五日目(4)森の賢者と新しい服
図書館に行くと、まず真っ直ぐ受付へ向かう。
「こんにちは」
今日も台の内側には司書のハールが居て、挨拶してくれた。
「今日も何かお出ししますか?」
借りていた本の返却を無事済ませてから、穏やかな声でハールが尋ねてくる。
昨日と同じ辞書と、ソフィアにもらった本の一覧をすべて出してもらった。十冊ほどになった。全部持とうとしてよろよろし、見かねたハールが半分閲覧席まで運んでくれる。
閲覧席には今日もリュカスが居て、ハールとソレルに気づいたのか、手を上げて招かれた。ハールがリュカスの隣の席に本を置いてくれた。
仕事に戻るハールに礼を言い隣の席につくと、リュカスが積み上がった本に驚いた声を上げた。
「こんなに読むの?」
「はい。しょうかいされました」
「マティスかジョルジュに?」
「今日はソフィアでしたが、……そうですね。同じ人だと思います」
「ソフィア? ……も、いるのか。会ったことないな」
それに関してはそれほど驚いた風ではなく、ふうん、とリュカスは呟いた。
人によって、見せる人物を変えているのか、とソレルは思った。リュカスもすべてを知っているわけではないらしい。
「ウィレンティアの歴史、地理、童話、魔法の基礎……、このあたりはまあ普通だけど、『暗殺の歴史』『毒百選』『収賄罪と処罰』『料理の基本』? 何を考えて紹介してるんだ……?」
不可解そうに首を捻っている。
リュカスが紹介した本も初めて本を読む者には大概難しい内容だったが、そのあたりはなんとも思っていないらしい。一応初学者向けでもあったし、ソレルも読んでいて楽しかったから問題はない。
「読むのが楽しみです」
ソレルは新しいことを知れるのなら内容はなんでも良かった。にこにこしているソレルに、リュカスは苦笑する。
「――ならいいけど」
ソレルは読み始める前に、リュカスに昨日の礼をする。
リュカスが問題を書いてくれて、ソフィアが添削してくれた紙や、リュカスに紹介してもらった本の内容をまとめたものを見せる。
リュカスは計算問題をすべて解いていることを褒め、本の内容をまとめた紙に目を移すと驚いたように手を止めた。
「これは……。昨日紹介した本だけじゃなくて、組織一覧や簡単な王宮見取り図まで……」
組織一覧や見取り図に関しては、忘れないように思い出しながら書き留めただけなので、ソフィアには見せていなかった。
「組織一覧や見取り図は思い出しながら書いたのかい?」
「はい。わすれないように」
「これを、一晩で……」
無意識なのか、顎に手をやり考え込むように唸った。
「――ソレルは鳥、だったよね?」
やはり、リュカスは正確に使い魔というものを理解している。ソレルの本性に言及されて、内心驚く。
「はい。ふくろうです」
「ああ……、それで。なるほど、そういうものなのか……」
ソレルが意味がわからず、首を傾げていると、リュカスは辞書のある頁を開いた。
「もりのけんじゃ……?」
四阿でソフィアも同じようなことを言っていた気がする。
辞書には『森の賢者』とは梟のことだと説明があった。梟なら自分のことだが、故郷で梟のことを『森の賢者』などと呼ぶ者はいなかった。梟は梟だ。それ以外に呼びようがない。だが、人の間では違うらしい。
辞書には簡潔にしか書かれていないが、梟は人の言い伝えでは知恵を司る神の従者であるらしく、しばしば知恵の象徴として描かれる。転じて、梟は『森の賢者』と呼ばれるようになったという。
梟が神の従者というのは初耳だった。神様というものの存在がよくわからない。従者というなら、ヴァシル王子の従者になった覚えしかない。
「わたしの主はヴァシル様です」
「うん、それはわかっているよ」
神の従者とは使い魔と同じようなものだろうか。そのあたりがよくわからず、首を傾げる。その様子にリュカスは肩を竦めると少し笑った。
「単なる神話、言い伝えだから本気で考えこまなくていいよ。何も本当に神の従者だなんて思ってない。梟はそう呼ばれることもあるってこと。ただ賢いってのは本当だったなんだな、と思っただけ。賢者と呼ばれることに誇りを持てばいい。使い魔にしたらこれほど優秀なものはないってことだったんだね」
「ほこり……」
賢いとか優秀とか言われることには首を捻らざるを得ない。ソレルは自分がものを知らないことをよくわかっているし、優秀な使い魔というのはフェデリタースのような者のことを言うのだと思っている。
だが、知恵の象徴というところに引っかかりを覚える。フェデリタースは部屋を見てもわかったが、ほとんど本は読まないようだった。興味があるのは専ら剣に関することばかりだ。そして、たぶんあまり考える、という行為はしない。
考えなくても体が動くのだろし、ヴァシル王子のお言葉に従っていれば良い、と思っている節がある。
対してソレルは考えることだけは得意だった。役に立つかどうかは別として、長い夜、時には昼間も、何かを考えていることに苦はない。むしろそのせいでぼんやりしていると怒られることの方が多かった。考えるという行為が役に立ったこともなかったのだが。
それが知恵の象徴などと言われて有り難がられる梟の特徴のせいだったとしたら?
――「知恵の象徴」と言われるように、本当に知識をつけていけばいいのではないだろうか。
幸い、今のところ本を読んだり、何かを書いたりすることに苦痛はなかった。それどころか、もっともっと、と心が逸る。
――人には得意不得意がある。使い魔もそうだとしたら?
犬であるフェデリタースと同じなはずはないし、できないことがあって当たり前だったのだ。自分に得意なことは何かを見つけていけば、いつかヴァシル王子のお役に立つこともあるのではないだろうか。
ソレルは猛然と本を読み出した。砂地に水が染み込むように、文字が頭に入っていく。空っぽで真っ白だった頭の中にはいくらでも隙間がある気がした。一度何かを知ると、知らなかった時より不思議と餓えを感じるようだった。もっともっともっと、という自分の声が聞こえるかのように、何かにせき立てられて、先を急ぐ。
それ以上はリュカスの声も碌に届かず、結局閉館の鐘が鳴るまで、ソレルは本から目を離さなかった。
読み終わった本は返し、残りは借りていくことにして、本を抱えてよろよろしているとハールが見かねて小さな台車を貸してくれた。どうもソレルが本を落として破損でもしないかはらはらしているようだった。普段ハールが仕事で使うものを「特別ですよ?」と出してきてくれた。
「返すのは次来る時でいいですよ」
「ありがとうございます」
お茶の時間に侍女が茶器などを載せて運ぶ台車に似ている。二段になった台の上の方に借りた本を載せ、下の方に紙類や文房具を置いた。
安定して運べて楽だ。便利だな、と感心してフェデリタースの部屋に戻った。
王子の就寝を見届け、その夜も人の姿のまま部屋に戻るフェデリタースについていく。フェデリタースももう何も言わなかった。
部屋に戻り、さらに増えた本と台車に眉を潜める。
「この台車は?」
「もらったんじゃありません。図書館の人が貸してくれただけです。明日返します」
「……そうか」
フェデリタースは台車に関してはそれ以上何も咎めず、思い出したかのように物入れから包みを取り出した。
「部屋着だ。三着ある。ヴァシル様にお許しをいただいて用意したものだ。ここではそれを着ろ。絶対に裸でうろうろするなよ」
手渡しながらもう一度「絶対だぞ」と念を押される。
頷いて開けてみると真新しい黒い服が入っていた。昨日、フェデリタースが貸してくれたものと似ている。上下三着ずつあるようだが、従者のお仕着せ一着よりずっと軽くて嬉しくなる。
「既製品だが、お前用に大きさは合いそうなものを選んできた。黒いから汚れは目立たないが交互に着てたまに洗濯にも出すように」
「はい。ありがとうございます。……着ていいですか?」
言うなりもう脱ぎ始めているソレルにフェデリタースは溜め息を吐いて頷くと、日課の剣の手入れを始めた。服は着てみると袖丈や足の長さに問題なく、捲り上げる必要もなかった。軽さに嬉しくなり、寝台に腰掛けると早速続きを読み始めた。
フェデリタースが風呂に行ってしまうと机が空くので、ソフィアからもらった計算問題をできる限りこなす。半分ほど終わったところでフェデリタースが戻ってきた。
開ける前にだいぶ身構えたらしく、慎重に扉を開けてソレルがきちんと服を着ているのを見るとあからさまにほっと息を吐いている。
洗濯物の籠を持って出して戻ると、王子の私室に向かう準備をする。まだ読み終わっていない本と書きつけ用の紙、文房具も持った。
「まだ読む気か?」
呆れたようなフェデリタースにソレルは頷いた。
「夜が長いので。しばらく起きているのはいつものことです」
「……そうか」
すると、急に荷物を取り上げられて、フェデリタースに鳥に戻れと言われる。本を持ち上げられてしまい、頭上にあるそれにぴょんぴょん飛びつこうと跳ねた。
「どうしてですか?」
跳ねているソレルの手に届かないところまで持ち上げられるので、いくら手を伸ばしても届かない。
「その格好だと戻れない。ヴァシル様の私室に人の姿で入るのが許されているのは私だけだからだ。いくら従者で顔を知っているとはいっても今日は許可を取っていない。揉めると面倒だ。荷物は持っていってやるから。それが嫌ならここで夜を明かせ」
フェデリタースの言うことももっともだった。荷物を持ってくれるなら問題ない。ここで好きなだけ本を読むことも魅力的な考えだったが、ヴァシル王子の側以外で就寝したことがない。それは至極不安なことだった。
梟の姿の方がずっと楽なのだから、梟に戻ることに異存もない。逸る気持ちを制御できず、気づいた時には梟に戻っていた。
昨夜に続いて服に埋もれてじたばたしているソレルを、フェデリタースは溜め息を吐いて今夜も救出してくれた。




