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祟らずの狐  作者: 美祢林太郎
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9 母さんの死

9 母さんの死


 村では毎日残虐なキツネ狩りが続き、キツネたちは怯えて毎日を過ごしていました。ぼくたちのすぐ近くまで人間の魔の手が近づいているのが、手に取るようにわかります。このままでは遅かれ早かれ、ぼくと母さんも人間に見つけられて殺されるでしょう。

 村にはキツネがいなくなったようです。キツネの声が聞こえなくなったのです。村にはいまぼくと母さん以外に何匹のキツネが残っているのでしょう。生き残ったキツネの中には山の奥へ入っていったものがいるのでしょうか。他の村へ逃げたものがいるのでしょうか。こうした状況にあっても、まだ人間はキツネ狩りを止めようとはしていないのです。かれらはキツネを最後の一匹まで捜し出して殺そうとしているのです。最後の一匹がどのキツネになるのかわからないのにです。

 我々は兄さんが殺されて以後、外はあまりに危険なので、餌を獲りに行くこともできません。ぼくが空腹に耐えかねて、深夜に巣からこっそりと抜け出そうとすると、母さんが起き出して必死にぼくは止めます。あらゆるけもの道に見えないように罠が張り巡らされているとのことです。ぼくはこのまま空腹で死ぬよりも、罠にかかって死んだ方がよっぽどましだと母さんに必死で訴えると、これまで怒ったことのない母さんが歯を剥いて、「我儘を言わずに、もう少し我慢しなさい」と一喝しました。

 少し前まで、いたるところから、罠にかかったキツネやタヌキ、オオカミの鳴き声が、夜のしじまに切なく聞こえてきていたのですが、ここ二三日は動物たちの鳴き叫ぶ声や焼ける臭いはしなくなりました。それでも、村に緊張が走っています。

 そうしたなか、母さんはじっと何かを考え始めていました。真剣に考えている母さんが怖くて、ぼくは何日も母さんに声をかけることができませんでした。

 母さんが考えごとを始めて、一週間が経ちました。母さんは突然目を見開いて、にこっと笑いました。何か良い考えが思い浮かんだのでしょう。母さんは嬉しそうにぼくの体を何度も何度も舐めてくれました。ぼくもお返しに母さんの体を何度も何度も舐めました。久しぶりに母さんと楽しい時間を過ごしたのです。そして、これが母さんとの最後の楽しい時間になりました。

 翌朝、快晴でした。今日も暑くなるでしょう。母さんはぼくに気づかれないようにそっと起き出して、寝ているふりをしているぼくの耳元に、小さな声で「生きるのよ」と言って、巣の外に出て行きました。ぼくはただならぬ母の気配を察し、母さんの後を距離を取りながら追いかけて行きました。

 今日からお盆です。丁稚奉公に出ている子供たちや、近在の親戚たちがみんな集まる楽しい日です。さらには、亡くなった人たちの霊が、あの世から実家に戻ってくる厳粛な日でもあります。

 姉さんの霊も、兄さんの霊もぼくたちのところに戻ってきてくれません。父さんは死んでいるのでしょうか、それとも生きているのでしょうか? 本当に霊が存在するならば、ぼくも姉さんや兄さん、そして父さんに会ってみたいです。

 それにしても、ぼくはお腹がペコペコで、死にそうです。ぼくが死んだら霊になるのでしょうか? 多分、なりません。死んだら何もなくなります。霊になってまで空腹だったら、死んでも死に切れません。何もなくなるのが一番です。

 人間界ではお盆の期間は殺生をしてはいけないことになっています。お盆だけは、誰も鉄砲を持って歩いていません。キツネを追い回すイヌたちも普段よりもいい餌をもらってのんびりと休んでいます。動物たちにとっては、ひと時の平和です。

 村人は朝早くに墓参りをすませ、みんな楽しそうに、神社の境内で櫓を組んで盆踊りの準備をしています。

 母さんは墓場に直行しました。そこには早朝に墓に供えられた団子や饅頭、落雁が山ほどありました。きっと、母さんはその食べ物をぼくに持って帰ってくれるんだと思い、自然と涎が出てきました。ぼくは母さんのところに行って、一緒に団子や饅頭を食べようと歩き出しましたが、母さんは墓から墓を飛び跳ねて、団子や饅頭を喉を通すことなく、牙で食い散らかしたのです。さらに、花瓶に生けられた菊の花を無残に引きちぎっていきました。ぼくはこんな乱暴な母さんを生まれてこのかた見たことがありません。何かに憑りつかれたようです。母さんは狂ってしまったようです。ぼくは母さんに近づくことができず、茫然として遠くから見ていました。

 墓参りにきた人たちは母さんの乱暴狼藉を止めさせようと、竹ぼうきを持って追い払いにかかりましたが、母さんはそれをすり抜けて、すべてのお供え物を荒らしていきました。墓場は惨憺たる有様です。何人かは母さんを捕まえようとしましたが、誰も母さんに追いつけるものはいません。母さんは軽くダンスを踊っているようです。母さんはあたりの人たちを挑発して怒らせようとしているようにも見えました。でも、それはあまりに危険な行為です。しばらく何も食べていない母さんにそれほど体力が残っているとは思えません。ぼくはハラハラしながら、気のふれたように騒ぎまくる母さんを見つめていました。

 そのうち、何人かの男たちがそこらにあった棍棒や石を持って母さんを追いかけるようになりました。かれらの目は血走っています。母さんはそんなかれらをからかうように、かれらの脇を何度もすり抜けていきました。ぼくは遠くから見ていて、母さんの軽快なステップが気持ち良くなりました。

 村の人たちは騒ぎを聞きつけて、みんなが墓場にやってきました。子供たちが母さんを指さしていました。イヌたちが母さんに向かって一斉に吠え出しました。母さんは墓場を抜け、走り出すと、みんなは竹ぼうきや棍棒、石、桶を持って、走って母さんを追いかけました。母さんは寺の本堂に上って、本尊の阿弥陀如来坐像の膝の上に飛び乗り、ちょこんと座りました。誰も、母さんに棍棒を振り下ろすことはできませんでしたし、石を投げつけるものもいませんでした。母さんがニヤッと笑ったのがわかるのは、ぼく以外には誰もいなかったと思います。村人たちがご本尊の前に集まると、老人の中には両手を合わせて母さんを拝み出す者まで現れました。そんな静寂の中、母さんはご本尊の掌の上で、勢いよく音を立てておしっこをしました。みんなは一瞬唖然としました。ぼくは笑い出しそうでした。阿弥陀様も少し笑っているように見えました。母さんは完全に人間たちを翻弄しています。

 母さんはあっけにとられた村人をよそに、阿弥陀様の膝から飛び降りて、近くの民家まで走りました。開け放たれた家の中に侵入して、お盆のために台所に準備されていたご馳走を全部ひっくり返して行きました。それを何件の家でも続けていったのです。村人たちはカンカンになって母さんを追いかけますが、母さんを捕まえることはできません。母さんは、時々立ち止まって、村人が追いつくのを待っています。自分の行いをすべての人に見せて、かれらの怒りが増幅するのを楽しんでいるようです。母さんは餓死寸前なのにどこにこんな体力が残されているのでしょう。ぼくは母さんを追いかけるのがやっとです。

 子供たちの中には、小屋から魚を獲る網を持ち出して母さんを捕まえようと、追いかけて走ってきました。女の中には、桶の水を母さんに向かって勢いよくかける者もいましたが、もちろん母さんにかかったりはしません。こうして村の中で一大捕り物が展開されていったのです。

 村人の何人かが鉄砲を家から持ち出しました。それをとめるお祖母さんもいましたが、頭に血が上って誰も言うことをきくものはいません。母さんは、鉄砲を持っている男の中から誰かを探しているようでした。そして母さんは見つけました。その男は村一番の鉄砲名人として有名な吉蔵でした。吉蔵は男っぷりがいい若者です。母さんは吉蔵に一対一の勝負を仕掛けるように、かれの前に躍り出ました。吉蔵は鉄砲を構えて母さんを狙いましたが、周囲に子供がいたので、引き金を引くことはできませんでした。母さんは、鉄砲名人の吉蔵がよもやこんな人混みの中で引き金を引くことはない、と計算していたのでしょう。

 母さんは、吉蔵を誘うようにある方向に飛び跳ねながら走って行きました。吉蔵を先頭に村人たちは母さんの後を追って行きました。母さんは後ろを振り返り、みんなが追いつくようにところどころで立ち止まっていました。みんなは息を切らしてついていきました。

 母さんの走る先に神社が見えてきました。

 母さんは神社の縁側に駆け上がると、突然立ち止まって、追いかけてきた村人たちの方を振り向きました。息を切らした村人たちも一斉に立ち止まり、全員が母さんを取り巻いて、黙って母さんを見つめています。村人たちが沈黙しているのは、母さんの迫力に気押されてしているからのようです。

 しばしの緊張の後、最前列にいた小さな女の子が母さんを指さして、「神様だ」と声を上げました。母さんは牙を剥き、その女の子に飛びかかろうとしました。その時、盆踊りのために建てられた櫓の上から、吉蔵が鉄砲を発射して母さんの額を打ち抜きました。母さんが撃たれた時、神社の中にあった銅鏡が、太陽の光を反射して母さんを神々しく照らし、母さんはコーンと村中に響く声で高らかに鳴きました。ぼくはキツネのこんなに美しい声を生まれてこのかた聞いたことがありません。誰も声を発する人はいません。ぼくはこの時、母さんがうっすらとほほ笑んだのがわかりましたが、人間は誰も母さんの表情を読み取ることができなかったでしょう。一呼吸おいて、村人たちの中に母さんに合掌する者がありました。母さんは死にました。


 母さんの壮絶な死によって、キツネ狩りは終止符を打ちました。


                つづく

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