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手を繋いで春の海に駆けて行こう

作者: 無法地帯

 今日も石畳の道の上を、人々が忙しげに往来していた。

 この家も、石で組み上げられた街の一部。白亜に輝く街の俯瞰図を想像して、うっとり目を閉じるエロイーズ。でも、それは、朧げな輪郭しか持たない、曖昧な映像だった。


 だって、彼女はお外に出た事がないから。

 彼女にとっての世界は、一階の自分の部屋に設けられた、道路に面した、この窓から眺める風景だけなのだ。


 ガラスの向こうから、ニコニコと自分達を見ている少女に、気が付く人はいなかった。大人は皆んな忙しい。子供は遊びに夢中。


 それでも、ある時、小鳥が舞い降りて窓の縁にとまると、目をキラキラさせているエロイーズを不思議そうに見詰めて、嘴でガラスをコツコツと叩いてくれた。


 些細な出来事。それでも、エロイーズにとっては大事件だ。


「鳥さん、鳥さん、何処から来たの?」


 彼女は弾んだ声で語りかけた。


「鳥さんのお家は何処? 木の上かな? 木の上から見る風景って、どんなのかな? きっと、素敵な光景でしょうねえ……。」


 小鳥はオレンジの羽毛の中にある真っ黒な目をクリクリさせて、返事をする様に、盛んにガラスを突いた。


「一緒に飛んで行きたいなあ。連れて行ってよ、鳥さん。」


 鳥は一頻りガラスを突くと、気まぐれな本性に引き摺られて、元いた空へと羽ばたいて行った。


 心に小さく穴の空いた感覚を覚えたまま、エロイーズは飛んで行く鳥をいつまでも見ていた。


「これが『寂しい。』って、事なのかな。」


 彼女は独り言ち、窓のある壁に寄りかかった。窓は床から七十センチくらいの所にあり、小さなエロイーズが、ペタンと座り込んで外を見るには、ちょうど良い位置にあった。


 エロイーズは、本で読んだ知識でしか、世界を知らなかった。

 生活に追われる両親も、他の兄弟達も、身体が弱くて寝た切りの彼女を、まともに構ってはくれなかった。


 肉親の情愛も、他人との繋がりも、自分自身の感情の揺らぎでさえも、彼女は書物から教わるしかなかった。


『そういえば、最後に誰かと話したのは、どれくらい前だったかしら。』


 エロイーズは小首を傾げ、考えてもわからないので、ベッドに戻った。もう、夜の帳が街を多い始めていたからだ。




 外はいつまでも寒かった。

 いつもの様に窓辺に寄りかかって、射し込んで来る陽光を浴びながら、エロイーズは中々やって来ない春に想いを馳せていた。


 すると、誰かが此方を見ている気配がした。それは、とても珍しい事だった。

 この道を行き交う人々は、自分の事で精一杯。脇見をする余裕も無く、真っ直ぐ歩いて行くのが常なのだ。


 エロイーズは、そのヘイゼルの瞳で、ゆっくりと外を見回した。そして、道路の反対側にいる、若い男と目を合わせた。男はひどく驚いた様子を見せたが、やがて、大股で近づいて来た。


「君は……、何でこんな所に居るんだい?」


 こんな所?


「待って。良く聞こえないわ。窓を開けるね。」


 久しぶりに……、実に何年ぶりかに、エロイーズは窓を開けた。冬の刺す様に冷たい風が吹き込んで、彼女は目を細めた。


「此処は私のお家よ。貴方はだあれ?」

「お家? だって此処は有名な……。」


 言い掛けて、若者は口を噤んだ。ちょっと考えてから、何かを理解したみたいに、頷いた。


「俺の名はトール。君は?」

「トール! 神様と同じ名前ね。私はエロイーズ。私はねえ、私と同じ名前の人は……、ローマの将軍の奥様にいたかな?」


 エロイーズは久しぶりの他人(ひと)との会話に、胸をときめかしていた。心の中の引き出しを全開にして、何とか楽しいお話を続けようと頑張った。


「トールは……、えっーと……、そう、トールは何処から来たの。」

「俺は遠い街から来た。山を幾つも越えた遠くの国だよ。この街に住んでから、もう一年経ったかな。」

「どうして、此処に来たの?」


 そういうと、トールは少し悲しげな表情になった。


「街が焼き払われたんだ。戦争で……。」

「ごめんなさい。辛い出来事だったのね……。」

「ああ、良いさ。もう、終わった事だ。今はこの街で楽しくやっているよ。」


 慌てるエロイーズに、トールは笑って手を振った。背の高い、ガッシリとした青年だが、笑うと、まだ可愛らしい少年の面影をのぞかせた。


「君はいつも、こうやって、此処で外を見ているのかい?」

「そうよ。身体が弱くて、外に出られないの。でも、春になれば暖かくなって、少しは元気になれるかなあ。」

「春になれば……?」


 だって今、春だよ。

 という言葉を、トールは飲み込んだ。


「トール。トールはいっぱい外の世界を知っているんでしょ? 教えて。この街の外は、どうなっているの?」

「うーん、そうだな。まず、この街は三方を海に囲まれているんだ。」

「海! 知ってるよ。大きな水溜りでしょ。」

「水溜りか……。ははは、そいつは良いな。途方もなく広い水溜りだけどな。」


 トールは手始めに、街の外郭から話してくれた。海に面した部分は、昔の戦争の名残りで城塞化されている事、陸地に面した部分には高くて長い壁が連なっている事。


「街に入る入口は一つしかないんだよ。其処には太っちょの門番がいるんだけど、そいつがガメツイ奴でさ、通りたいなら何か貢物を出せと言うんだ。でも、俺達は難民だぜ。気の利いた物なんか持ってやしないさ。」

「まあ、意地悪な人ねえ。それで、トールはどうしたの?」

「そしたらそこに、運良く猪が突っ込んで来たんだ。青くなって門番が逃げ出したから、俺達がその猪を捕らえて『貢物はこれでどうだい?』って言ってやったら『そのままじゃ困る。肉にしてくれ。』だってさ。」

「まあ、それで、どうしたの?」

「うん? ツブして、皆んなで食べたさ。その日は大宴会。意地悪な門番とも、すっかり仲良しになっちまったよ。」

「まあ……。」


 エロイーズは大宴会を想像して、顔を綻ばせた。

 私も参加したかったなあ……。


「でも、猪さんは可哀想……。」

「あっー、そうきたか……。でも、感謝して残さず食べたから、許してくれるんじゃないかな。」

「まあ、ふふふ。」


 トールの勝手な言い分に、エロイーズは思わず笑いをこぼした。その笑顔を、トールは眩しげに眺めていた。


「おっといけない。仕事の途中なんだ。もう、行かなくちゃ。」


 トールが言うと、たちまちエロイーズの表情が暗くなった。


「また来るよ。次はもっと面白いお話を仕入れて来る。」

「本当に?」

「うん。君と俺はもう友達だろ?」


 友達、という言葉に、エロイーズは飛び上がらんばかりの歓喜を覚えた。生まれて初めてのお友達……。


「ねえ、トール……。」


 歩き始めたトールに後ろから声を掛けた。


「次からは私の事も名前で呼んで。エロイーズって……。」

「わかった。エロイーズ。」


 振り返ったトールはニッコリ笑った。




 それからトールは足繁くエロイーズの居る窓辺に通った。

 仕事の合間を縫って、休みの日には一日中、彼は窓の外から、彼女の喜びそうなお話をしてあげた。


「お話も楽しいけれど、トールの事も知りたいなあ。どんな人生を送って来たとか……。」

「俺え? 俺の物語なんて、つまらんよ。」

「夢はないの? 何処かに行きたい、とか。」

「夢か……。」


 トールは遠くの空を見た。


「世界一美しい光景が見たい。」

「?」

「俺を育ててくれた人は冒険家でね、どんな危険な所にだって平気で行くから、ある時聞いてみたんだ。どうしてそんなに冒険が好きなのかって。」

「どんな答えだったの?」

「俺は世界一美しい光景を探しているんだ、って。それを見付ける為なら、何処へだって行くと……。」


 だが、その育ての親も、前の街が戦火で焼かれた時、敢え無く家と一緒に焼かれてしまった。


「素敵ねえ……。」


 トールの胸中などわかる筈もなく、エロイーズは呟いた。


「トールもいつか冒険に行くの?」


 ややあって、今度は不安そうに、彼女は聞いた。


「行くさ。でも、必ず帰って来るよ。エロイーズの居る、この街に。」

「本当? そしたら、帰って来たら、冒険のお話を聞かせてね。約束。」

「うん……。」


 世相はきな臭くなっていた。巷間では、また戦争が始まるだろうという噂でもちきりだ。

 冒険なんて、呑気な事をしていられる時勢ではない。それどころか、トール自身も、戦地に赴かねばならない時が来るだろう。


「また来るね。」


 と、トールは足早にその場を立ち去った。己の不安を悟られたくなかった。エロイーズには、いつまでも笑顔でいて欲しかった。


 いつまでも……。




 その夜、エロイーズは夢を見た。

 すっかり元気になった自分が、トールと冒険に行く夢だ。


 海を渡り、ジャングルを踏破した。隣にはいつもトールが居た。優しく微笑みかけてくれていた。


 ずっと一緒に居たいと思ったら、涙が一雫頰をつたい、その冷たさに目が覚めた。

 まだ真夜中で、月が宙天高く輝いていた。

 エロイーズはベッドを抜け出て、窓辺に蹲った。


 明日もトールは来てくれるかな。


 彼を想うと頰が火照った。胸が焦がれて、苦しかった。


「トール。トール……。」


 意味もなく彼の名前を呼んだ。


 春になったら……。春になったら二人で海を見に行こう。トールの教えてくれた、何処までも青く広がる海を……。


 春はいつ来るんだろう。


 もしかして、もう来ないのじゃないだろうか?

 そんな不安に怯えて、エロイーズは子供の様に泣きじゃくった。




 ある日、浮かない顔で、トールがやって来た。何時もの様に話してくれているのだが、目は泳ぎがちで、どことなく上の空だった。


「どうしたの、トール? エロイーズと話していても、楽しくないの?」


 泣きそうな顔で聞いて来るエロイーズのいじらしさに、トールは心中の辛さを倍にしていた。


「ごめんな。俺……、その……。」


 どうしても言い出せなかった。自分が行かねばならない所の事を。

 砲弾と死が飛び交い、絶望が全てを蹂躙する大地。そんな場所があるのを、エロイーズに想像させるのさえ嫌だった。


「俺……、俺……。ぼ、冒険に、そう、冒険の旅に出る事にしたんだ。」


 それを聞いたエロイーズは目を見開いた。


「すご〜い。夢を叶えに行くんだね、トール。」

「うん。見つかるかわからないけど、俺は世界一美しい光景を探しに行く。」


 話を聞きながら、エロイーズは複雑な表情を浮かべていた。


「笑って送り出して上げなきゃいけないのにね。私、我儘だわ。トールに行って欲しくないって思っている。」

「ごめんな。ごめんな。時間がかかるかもしれないけど、必ず帰って来る。その時は、楽しい冒険のお話を沢山してあげる。」


 トールは泣き笑いしながら、エロイーズに約束した。そして名残り惜しげに、一歩身体を引いた。

 エロイーズは窓を閉め、コンコンとガラスを軽く打った。そしてガラスに唇をつけた。トールはその意を解して、自らもガラスに唇を寄せた。二人は泣きながら、ガラス越しに互いの愛を確認し合った。


 街行く人達は、空家の朽ち果てた窓辺のガラスに口付けする若者を、奇異な目で見ていた。




 トールが街を去ってから、エロイーズはまた一人になった。冬の弱い日光に当たりながら、彼女はひたすら待ち続けた。

 前は春を待っていたが、今度は待つものが二つになった。トールの帰還が増えたのだ。


 路上の人達は、相変わらず、窓の中にいるエロイーズには目もくれず、前だけ向いて歩いていた。


『何だか人が少なくなった気がする……。』


 それはエロイーズの気の所為ではなかった。男は戦地に送られて、女と子供は疎開していた。戦火は、この海沿いの静かな地にも、確実に迫りつつあった。


 ある日、眠れずに、窓から外を眺めていたら、海の方角から何かが飛んで来るのが見えた。

 重厚なエンジン音が次第に迫り、街の人達が逃げ惑うのがわかった。


 突然、目の前が真っ白になった。激しい炸裂音が響き、石造りの街が火に包まれた。


「トール! トール!」


 自分の住む家も炎上し、エロイーズは恐怖に泣き叫んだ。しかし……。


 激しい業火に巻かれても、熱くもなければ、苦しくもなかった。

 その時、エロイーズは思い出した。極寒の真冬日に、この部屋のベッドの上で、父、母、兄弟に見守られ、自分は……。


 もう、私には春は来ないんだ……。


 エロイーズが悟った時、天井が崩れ落ちた。


 永遠の暗闇と静寂。それでも彼女は呼び続けた。トールの名前を。


 トール、トール……。




 微かな息遣いと、土を掘り返す音に、長い間閉ざされていたエロイーズの意識が呼び覚まされた。

 いきなり強い陽射しを浴びて、エロイーズは目を開けた。


「あはは。やったあ。窓の枠組みでも見付ければ、会えるんじゃないかと思っていた。」


 春の陽光の中、エロイーズは、廃墟となった街の上に、ペタンとお尻を着いて座っていた。

 彼女の目の前には、痩せこけて、顔の半分に包帯を巻いた男が跪いていた。


「トール?」


 疲れ果て、変わり果てた姿となっていたが、それでも笑顔だけは、昔と変わらぬ様子で、一目で彼とわかった。


「エロイーズ。ごめんな。楽しい話なんかしてやれないんだ。この手も身体も、罪と返り血で汚れちまった。もう、あの頃の俺じゃないんだよ。」


 トールは残った一つの目から、涙をボロボロと落とし、頻りに謝った。


「トール……、でも、世界一美しい光景は見付けたんじゃないの?」


 何故かそんな気がした。

 何も失ってしまったこの地に、それだけを報告する為に、死に瀕する痛みを堪えながら此処まで来た。

 そんな気がしたのだ。


 トールは地面にドッカと腰を下ろした。そして、項垂れたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。


「俺の連隊は全滅したんだ。一人生き残った俺は、復員船に揺られて帰国の途についたけど、正直、もう生きる気力なんて残ってなかった。」


 生き残ってしまった罪悪感が、彼の心を蝕んでいた。目を瞑れば浮かんで来る、戦友達の顔。幾夜も眠れない夜を過ごした。


「死のうと思ったんだ。おかしいよな。戦場では、あんなに生き延びる事を願っていたのに。唐突に死のうと思ってしまったんだよ。」


 真夜中に甲板に出ると、そこには誰も居なかった。身を投げようと手摺りを掴んだら、夜空に浮かぶ満月に気が付いた。


「月からさ、光が海に向かって落ちているんだ。空に開いた穴から、光が惜しみなく、この星の上に注がれているんだよ。」


 この罪深き星の子らに、世界一美しい光景を……。


「そうしたら、君を思い出した。どうしても、君に会いたくなった。こんなに汚れてしまったけれど。俺は、俺は……。」

「トール、大丈夫だよ。今ならわかる。何故、私と貴方が、条理を超えてまで、出会わなければならなかったのか。」


 エロイーズはそっとトールの手を取った。二人の手がしっかりと握り合わされた。


「今なら抱き合える。今なら融け合える。行こう! 春の海へ。私、ずっと、貴方と一緒に見たかったの。」


 揺蕩う海面を。打ち寄せる波を。二人で見るの。二人で感じるの。


 エロイーズとトールは駆け出した。海に向かって。

 昔の様に笑い合い、昔の様に睦み合って。




 この地には、もう街は無い。積み上がった瓦礫があるだけだ。それでも、エロイーズとトールの紡いだ幸せの軌跡は確かに刻まれていた。


 やがて、遍くものに滅びの音が聞こえようとも。





















スターシステムによる三作目です。

前二作とは、多少趣きが異なっています。

楽しく読んで頂ければ幸いです。

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