三日目(6)フェデリタースと就寝の時間
その夜、いつものように王子が就寝したのを見届けるとソレルは梟の姿に戻った。ソレルが脱ぎ捨てた服をフェデリタースが集め、部屋を出て行こうとする。それもいつものことだ。
ソレルには私室がない。私物はほとんどないし、夜は梟の姿で王子の寝室の続き部屋にある、隅に置かれた止まり木で休む。
フェデリタースは使用人棟に、武器やそれを手入れする道具、服などの身の回りの物を置く私室があるが、ほとんど使っていないようだ。武器の手入れや就寝の準備が済むと戻ってきて、こちらも王子の私室で犬の姿――フェデリタースの本性である黒い犬――になって休むのだ。戻ってくるとソレルが明日着る従者のお仕着せを一式用意してくれている。
それに疑問を感じたことはなかったが、今晩はついていってみることにした。
部屋を出ようとするフェデリタースの肩に留まった。
「どうした?」
普段と違うソレルの行動にフェデリタースが驚いてソレルの留まった左肩に声をかけた。
「ついていってかまいませんか?」
人には鳥の囀りにしか聞こえないが、使い魔同士なら、鳥の姿でも言葉が通じる。
「構わないが……」
フェデリタースは不思議そうに首を捻ったが、そのままソレルを肩に乗せたまま、使用人棟まで行った。私室に入ると、ソレルの服を籠に入れ、椅子に腰掛けてしばらく武器の手入れをしていた。
寝台の端に留まり、その様子を眺める。
腰に佩いた長剣から、続いて短剣、体に仕込んだいくつかの小さな刃物。順番に研いだり磨いたり、刃こぼれや緩みがないか点検したり、数を確認したりしていた。
それが終わると、浴布と黒い部屋着を持って使用人用の共同浴場へ向かった。ソレルはそれにも肩に留まってついていく。
浴場は人がまばらな時間帯だったが、それでも数人は利用者がいて、フェデリタースの肩に留まったソレルを見るとぎょっとしたように動きを止めた。しかし、大騒ぎにならないのは王族の紋章が入った金の足輪をしているからだった。王城内にいる獣は例外なく王族の使い魔か愛玩動物だ。体のどこかに紋章入りのものを身につけている。それに下手に手を出せば、不敬罪で処分されるのは手を出した方だ。
王子に与えられた金の足輪は魔道具で、鳥の姿になっても緩むことなく大きさを変え、誂えたようにぴたりと脚に収まっていた。
「お前も入るのか?」
服を脱ぎながらフェデリタースが尋ねてくるが、ソレルは首を振って脱衣棚の上の方に飛び上がり、目立たないように留まった。
「ここでまっています」
フェデリタースにはそう聞こえただろうが、ほう、と鳴いたように聞こえた他の人達がびくり、と震えるのが見てとれた。
頷くとさっさと浴場に入って行くフェデリタースを見送って、ソレルは目を細めた。
人の姿でないときは浴場についてくるのは止めよう、と思う。目立ちすぎる。かと言って、人の姿で風呂に入る気にもならなかった。
人の姿になれるようになってすぐ、浴場に連れてこられたことがあったが、温かい湯がどうしても苦手だった。普段は、侍従が王子の朝の支度のついでにソレル用に盥に水を用意してくれてある。それでサッと行水すれば、人の姿でも見苦しく汚れて見えることはなかった。
フェデリタースは風呂は苦手ではないようだった。毎晩きちんと湯浴みをし、小綺麗にしている。湯が苦手ではないところも自分とは違う、とソレルは思った。
ソレルは目を閉じてフェデリタースを待つ。動いていないと木で彫った置物のように見える。後から入ってきた者がたまにソレルに気づいても「なぜこんなところに梟の置物が?」と思うくらいで、特に驚かれることもなかった。
存在感を消すのは得意だな、とソレルは思っていた。
フェデリタースが戻るまで目を閉じたまま、考え事をする。
――侍従や侍女や護衛騎士の主は国王であり国民。ソレルの主はヴァシル王子。その違いは?
昼間にリュカスに考えてみるといい、と言われたこと。
その違いと意味とは?
フェデリタースはそれほど時間をかけず戻ってきた。黒い部屋着に着替えるのを待ってから、棚の上から飛んでフェデリタースの肩に留まる。ソレルを肩に乗せたまま私室に戻ると、ソレルの服と自分の汚れ物を入れた籠を抱えて部屋を出た。
使用人棟の入口近くに似たような籠がたくさん置いてある場所があった。他にも汚れ物が入った籠が置いてあり、そちらに籠を置くと、積んである空の籠からひとつ取って、いくつかある棚の中から従者のお仕着せが綺麗に畳まれたものを取り出して入れる。他に浴布や手巾や下着など、洗われたものを手早く籠に入れていった。
いっぱいになった籠を再び抱えると私室に戻る。分類して収納された物入れに布や下着類をしまうと、明日ソレルとフェデリタースが着る分だけ取り出す。剣帯をつけ、長剣と短剣だけ腰に佩いて、着替えを持つと使用人棟の私室を出た。使用人用の出入り口から王子の私室に戻ると侍従や侍女が誰も残っていないのを確認してから服を脱ぎ、犬の姿に戻った。
不寝番の侍従や護衛騎士は寝室を挟んで反対側にある控え室にいるため、変化するところを見られることはない。使用人用の出入り口も当然護衛騎士の警護の範囲内だが、扉の前で夜通し警護する護衛騎士には王子が言い含めてくれてあるため、フェデリタースが私服で出入りしても咎められることはない。毎晩のことであれば、ちらりと視線を向けられるだけでどうということもなかった。
部屋に入ると、ソレルは定位置の止まり木に留まる。フェデリタースも自分用の寝床に納まると、ほどなく寝息を立て始めた。
ソレルは小さく、ほう、と鳴いた。
人の声なら「なるほど」と聞こえたことだろう。
ソレルは使用人棟にほとんど行ったことがなかった。自分の服がどう洗濯されているのか、汚れ物をフェデリタースがどこへ持って行っているのか。そんなことを疑問に思うことをしてこなかった。
ソレルは知らないことを知ることによって目の前の世界に急速に色がついていくような気がした。何も知らなかった、ということを初めて知ったのだった。知らないということに気づいただけで、世界はものすごく広くなった。自分の周りには、色鮮やかで、どこまでも果てのない世界が広がっていた。
ソレルは飽きることなく、考え続けた。
人の姿だと、王子が就寝するくらいの時間にはくたくたになっていて、うとうとし始める。魔力も減るので人の姿を保つことも難しかった。梟の姿に戻ると、重い服を脱ぎ捨てたように体が軽くなる。その開放感に抗えなくて、人の姿のまま眠るのは無理だった。
だが一方で、梟は夜行性だから、梟の姿に戻ると眠気は飛んでしまい、夜はひたすら長いものになった。普段ならぼんやり朝を待ち、夜明け頃にやっと眠りに落ちる。フェデリタースも寝てしまい、飛ぶことも許されていない身では夜はあまりに長かった。翌日人の姿になっても、夜の間のぼんやりに支配されたようにソレルの周りの世界はぼんやりとぼやけたままだった。
しかし、どうだろう。ロイーゼと出会ってからの三日間、夜の時間が退屈だと思ったことがない。
朝が来るまでめまぐるしかった一日を思い返し、いろいろなことを考え続けた。




