四日目(2)三回目の回答とたくさんの紙
午後に四阿に向かうのは四度目になった。
今日も同じ時間に向かうと、やはり人が待っていた。そしてやはり、今日も違う姿をしている。
「こんにちは」
ソレルが声をかけると、何か本を読んでいた男性が顔を上げた。
「こんにちは、ソレル」
名前を呼ばれたので待ち合わせの人で間違いないようだった。
「きょうのきぶんは? ジョルジュ、ではないですね?」
ジョルジュより大きな人だった。ふっと笑って、その人も隣をぽんぽんと叩いた。促されてソレルは隣に座る。
「今日の気分はマティスだよ」
「こんにちは、マティス」
「はい、こんにちは」
マティスは侍従のお仕着せに身を包んでいた。ジョルジュよりも背は高く、声は低い。薄茶色の髪に綺麗な緑色の瞳をしている。
毎日まったく違う姿をしているが、ソレルは不思議と違う人と話しているようには感じなかった。口調も声も違うけれど、仕草や表情がどことなく似ている気がした。
ソレルは人の顔形だけでなく、少しずつその表情の違いがわかるようになってきていた。
「さあ、今日も宿題の答えを聞かせてもらおうか」
「はい」
ソレルは昨日、そして今日、知ったこと、考えたことを話す。本宮の官吏の仕事を一通り説明し、洗濯婦やセッペたちと話した内容を伝えた。
「たくさんのしごとがありました。ひとつひとつにいみがあって、それをこなす人がいます」
「そうだな」
「それぞれのてじゅんやせきにんがあって、それをくるわせてはいけません。わたしは、しらないことがおおすぎます。だれがなにをひつようとしているのかわかりません。わたしじしん、なにができるかも」
ソレルは自分の手を見た。不器用でうまく動かせない指。ただ、野菜の皮を剥くことはできた。簡単なものだけど、できることがあった。
「ただ、できることをしりたい、とおもいました。いろいろためしてみたい。たとえ、おこられても」
「そう」
「図書館はたのしかったです」
マティスを見て、ソレルはにこりと笑った。マティスは軽く眉を上げた。
「そうか……、それは良かった。特に何が楽しかった?」
「じしょが」
「辞書?」
「はい。まわりに色がつきました」
「色?」
ソレルは言葉が足りないことがもどかしかった。もっとたくさんの言葉を知りたいと思った。
「しらないことがあることにも気づいていませんでした。わたしのまわりはいつもぼんやりして、せまくて、しろくて、じぶんのかたちもよくわからなかったのです」
「狭くて白い?」
「はい。まいにち、きりの中にいるようでした」
「ああ……」
「でも、じしょをひけばひくほど、まわりのもののかたちがよく見えてきて、わたしはちいさく、わたしのまわりは広くてどこまでもひろがっていました。はじめて、目をあけたような気がします」
懸命に言葉を重ねるソレルに微笑んで、マティスはその頭を撫でた。
「うん。知らないってことに気づくのは重要なことだ。知らないことは今から知っていけばいい」
マティスは手を下ろすと、傍らから大量の紙束と筆記具を一式取り出した。それをどさり、とソレルの膝の上に置いた。膝の上で山になった紙束が雪崩を起こしそうになって、ソレルは慌てて抱えるようにする。
「こ、これは?」
「筆記具と反故紙。あと、簡単な計算問題」
「はい?」
「ソレルは計算は?」
「かんたんな数字はよめますが、けいさんはできません」
「ん、そうか。じゃあ、このへんからやってみるといい。足し算と引き算。数字がわかると世界はよりくっきりする」
マティスは、足し算引き算を簡単に教えた。数字と記号、例を出していくつか実際にやらせてみる。
練習問題をたくさん書いた紙も渡す。
「明日までにこれだけやってみて。反故紙は練習にいくら使ってもいい。計算に使ってもいいし、気になる言葉や考えを書き出してもいい。書くと覚えるし、考えもまとまりやすくなる。全部使ってしまったらまた新しい紙をあげるよ」
わからないことがあればリュカスに聞くといい、とマティスは笑った。全部は図書館に持って行けないだろうから、問題と持てる範囲内の数枚を持って図書館に行くといいよ、と言われてソレルは少し困った。
「のこりはどこにおいておけばいいですか?」
「ん? 自分の部屋に持って行けばいいだろう?」
「じぶんのへやはありません」
「え? ない……って、私物はどうしてるんだ?」
「ふくはフェデリタースのへやにおいています。わたしのものはほかにはありません」
「フェデリタースと同じ部屋ということ?」
「いいえ。フェデリタースのへやはわたしのへやではありません。わたしはヴァシルさまのおへやですごします」
「私室が……ない?」
「はい」
呆然としたような呟きに、ソレルが頷くとマティスは束の間沈黙した。
ソレルが不思議に思って首を傾げていると、漸くマティスは瞬いて、うっすらと唇の両端を上げた。
笑顔……、のような気がソレルにはするが、なぜだか温かい感じはしない。周りの温度が下がっていくような気がした。
「そうか……、それはいよいよ教育的指導が必要だ……」
氷点下の微笑みに、ソレルの首は傾きっぱなしだ。
「わたしは、なにかまちがえましたか?」
「いや。ソレルは何も間違っていない。ソレルに怒っているわけでもない。……間違っていたのは私の方だ。ああ、本当にどうしてくれようか」
最後の方は低く呟きすぎて、もはや地を這うようでよく聞こえない。マティスは一度目を閉じ、心を落ち着かせるように深い息を吐いた。そしてソレルの頭をぐりぐり撫でる。
「ソレルは気にしなくていい。……そうだな、しばらくはフェデリタースの部屋に置かせてもらうといい。どうせあいつもほとんど部屋なんて使ってないだろうから」
「はい」
「また明日、計算の答え合わせをしよう。宿題だよ」
長い指が撫でるのが気持ち良くて、ソレルはふふっと笑いながら頷いた。胸には大切に、筆記具と紙束を抱えて。
図書館に行く前に、フェデリタースを捜した。
この時間、王子は体術か魔法の訓練中のはずだった。西離宮にある鍛錬所に向かう。
王城内には王立騎士団の鍛錬所もあるが、西離宮のここは王族専用だった。剣術や体術、魔法の訓練などもここでする。煌びやかな装飾がある他の建物と違って、白い床と壁と天井には素っ気なく何もない。中央には柱もなく、ただ広く、天井が高い。
入口に立つ護衛騎士に断って中にそっと入る。中には王子と体術の教師、護衛騎士しかいない。体術や剣術の時、侍従や侍女はつかない。従者がつくことも稀だ。例外がフェデリタースだった。フェデリタースだけはほとんどの時間王子に付き従う。特に剣術は一緒に稽古したりもするが、体術や魔法の時は少し離れた場所から邪魔にならないように眺めていることが多い。
「フェデリタース」
近づいて、小さく声をかけた。入口から入ってきた時に、フェデリタースが既に気づいているのはわかっていた。声をかけられて、フェデリタースがちらとソレルを見た。
「なんだ?」
王子の訓練の邪魔にならないよう、フェデリタースも小声で答えた。たくさんの紙を抱えるソレルに不審そうな視線を向ける。
「これ、へやにおかせてもらえませんか?」
「……これは、どうした?」
「マティスにもらいました」
「マティスとは誰だ」
マティスはフェデリタースをよく知っているようだったが、フェデリタースはその名前に覚えがないようだった。それを少し不思議に思う。
「今日は侍従の服をきていました」
ソレルの答えも答えになっていない。しかし、ソレルにマティスが誰かなど答えられようがなかった。マティスはロイーゼであり、ユリーであり、ジョルジュだった。それ以上のことを知らない。
ただソレルにとって、ソレルの周りの人が「誰か」など考えたことがなかった。ヴァシル王子の周りの人間で、ソレルが詮索する必要のある人などいなかったのだから。
「マティスなんて侍従がいたか……? 紙も安くはない。あまり簡単に人から物をもらうな」
「……はい」
「見たところ反故紙だが……、体よく塵を押しつけられたんだろう。書き付けに使えなくはないから部屋に置いておいてもいい」
フェデリタースは私室の鍵を渡してくれた。
ソレルは礼を言って、鍛錬所を出た。使用人棟に向かいながら、ふと何かがひっかかった。
歩きつつ、マティスは誰なのだろう、と思う。
少なくとも「殿下」と呼ばれる人に仕えていることは間違いがない。ただソレルが知らない以上、その殿下はヴァシル王子ではない。王城内に殿下と呼ばれる人はたくさんいた。王子や王女たち、国王以外の王族は殿下と呼ばれる者が多い。ソレルには特定できなかった。
もし、ひとりの人物なのだったとしたら、なぜ毎日違う姿でいるのだろう。性別さえ違う。ソレルは自分が鳥から人へ姿を変えられるからあまりそれを疑問に感じなかった。しかし、自分は人の姿もひとつしかない。フェデリタースもそうだ。ヴァシル王子の周りの人間もいつも同じ顔をしているし、日替わりで違う顔の者はいない。
マティスは――マティスであり、ジョルジュであり、ユリーであり、ロイーゼであるあの人は、一体誰なのだろう。
リュカスは「今日は」と言った。少なくとも、リュカスはジョルジュ以外も知っている、ということだ。
フェデリタースの私室に紙の束を置くと、ソレルは図書館に向かった。




