エピローグ
セッペは昼準備が始まる前、束の間の静寂の中、ふと厨房の裏庭に出てみた。
洗濯場の方へ目をやれば、ひらひらとたくさんの白い布が風に靡いている。久々の良い天気に、洗濯婦達もきゃあきゃあとはしゃぎながら、楽しそうに仕事をしていた。
賑やかな高い笑い声が響いている。そのうちに、誰ともなく歌を歌う声も遠く響く。
「よっこらせ……、っと」
厨房を出てすぐのところに置かれた、古びた木製の長椅子に腰掛ける。
洗濯婦達の笑い声は遠くに聞こえ、賑やかではあるが煩くはなかった。反対に厨房側の裏庭はしん、としていた。休憩中なのに、珍しく誰もいない。
セッペは一度伸びをすると、両腕を椅子の背もたれにかけ、空を仰いだ。
雲一つなく、抜けるような青空が眩しくて、目を眇める。
なんとなく、こんな日は友人がやってくるような気がしていた。
「ふぁ……」
欠伸をひとつ。長閑な女達の遠い声は眠気を誘う。
セッペは自分を、今朝も早くからよく働いているな、と思う。
料理人の一日は長い。王族の朝食の準備から始まるのだから、夜明け前に王城に来て、晩餐が終わるまで続くから、帰る頃には夜も更ける。交代勤務の日もないではないが、立場上、他に任せるわけにいかない仕事も増えて来て、なかなかそうもいかなかった。結局一日城に籠もっていることも多い。
拘束時間も長いし、仕事中はほぼ立ちっぱなしだ。このところ、休日以外は家には寝に帰るだけになってしまっている。いっそ、城に住んでしまったら楽なのだろうが、家族に会えないことは耐えられそうにない。
見習いの頃は休憩時間も惜しんで、練習やら仕事やら、とにかく一日中働いていたものだが、さすがに最近はそんな体力もない。無尽蔵に動けていた昔が懐かしいが、過信しないで休める時は休むようにしている。ここ最近は昼準備前の休憩は仮眠を取ることも少なくない。
「のどかだなぁ……」
そうしてしばらく、ぼんやりと青空を眺めていると、上空を大型の鳥が優雅に旋回しているのが見えた。
ぐるり、と飛ぶ姿を目で追う。
やがて、鳥は旋回をやめ、緩やかに滑空してきた。
まっすぐに裏庭を目指して近づいてくる。
セッペは寄りかかっていた背もたれから身を起こし、顔の高さに逞しい右腕を上げた。
まるでセッペが呼び寄せたかのように、その腕にふわりと鳥が舞い降りた。
バサリ、という羽音と同時に風が顔に当たり、ずっしりした重みが腕にかかった。
ずいぶん大型の梟だった。しかし、どれだけ大きい肉も魚も捌いてしまう太い腕は、びくりともしなかった。
「……よお、久しぶり」
セッペはにやりと笑って梟に話しかけた。
梟は答えるようにくるりと首を回して「ホゥ」と一声鳴くと、ふわりと飛んだ。
セッペの顔の高さあたりで少し羽ばたくと、梟の姿が解けるように消え、瞬く間に目の前にはひとりの男の姿が現れた。
「……しかし何度見ても、それ、慣れねえなぁ。ドキッとしちまう」
侍従姿で現れた男に苦笑した。
男の方はきょとんとした眼差しで見つめ返してくる。
「何度も見てるのに? もう十一年も経つよ。まだ慣れない?」
「そうだなぁ。わかってるのにな」
人間だと思っていた友人に突然「実は使い魔だ」と告白されて、変身する姿を見せられた時は度肝を抜かれたものだ。その時に比べればだいぶ慣れたのだが、やはり姿が変わるところを突然見ると、どきりとする。
「……それより、ずいぶんご無沙汰だったじゃねえか?」
「こっちもいろいろあってね。……でも、よく来るのがわかったね」
「まあ、なんとなく、な。それこそ長い付き合いだからな」
座るか、と尋ねると、羽の色と同じ色合いの髪を持つ友人は嬉しそうに笑って隣に腰掛けた。
セッペは用意していた果物をひとつ手渡した。
「ありがとう」
礼を言って受け取ったその右手には金色の指輪が嵌まっている。果物を左手に持つと、右手には果物用の小さな刃物が握られていた。
慣れた手つきでするすると皮を剥く。綺麗な球形を保った瑞々しい果実を半分に割り、片方を渡してくれる。
セッペが受け取ってかぶりつきながら見れば、右手の中にはもう刃物がない。元のように金色の指輪が嵌まっているだけだ。
――これも、何度見ても慣れねえなぁ、とセッペは内心で呟いた。
武器の魔道具、というらしい。
セッペにはただの指輪にしか見えないが、そうではないことを知っていた。
魔法騎士団の者が身につけるものと同じ、本来は武器を出すための魔道具だ。普通は剣や槍や弓矢になるはずのものだが、この友人がそれらの物を出したところを見たことはない。大抵調理器具にしかならない。
何もない空間から刃物が出てくるのは手品のようだが、これも魔法だという。
手品にしろ魔法にしろ、便利なこった、とセッペは思った。どこだって、いつだって、調理器具を持ち歩かなくても料理できるのは便利この上ない。
夢中で果物にかぶりついている友人を呆れて見つめた。
食べ物となると夢中になってしまうところが、何年経っても変わらないところだった。そこだけはまるで子どものようだった。
――腹空かしてるってわけでもないはずなのにな、と思う。
成長期はとっくに過ぎた。最近、セッペも昔ほど食べられなくなった。それなのにこの友人はいつまで経っても食欲旺盛だ。
「元気にしてたか? ソレル」
食べ終わるのを待って、懐かしい名前を呼んだ。
「うん、セッペも」
ソレルは立派な大人の男性に成長していたが、呼ばれてにこり、と笑う顔は幼い頃と変わらないようだ、とセッペは感じていた。
ソレルとセッペが初めて会った頃から、十一年が経っていた。
その長い間には、さまざまなことがあった。
この国の国王が退位し、第一王子が国を継いだ。
第二王子は臣下に下って大公になり、その子息のヴァシル王子も王族ではなくなった。大公の家族は王城を去り、住む者のいなくなった西離宮は閉鎖された。それに伴い、西離宮の厨房の料理長だったセッペの父親は王城を辞して、下町で店を開いた。
セッペは王城で修業を続けることを選び、今では東離宮の厨房で副料理長を務めるまでになった。
あの頃、兄貴と慕っていた先輩たちは東離宮や北離宮に移った者もいたが、多くは王城を辞していった。もともと城の下働きは一定期間城で勤め上げると、開業したり条件のいい貴族や富豪の元で働く者も多い。一生を城に仕え続ける者もいないではないが、多くは数年で辞める。セッペはいつの間にか古株の部類になっていた。
「……部外者がまあ、堂々と潜り込むもんだな。見つかったらどうする気だよ?」
「鳥にとったら厳重な警備だってザルみたいなものだよ。たとえ見られたところで、侍従の格好してると意外とばれないものだよ。服装って重要だね。昔はなんで服なんか着なきゃいけないのか、さっぱりわからなかったけど」
悪びれずにやりと笑うところは変わったな、とセッペは閉口する。
――いや、割といろいろなことに動じないで懐に入り込むところは昔からあったのかもしれない、と思い直す。厨房に毎日のように入り浸っていたソレルを少し懐かしく感じた。
「――最近どうだ?」
何が、とはセッペは口にしなかったが、その問いにソレルも答える。
「――東がちょっと不穏らしい」
「……ああ、やっぱり気のせいじゃなかったか」
王城とはいえ、奥深くの厨房に籠もっている料理人に、城のお偉方の考えることはわからない。ただ街の様子を見るにつけ、東方の商人が少なくなったように感じていたのだ。
セッペはそれを、自分の気のせいであればいいと思っていたのだが。
どこへでも――それこそ東の辺境にだって飛んで行ける羽を持つソレルが言うのだから、おそらく間違いはないのだ。
セッペは友人を信用していた。
「――交易路は?」
「まだ、どうにかなる段階じゃないけど、数年の内には閉じる可能性もある」
「そうか。……乾物なんかは最悪似たものが作れなくはないが、香辛料はキツイなぁ……。多めに仕入れるようにしておこう。あと保存が効いて代替品がない珍しい乾物類も、だな。それから茶葉と小麦は多めに買い入れる手筈を整えて……、保存食も増やしたり、開発した方がいいかもな……」
指折り数えて対策を考えるセッペにソレルは少しだけ、心配そうな顔になった。
「――王都が戦場になる、とは考えないの?」
「そういうことは料理人の考えることじゃねえよ。俺は料理を作るのが仕事だからな。クビにされねえ限り、できることをやるだけだ」
なんでもないことのようにさらりと言うセッペにソレルは少しだけ沈黙した。そしてぽつりと呟く。
「……お願いだから、危なくなったら逃げてよ」
真面目な声で言ったソレルに、セッペは軽く肩を竦めた。
「もちろん。命あっての物種だ。危なくなったらいの一番に逃げ出すさ。そうなったら教えてくれよな」
「それは――もちろん。約束だよ、絶対逃げてよ」
「わかったわかった」
あまりに真剣なのでつい笑ってしまい、茶化すように軽く頷いた。
口ではそう言ったが、セッペももう気軽な見習いではない。部下も何人もいるし、まずはそちらの安全を図らなくてはならない。また、王族の食事をおいそれとよくわからない者たちに任せるわけにもいかなかった。できる限りはここで料理を作ろうと思っている。材料が手に入り、食べてくれる者がいる限り。それだけ、自分の仕事に責任と誇りを持っていた。でなければ、副料理長などという立場は続けられなかった。
ソレルには軽い調子で話しながらも、これからのことを素早く頭の中で算段していった。
ふと見れば、セッペの軽口をまったく信用していない顔でソレルが眉を寄せている。セッペは苦笑して、安心させるようにソレルの二の腕のあたりをぽんぽんと、叩いた。
そうされてやっとソレルも少しだけ表情を緩めた。
「俺は助かってるぜ? こうしてたまにお前が情報を持って来てくれて。ありがとうよ。礼もろくにできなくて、すまないな」
「礼だなんて……、私こそセッペたちが昔してくれたことを全然返せていない。あの頃、セッペが友人になってくれたことがどんなに嬉しかったか。――だから、さっきのこと、ほんと、頼むよ」
「ああ」
それからお互いの近況などぽつりぽつりと話した。
ソレルは、セッペと厨房の側で、今でもこうして話せることが嬉しかった。
十一年の間に、境遇は大きく変わった。
悲しいことも、やるせないこともたくさんあった。
しかし、今でもあの頃と同じ主に仕えていられるし、それを幸せだと感じている。
セッペは背が伸び、体つきも逞しくなった。腕など丸太のようだ。ソレルはそこまでではないが、やはり背も伸び「ぼうず」と呼ばれることもない。下手をすれば小さな子どもなどには平気で「おじさん」などと呼びかけられるようになってしまった。
お互い、立場はずいぶん変わってしまったが、ここでこうして話しているとそれさえ忘れてしまうような気がした。
ここは西離宮ではないし、ソレルの顔を知っている者もほとんどいない。もう大きな手で頭を撫でてくれた料理人達もいない。
でも今にも「ほら、これ食べろ」と言って出てきてくれるような気がする。セッペと二人で子どもに戻って、にこにこそれを口にするのだ。
懐かしく昔を思い起こしながら、ふと、ソレルは昔セッペが言ってくれたことを思い出していた。
「そういえば、セッペ。最近、新入りが入ったんだよ」
「おお、そうか。良かったじゃねえか。あのでけぇ屋敷に使用人が二人だけって聞いた時はどうなることかと思ったからな」
セッペは一度だけ、長期休暇の時に、今ソレルが仕えている屋敷のある街に来たことがあった。屋敷内にはさすがに立ち入らなかったが、遠目にどんな屋敷かは見て知っている。
今ヴァシルに仕えているのはソレルとフェデリタースの二人きりだった。最近ひとり、仲間が増えた。
「昔、君に言われたね。返しきれない恩は下の者に返してやればいいって」
セッペは「う~ん?」と首を捻った。
「言ったっけか? そんなこと」
「言ったよ。友達になったばかりの頃」
「覚えてねえよ、そんなガキの頃の話」
「言ったんだってば。――まあ、いいけどね、君が覚えてなくても、私は覚えてるから」
「ああ、それで?」
「――やっと返せるって思ったんだ。君や厨房の人たちや、ラドミール様やユリーにしてもらったことを。返しきれないほどもらったものを。私が、新しく来たあの子に」
「……そうか」
昼準備が始まる前の、束の間の休息もまもなく終わりだった。厨房の方に人がぽつぽつ戻り始めた気配がした。
遠くで洗濯婦たちの笑い声と楽しげな歌声が響く。
見習い料理人が副料理長を呼ぶ声もした。
ソレルもそろそろ立ち去る時間だった。
「――じゃあ、そろそろ行くよ」
立ち上がって、名残惜しそうに友人を見た。
セッペは安心させるように、にかり、と笑った。
「またいつでも来いよ。なんなら手伝っていってくれてもいいんだぜ?」
ソレルは苦笑した。
「――遠慮する。今の屋敷でさんざん料理してるから。……じゃあ、また」
「ああ、また」
バサリ、と大きな羽音がして茶色と白の入り混じった羽根色をした梟が飛び立った。
セッペは顔を天に向けてそれを見送る。
梟はゆっくりと上空を旋回すると「ホゥ」と一声鳴いて飛び去っていく。
セッペは眩しい光に手を翳しながら、大きな梟を見送った。
「副料理長~!」
厨房の裏の扉が開き、見習いが声をかけた。
「……あれ、今、梟の鳴き声しませんでした?」
「しねえよ、こんな真っ昼間に。森の中じゃあるめえし。――それより、なんだ、用事か?」
「あっ、そうそう! 昼の献立のことなんすけど……」
見習いを促しながら厨房に戻りかけて、セッペはもう一度だけ上空を見上げた。
「副料理長?」
「ああ、なんでもねえよ」
そこには、ただ雲一つない青空があるだけだった。
セッペは見習いの背を押し厨房に入ると、ぱたりと裏口の扉を閉めた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
このお話はハイファンタジーというジャンルで書きましたが、自分の中ではちょっとしたお仕事小説のようなつもりで書いていました。
日常を生きていく、というのはままならないことや理不尽なことも多く、それでも毎日を生活していかなければなりません。どんな仕事にしても制約のまったくないお仕事というのは少ないのではないでしょうか。
完全な希望通りとはいえなくても、多くの人が少しでも納得して、こなさなければならない毎日に小さな希望や喜びを見いだしていけるといいな、と思っています。そして、どうしても無理なら環境を変えてみたり仕事や学校を変えてみるのも手ではないでしょうか。どちらもありです。
そんなことを抜きにしてもこの物語が、読まれた方がちょっと日常を離れて、お暇潰しになりましたら、とても幸せなことだな、と思います。
ここまで読んでくださった方々、途中応援してくださった方々、ありがとうございました。