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月が満ちれば  作者: 小津 カヲル
十一の月

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6/33

第6話 祝い酒と冷えた肴

 今日はここ二ヶ月間つきっきりだった仕事が一段落して、来週末には打ち上げまで持っていけそうだなと、同僚とともに胸を撫で下ろした。

 退社するつもりだったのが一転、初めての大きな仕事を任せられ、手探りながらも一歩ずつ積み上げて形を整えることができた。区切りもついたことだし、助けてくれた同僚たちに頭を下げて、今日は早々に帰宅の徒につくことに。

 途中で最寄り駅前の酒屋に寄り、この日を迎えられた暁には買おうと決めていた、酒を手に入れた。すっきりとした口触りだと、手作りポップにある。

 何かの節目に新しい酒に手を出す、なんてのも祖父からの教え。

 初めて飲む酒にはどんな肴がいいだろうか。たしか冷蔵庫には、大根があったはず。サラダはこれで決まりかな。あとは鶏肉があったし、照り焼きにでもしようか。部屋の鍵を開けながら、そんなことで頭がいっぱいだった。

 食い意地が張っているのはいつものこと。酒がそこに加われば、なおさら。

 それに今日はまだ空も明るい。夕焼け色に染まった部屋に鞄を投げて、さっそく準備にとりかかった。


 一通り作り終えると、シャワーをあびる。お気に入りの石鹸を使い果たし、引き出物かなにかで貰った石鹸があったのを思い出して使ってみた。いつもと違う花の甘い香りに、いつもと違う泡立ち。こんな些細なことでも、どこか日常から解放された気になるのだから、不思議なものだ。自分もそれなりに、女子だったらしい。

 ゆっくりと時間をかけて髪を乾かして、楽なスウェットを着込む。

 小さなテーブルに酒とお猪口、肴を並べて、なかなか上出来だと悦にひたる。

 酒をあけてお猪口にそそぎ、さっそく一口含む。


「……っあー、うまい」


 しかし度数の高い酒は、空っぽの胃に少々こたえる。

 まず箸をつけるのは、大根サラダ。細く切手ツナとマヨネーズとポン酢、ほんの少し柚子胡椒を足して混ぜただけのもの。仕上げにおかかと刻み海苔をかけてあげると、最高の味。酒がついついすすむ。

 おちょこに四杯目をついでから、テレビのリモコンに手をかける。けれど電源ボタンを押す前に、テーブルの端でスマホが振動した。

 裏向きに置いてあったスマホをひっくり返すと、鳴動する画面に出ていたのは、祖父の田舎のご近所さん、酒屋の節子さんの名。

 浮かぶのはアイツの顔で、でもまさかと思い直して電話に出ると、上機嫌な男の声。


『キヨか?』

「またあんたなの?」

『ひでぇな、開口一番がそれとは』

「節子さんに電話借りて、迷惑でしょ。なに?」

『なにって、元気かなと思って。ここに来ても何もすることないし……』


 声が止んだかと思えば、電話から少し離れた位置から、湿った咳が聞こえる。

 それから、遠くで女性の声が続くが、何を言っているかまでは聞き取れない。


「ちょっと、あんたどこにいるのよ、酒屋に世話になってるの?」

『電話代わるわよ……あ、キヨちゃん? 亀蔵さん家の向かいの節子ですけど』

「節子さん? こんばんは」

『こんばんは。突然ごめんね、お仕事中じゃなかったかしら? クロードさんが声を聞きたいっていうから……あ、ちょっと、どこ行くの? え?』

「節子さん?」

『ごめんね、クロードさんったら、熱があるのに』

「熱?」

『そうなのよ、本人が言うには大したことないって。心配だから水嶋先生を主人が呼びに行ってくれてるんだけど、そこまでしなくていいからって今、逃げちゃって』


 はあ? 逃げた?

 私が呆れて言葉を失っていても、節子さんは続ける。


『怪我の熱はいつものことだからって、亀蔵さんから貰った薬があったはずだから、取りに戻るって言うのよ』

「怪我? また怪我してるのあいつ?」

『ほんと、多いのよねぇ。とにかく、連れ戻すから心配しないでねキヨちゃん』


 水嶋先生は集落唯一の医者だけど、じいちゃんより高齢の先生で、ほとんど引退しているも同然の医者だ。

 私はベッド脇の置時計を見る。まだ七時。ここから上野駅までタクシーでどれくらいだろうか。一時間後ならまだ電車は十分ある……その先のバスは絶望的だけど、タクシーくらいある。幸いにも週末だから、帰る心配はしなくてもいい。

 頭のなかで時刻表とお財布、それから薬箱の中身を思い浮かべていると、いつのまに電話を代わったのか、クロードの声で名を呼ばれた。


『キヨ』

「クロード?」

『キヨは心配しなくていいから』

「でも」

『いつものことだから、亀蔵殿の遺してくれた薬箱に、こうせいざい、まだ入っていたと思ったのだが、医者を呼んでもらうことにしたから。大丈夫』


 いや、抗生剤は勝手に人のもの飲んだらダメだってば。

 そう叱り飛ばそうかと思ったものの、節子さんの説得に応じる気になったようなので、そこは堪える。


「ところで熱ってことは、前の傷が化膿したの? それとも病気?」

『キヨに消毒してもらったから、そこはもう塞がってるよ、病気でもない』

「じゃあ違う傷なのね? なんでそんなにしょっちゅう怪我なんかするのよ」


 電話の向こうで、クロードが笑った。


『俺、ドジだからさ』

「あんた自称、幸運を呼ぶ男じゃなかったの?」

『それは周りだけ。俺が対象内だったら、あっちに飛ばされてないと思う』


 そりゃ確かに、幸運なら異世界トリップなんてしない。でもそれじゃ……


「あんた一人貧乏くじってことよね、馬鹿みたいじゃないの」

『うん、そうだな、キヨの言う通りだ』


 また笑う。あっけらかんと、声をあげて。

 ほんと、馬鹿なんじゃなかろうか。


『だからさ、きっと今月もまたキヨにもいいことあるよ。こうして声がきけたから』

「あ、あんたねえ……」

『そうだ、宝くじでも買えよ、キヨ。当たったらこの前の美味い酒、もっとご馳走してくれよ』

「酒? 怪我治してからにしなさいよ、そんなの」

『はは、そうだな。じゃあいい酒が飲めるよう、怪我しないように待ってる』

「まだ奢るなんて言ってないってば」

『……あ、もういいの? え?』


 クロードは自分だけ言いたいこと言って、さっさと節子さんに電話を明け渡したらしい。


『キヨちゃん、もうこっちに来ちゃダメだって。彼はそう言ってくれって』

「え、い、行かないですよ、まさか!」


 私は握りしめていた財布を、隠す。誰に見られている訳でもないのに。


『そう、それなら良かったわ。こっちは大丈夫だから、気に病まないでね?』

「まだ、毎月来てるんですか?」

『そうね、亀蔵さんとはとても仲が良かったから。ところで、キヨちゃんも元気? お仕事は順調?』

「はい、お陰さまで」


 節子さんとしばし当たり障りのない世間話をして、電話を切る。遊びに来たときはまた声をかけてね、そんな締めはいつものこと。

 軽く息をついて、小さな宴の杯を取る。

 きっと、私にはさほどのことはできない。ああして毎月、じいちゃん宅を訪れていた頃、酒屋夫婦とも何度も会っていたはずだ。現にはじめて出会った時だって、慣れた様子だったじゃないか。

 まだ箸すらつけていなかった、鶏肉を口に入れる。照り焼きだから食べられないことはないけれど、すっかり冷めて味気ない。

 手酌でつぎ足した酒を、一気にあおる。


「ああ~……もう!」


 せっかくの宴だったのに、気になって仕方ない。あいつの怪我なんて、肴にもなりゃしないじゃないの。

 いつもなら放置し放題のスマホを手に取り、検索をはじめる。

 怪我、発熱。対処法……

 出てきた検索のなかでも、より逼迫ひっぱくした症状ばかりが目につく。


「……っ、いやいやいや、別に気にしてないし!」


 なんでもないし。そう思いながらスマホを乱暴に手放す。

 どうしてかじっとしていられず、鶏肉の皿を持って立ち上がり、キッチンへ向かう。しばしうろうろしてから、そうだった、温めなおすんだったとレンジに入れる。

 しばらく静かに唸るレンジの前で、立ち尽くす。

 じいちゃんは、本気にしていたのだろうか。彼の語る、不思議な物語《生い立ち》を。

 キッチンからまっすぐ見えるベランダのある窓。ほんの少しだけ開いたカーテンの隙間からは、昇ってきたばかりの大きな満月が見えた。

 いつもよりかなり大きく感じるのは、低い位置に見えるせいだけだろうか。


「……明日、もう一度節子さんに電話しようか」


 独り暮らしの部屋に、レンジの陽気な電子音が応えた。




 またしても酔っぱらい、ベッドにも入らずいつの間にかうとうとしていたらしい。

 最近はすぐに酔いが深くなる。二十代も後半過ぎればそんなものかと、諦めつつ顔を洗う。

 時計を見れば八時。都会であればまだ少し早い時間だけれど、田舎はもう誰も彼も起きて、仕事が始まる時間だ。

 スマホを取り出してみれば、実家からの着信に気づく。


「なんの用だろう?」


 放置を決めようかと思ったけれど、母親ならちょっとまずい。そう思いながらかけ直せば、やはり出たのは。


『もしもし、潔子? 電話したのに出ないから、心配したのよ。また遅くまで仕事なの?』

「ううん、昨日は早かったから、酒飲んで寝てた」

『なあにその、年頃の娘らしからぬ返事は。あ、もしかしてデートだった?』

「そんなわけないよ。で、なに、用は?」

『そっけないのね、つまんない。えーと、そうそう。兄さんから連絡があったんだけど、おじいちゃんの家ね、あんたがもう使わないなら、手放す方向で考えてるそうだけど、一応聞いておいて欲しいって』

「じいちゃんの家?」

『そう。あんたが相続する権利はないけど、おじいちゃんあんたのこと可愛がってたでしょう。だからか生前、本人から言われてたらしいの。潔子が来たいって言う間は、使わせてやってくれって』

「じいちゃんが、そんなこと」

『でも誰も使ってなくても、税金とか費用はただじゃないんだから』

「うん、そりゃまあ、そうだよね」

『仕事、うまくいってるんでしょう?』

「うん、今のところは」

『じゃあすぐにでなくてもいいから、考えておいて返事ちょうだい』

「分かった。ねえ……」

『なに?』

「家、取り壊すつもりなのかな」


 楽しい思い出が染み付いた家。家主のじいちゃんはもういないけれど、生きていた頃の名残というか、気配のようなものが感じられる。残された荷物だけじゃない、壁の染み、障子の引き手部分の使い込んだ色、年期の入った玄関のたたき、扉が閉めにくくなったキッチンの棚。全部がじいちゃんの痕跡。

 それに。


『あの田舎じゃ買い手がつくとは思えないし、空き家を放置するのも世間体が悪いわよ。遅かれ早かれ、取り壊すことは避けられないわね』


 じいちゃんが亡くなってしまったのに、変わらず訪れる、鎧の筋肉男マッチョは、どうなるんだろう。


「ねえお母さん、頼みがあるんだけど」

『ええ? なあに突然?』

「さっきの返事も兼ねて、一度おじさんと話をしたいから」


 私は母におおまかな用件を伝えると、急いで着替えて鞄を用意する。

 それから二時間後、私は北陸新幹線に乗っていた。

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