調べたが、キツネが感染源と特定するまでには至らなかった。しかし、キツネが感染源ではない、とする声明もなかった。風評を否定するための証明は難しい。不可能と言っていいのかもしれない。忘れられるのを待つのが、唯一の対抗手段なのかもしれない。
ペットキツネと散歩をしていて、石を投げられたものや、罵倒された者がたくさん出てきて、このところペットキツネを連れて散歩に出る者はめっきり減った。散歩する場合は、夜明け前か、それとも深夜かであった。ペットキツネにマスクをして散歩する人もいた。ペットキツネをつれて散歩している人にたまたま出くわした人は、飼い主とペットキツネを大きな声で罵るか、怯えながら無言で足早に去っていくかのどちらかだった。
最近は散歩するイヌがふんぞり返っているように見えるが、それは穿った見方かもしれない。テレビでは、ペットキツネ擁護派と駆逐派とで大激論が交わされたが、駆逐派の方が分がいいようであった。だが、こんな議論をしてなんの意味があるのか、医療関係の専門家たちは全く理解できなかったが、視聴率は上がって、テレビ局の担当者は喜んだ。口角泡を飛ばして激論した連中の中には、新型感染症に感染し、高熱を出してうなされる者が続出した。かれらは人から人へ空気感染することを忘れていたのだろうか。
テレビの討論会で駆逐派から事例として出されたことだが、ペットキツネに不利なこととして、この新型感染症にかかると高熱を出してうなさるのであるが、その時の咳が「コンコン」とキツネが鳴いているような声に聞こえることが挙げられる。だが、キツネの鳴き声を聴いたことがある人ならばご存じだろうが、キツネは決してコンコンとは鳴かないのである。これは単なる通説に過ぎないし、絵本やアニメーションの世界だけだ。キツネはイヌのようにワンワンと鳴いたり、ネコのような声でミャーと鳴いたり、人間の赤ちゃんのようにビャーと鳴いたりするのが一般的なのだ。正確に声を再現するのは難しいのだが、少なくともコンコンとは聴こえない。だが、どうしたわけかキツネはコンコンと鳴くことが定説になっている。だから、新型感染症の患者の咳がコンコンと聴こえたら、それはどうしてもキツネと関連付けられてしまう。いくら説明しても無駄なのだ。固定観念を拭い去るのは、それほど簡単なことではない。
患者は他の物は何も食べないのに、稲荷寿司だけは食べるという証言が出た。あるユーチューブのチャンネルに、「我が家のおじいちゃんが感染して何も口にしないので、稲荷寿司を出すと、ムシャムシャと美味しそうに何個も食べた」という報告が動画と一緒にあがった。この情報にどこまで信憑性があるかわからない。目立ちたがり屋のユーチューバーのでっち上げではないだろうか。しかも、よっぽど稲荷寿司が好きなおじいさんを採用しているのかもしれない。動画ではおじいさんが新型感染症に感染したという証拠はあげられていなかった。ただ、ベッドに横たわっているだけだ。
この感染症には油揚げを食べると感染の予防効果があると誰かが言い出した。世間では油揚げや稲荷寿司が飛ぶように売れ、スーパーマーケットの店頭から油揚げや稲荷寿司が消えた。
伏見稲荷神社でお祓いをしてもらったら、すぐに治ったという話もSNSに載った。最近では、伏見稲荷神社のお守りが飛ぶように売れているらしい。どこまでもキツネと新型感染症を関連付けたいらしい。
新型感染症の患者の中には、キツネに憑りつかれたという者も登場した。テレビでは、無名の大学の民俗学者が、得意げにキツネに憑りつかれた昔話を語っていた。司会者がとめるのもきかなかったので、途中でCMに入ってしまった。かれは初めてテレビに出演したらしい。おそらく自分の出演した番組を録画して、自宅で何度も何度も子供たちと一緒に見直すことだろう。もしかするとDVDに焼いて、末代までの家宝にするのかもしれない。
ペットキツネは、飼い主によって保健所に連れて行かれるものがいた。保健所は24時間受け入れ態勢を敷くようになっていたので、飼い主は夜間に誰にも見つからないようにペットキツネを持ち込むようになった。どこか後ろめたいのだ。
一部の飼い主の中には、無責任にもペットキツネを街に放すものがいて、街の中を野良キツネがうろつくようになった。野良キツネは近隣住民の通報によって、保健所の人がすぐに捕獲した。野良キツネの中には、車に引かれて死ぬものもいた。街中で野良キツネが生きていくことは、そうたやすいことではない。
中には、ペットキツネを車に乗せて郊外に連れて行き、山の中に捨ててくる飼い主も出てきた。捨てられたペットキツネは野生のキツネと交配し、生まれた子供たちは人間に対する従順さがなくなり、容姿も野生の形質を表すようになっていった。
いずれにしても、日本のいたるところでペットキツネの大量殺戮が密かに進行していた。密かにではあっても、これは紛れもなく現代のキツネ狩りである。この原因となったのは、ただの風評に過ぎない。市民もペットキツネが大量に殺されていることを知ってはいたが、声を上げて警鐘を鳴らすものはいなかった。自宅に閉じ籠って、批判する力もなくなってしまったのだ。もはや自分のことだけで精一杯である。
誰かが東京の空に狐火を見た、とSNSに写真入りで載せた。ビルの谷間にオレンジ色の光がポッと光っていた。車のヘッドライトの反射か何かなのだろう。不思議な現象がすべてキツネに結び付けられてSNSに投稿された。ペットキツネを捨てた人たちが、次々に新型感染症で死んでいるという噂も流れてきた。これをキツネの祟りだという。
ペットキツネを捨てた彼女がキツネつきになった、とユーチューブに動画を載せる者も続出した。女はコンと叫んで油を舐めていた。真っ白いドーランを塗って白い着物を着て黒髪を振り乱して、口の両端に口紅を長く引いて口が裂けたように見せている動画もあった。ついには、頭に鉢巻をして、そこに蝋燭を二本立て、「キツネの祟りだ」と夜の森を走り回る動画もあった。社会が自粛ムードの中、ひっそりと静まり返った東京の街にコーンという不気味な鳴き声が毎夜轟いた。すべて誰かの他愛ないいたずらだ。こうしたいたずらをテレビのワイドショーが毎日超常現象と結びつけて特集した。市民は新型感染症を怖がっているのか、キツネの祟りを怖がっているのかわからなくなった。
ブルーキツネは、タワーマンションの最上階のエアコンのきいた部屋で大切に飼われ、飼い主以外の人間や動物と接触することはなかったので、新型感染症に罹る心配はまったくなかった。
それでも、新型感染症の感染者が出てペットキツネが疑われ始めた頃は、ブルーキツネを作り出すために導入した遺伝子の中にウイルスの遺伝子が混じっていたのではないかという仮説がまことしやかに流れた。テレビでも、お笑いタレントがその可能性はあるかもしれないと、知ったかぶりをして語っていたが、すぐに沙汰闇になった。これはブルーキツネを購入した実業家が、テレビ局やマスコミに手を回して、話をブルーキツネに持っていかないように根回ししたからである。マスコミでは、ブルーキツネに触れることはタブーとされるようになった。
高貴なブルーキツネは別格の存在で、ブルーキツネを下世話な話で中傷するのは、控えた方がいいと誰もが思うようになっていたのだ。
ブルーキツネが青い毛を総立ちさせた姿は、神々しさをたたえ、この世のものとは思えないくらい美しかった。だが、最近は病気がちになり、少しずつ青い毛が抜けていくようになった。実業家はお金に糸目をつけずに高級な毛生え薬を買って塗ってやったが、ブルーキツネの脱毛はとまらなかった。
ブルーキツネは衰弱していき、もしかするとまもなく死んでしまうのかもしれない。ブルーキツネは、朝日が出る頃になると、海の見える東側のガラス窓を鼻でつつくようになったので、実業家は毎朝少しの間だけ窓を開けて、新鮮な空気を入れるようにした。ブルーキツネは目を細めて喜んでいるようだった。
遠くに飛んでいたカラスが、ブルーキツネを一瞥したように見えたが、カラスはそのまま西の空に飛び立っていった。
つづく