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コンサート

肆、コンサート


 外は、秋雨が降っていました。だんだんと蝉の声が遠くなっています。

 気が付くと、男はまた少女にギターを教えていました。

「おお、山田元気になったかーよかった、良かった。」

 男の隣には、ナースがいました。いつものように活発そうなオーラがにじみ出ています。

「やあ、今日もよろしく。」

盲目の少女は、そういうといつものようにギターを手に取りました。

「いやー、だいぶ楽譜も完成してきたじゃねえか。これなら何とかコンサートにも間に合いそうだな。」

ナースのそばには、七割がた完成していました。

「ええ、なんとか間に合いそうですね。ただ、俺も最近、ちょっと足りないものを感じるようになったんですよね。」

男は、にやりと笑いました。

「なんだよ・・・気味わりぃな・・・ハッ」

ナースはそういうと、胸元を隠します。

「てめぇ、またなんかいやらしいことを考えていただろう。」

「いえいえ、そんなこと考えてないですよ。」

そんなこと言いながらも、ばっちり男はニヤニヤ笑ってました。

「じゃあ、なんだよ。」

「いや、実は鈴がギターを弾いたとしても、やっぱりリズム隊がひつようだな~っと。」

「リズム隊?」

「ええ、バンドでは一般的にベースとドラムを指すんですが・・・・」

「も、もしかして・・・?」

ナースは、ぎこちない笑みを浮かべました。

「はい。京子さんドラムやってください。」

それに対して、男はまんべんの笑みで答えました。

「いやっ、ムリムリムリムリ。前に言ったろ、私の歌声は凶器にもなりうるって。」

「いや、楽器に歌声は関係ないですから。」

「いや、だとしても私に音楽は無理だって。」

「ボクたちには、無理やりコンサートさせようとしたのに?」

そこで、すかさず盲目の少女が口をはさみました。その一言は、ぽつりと出た言葉のように思えますが、純粋にナースの心臓をぐさりとさしました。

 ナースは、ぎくりという擬音が聞こえてきそうな顔をしてしまいます。

「す、鈴・・・・それはだな・・・・・」

無邪気な顔で、盲目の少女がナースを見つめていました。

(へ、・・・下手な嘘はつけねぇ・・・・)

変な汗が、背中を流れました。

不気味な笑顔で笑う男と、無言で見つめる(?)少女。ナースは、息を詰まらせて、

「分かったよ、分かった分かった、降参だよ。やってやるさ。」

そういうしかありませんでした。

男の笑みが、不気味なものからいやらしいものへと変化しました。

「そうですか。いや良かった、良かった。じゃあ、俺がしっぽりといろいろ教えてあげますよ。」

ナースは、見るからにいやそうな顔をして、

「いいよ。一人で練習するから。」

「何言ってるんですか。時間がないんですよ。ここにいい音楽の先生がいるってのに、それを活用しないなんて・・・」

「だまれ。先生っていうワードににいい思い出なんてないんだよ。」

「まあ、京子さん、見るからに不良っぽい青春送ってそうですもんね。」

ナースは、屈託のない笑顔でその言葉にこたえると、不意に男の手を取って、

今、必殺の卍がためを決め候・・・

「ぎやあぁぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

今日も、病院内に男の不運な叫び声が木霊しましたとさ、めでたしめでたし。












                                        

 

                                      完

 

_____________________________________________________________________________________________

服部京子


無意識のうちに、鏡をのぞき込む私がいた。

 化粧っけのない顔が鏡に映る。普段は、鏡を見ることなんてほとんどないはずなのに・・・・。

 理由は分かってる。

「私、何やってんだろ。」

そう言いながら、髪を整えていた。

 分かっている。・・・この気持ちの正体は。

 でも、それを正面から受け止めることなんてできない。

 いっつも、逃げてばっかりだ。

 あいつは、今日も鈴と一緒に話していた。私と話すときはある仮面。鈴と話すときだけ外れてた。

きっと、私じゃあんな風に話すことなんて・・・・・・。

セクハラをするときにいつも笑う。だから、よく笑うやつに見えてしまう。でも、そうじゃない。気づくと、いつも空を見上げていた。私もつられて空を見る。いつもあいつが見ている空は、何の変哲もない青空で、それを見ているときだけ、あいつは素顔だった。

私がいくらあいつのセクハラに怒鳴り返しても、あいつの気を引こうとしても、嫌ってるふりをしても、ついぞあの素顔を見せることはなかった。

 鈴は、あいつが昔一緒に組んでいた女性と似ているらしい。名前は確か井上美香さんだったか。あいつは、三年前に事故で死んでしまったその人と、鈴を重ね合わせているんだろうか?

 屋上で見たあの光景。何の星空も出ていない夜空を見て二人は笑ってた。私にはわからない。

 蛇口を閉めそこなった水道から、ぽつ、ぽつと水滴が小さなリズムを作っていた。

規則的な音。規則的過ぎるこの音に何かが入り込むことなんてできやしないんだ。

 だから、私はこれ以上・・・・

「・・・何やってんだろ私。」

ふいに出る、私の本音。あいつにいつか、打ち明けられるんだろうか?

 前に、他の看護婦たちが話していた。はた目から見ても、あいつはかっこいいらしい。意外と評判はいいようだ。あいつは、あいつでそこそこ適度な距離を保って話してくる。ぱっと見た感じでは軽いノリのセクハラ男だろうか。でも、絶対にある一定距離近づいては来ない。近づけさせてはくれない。仮面の中の素顔をさらしてはくれない・・・。

 だから、鏡をのぞいたって・・・・・。


意味はない。






 夜の病院そこの離れの地下に特設のスタジオを作ってもらった(婦長には感謝しないと・・・)。本当は、あいつの症状は入院する程度のものではなく、病院の外のスタジオでもよかったのだけど、せっかく作ってもらったのだから仕方がない。

 私と、あいつは二人でそこにいる。男女二人で一つの部屋にいるなんて、私からは結構緊張したりするものなのだけど、きっと、もう一人はそうでないに違いない。

「じゃあ、京子さん、手っ取り早く始めちゃいましょうか。」

私は、ドラムの椅子に座った。あいつは、私の背後に立つ。時折、私の体にあいつの体が触れる。

胸がドキンと、一瞬はねた。あいつは、肩越しに腕を伸ばしてきた。

「ドラムを叩くときは、普通こうやって、腕を交差させるんです。」

無遠慮に私の腕をつかむ。

「ちょっ、てめえ。」


でも、そこには本当は感情なんてものはないんだ・・・。


「はは、これは仕方ないですよね。こうしないと教えられないですから。」


 だって、普通男ならもっと、仕草に出るはず。


「バスドラのペダルに足を置いて。」


口ではもっともらしいことを言う。


「こいつを、ハイタム。こいつをロータムっていって・・・」


でも、動きは女性に接するような動きじゃない。


「スネアは、こうやって叩いてください。」


なんていうかロボットだ。


「腕はこうやって動かすんです。」


・・・・・・ロボットが、必死で人間の真似をしているだけ。


「足はこう動かして・・・・」


だって、


「右手でリズムをとりながら・・・」


女性の手に触れているはずなのに、


「いやぁ、京子さんの体に触れられるっていうのは、なんというか役得ですね。」


お前の手は・・・・


「触れているからって、殴らないでくださいよね。」




・・・・・・・・・こんなにも冷たいじゃないか。




「そうそう、右手で八分音符をキープするんです。」


・・・・。


・・・・私は、


・・・・私は道化師なんかじゃないのに。


「なぁ。」


私は、ドラムを叩く手を止めた。


「なんですか?」


「どうしてだよ。」


じっと、あいつを見つめる。


「?」


あいつも、私を見つめている・・・・・・はずなのに。


「お前は、いつも私を見ていない。」


「・・・・・・え?」


上っ面だけで・・・


「セクハラはしてくるくせに、絶対に私は見てこない。」


「・・・・・。」


今日だってそうだ。


「どうして、距離をとるんだよ。」


「・・・・。」


私を見てくれない・・・


「こんなに近くにいるのに・・・」


私は、意識的にあいつの顔に迫った。少しでもあいつが近づけば、容易にキスできてしまう距離。でも、あいつはそんなことしない。・・・・・・わかってた。


二人の息が触れ合っているのに、どうしてなんだろうなあ・・・・


二人の距離は、とても遠かった。


「悪かったな。」


私は、あいつから顔を離した。


「すいません。」


あいつは、謝った。


「謝んじゃねぇよ。」


余計に・・・・空しくなるだろうが。







_____________________________________________________________________________________________








 神様がいなくなる月がやってきました。紅葉が色づいて、まるで夕暮れのような季節。

 男と盲目の少女は、今日も曲を作っていました。曲はほとんど完成間近というところまで進んでいました。

盲目の少女は、ふと思います。ああ、この曲が完成した時にどのような未来が待っているのだろうかと。

もしかすると、この曲が完成したら男との今の関係は終わってしまうのかもしれません。ですが、完成しなければいいなんてことは微塵も思いませんでした。ただ、ひたすらにこの曲が完成した姿を見てみたかったのです。

思えば、少女がこんなにも何かに打ち込んだことはこれが生まれて初めてのことだったのかもしれません。ですから、楽譜の中に音符が記されていくたびに、今まで味わったことのない、興奮を感じることがありました。一音一音紡がれていくたびに、そこに新たな世界が作られていくのです。 

物語の続きが知りたくて、少女はずっとギターを弾き続きました。まめができて痛むときも、ただただひたすらにギターを弾き続けました。なんだか、楽しくて、楽しくて、ずっと探していた宝物が見つかった、そんな気持ちを抱くことができたのです。

少女は、今日も隣にいる男の声に耳を傾けました。若いようで、軽い口調なんですが、どこか渋みを持っている。男はそんな声でした。他の人の話を聞いていると、男の外見はなかなかかっこいいらしいのですが、少女は目が見えないので、正直、外見のことは特に気にはなりませんでした。

ただ、男の声を聴いていると、なんだかそこに居場所があるような気がして、少し恥ずかしいんだけど、心地よい、そんな気分になれるのでした。

その感情は、やっぱり恋心とかではなくて、どこか親友というか、家族に向けるものというか、純粋な親しみからくるものでした。

でも、だからこそ、そのぬくもりを純粋に受け取ることができたのだと思います。

最近は、ナースともだんだん打ち解けられるようになりました。正直、ぐいぐいとしゃべるナースの口調は、少女にとってあまり好ましいものではなかったのですが、男を媒介として、時間が溝を埋めたようです。

どうやら、ナースは男に恋心を抱いているようでした。盲目の少女はそのことに気づいていたのですが、嫉妬などは当然生まれませんでした。男とナースがうまくいけばいいなとさえ思っていたのです。今回のコンサートの一件を引き受けたのは、少女が歌が好きだというのもあったのですが、二人の関係が近づけばいいなという魂胆も若干含まれていたのかもしれません。

今日もナースと男が漫才のような罵り合いをしていました。その姿はなんだか夫婦漫才を彷彿させます。漫才というのをこの少女はあまり見たことはなかったのですが、二人の声を聴いていると、やっぱりなんだか優しい気分になれるのでした。

少女は、今日もギターを弾きます。神様に愛されなかった少女は、だけど幸せをかみしめていました。 

目が見えないから感じる不幸。でも、目が見えないからこそ感じることができる幸せ。少女はこの数か月で、その幸せに気づきつつあるのかもしれません。

きっと、その幸せはいつも皆の目の前にあって、それでいて、だれも気づきはしない幸せ。きっと、そんな幸せ。


 男とナースは、あの日以降も夜になると、スタジオでドラムの練習を続けていました。ナースのリズム感は、音感同様なんともしがたいものがあったのですが、どうにかこうにか、8ビートぐらいは、まともに叩けるようになりました。

「本当は、もっとおかずも叩けるようになってほしいんですけど、ここら辺が限界ですかね。」

「お前なぁ、これでも一カ月かなり頑張ったんだかららな。」

「どちらかというと、京子さんの頑張りというよりも、指導者の功労のほうが大きいですけどね。」

「うるせぇ。」

ナースは、そういうと今日叩けるようになった部分を再度叩き直しました。

 不貞腐れているのか、口元がタコのように膨らんでいます。

「子供か、あんたは。」

「うるせぇ。」

「まったく、ちょっとリズムがよれてますよ。」

男は、そういってまた指導を再開しました。ただ、なんだかんだ言ってもナースはドラムを練習するのでした。

 ナースと、男は練習を終えて、スタジオを出ました。近くの自販機で飲み物を買って、一息つきます。

「ふぅ。」

お気に入りの缶コーヒーで一服すると、ちらりと男を見ました。男はなにやら夜空を見上げているようです。つられて、ナースも空を見上げてみました。空は、どんよりとした曇り空で、夜だというのに、星の一つも出ていませんでした。そんな浪漫のかけらもない夜空を男は懐かしそうに眺めていたのです。男には、どんな風に夜空が見えていたのでしょう。ナースは、どうしても気になってしまって、聞いてしまうのでした。

「なあ、お前の目にはどんな夜空が見えているんだ?」

「・・・・。」

ですが、男に返答はありませんでした。

ナースは迷います。さらに踏み込んで話をするべきか。でも、結局再度問いかけることができないのでした。数秒の時間が流れます。夜空に吹く吐息は白く、だんだんと季節が冬なってきていることを感じさせました。


「空を見上げるのが好きな、知人がいたんです。」


白い吐息を吐きながら、男はぽつりぽつりと、独り言ともいえるような声音でそう言いました。

「なんというか変わったやつで、面白くもない空を、何時間も見ては喜んでいるような人でした。その時には、こんな空見上げて何が楽しいんだろうって正直思ってたんです。俺は空なんか見たってなんの感情も抱けませんでした。そいつとは、うまくやれてたんですけど、結局本質の部分では、そうではなかったんでしょうね。だから、そいつは俺をおいていってしまった。」

男は、話をしてるんですが、決して曇った夜空から目をそらしません。


「でも、不思議なもんですよね。独りぼっちになったとたんに、今まで何とも思わなかった空が急に綺麗に色づくんです。味気のない青色が心を震わせるような赤色に、一辺倒だった空が嬉しさ、楽しさ、悲しさ、寂しさ、様々な表情をもってしまう。きっと今ならきっとあいつともこう言った会話ができたんだろうなぁ。」


 ナースには男が何を言っているのか、良く分かりませんでした。

でも、星を見上げる男の瞳がなんだか死を間際に控えた患者と同じ目をしていて、それを何度も見てきたナースは、鼓動が冷めていくのでした。

男は、空を見るのをやめました。そして、ナースを見ます。



「最後のライブ、頑張りましょうね。」



ナースはその時になって初めて、男の笑顔を見たような気がしました。









 『紫陽花の歌』


Aメロ

永久に人を、愛することは

きっととても、難しいこと

だけどきっと、それを求めて

人は今日を生きてく


Bメロ

だけどずっと・・・

だけどずっと・・・

だけどずっと・・・

そばで笑えたらいいのに・・・


サビ


もしも、

思い届くなら

君のそばで笑っていたい

願い叶うなら

君のそばで泣いてみたい


この心雨にして

君の花咲かすから。













 完成した、歌詞を二人は見ていました。どうしてこんな歌詞になったのかは、二人でも分かりませんでした。でもなんだかこの歌詞が二人の間ですとんと腑に落ちていたのは確かです。二人の顔に不満の情はありませんでした。

「ついにできたんだね。」

「ああ、・・・・・そうだな。俺と、お前で作った曲だ。」

盲目の少女は、じっと楽譜を眺めていました。目が見えないけど確かに楽譜を見ていました。そこには、半年という長いような短いような淡い記憶の痕跡がいくつも散らばっていて、それら一つ一つが淡い輝きを持っていました。その淡い輝きをこの少女は確かに感じていたのです。   

握る手のひらは何もない柔らかな手のひらから、何度も肉刺がつぶれて硬い手のひらに、肌の色は、病的なほどの白から、血の通う女の子らしい白色に、口元は、一切開くことのない寂しいものから、少しずつ笑顔の見られる優しい口元に。一年にも満たないわずかな時間。でも、間違いなく変化している時間。楽譜を握る少女の後姿は、あどけなさを残す女の子から、少し深みのでてきた大人の女性へと変化していたのでした。

「まあ、メロディがちょっとありふれているものになったのが残念だがな。」

たくさんの音楽が、生み出されている今、新しいシーンを作るようなメロディを作るのはとても大変です。この曲もまたやはりありふれた音楽の一つでしかありませんでした。

「もしかすると、そうかもしれないね。」

少女は、男の言葉にうなずきました。


「でも、ボクとおじさんが作ったこの曲は―――」


少女は振り向きました。


「ボク達にとって、きっと唯一のものだよ」


少女は笑っていました、可憐な笑顔で。

「そうだな。」

男もつられて笑いました。

 病室の外、盲目の少女の病室から見える中庭では、一週間後に行われるコンサートの準備が着々と進んでいました。







_____________________________________________________________________________________________







 心が壊れるまで、何もない道を歩んでみたいと思ったことはありませんか?別に道の先に綺麗なエンディングがあるわけでもなければ、道中心震わせるイベントが待ち構えているわけでもありません。本当に何もない道。そんな道を自分が壊れてしまうまで歩いてみるんです。

歩けば歩くほどに、何かが潰れて、大切だったもの、悲しかったもの、憎んだ人、友人、家族、それらすべてを忘れてしまって、最後は自分のことさえも忘れて、赤子のように無垢になって、結局どこかで力尽きて死んでいく。その死ぬ直前、体が傾いた瞬間だけは、優しく笑えるような気がして・・・・・・・・。


そんな瞬間を私たち人間はどこかで望んでいるんだと思います。


 白いワンピースを愛した女性もまた何もかも、忘れようとして、ですが最後の最後に失敗してしまいました。おそらく彼女が好きだったあの人。ついぞ、その人のことだけは忘れることができなかったのです。

忘れることができないのならば、せめて死ぬ前にあの人の心に私の心が刻まれますように。だからしてしまった呪縛のようなキス。その行為は、その女性にとって本来許されることのないはずの行為なのに、その人に後悔の念は生まれませんでした。

 真っ青に埋め尽くされた世界で、女性の目の前に一つの楽譜が浮いていました。曲名は『九音』。女性は、その楽譜をまるで親の仇のように睨みつけます。それは、彼女が生きていた時にはついぞ見せることがなかった憎悪。ですが、いくら睨もうとも、楽譜は我関せずといった風に、そこに存在し続けました。ありもしない矛盾に満ちた音。それでも奏でてみたかった音。怒りはいつしか悲しみへと変わり、誰も何もない、空白の中で女性の涙がはらりと落ちました。






_____________________________________________________________________________________________

 








 「だぁ~、緊張してきた~。」

「もお~京子さん、ここにきて弱音なんかはかないでくださいよ。」

ついに、コンサートの当日がやってきました。ステージの向こう側にはたくさんの患者さんが曲が始まるのを待っています。

「ところで、てめぇは今日何するんだよ?まさか私にドラムやらせておいて、自分は観客席だなんて言わねぇだろうなぁ?」

ナースが、ガラの悪いチンピラのような目つきで、まさにチンピラのような脅し文句を言いました。実はここまで一度も男は楽器に触れていなかったのです。

「睨まないでくださいよ。ほら、俺はあれを弾きます。」

男の視線の先には、オルガンが置いてありました。

「婦長さんに頼んで、運んでもらったんです。」

「いや、運んでもらったんですって、お前、ぶっつけ本番で大丈夫なのかよ。」

ナースは呆れたもんだという顔をしてました。

「大丈夫です。」

そういって、男はそっぽを向きました。

「・・・・たぶん、何とかなります。」


 ステージの上には、すでに盲目の少女がいました。車椅子に腰かけて、今や相棒となったアコースティックギターを大事そうに抱えていました。

「やあ、おじさん。とうとう本番だね。」

肝が据わっているというか、なんというか。少女はいつもの声音でした。

なんだかちょっと憎ったらしかったので、腹いせに少女の髪をわさわさしました。

 ですが、少女は嫌がるわけでも、ビックリするようなわけでもなくのどを撫でられた猫のように気持ちよさそうにしているので、男はなんだか負けた気分になるのでした。

「今日は、いいステージにしような。」

「うん。」

男は、そういうと自分のポジションへと向かいました。途中にがちがちに緊張して真っ青なドラマーが目の端に映りましたが、見なかったことにします。

 男の目の前にあるのは、一台のオルガンでした。男は、今日のステージまでこの楽器を遠ざけていました。もう、あの場所には戻りたくなかったはずなのに・・・・・・

 男は、オルガンの方を向きます。一瞬、オルガンに白いワンピースを着た女性が座っているように見えました。ですが、男が瞬きすると、その幻覚は消えてしまいます。

男は、ふうと息を吐きました。ただ、オルガンが目の前にあるだけ。それだけのはずなのですが、心が、そこに向かうのを拒否しようとします。

もう一度だけ、深呼吸をしました。

男は、ゆっくり、ゆっくりといすに腰掛けました。その行為は男にとってはとても勇気のいるものだったのです。亡くなった女性の匂いが残る場所に、男は帰ってきたのですから。ですが、音楽は男を見放したりはしません。男の目に映るオルガンはひどく懐かしいもので、なんだかお帰りと言われている気持ちになりました。

「ただいま。」

男は、なんだか久々にあのぬくもりを感じたような気がしました。


 会場には、不自然な緊張感が走っていました。誰もが盲目の少女を見ていました。あるものは憐みの目を、あるものは戸惑いの目を、そして悲しいことにあるものは嘲笑の目を向けていました。

 そんな、様々な感情が一人の少女に向けられていたのですが、ただ一つだけ皆が思っていたことがあります。


―――目が見えないのに楽器が弾けるわけない――――


 だから、誰もこのコンサートが成功するだなんて思っていなかったんです。

少女は見えない目で、その空気を感じていました。いつも感じる少女と周りにある壁。それはすぐに超えられそうで、少女にはバベルの塔に迫るほど高く高く、そびえたっていました。

でも、不思議と・・・・・

 今日は、その壁を越えられそうな気がしました。


『紫陽花の歌』

 ギターのイントロ、それにドラムの音がうまく合わさります。流れるような出だしは不完全な指が奏でるアドリブのオルガンの音色が合わさって、一つの音楽となっていました。

少女は、息を吸って――――――


♪~♪


時が止まったんです。


♪~♪



聞こえた歌声は、患者の心を震わせました。

歌う声に合わせて、鼓動が跳ねました。

現実にある何もかもが空しく感じるほどに、その歌声はすべてを持っていました。


♪~♪


きっと、その声は上手い下手では語れませんでした。

きっと、その声は誰にも真似できるものではありませんでした。

きっと、その声は盲目の少女ただ一人だけが出せる歌声でした。


♪~♪


もしかすると、その歌声はあの場所にも届くのかもしれません。

もしかすると、その歌声は心の奥に忘れ去られた感情を引き出してくれるかもしれません。

もしかすると、その歌声は枯れたはずのあなたの涙を流させてくれるかもしれません。


きっと、そんな歌声。

 会場の観客の揺れ動く心に合わせて、紅葉の雪が舞いました。それは本当に雪のようにたくさんたくさん紅葉が舞っていたのです。歌に合わせて、はらりはらりと舞い落ちていたんです。なんだか、その光景は不自然で、とてもその楽曲に当てはまっていました。観客たちはただただ肝が抜かれたように、その歌声に酔いしれてました。

 紅葉が舞いました。まるで、その一つ一つが命を持っているかのように。少女が歌うその瞬間だけは、この世の理を忘れて、ただただステージの上で舞い続けていたのです。

 会場の人々は、魂を抜かれたかのようにただただ、その声に酔いしれていました。そして、感じていたのです。ああ、この歌はこの少女でしか歌うことができないと。


 彼女が歌い終えると、会場はシーンと静まり返っていました。皆が拍手することも忘れて、その余韻に浸っていました。

 本当に何もかも忘れて、その余韻に浸っていました。

そして、ぽつぽつと拍手の音が鳴った方思うと、だんだんと大きな拍手の風となりました。

涙を流すでもなく、笑うわけでもなく、でも、

観客の心をその音楽は大きく揺さぶりました。

だから出た、この大きな拍手の渦。

その声を受けて、盲目の少女は

「おじさん、おじさん」

と不安な声で男の名前を呼びます。

その声は、歓声に紛れて男のもとにまでは届かないんですが、その慌てっぷりからして、容易に想像がつきました。

「もぉう、すぐにボクのところまで来てくれよ。」

「悪かった、悪かった。」

「おじさんは、エロおやじなだけでなく、ひどい人だね。」

「ああ、そうだな。」

一瞬の沈黙の後

少女は、優しく笑いました。

そして、その笑顔を見た瞬間に、男は思ってしまたんです。



――――ああ、―――







―――やっと、これで・・・・・・・。——————————







_____________________________________________________________________________________________


山田鉄男







夢を見た。

それは、真夏のように轟轟とした太陽が出てる日だった。

俺の隣には、ワンピースを着た女性が立っているはずなのに、なぜか鈴が立っていた。

鈴は、緊張した面持ちで、ステージを見上げてる。

そのステージは、足場が高く持ち上がるような設計をしてあって、観客から、俺たち二人が目立つような仕組みになってて・・・


ステージに俺と鈴が立つ。

なぜだろう、早く曲を演奏したいと思う自分と、この続きを見たくないと思っている自分がいる。

曲は進む。鈴は楽しそうに曲を歌ってた。

そして、最後の曲、俺たちの新曲発表の瞬間が来た。

聞きなれないイントロに観衆たちは沸き立つ。

AメロBメロサビと続き、間奏に入ろうとしたとき、ふと、鈴と目が合った。

「ごめんね・・・・おじさん。」

そう言って、鈴は・・・・・・








 
















なぁ、大切な人がいない、日常なんて意味があるのか?


なぁ、好きな人に好きだって伝えられなかった人生に意味なんてあるのか?


なぁ、無理やり笑うだけの自分に価値なんてあるのか?

































分かっている・・・意味なんて・・・・・あるはずないじゃないか・・・


























見上げた夜空は、どこまでも澄んでいて、ふとすると吸い込まれそうな錯覚に陥ってしまう。


見上げた星空は、どこまでも光り輝いていて、俺の心を突き刺して離れはしない。


見上げたこの世界は・・・いつも俺のことを・・・・


 気付くと病院の屋上にいた。腰くらいしかないフェンスを越えて、死と生のはざまに俺は立った。一歩でも踏み出せば、屋上から真っ逆さま、このくだらない人生にかたをつけることができるだろう。


 なんだかつかめそうな気がして、星に手を伸ばした。

 

 袖からちらりと見えた左手首には無数の刺し傷があって、俺がこの行為に及ぶのはこれが初めてじゃないことがきっと傍目からでも分かってしまうのだろう・・・。


 何度も、何度も死のうとしていた。あいつがいない日常に意味なんてないはずなんだ。でも、そのたびに失敗する。


 自分の財産を全部捨てて、指を切り裂いて、何度も何度も命を断とうとしたのに、できなかったんだ。


 理由は分からない。俺が死ぬのが怖いと思っているチキン野郎なのかもしれないし、人生に未練が残っているからだと思っているからなのかもしれないし、ただ単に、自傷辟みたいなもので、死のうという気がないのかもしれない。


 だから、心のもやもやはいつも晴れはしない。それが、無性に悲しくなって、泣きたくなるはずなのに、今日も・・・・・やっぱり涙は出なかった。


 自分が今笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、無表情なのかもだんだんと分からなくなっきて・・・・・・、きっと・・・・もうずいぶん、ずいぶん昔に心は大きな穴が開いてしまったようで、もう、今の自分が何を感じているのか良く分からなくなってしまった・・・・。



だから



「・・・・ははは・・・・」

 今日も無理にでも笑おうとしてみる。その行為に意味なんてものはない。でも、条件反射みたいなもんだ。笑っている間は、自分の中にまだ心があるんだって思える気がしたから。






 でももう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なにもわかんないよ。






生死を分かつその境界で見えた星空は、


(さよなら。)


今まで見たどの星空よりも明るく、


(さよなら。)


俺の心を強く強く穿った。









「死ぬのか?」



死の淵で俺を振り向かせたのはこんな声。



 扉と俺のちょうど中間あたり、柵を挟んで京子さんが立ってた。

京子さんは怒ったような、泣いたようななんとも言えない表情をしていた。

「良く分かりましたね。俺がここにいること。」

俺は、そっけなく言った。もう、自分を飾る必要なんてない。

京子さんは無視して、俺の顔をじっと見る。


「最後の最後で、やっと、お前の素顔を見れたよ。」


「つまらない顔でしょ?」

隠すことのないまま、自分の本音を述べる。

京子さんは、それでも真剣な目で俺を見つめ返す。


「きっと、もう俺の存在していい場所なんてこの世にはないんです。」


見上げた星空は爛々と輝いていた。

「・・・・・。」

京子さんは、何も言わずに俺に近づいてくる。

俺は気にせずに話を続ける。


「前に言いましたよね。昔知り合いがいたって。」


「・・・・。」



「あいつ、あるライブの日に自殺しちゃったんです。」



「・・・・。」



「・・・俺に何も言わずに・・・」



京子さんは、俺に聞こえないくらいの小さな声で何かつぶやいた。そして、言った。

「だから死ぬのか?」

「そうです。」


無意味に生きることなんて、空しいだけだから。


「鈴が悲しんでも?」

「結局世界なんて、自己満足の果てにしか存在しませんから。俺は誰かのためになんて生きれないですよ。」


生きること自体に・・・意味などないのだから。


「じゃあ・・・・」




「私が悲しんでも?」


躊躇う気持ちを押し殺して、京子さんはつぶやく。でも・・・・、決して俺から目をそらさない。


俺は知ってた。京子さんが俺のことを好きでいること。

でも、あえて言う。

「はは、何言ってるんですか、それこそ変なセクハラ男がいなくなっていいじゃないですか。」


京子さんは、そんな言葉無視して、柵越しに俺を抱きしめた。




「私は・・・・・寂しいよ。」





ぽつりと漏れた京子さんの本音。

京子さんの手は震えていて、その言葉の重みを強くする。

俺は、すぐに返事ができなかった。

抱きしめられた京子さんの温もりよりも、その奥の心臓の鼓動がいやに鮮明に聞こえる。



「俺は、もう・・・。」



そう、死んだはずだ。死んだはずなのに・・・・・あのライブの日に・・・・大好きだったあの人を失ったあの日に・・・

京子さんは、俺の言葉を肯定も否定もしない。ただ、俺を抱きしめる力を強めてこう言った。




「なあ、私じゃ、お前の生きる意味にはなれねぇのかよ?」




その言葉は、いつもの京子さんからは、考えられないほど弱弱しい声だった。

俺は、もう一度夜空を見上げる。夢うつつのように輝いていた星空はその輝きを失いつつあった。

それが、嫌なはずなのに京子さんの腕を振りほどけない。

思った。もし、あの日俺があいつを抱きしめていたら、今もここにあいつはいたのだろうか、と。

(あいつにも、取り残されるものの気持ちがわかっていたなら・・・・・)

輝きを失っていく夜空。

多分、京子さんのことが好きというわけではない。でも、今京子さんが付きたてた小さな小さな楔は、なぜか信じられないほど、心の奥に突き刺さって、俺の望みを遠く彼方へと連れ去っていく。

俺は、小さな小さなため息を零した。

見上げた夜空は、今やただの曇り空だった。



―ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー―――――――











 祭りの後の、虚しさほど寂しいものはありません。

頭の中には、みんなの笑顔やにぎやかな太鼓の音などが鮮明に思い出せるのに、心の中には虚しさが広がっていく。

あの日以来、男は盲目の少女のもとへは行っていませんでした。今日もぼんやりと空を見上げるばかりです。 

綺麗な青空は、あまりにも綺麗すぎて、無垢な子供の用でした。無垢で何も知らない子供、だからそんなに無邪気に輝いていられる。ですが、一度いろいろなことを知ってしまうと、その青空のように輝くなんて到底できるわけないんです。

だから、男は青空が嫌いでした。

空をもう一度見上げます。

「やっぱり、空っぽだな。」

男は、ぽつりとつぶやきました。


 なんだか、夕暮れになると、屋上に出てみたくなりませんか?そこに理由なんてものはないんですが、なんだか、夕暮れなら自分を迎え入れてくれるような気がして・・・・・

そんな理由だからでしょうか。男は、独り病院の屋上で黄昏を楽しんでいました。

なんだか、やたらと心の中が空しくて空しくて、男は心の空白を埋めようと無意識に体が動きました。だから、歌った。

男は、自分が歌っているんだと気づいた時にはそれをやめられないほど、音楽を愛していました。あのワンピースの女性のように。

だから、ただただ歌い続けました。

声がかれるまで、のどが潰れるまで、自分がすべてを忘れてしまうまで・・・・

そんなことを願いながら・・・・・






「きれいな歌だね。」






男は、なんとなく予感していたんですが、ゆっくりと、顔を傾けました。

夕日をバックにして、一人の少女が立っていました。差し込む夕日が強くて、そのシルエットはすぐには分からないんですが、不思議とその子は微笑んでいるような気がしました。

「おじさんは私と、同じにおいがする。」

「・・・・・・・どんなにおいがするんだ?」

「孤独のにおいと、絶望のにおい。」

「・・・・・そうか。」

少女は、目が見えないのに、まるで見えるかのように病院のベンチに腰掛けました。男も、その隣に腰掛けます。

緩やかな時間が過ぎていき、しばしの間二人は何もしゃべりませんでした。

ただ、その無言は想像とは裏腹に心地の良いものでした。

風が吹いて、干してあるベッドのシーツを揺らします。そんな光景を見ながら、

「ごめんな。」

沈黙を破ったのは、こんな一言。

「どうしたんだい?」

「あのコンサートが終わった日、自殺するつもりだったんだ。」

「・・・・そう。」

盲目の少女は、なんだかその答えを予感してたような、落ち着き払った声で、そういいました。実際にこの少女はそれを予感していたのだと思います。

「でも、おじさんは、失敗しちゃったんだね。」

少女は、慰めるような声でそう言いました。

「ああ。」

「後悔してる?」

「どうだろうな。・・・・ただ・・・・」

「ただ?」

「空しさだけが残ってる。」

「そう。」

また、無言がその場を支配しました。ただ、はぐれ物の二人をそれでも夕日は優しく照らします。

 時は、ゆっくりと流れていきます。世間ではよく年を取ると時間の経過が短くなるといいますが、私はそうは思えません。だって現実と向き合うとこんなにも時間がたつのが長いことを私は知ってますから。


 きっと、時間が短く感じる人は、逃げるのに慣れてしまった人なんだと思います。目の前から目をそらし続けてるから、まるでその時間がなかったかのように感じるのだと思います。


 だから、男にとって、この病院の生活はひどく長いものでした。

目を背けたくても、死が近いこの場所だと、否応なしにあの人を思い出してしまうから。

 男は、少女を見ました。


死んだ彼女と同じ歌声を持つ少女。


「なあ。」

「なんだい。」


一瞬だけ、男は言うかどうか迷ってから・・・こう言いました。


「俺は、お前とはもう・・・会えないって言ったら・・・・・・お前は怒るか?」


少女の顔に、影が差しました。

「・・・・どうしてだい?」

少しかすれた声で少女は返します。きっと、男が死ぬのは許せても、男が少女のことを嫌いになることは、許すことができなかったのだと思います。


「思い出しちまうんだよ。俺の好きだった人を。」


「・・・・そう。」

二人はまた、無言になりました。

遠くで、列車が通過する音が聞こえました。

少女は、そっと、男の手を握りました、簡単にほどけてしまいそうな弱弱しい力で。きっと、彼女なりの精一杯の抵抗なんだと思います。



男は分かっていたのでした。




「鈴を見ると、あいつと重なってしまう。」


――男が、最初に少女と会いたがらなかった理由――



「そして、その瞬間に、あいつはいないってことが嫌に鮮明に見えてしまう。」



――嫌いなはずの曲作りをこの少女の前で、男がすんなりと提案できた理由――



「それが・・・・たまらなく辛いんだ・・・・・」



――少女と一緒にいると、時折見える幻覚――


「・・・・・そう。」



もう全部理由は分かっていました。










この少女が、男の愛した女性と同じだから。








男は、そっと、少女から手を放しました。

離す瞬間、少女の指は少し震えていました。

「ごめんな。」

そう言って、男は立ち上がって、屋上を後にしました。

男は恐れていたのでした。男の愛した女性と似たこの少女と過ごす未来が、あの日のステージと重なってしまうことを。


あの日以来、ナースは男の顔を直視できなくなっていました。日課の検査なども目をそらしながら、行います。

「京子さん、そんなんじゃ検査になんないですよ。」

男はいつものように軽い雰囲気でいうのですが、

「うるせぇ。」

ナースは、顔をますます赤くするばかりです。

「ああ、そういえば」

「な・・・・なんだよ・・・・。」

ナースはぎこちなく男を見ました。その顔はまるで初恋の少女みたいで、見ている側からすると、なんだかソワソワしてしまいます。

「京子さんの胸、柔らかかったですよ。」

そんな、光景を一刀両断するような男の一言に、この病室の温度が一気に下がったことは間違いありません。

「〇¶*@#?!」

ナースは、ゆでだこのように顔を真っ赤にして、口をパクパクさせてました。そんな、ナースの顔を男はさも面白そうに眺めていました。

「てめぇ、次思い出したら、殺すからな!」

「京子さん、看護師がそんなこと言っちゃだめですよ。」

「うるせぇ、てめぇじゃなかったら言わねぇよ。」

「まったくもう・・・・」

パッと見たところ、ナースは微笑んだように見えました。きっと安堵したのだろうと思います。当たり前がある日常が戻ったように思えたから。でも、すぐにその表情は影を持ちました。

「あとな・・・・・。」

「まだ、何かあるんですか?」

「後で、院長室に来な。」


予想通りというか、なんというか、院長室にはたくさんの本が置いてありました。両壁に置かれた本棚と、そこに隙間なく置かれた書物を見ると、ああ、なんだか偉い人のいる部屋に来たんだなと実感してしまいます。疑り深い人だと、この本すべてに本当に目を通しているのかなど、疑問に感じたりしたりする人もいるとは思うのですが、やはりほとんどの人は、その本の量に比例して、医者というのは責任の重い仕事なんだなと再認識したりするのではないでしょうか?

そして、その本の持ち主である院長は言いました。

「単刀直入に言います。神木鈴さんの保護者になっていただけないでしょうか?」

「・・・・保護者ですか?」

「そうです。保護者です。」

「あの子の親は?」

「もう、何年も前に・・・・お亡くなりになりました。」

しばし、二人は見つめあいました。聡明そうなこの医者のまっすぐな目を見ていると、この話が冗談の類ではないと、嫌でも分かってしまいます。

「どうして、俺なんでしょうか?」

男の学歴は中学で止まっていましたし、音楽に全てを掲げていた男は、とても誰かの保護者になれるとは思えませんでした。

「俺は、院長先生に感謝してます。財産もすべて捨てて死のうとしてた俺に、あなたはそれでも手を差し伸べてくれました。でも・・・、保護者になれなんて願い・・・・」


「二百九十八日。」


「?」

「去年、あの子が意識を失っていた日数です。」

「どういう・・・ことですか?」

院長先生は、ふうと息を吐きだしました。

「あの子は目が原因でこの病院に入院しているわけではないのです。」

「・・・・?」

「・・・・・あの子の目は先天性のものなのですが、病院に通うことはあっても、入院する類のものではないのです。」

病気に関することは、良く分からないと思うと同時に、じゃあ、どうしてあの子は入院をしているのだろうかと疑問を持ちました。


「あの子がこの病院に入院しているのは、目などの外傷が原因ではなく、その奥側・・・・、つまり、心の部分が原因なのです。」


「つまり、鈴が入院しているのは、心の病を患っているからだと?」

「そうです。」

確かに、少女は何故か精神病患者が入院する西病棟に入院していて、そのことは院長先生の話にうまくマッチしていました。

「でも、俺にはあいつがそんな風には・・・・・」


「そうですよね。私も驚きました。生まれて半生を眠って過ごしていたあの子が、あなたが来た途端に急に目覚めたんですから。」


「・・・・?」

「そして、だれにも心を開きはしなかったのに、あなたを中心にして、その心を開きつつある。・・・正直私たちには、あの子の病気がなんであるのか、見当もついていません。心の病とは、複雑でその治療も難しいのが現状なのです。治療も困難を極めるものが多いです。ですが、治療が難しいのと裏腹に、ふとしたことがきっかけで、その病が快方に向かうこともあります。」

「・・・つまり、・・・俺が、あの子にとって薬になると。」

「言い方が悪いかもしれませんが、その通りです。」

「・・・・・そうですか。」

ふと、男の視界が歪んで見えました。別に院長先生の言葉に腹を立てたというわけではありません。ただ、男と少女が一緒にいるということを考えた瞬間、視界が歪んだのです。

「俺は・・・・」

どうしたらいいのだろう?

院長先生が何かをしゃべっています。ですが、うまく男には聞こえませんでした。ただ、ふらつく足でその場に立っているのがやっとでした。

 院長先生が心配そうな顔で、こちらを見ていました。大丈夫ですかと、言っているように思えました。

 男は、目をつむりました。思い出すのは、夕暮れの屋上。盲目の少女は、男に向かって微笑んでいました。





―――――やめてくれ―――――


青い空の下、ギターを弾く少女は楽しそうに笑っていました。


―――――お願いだ、やめてくれ―――――


少女は、彼女は、いつも笑っていました。優しく・・・・あのワンピースを着た女性のように


―――――NO、NO、NO、いや、違う・・・違う・・・ちがうんだ!―――――


少女は燃えるような暑さの中、あの高いステージに立って、あの人と同じように謝るように優しく笑って・・・・


―――――NO、違う!やめろ、やめてくれ―――――


「バイバイ、おじさん。」

また、ステージから飛び降りるんでしょ?・・・・・あなたを残して・・・





 はっと、目を覚ますと、そこは、男の病室でした。

「ここは?」

嫌な汗が、滴り落ちていきます。

「よお、目が覚めたか。」

「京子さん?」

「院長室で、倒れたんだとさ。」

「俺が?」

ナースは、優しく笑いました。

「そうだ。心配したんだけど、まあ、目が覚めてよかったよ。・・・・鈴の保護者の話、聞いたんだろ?」

「はい。」

「別に、すぐに決める必要はない。ゆっくり決めな。・・・別に、私だって、相談に乗ってやるからさ。」

どうやら、ナースもその話を知っているようでした。それを知った瞬間、無性に目の前の女性にすがってしまいたい願望が男を襲いました。

 きっと、男のことを好きなこの女性ならば、真剣に男の相談に乗ってくれるでしょう。

「京子さん・・・・」

「・・・・なんだ?」

でも、分かってたんです。男の心の中で、もう答えは出てたんですから。ナースに相談するのは、ただその責任を誰かに擦り付けてしまいたいだけだって。だから、

「いえ、・・・・やっぱり何でもないです。」

その楔を無理やり心の奥に閉じ込めました。

「・・・・そうか。」

残念そうにナースは笑いました。

「じゃあ、私は戻るから。」

そう言って、ナースは出ていきました。

 男はやっぱり寂しそうに、その後姿を眺めていました。そしてさよならって言いました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー―――――――――

山田鉄男



 昔話に満月だから屋敷を抜け出すのを実行するかでもめた、みたいな逸話があったような気がするけど、どんな話だったか。

こっそりと抜け出した廊下の窓から見えた月は、満月。これが昔話なら、俺はこの足をとどまらせたのだろうか?

別に、これが正解だなんて思っていない。でも・・・・、間違っているとも思えなかった。鈴とこれ以上一緒にいたくはなかった。



美香と似たあの子との未来は、きっと悲しいバッドエンドだから。



俺は、窓を開ける。この病院から抜け出すために。いや、あの少女の前から姿を消すために。

「・・・・行ってしまうんだね。」

ああ、でも悲しいことに、俺が振り返った先に今最も会ってはならない少女が立ってた。

 鈴は、今日も静かにそこに立ってた。

「・・・・そうだ。」

俺は、優しく、本当にやさしく少女の頭を撫でた。

「俺は、お前のそばにいれない。」

「・・・・・そう。」

「否定しないのか?」

否定されないことを悲しく思ったのか、それとも、否定されないことが当然だと思ったのか、俺は顔を伏る。

「出会いがあれば、当然別れもある。この別れはある意味当然のものさ。」

ああ、こいつらしい回答だな、なんて思う。

「・・・・・お前は、俺よりもよっぽど大人だな。」

「ボクがかい?」

「ああ。こんなところで止まってウジウジしている俺よりも、よっぽど大人だよ。」

「そうかな?」

一拍の間。

「じゃあ、大人なボクから、一つだけお願いしてもいいかい?」

「なんだ。」

「もし・・・・・」

一拍の間

「もし、おじさんが、ボクの隣にいてもいいと思える時が仮に来たなら・・・・・もう一度・・・・・ボクに会いに来てくれよ。」

「それは・・・・・。」

できないって、はっきり言えない自分がいる。少女は優しく微笑んで言う。

「歌なんてなくてもいい。何にもなくていい。いつまでも、いつまでも、待ってるよ。おじさんが帰ってくるのを。そうだな・・・さながらボクは王子様を待つお姫様のように待ってるからさ・・・・・・いつか・・・・・・必ず・・・・・・・帰ってきてくれよ。」

コトンと少女は男の胸に自分の頭を当てました。

誰にも聞こえない小さな声で、諦めた声で、バイバイっていってた。

お互いに分かってる、その願いは叶わない。俺の心の中にあの時の夢が鮮明に残ってた。

「言っとくけど、俺は王子様なんてガラじゃないし、お前もお姫様なんてガラじゃないからな。」

もう一度少女の頭に手を載せて優しくなでて、誰にも聞こえないくらい小さな声で、諦めた声でゴメンなっていった。

悲しいことが嫌いだからか、それとも、本当は見えてる真実に目を向けたくないからか、鈴は珍しくおどけた口調で言った。

「むむ、失敬だな君は。」

「すまねえな。」

だから俺も負けじと・・・おどけた声で返した・・・・つもりだ。

お別れの時間がくる。永遠の・・・・お別れの時間が

「ははは・・・」

「ふふふ・・・」

二人は、ひとしきり笑って・・・・・

もう一度だけ、優しく優しく抱きしめあって。

お別れを告げた。






























残ったのは、しとしとと涙を流す盲目の少女だけ。












__________________________________________________
















 もしも、世界がキャンバスでできていて、あなたが空の色を決められるのだとしたら、あなたは何色に染め上げてみたいですか?

染めあげられた青色を見るたびに、ふっと違和感が生まれてしまうんです。この色は、本当に空の色なのだろうかって。海の色は私の中でぴったりとはまるというか、違和感はないのですが、空の色はなんだか不自然に感じてしまうことがあるんです。きっと、あなたにもあるんじゃないでしょうか。ふと空を見上げた時に感じる違和感。

 それはきっと、社会の中に埋もれた時に感じるふとした違和感と似ているのだと思います。ふとした瞬間、隣で笑っている友人が今まで自分の知っている友人ではないように思えてしまう瞬間。その瞬間を私たちは必ず感じて生きている。生きているはずなのに・・・・・・

 どこかでそれを否定したいと思う自分がいる。


ねぇ・・・・・



描いてみてはくれませんか?空にふさわしいと思う、あなたの色を。

 












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