11 ぼくの回想
11 ぼくの回想
ぼくは母さんを鉄砲で撃ち殺した吉蔵さんを一切恨んではいません。あれは、母さんが吉蔵さんに自分を撃つように仕向けただけなのです。吉蔵さんだって、母さんに仕掛けられなければ、神社の前に立つ母さんに向けて発砲することはなかったでしょう。冷静沈着な吉蔵さんが撃つように、母さんはわざと牙を剥いて小さな子供に襲い掛かるふりをしたのです。
あらかじめ母さんは自分を撃ち殺す人を吉蔵さんに決めていたようです。鉄砲の名人の吉蔵さんならば、あの場で一発で自分を撃ち抜いてくれると確信していたのです。もし一発目を外してしまったら、みんなから二発目の発射は阻止されたことでしょう。それでは村人たちにキツネ狩りを止めさせることはできなかったのです。母さんはいずれは捕まって、ただの気の振れた暴れキツネとして葬られたことでしょう。
母さんは、村人たちにキツネ狩りを止めさせるための方策をじっと考えていたのです。キツネ狩りと言っても、もはや母さんとぼく以外にこの村に生き残っているキツネがいるかどうかは怪しいものでした。そう考えると、母さんはぼくを生き残らせるために、命をかけたのかもしれません。
墓で暴れ、阿弥陀様の膝の上で放尿し、家々を荒すことで、村のみんなの注意を引きつけて、全員を連れて神社に行ったのは、かれらに母さんが殺されるところを見せつけるためだったのでしょう。母さんはぼくが追いかけていることも知っていたはずです。母さんの最後を見せたかったのでしょう。母さんがみんなの注意を引きつけているので、村人がぼくのことに気づかないことも、織り込みずみだったはずです。
母さんは、自分の死を劇的に演出することによって、村人が母さんの死後に畏怖するようになることまで考えていたのではないでしょうか。母さんは怨霊と呼ばれることは想像していたでしょうが、少女から神様呼ばわれされることは想定外だったかもしれません。いずれにしても、母さんの綿密に立てられた計画はひとえにぼくを守るためだったのです。
冷たい雨が降り続き冷夏になったことを、村人たちは母さんの祟りだと言いました。何十年に一度は、こんな寒い夏がやってくることを、村人たちは老人から聞いたことがないのでしょうか? 身も蓋もありませんが、これはただの自然のサイクルに過ぎないのです。いくら立派な母さんとはいえ、我々一介のキツネの恨み辛みで天気をどうこうできるものではありません。そもそも母さんだって、怨霊となるほど村人たちを恨んで死んだわけではないのです。
我々キツネは一晩で恨みつらみを忘れてしまいます。人間のように、後を引かないのです。ぼくも母さんが殺された恨みは、一晩で消えてしまいました。それは残念なことでもあるのですが、恨む時間があるくらいなら、生きるために獲物を獲りにいかなければならないのです。これが野生の厳しさであり逞しさなのです。
夏が寒かったのはぼくの母さんの祟りではないことは、村の人たちも重々わかっていたのかもしれません。人間だってそれほど馬鹿ではないはずです。
ですが、かれらの不安の解決の糸口はどこにも見つからなかったのです。不安から逃れるための合理的な方法を見いだせなかったので、しかたなく昔からやっている不合理な方法に走ったのです。もちろん不合理が今回のスズさん殺しのように、すべて陰惨であるとは限りません。不合理の中にもおおらかなものはいっぱいあることは知っています。
それでも、人間はどうして不安の解決法を早急に探すのでしょう。どうして不安に耐えることができないのでしょう。どうして不安をケセラセラと笑い飛ばすことができないのでしょう。どうして一晩で不安を忘れてしまわないのでしょう。たとえ忘れることができなくとも、誰かの犠牲で成り立つ不安の解消法は明らかに間違っています。
人間は不幸には敏感ですが、幸福には鈍感です。不幸は誰かのせいにしますが、幸福は自分の努力の賜物だと思っています。どちらも誰のせいでもないかもしれませんが、自分一人のせいでもありません。
どうせ不幸をキツネの祟りだと言うのならば、幸福もキツネのご利益にして欲しいと思います。そんなささやかな気遣いが人間にはどこにもみられないのです。人間は全体としてアンフェアな思考回路をしています。結局、自分のご都合主義なのです。
山の方角にたくさんの狐火を見たという村人が現れましたが、ぼくたち野生の動物は火が好きではありません。はっきり言って火が怖いのです。夜に火を灯しているのは人間だけです。人間は毛がないので寒いのでしょう。火で暖まらないと生きていけないのかもしれません。ぼくたちは寒い夜はみんなで身を寄せ合って丸まって寝るので寒くはありません。ぼくには添い寝してくれる母さんがいなくなりました。
人間は色々な植物や動物を煮たり焼いたりして食べます。かれらの歯はなまくらなので、生の肉や植物を食べられなくなり、火で柔らかくしなければならないようです。加えて、かれらは気が小さい臆病ないきものなので、オオカミやクマなど自分より強い動物に襲われるのではないかと、いつも戦々恐々と生きています。夜の深い闇の中で不安が増幅していきます。そんなに心配ならば、暗くなったら早く寝ればいいものを、火を灯して夜遅くまで起きています。そんなことをするから朝早く起きられないのです。
疫病が蔓延し、たくさんの村人が死にました。これも我々キツネの祟りではありません。疫病でたくさんのキツネが死ぬ年もありますが、我々は静かにそれが治まるのを待つだけです。抵抗できないことを知っています。決して誰かのせいにしたりすることはありません。
枕元に口が裂け、目が充血し、全身血まみれの、毛が総立ちした恐ろしいキツネが現れたという話を聞きました。血を滴らせたキツネの首が空を舞っていたという人もいました。本当でしょうか? ぼくはそんなキツネを見たことがありません。その人はただ悪い夢を見ただけではないでしょうか? 人間は寝なくても昼日中にみんなで同じ悪夢を見る動物です。それを幻想というそうです。夢は夢だと割り切ればいいのですが、それもできないのでしょうか。
他の人は、娘がキツネに憑りつかれて気がおかしくなったと慌てふためていました。ぼくは母さんや他のキツネの誰からも人間に憑りつく方法を教えてもらったことはありません。キツネが人間に憑りつけるならば、ぼくも一度試してみたいと思うので、その方法を知っている人がいたら是非ご一報ください。
とても言いにくいことですが、娘さんはもともとそのような気質のあった方なのではないでしょうか? それともお母さんやお父さんとうまくいっていないのではないでしょうか? 誰か好きな人ができたのに、その人との恋路がお父さんによって邪魔されてはいないでしょうか? どんな理由があろうと、演技をして親の気を引こうなんてゆめゆめ考えてはいけません。それは親に対する過剰な甘えだと気が付かないのでしょうか。キツネがついたふりをせずに、正直な気持ちを親に話すことです。
空腹は幻想を呼び起こします。障子越しにキツネを見ることもあるでしょう。村人同士の猜疑心も膨らんでいったことでしょう。不健康です。
実りのない秋がやってきました。山の実りであるキノコやクルミなどの木の実もこの年はほとんど実りませんでした。冷夏で木の実が実らなかっただけで、決してキツネの祟りではありません。
村人たちがスズさんを殺しました。あれは明らかに殺人です。みんなで一人を殺しても、それは殺人です。このように人は意味もなく人を殺します。別にスズさんを食べるわけでもなかったのですから、ぼくには人身御供という殺人がどんな意味があったのかわかりません。どうしてスズさんが死ななければならなかったのでしょうか? 新たな犠牲者を出さなければ事が収まらないなんて、とても残酷なことです。
人間は集団になると気がふれます。人間は集団で暮らさずに、個人かそれともせめて家族単位で住んだ方がいいのではないでしょうか? 家族単位で暮らしているならば、家族の誰からも人身御供という発想は生まれなかったはずです。
キツネ狩りによってキツネがほとんどいなくなったので、ネズミが急激に増えて、わずかに実った稲にも大きな被害が出ました。米の収穫はゼロでした。村人はこれもキツネの祟りだと思っているのでしょうか? これはキツネを大量に殺したせいですが、祟りではありません。自業自得とはこのことです。
後でわかったことですが、ニワトリを殺したのはキツネでもなければイタチでもありませんでした。寅造がイタチの毛を小屋に残してニワトリを3羽かっぱらっていったのです。その時、ニワトリの毛をむしってニワトリ小屋が荒らされたようにみせかけたのです。寅造の日頃の粗暴な行いを考えれば、あの時だって犯人は誰かすぐにわかったはずです。それを寅造の口車に乗せられて、キツネのせいにしたのです。今考えれば、みんな何か事件が起こるのを待っていたのかもしれません。村を上げて何か大きな共同作業をしたかったのかも知れません。そう言った意味で、寅造一人にキツネ狩りの罪を負わせるのは酷なのかもしれません。
スズさんが人身御供になったのも、言い出しっぺは寅造でした。寅造はかつてスズさんに恋をし振られた腹いせもあったのかもしれません。どこまでも性根の腐った男でした。そんな寅造は、数年後に再度他人のニワトリ小屋を襲った時に見つかってしまい、それで過去に犯した犯罪も白状することになったのです。
寅造は翌春にゼンマイを採りに行って、崖から足を滑らせて死んでしまいました。キツネやスズさんの祟りだと言う人がいましたが、そんなことはありません。スズさんも祟ることはないでしょう。
いまぼくはどうしているかって? 村には餌となるネズミが豊富にあります。餌さえあれば、何不自由もありません。それに、どこにも罠が仕掛けられていないので、村を自由に歩くことができます。もはや、誰もキツネを襲ったりはしません。
最近、隣の村に避難していたキツネも帰ってくるようになりました。ぼくはお嫁さんと巡り合いました。母さんのようにとてもきれいなキツネです。
つづく