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月が満ちれば  作者: 小津 カヲル
二の月

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20/33

第20話 惹かれあう心と遠い距離

 啄むようなキスを繰り返したあと、私は大きな腕の中に、すっぽりと抱きしめられていた。

 恥ずかしさのあまり、互いの顔を見れない。それなのに熱くて溢れてしまう気持ちが、白く煙る息となって、言葉の代わりに「すき」と伝えてしまうんじゃないかと思えた。

 いつの間に、こんなに──

 クロードは腕をゆるめて、困惑する私の顔を再び覗き込んで、ふっと笑った。


「真っ赤だ」


 指摘されなくても、分かっている。なのにこの馬鹿筋肉ばかマッチョめ、火に油を投げ込むな。


「かわいいな、キヨは」


 もう、ダメ。心臓に悪い、いいかげんにしろ。二十八にもなると、そういうこと言われる妄想すらしないから、十代の頃とは違った意味で免疫がないんだから。

 私は力をこめて、クロードの分厚い胸板を押し戻す。いや、戻そうとするが、びくともしなかった。

 じだばたしていると、背の向こうから声が聞こえた。


「キヨちゃーん、クロードー!」


 その声とともに、雪を踏みしめる足音が近づく。


「ひ、日菜姉だ、どうしよう」


 私は手袋をはめた手で、両頬を隠す。おろおろとする私とは違い、クロードは私の背に回していた手をのけると、冷静な声で日菜姉に手を振り応えてた。日菜姉の後ろから「走るなよ日菜」と浩介さんの声も続く。


「どうした? もう帰る時間だったろうか」

「ううん、まだよ。でもそろそろ体が冷えたんじゃないかと思って、ロッジに引き上げるよう言いに来たんだけど……どうしたの、キヨちゃん? 雪だらけじゃない」


 背を向けたままだった私を、日菜姉が横からのぞき込む。

 暗いなかで顔色は見えなくても、すぐに何かあった(・・・・・)と察したのだろう。無言の全力スマイルが怖い。


「じゃ、じゃあ私、テントの中を片付けてくるよ。荷物も置いたままだし」

「……うん、よろしくね。使った鍋以外は、そのままにしておいてくれていいからね」


 クロードと日菜姉たちを置いて、私はテントに逃げ込んだ。雪を投げ合っているうちに、ストーブは熱を失い、すっかり冷えきっていたのも、ちょうどよかった。大きく息を吸って冷たい空気で体を冷やし、私は荷物をまとめた。

 外で話しでもしていたのか、しばらくしてからクロードがテントに戻ってきた。


「二人は先に戻った。氷の上は滑るから、荷物は俺が持とう」


 私から鞄と鍋などをまとめた手荷物を奪うと、クロードはテントを出た。

 すっかり顔の火照りは冷めたけれど、私は居心地の悪さから半歩下がって、クロードの後を歩く。途中通りすぎたワカサギ小屋では、釣果を肴に宴会が始まっているようで、賑やかな声が漏れ聞こえてくる。


「楽しそうだな」

「そうね、みんな地元の人たちみたいだから」


 松川さんが呼んだ招待客ばかりなので、きっと観光協会や同業の人たちだろう。気を使って私たちにはテントを勧めてくれたのかな。

 一方、ロッジにはその家族など、主に女性たちが集まっていた。戻った私たちに、ワカサギだけじゃお腹は膨れないだろうからと、持ちあった料理とお酒をご馳走してくれた。

 そうしてお腹がいっぱいになったところで、日菜姉の体調のこともあり、私たちだけが先にお暇することに。松川さんへのお礼と後始末の手伝いが出来ないことの謝辞を告げて、帰路についた。

 もちろん帰りの助手席は、クロードが陣取る。運転席の浩介さんに、車についてあれこれ質問責めにして困らせている。本当に彼は、誰にでも遠慮がないんだなと、笑うしかなかった。

 そんなやり取りをしている後方で、日菜姉がちょんと私の肩をつついた。そして自分のスマホの画面を私に向けるので、そこに書かれたメモを読む。

『後で詳しく聞かせてもらうからね』

 破壊力のあるスマホ画面から顔を上げれば、日菜姉は実にいい笑顔だ。


「や、あれは……ちがっ」

「いいの、いいの、後で!」


 人差し指を立てて口元に添える日菜姉は、やはり満ちゃんと姉妹だった。

 ああ、あんな外で許すんじゃなかった。

 いやいや、個室ならいいってわけじゃないけど。

 恥ずかしさを堪えているうちに、車は酒屋の前で停車した。私とクロードは二人に礼を告げて、去っていく車に手を振る。

 なんだか濃い二時間半だった。

 やっと寛げる、そう思いながらクロードとともに家まで坂を歩き、私は鞄から鍵を出そうと手を突っ込んで、ふと気づく。

 まて、私。

 今から二人きりだよね? 寛げるって、なんでそう思った? 仮にも若い男女を一つ屋根の下にとか、簡単に上げるとか、酒飲んでそのまま寝入るとか、一緒の布団で暖をとるとか、ナニやってたの私。過去の自分を、叱りとばしたい。


「どうした? 鍵なくしたのか?」

「な、なんでもない、あったほら鍵!」


 ビクリとしたのを隠しつつ、鍵を出して玄関を開けると、クロードはいつも通りに家主に無遠慮で、さっさと上がり込む。

 緊張した私が馬鹿みたいじゃないか。


「寒いな、ストーブつけるぞ?」


 私は適当に返事をして、玄関の鍵を閉めて、防寒用のカーテンを閉めた。

 コートを脱ぎながら居間に入ると、仏壇の前で線香に火をつけるクロードがいた。彼は必ず、祖父への挨拶を欠かさない。

 彼の大きな背中のせいで、祖父の遺影が見えない。私がクロードを好きになったことを、怒っているだろうか。

 祖父に対する居心地の悪さは、私だけでなかったようで、クロードは長い時間手を合わせていたかと思うと、ふいに大きく息をついた。


「コート、脱いだら?」


 クロードから渡されたコートをハンガーにかけてから、遺影の前を開けさせて、私も彼の横に並んで正座した。


「俺、亀蔵殿に、言われてたんだ」

「じいちゃんに、何を?」


 灯してあった蝋燭に、自分も一本線香をかざして聞き返す。


「おまえをキヨには会わせないって」

「は?」

「そのくせ、孫自慢はしてくるんだぜ?」


 大きく炎が立った線香を、慌てて振ってから、先に立てられたものの横に差した。


「おまえは図々しくて頼りないところがある、キヨは情に脆いから、会わせたら情が移るかもしれないと」

「じいちゃん」


 どういうことだと、思わず遺影に向かって叫ぶ。


「キヨだけじゃない、俺にも酷くないか? それだけじゃない、おまえは地位に惹かれて寄ってくるのとは違う、まともな女の扱いを知らないから、キヨには毒だとかいろいろ」


 いったい何を言ってるのかと、生前の祖父にツッコミたくなるけど、現実は祖父の危惧していた通りになったわけで。

 クロードは祖父の遺影に、頭を下げた。


「すまん亀蔵殿。俺は、キヨが好きだ。向こうに戻っても、キヨのことを考えない日はない。亀蔵殿の言った通り、いつかキヨを泣かすかもしれない。いつ、会えなくなるかも分からない。心配ばかりかけるだろう」


 それは、祖父に頭を下げながらも、私に言っているのだと思った。


「それでも。ここに来れる限りは会いたい。声が聞きたい、泣いていたら慰めたいし、力になりたい。それになにより、触れたい」


 そして半分困ったような顔を私に向けて、なお続けた言葉は、祖父への親愛が溢れていた。


「やっぱ、怒られるよな、俺。やばいよな」


 だから私は笑いながら、頷く。


「そうね。でもそんなに怒られるのが嫌なら、長生きすればいいのよ」


 クロードは意味が掴めず、きょとんとしている。


「じいちゃんはもう天国だもの。今すぐ会ったなら怒鳴られるかもしれないけど、十年後、ううん、五十年後ならきっと、しょうがねえな、って言うにきまってる。たとえ、今後私たちがどうなっても、今を、この瞬間を正直に生きたら、きっと次に会うときには、頑張ったなって誉めてくれる」

「正直に、か……懐かしいな」


 祖父は、そういう人だ。

 キヨ、正直に生きろ。そしたら後悔なんてする暇はないからな。

 口癖のように、そう言っていた。


「じゃあ、キヨも正直に言おうか」


 クロードはそう言うと、触れるほどの位置にあった私の手を握る。

 なにを。なんて聞くのも野暮で、固まっていると、クロードの顔が近づく。

 しかしその時、パタンと遺影が音を立てて倒れた。

 驚いたのはクロードで、その大きな体をビクリと震わせて、私から顔を背ける。そして一つ咳払いをしながら、立ち上がった。


「やっぱ怒ってるよな、とりあえず逃げるわ、俺」


 コタツのある部屋に逃げていくクロードを見送り、私は笑いを堪えきれず、肩を揺らしながら祖父の写真を戻す。

 祖母と仲良く並ぶ、優しい顔の祖父に手を合わせてから、私もクロードを追った。


「ねえ、章吾さんからいいお酒を分けてもらったの、飲む?」


 私たちはいつもの飲んだくれ仲間に戻り、美味しい酒に舌鼓を打つ。

 限られた今を、楽しむ。

 そうして二時間ほど過ごして、クロードは遠い世界に帰っていった。


 私たちを隔てるのは、たった一枚の襖。けれど果てしなく、途方もなく厚い隔たり。

 それでも「またね」と送り出せる。

 月はまた必ず満ちるのを知っているから。

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