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四日目(3)新たな本と初めての貸出

 図書館に入ると、先に受付の台に向かう。

 近くにいる臙脂の官吏服を着た司書に声をかけると昨日と同じ男性だった。向こうもソレルの顔を覚えていたようだった。


「ああ、昨日ジョルジュと一緒だった……、新しい従者の方ですか?」

「はい、ソレルといいます。ヴァシルさまにおつかえしています」

「あ、これはご丁寧に。そうですか、ヴァシル殿下の……。私はハールです。よろしくお願いします。――昨日と同じ資料を?」

「はい。じしょだけ」

「辞書だけですね。少々お待ちください」


 今日は計算をやるつもりなので、本来辞書はいらない。しかし、手元に置いて眺めたかった。時間があればいろいろ調べてみたかった。

 ハールは資料の用途については一切詮索せず、ほどなく台の上に辞書が用意された。


「これは貸出禁止資料です。お帰りの際にこちらにお返しください」

「はい」


 持ってきた紙束や筆記具と辞書を抱えて席を探していると、昨日と同じあたりにたくさんの本を積み上げたリュカスがいた。


「こんにちは」


 ソレルは近づいて、声をかける。本に埋もれるようにして難しい顔で集中していたリュカスが、びくっと顔を上げた。


「……ああ、ソレルか、びっくりした。こんにちは」


 資料で溢れた隣の席を慌てて片付け、ソレルに譲ってくれる。


「良かったら、隣どうぞ」

「ありがとうございます」


 礼を言って隣に座った。

 早速、マティスにもらった練習問題を取り出して始める。持ってきた辞書を開かず、計算をはじめたソレルにリュカスは不思議そうに手元を覗き込んだ。


「今日は算術かい?」

「はい。宿題です」


 使われないのに傍らにある辞書に目をやって、リュカスは軽く笑みを落とした。


「辞書、今日も持ってきてるね?」

「はい。あとでよみます」

「ふふ……、本当に気に入ったんだね。計算、何かわからないところがあれば訊くといいよ」


 時々、リュカスにわからないところを聞きながら問題を解いていく。簡単な計算ながら、数字を足したり引いたりしていくのは面白かった。紙にいっぱいに書かれた問題の空白が埋まっていくのは楽しかった。

 四半刻もしないうちにマティスから出された宿題が終わってしまい、物足りなさを感じる。


 リュカスがその様子に気づいて、もう少し難易度の高い問題をサラサラと紙に書き付け、出してくれた。それも終わってしまうと、リュカスは少し興味深そうにソレルを見て、簡単なかけ算とわり算を説明してくれる。


 ソレルはにこにこしながら問題を解いていった。かけ算とわり算は足し引きよりずっと難しい。ただ、それを解けた時の充足感はずっと大きかった。


 ソレルの字はあまりうまくない。ペンを持つのがあまり上手ではないからだ。ただ、何度も繰り返すうちにだんだん慣れてきた。最初はよくペンを取り落として、転がしてしまっていた。簡単な計算の紙のあちこちにはインクの汚れが目立つ。しかしそれも、紙を替えるごとに減っていった。

 数字は文字より種類が少なく、書くうちに綺麗に書くコツもわかってきたのだ。


 厨房の料理人が「練習すればうまくなる」と言ったことは本当だ、と実感した。上達の速さは物によって違うらしい。文字を書くことに関してはずいぶんうまくなった。


 そういえば、と思い出す。最近、西離宮の端から端まで歩き回っているためか、歩くことが苦ではなくなった感じがした。まだ時々転ぶが、前よりは減った。なんとなくふらふらしていた頃は王子の私室からそれほど離れたことがなかった。それが今は毎日西離宮の端っこにある厨房に出入りしたり、本宮のすぐ側にある図書館に来たりする。目的地を持って歩くと、歩くこと自体に苦痛が減った。


 ソレルはふと、もっと練習すればできることが増えるのかもしれない、と気づいた。


「どうかした?」

「いいえ。――けいさん、おわりました」

「速いね」


 リュカスは驚いたように目を瞬く。そして何か思いついたように立ち上がった。


「そうだ、ちょっと待ってて」


 二冊の本を持って戻ってくる。二冊ともそれほど厚くはない。一冊は緑色の表紙の綺麗な本で、もう一冊は茶色い表紙のそっけない本だった。


「こっちが、算術の歴史や有名な数学者について書いた読み物。こっちが会計の基本理論」


 緑色の方が算術や数学についての本で、茶色の方が会計の本だった。


「数字に興味あるなら面白いと思うよ。僕が勉強を始めた頃に読んだことある本だから、それほど難しくないはずだし。読んでみたら?」

「はい」


 緑色の本をまず開いてみた。わからないところは辞書を引きながら読んでいく。最初は一ページ読むのに時間がかかったが、初学者向けなのだろう、表現や使われる単語は平易で似たような言い回しが多く、次第に読むのが困難ではなくなった。


 読み進めるうちに、わくわくしていく。

 ソレルはすぐに夢中になった。

 半刻もかけずに読み切り、もう一度頭からページをめくる。


 書き留めたい、と思う言葉がいくつも出てきた。数学者の名前や名だたる定理の名前。ある定理を解くまでの逸話。面白い、と思ったことのすべて。


 ソレルは夢中で書き出し始めた。


 数字を書くうちに、ペンの扱いはだいぶましになっていた。今度は文字を綴っていく。綺麗な字ではないが、本の字体を手本に書き連ねていく。

 文字で紙を埋めていくと、持ってきた紙が足りなくなった。ソレルはようやく手を止め、立ち上がる。

 集中していたように見えたソレルが唐突に立ったため、リュカスは驚いて傍らのソレルを見上げた。


「どうしたんだい?」

「紙がなくなりました。とりにいってきます」

「少しなら、余ってるのあるからあげるよ。取りに戻るのは大変だろう」


 リュカスが自分の紙を差し出すが、ソレルは困ったように首を振った。


「フェデリタースに人からものをもらってはいけないといわれました」

「ああ……、これくらいはいいと思うけど……まあ、そうだね。間違ってはいない」


 リュカスは差し出した紙を引っ込めた。


「なぜ、人からものをもらってはいけないのですか?」

「え?」


 ソレルが不思議そうに問うてくるので、リュカスは虚をつかれたように目を見開く。


「これはマティスにもらいました。ものをもらうことはわるいことですか?」

「マティス? ああ……、マティスなら大丈夫だと思うけど。そうだなあ。内容と高価さと誰からもらうかにもよるかなあ」


 ソレルは首を傾げてリュカスを見た。


「厳密に線引きをしようと思うと確かに難しいね」


 リュカスは軽く笑って、ソレルに手で座るように示す。


「物というものは、人と人の間でやりとりされる際、何かの対価を支払うことになる。物々交換だったり、お金だったり。……お金って、ソレルは知ってる……よね?」


 ソレルは王城から出たことがない。王城内で王子の側にいる限り、直接金のやりとりが必要になることはない。


「はい。きんかやぎんかのことですよね? はたらくとお金がもらえることはしっています」


 王子からソレルも給金は出ているようだった。ただ使い道もわからないし、それらはすべてフェデリタースが管理していた。どこに置いてあるかも知らない。今まで必要なかったからだ。


「お金を金貨や銀貨というところがすごいけど……、まあいいか。本来、この紙だって原材料の値段と作った人の手間賃、運送料、仕入れて売った商人の手数料が含まれる。無料じゃない。何かを手に入れる時、人には対価を支払う義務がある」

「たいか……」

「王宮内で支給された物の他に個人的に物をもらうことは気をつけなければいけない。あげた方は当然対価を支払ってもらえる、と思っているかもしれないから」

「あげる、といっていても?」

「そう。対価を期待している場合もある。ただその対価は直接的な金額ではない場合もある」


 リュカスは辞書の『賄賂』の項目を見せた。「職務に関する不当な報酬。施政者や官吏に対して法に反した権利を行使させるために送る金品のこと」とある。


「わたしはかんりでも王族でもありません」


 自分にできることはないのに、とソレルは困惑する。


「そうだな。でも、ソレルの主は王族だから、ソレルに近づくことで王族と仲良くなれる機会を得られる、と思う人もいるかもしれない。向こうから見たら、ソレルは王族に近しい人だから」


 リュカスは困惑するソレルを真っ直ぐ見つめた。そして声を潜める。


「ただ、ソレルが本当に気をつけなければいけないのは便宜を図ってもらおう、とする者だけじゃない。ヴァシル様を傷つける者のことだ」

「きず……?」

「王族に近づきたいと思う者と同じくらい、排除したいと思っている者もいる」

「はいじょ……」


 リュカスは普通の調子に戻って、軽く笑って見せた。


「僕は、ソレルが無条件に信じていいのは、ヴァシル様とフェデリタースとジョルジュ……今日はマティス? マティスと僕らアーヴェルの者だけだ、と思っている。――ただ、それを決めるのはソレル自身だよ。誰を信用できるか決めるのはソレルにしかできない」


 ソレルは少し黙り込み、考える。そして、やはりわからなかったので尋ねてみた。


「ちゅうぼうでたべものをもらいました。それもわるいことでしょうか? ヴァシルさまをきずつけますか?」

「ちゅうぼう……って、厨房? 料理を作るところ? ソレル、厨房に出入りしているのかい? 何をもらったんだい?」


 驚いたようにリュカスに尋ねられて、ここ数日のことを順を追って説明すると、最後にはリュカスは吹き出した。


「厨房の者と仲良くするのは悪くないと思うけど……。それは賄賂というよりコレだなあ」


 再び辞書を開いて、ある項目を指差した。

 そこには『餌付け』とあった。「野生動物に餌をやり、人に馴らすこと」と説明されている。

 ぱたり、と本を閉じてリュカスが微笑む。


「食事というのは直接体の中に取り入れるもの。古くから王侯貴族は常に毒殺の危険性を考えなければならなかった。毒を入れるなら料理人が一番簡単だ。そこを掌握できることは良いことだよ」

「どく……」


 ジョルジュも「良いことだ」と言っていた。それはこういう意味だったのか、とソレルは思った。


「まあ、フェデリタースのいう通り何かもらう時は常に考えた方がいい。仲良くなるためだけの場合もあるし、便宜を図ってもらおうという下心の場合もあるし、あるいはヴァシル様を傷つけるためにお側に近づく手段かもしれない。単なる善意の場合もあるけど。それを判断するのはソレルの仕事だ。――だが、ソレルが判断を間違ってたとえヴァシル様が傷ついたとしても、そういう使い魔を使う主の責任だと僕は思う」


 柔和に微笑みながら、その言葉は辛辣だった。ソレルは背中がひやり、とするような感じがした。




 結局、リュカスのものは断り、紙はもう一度部屋に取りに戻った。

 再び図書館に向かいながら、自分が毎日厨房に出向いてしまうことについて考える。

『餌付け』という言葉を知り、確かに、と思う。


 ――間違いではない。


 戻るとリュカスにさらに本を渡された。

 黒い表紙の本だ。内容は経済学の入門書だった。


「そもそもお金ってなんなのか、そこから知った方がいいかもね。会計学についてもわかりやすくなると思う」


 算術についての本の中で気になる部分を抜き出してしまい、経済学の本を手に取ったところで閉館時間になった。

 リュカスが今日も貸出手続きをしている横で、ソレルは手の中の資料に目を落とす。


「わたしもかりていきたいのですが」


 ちょうどハールがいたのでお願いすると書類を出してくれた。算術の本は返して経済学と会計学の本だけ借りていくことにする。

 書類のわからないところはリュカスに聞きながら、書いていった。

 初めて借りた本を大切に抱えてフェデリタースの部屋に戻り、紙束や筆記具、借りてきた本を置かせてもらった。

四半刻→約30分なので、四半刻が四つで一刻(約2時間)

半刻→約1時間くらい。

厳密には違いますが、そんな感じで読んでいただければ。


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