一日目(1)役立たずの梟
「あっ、ソレル……!」
ヴァシル王子の短い叫び声が響いた。
ソレルは取り落とした剣を、少し悲しい気持ちで見つめた。
ソレルはヴァシル・ロウ王子の使い魔だ。本性は大型の梟。雛の時に王子に拾われ、ウィレンティア王国の王都、王族が住まう王城に連れてこられて半年が経った。
鳥の姿ならとっくに巣立ちをして羽も生え揃う立派な若鳥だが、人の姿では未だに上手く動くことができない。
ウィレンティアの王族は魔力を持つ者が多く、使い魔を持つ者も少なくない。使い魔は魔法使いに仕える獣や鳥で、大抵が人の姿になることができる。主の手足となって働くことがその仕事だ。
しかし、その点でソレルは自身をまったくの役立たずだと感じていた。
ヴァシル王子の剣術指南の時間、邪魔にならないよう鍛錬所の端でフェデリタースに剣術の手解きを受けていた。
「……」
フェデリタースの口から言葉ではなく、ただ小さく溜め息が零れた。
フェデリタースは、ソレルより四年早くヴァシル王子に仕えている黒犬の使い魔だった。剣術が得意で、常に腰に長剣を下げ、ヴァシル王子の護衛をする。
ソレルは使い魔の先輩であるフェデリタースに剣術の基礎を教えられているのだが、一向に上達しない。
まず、まともに持つこともできないのだ。
そもそも長剣は重いし、やっと持ったところでそれを真っ直ぐ、均衡を保つように構えるのは至難の業だった。持ったと思えば、すぐに取り落とす。
なぜ、こんなものを振り回せるのだろう。
ソレルには不思議でしかなかった。
ヴァシル王子が、遠くで気遣わしげにソレルを見つめている。
「剣を持てないと、ヴァシル様をお守りできないぞ」
静かにそう言うフェデリタースの声を聞きながらも、ソレルは剣をまともに持つことができない。
ソレルはうなだれた。
――これは、むり、なのではないだろうか。
そう、ぼんやりと思った。
「ああっ! ソレル……!?」
またしてもヴァシル王子の叫び声が響く。
「だ、大丈夫!?」
ソレルはドサリ、と馬から転げ落ち、尻を強か打った。
「……だいじょうぶ、です」
幸い怪我はないようだから、そう答えた。
今度はヴァシル王子の馬術の時間だった。
やはり王城内の馬場の端で、まず乗るところから始めたのだが、よじ登るように馬にしがみついたはいいが、足と手をどう動かしたら上手く乗れるのかがよくわからず、結局きちんと鞍に乗れずにどういうわけか落馬した。
――さすがにこれは、いたい。
そう思って、遥か上から見下ろすようにしてくる馬をぼんやりと見遣る。
気位の高い葦毛の美しい馬は、しかし梟のソレルをあまり好きではないようだった。
鳥の姿なら馬から見下ろされるのではなく、見下ろせるのに、と思う。
併走するように、飛べるのに。
――これもやっぱり、むり、なのではないだろうか。
目も合わない馬の毛並みが美しいな、と場違いなことを考えながら、やはり剣術の時と同じように自分には難しい、と思った。
まず、人の姿だと上手く動くことができない。鳥と身体の作りがだいぶ違うので、二足歩行が覚束ず、普段から何もないところでよく転んだ。翼の代わりにある手の五本の指はよく物を取りこぼした。使い方がよくわからないのだ。
人の姿だと背後が全く見えないことにも不安を覚えた。
そして、服というものを身につけねばならないことが最大の苦痛だった。身につけていると重いし、ただでさえ動き辛いのに、纏わりつく布がさらに行動を抑制する。なぜ服を着なければならないのか理解不能だった。
――人というのは不便だ。
「まあ、私も最初の頃は人の姿に難儀した。……仕方ない。まずはとにかく、常に人の姿でいろ。慣れるしかない」
フェデリタースは、人の姿に難儀するソレルに、困惑した表情ながら、そう言った。
だがこう言ってくれるフェデリタースは、実はソレルほどは苦労しなかったようだ。
剣を器用に扱い、王子の乗馬にも付き合える。
一方ソレルは馬に乗れば落馬するし、剣を持てば取り落とす。鳥の姿なら人の伝令よりも早くどこまでも飛べるのに、と悔しく思う。しかし齢十歳の王子はめったに王城を出る用事はないし、王都の外に飛ぶような使いはまずないのだ。ソレルは今のところ、何の役にも立てていない。
「ソレル……。いいよ、無理しなくて。無理に仕事をこなそうとしなくていい。お前がこうして側にいてくれるだけで、私はいいのだから」
夜、ヴァシル王子の寝室で梟の姿に戻れば、まだそれほど大きくはない十歳の柔らかな手がソレルの羽根や頭を優しく撫で、慰めてくれた。
それで、少しだけ安心する。
帰るところのなくなった自分が、ここに居ていいのだと言われているようで。
人の手に拾われ、ソレルにはもう暖かな巣に戻ることはできない。
ヴァシル王子の側だけが、ソレルの居場所だった。
それからは剣術も馬術も暫くは休むことにした。
そして、西離宮の奥をぼんやりと散歩する毎日になる。
とにかく常に人の姿でいて慣れるしかない、とフェデリタースに言われたから、人の姿で西離宮の奥をふらふら歩くしかないのだ。
王子の護衛をするフェデリタースと違って、ソレルは特に役目も与えられていない。王子にも、西離宮を離れなければ自由にしていていいと言われている。
我が主は役立たずの自分に対しても寛大だ、とソレルは有り難いと同時に申し訳なく思っていた。