第五章 一度きりのチャンス◆「Just One」 ~ 終章
■■■ 第五章 一度きりのチャンス◆「Just One」 ■■■
梅雨の雨間に姿を見せた太陽が、まぶしくサーキットを照らし出している。
観客席には、勝負のうわさを聞き付けた生徒たちが詰めかけて、まるで選手権大会でも開催されるようなにぎわいに包まれている。
コントロールラインには、けれど、マシンがたった二台だけ。
黒いRVFの谷崎機と、赤のRF400RV、陣場機だ。
「RFで走るだと? 気は確かか。ただでさえ少ない勝ち目が、よりいっそう逃げるぞ」
陣場から、勝負で走らせるマシンをRFにしたい、と聞かされたとき、秋田はあきれ返った。レース二日前のことだ。
「確かにサーキット向きのマシンではないんですが、作戦なんです」
陣場は、谷崎がプレッシャーに弱いことを挙げて、それを突く作戦を説明した。
「なるほど。確かに、RFの巨体は、後ろから追いかけられればプレッシャーを感じる人間がいるかもしれないが。だが相手はあの谷崎だぞ?」
「でも、あれはただのRFじゃないんです。谷崎――先輩がただ一人、勝つことのできなかった選手のマシンなんです」
「ふむ。平塚か」
谷崎がまだサーキットのコースレコードを塗り替えることができずにいる相手、平塚一羽のマシンであることは、女二の間では周知の事実だ。それに、谷崎はサーキットでのRFとの対戦は初めてのはずだ。何らかのプレッシャーを与えることができるかもしれない。
「よおし。よかろう。やってみろ。どうせ借り物のRVFで出たところで、弁償のプレッシャーでお前が走れないんじゃ勝負にならんしな」
「と、いうことで、お前の要望どおりセッティングしておいたぜ。八〇〇〇回転からのダッシュは強烈だから、扱いには注意するんだぜ?」
山形は陣場の作戦を聞いて、すぐにRFのエンジンをセッティングし直してくれた。新入生のお願いを聞いてくれるいい先輩ばかりで、陣場は嬉しくなって、頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「なに、礼にはおよばないんだぜ」
「そうそう」ふんぞり返った山型の隣で、秋田も腕組みして胸を反らせる。「もし負けてまた部室を失ったら、新しい部室はお前の部屋だからな。思う存分使わせてもらうぞ」
陣場は地面に崩れ落ちた。
男子二輪部のレース参加車両は、RF。レース当日、その情報は女子二輪部を衝撃とともに駆け巡った。
ほとんどの部員は、あきれた。
「まったく。女二をバカにしているわ」
「弁償するのが怖くなったんだよ。平塚先輩のマシンなら壊していいと思っているのかなあ」
「谷崎先輩の圧勝に決まったわね。まあ、マシンがなんであれ、結果は変わらないだろうけれど」
一方、谷崎は徹夜明けの眠気を吹き飛ばして、激怒した。
「平塚さんのマシンで出るだと? ふざけやがって……!」
せっかくRVFを貸してやったのに。それに、あのRFはサーキットの走り方を叩きこんでくれた、師匠ともいうべき、尊敬し恐れる人物の特別なマシンだ。遺言がなかったら、谷崎はモンキースパナで陣場をメッタ打ちにしていたかもしれない。「十年早いんだよ!」と。
ちなみに、肺炎から回復していないらしい榊はまだ病欠を続けていて、サーキットには姿を見せていない。
「ま、作戦が吉と出るか凶と出るか。わたしは手を出さないから。特等席で見物させてもらうよん」
幽霊の平塚は、陣場の両肩に手を乗せて、背後にふわふわと浮遊している。レース開始まで、あと三〇分。
「マシン使わせてもらっちゃって、すいません先輩。それでそのう、……やっぱりコケたら弁償ですかね?」
「まさか。わたしは幽霊だから、お金をもらっても仕方ないし。うーん、なんていうか」平塚はにっこり笑った。「呪い殺す? みたいな」
身体中の血が凍りついたような錯覚に陥る陣場。コケるくらいなら負けたほうがマシかもしれない。
そうして、スタート五分前。コントロールラインにはすでに出走マシンが並んでいる。
ひと足先に、谷崎がコース入りしている。ほとんど公道仕様のRFは、サイドスタンドをかけた状態でライダーを待ち受けている。
陣場がマシンに近付いて行くと、向こう側に距離を置いて並んでいる黒のRVFが見える。すでに騎乗して戦いの開始を待つ谷崎が、陣場を振り返った。
ヘルメットもスーツも、グローブもマシンも、すべて黒一色で塗りつぶされている。谷崎に間違いない、と分かっていても、まるでこの世ならざる者と並んでいるかのような、強い存在感と威圧感が伝わってくる。
陣場に対して何の感情も示さず、谷崎はホームストレートの果てに顔を向ける。スモークシールドにさえぎられて、どんな表情をしているのかもうかがい知ることはできない。
大きく息をして、メインスイッチをオン。セルモーターを回して、エンジンに火を入れる。
吠え声を上げて、RFが覚醒する。消音マフラーを装着していたときとはまるで違う、猛々しいうなり声。レース仕様の爆音マフラーが、すでに発進準備を整えていた谷崎のRVFと威嚇し合うように、排気音を重ねる。
あの谷崎と、今、同じコースに降り立っている。
あの谷崎が、今、自分と戦うためだけに隣にいる。
陣場の腕は震え、ふらつきそうになる右足でもう一度、路面を踏みしめ直す。勝つとか負けるとかいう結論を導き出すためでなく、全力で谷崎に挑もうと思う。
谷崎がそれを望んで、おれの隣にいるならば、その期待に応えたい。陣場はそう思う。
たった一度きりのチャンスかもしれない。
一周、二キロあまりのサーキットを、わずか三周する間に勝敗が決まる。谷崎はもう何百周、何千周と駆け抜けてコースを熟知し、RVFを手なずけていることだろう。その熱意には敬意を払おう。
でも、バイクが好きなのは、お前だけじゃない。
その気持ちを、この一戦で谷崎に示すことができれば。陣場はそれで十分だった。
一度でもいいから、谷崎の視界の中に入りたい。
谷崎の前へ、出るんだ。
レースの開始が近付く。深呼吸しながら、陣場は前傾姿勢をとってスタートに備える。
観客席からの歓声が遠のく。
秋田や山形が見守る視線が遠ざかる。
女子二輪部員たちの、さまざまな思いをにじませた視線が消えていく。
今、サーキットには、谷崎と陣場だけ。
閉ざされた戦闘領域が、形作られつつあった。
走れ、鋼の獣よ。誰よりも速く。
すべては、一度きりのチャンスのために。
……スタート。
爆音が炸裂する。
全身を揺さぶる轟音と振動の中、聴覚がマヒして、心臓が止まったよう。
暴れるエンジンが後輪を駆動し、路面を蹴り上げて猛然とダッシュする。血の気を振り落とすような全開加速。パワーバンドを使い切る前にシフトアップ。セカンドギアが鋭さを増した加速を見せ付けて、ホームストレートの残存距離を食い尽くしていく。
完璧な発進。一分の隙もない全力発進。
だが、そこまでだった。
コーナー突入に備えた陣場の視覚は、凍りつく。
それは、まるで目の中に入り込んだ死神の影のようだった。目を背けても、閉ざしても消えない、真っ黒な悪夢の予兆だった。
マヒから回復し掛けた聴覚が、すぐにすさまじい爆音によってつぶされる。
加速を緩めない黒のRVFは、残り少ないストレートの距離も気にならないように、陣場の前へ出た。自殺行為にしか思えない高速度域。
これでは、減速が間に合わない。第一コーナーを曲がり切ることは不可能だ。一瞬、谷崎に食らいついていこうかとためらったが、すぐに陣場はブレーキング。
谷崎のやつ、焦ったか。
曲がり切れず、コーナーのアウト側へ吹き飛ばされるRVFと、黒いライダーの幻が脳裏をよぎったが、現実は違っていた。
ブレーキディスクを赤熱させるハードブレーキングで急減速した谷崎機は、倒れこむような素早いマシンコントロールで、路面を切り裂くような鋭いコーナリングを開始する。
信じがたかった。この第一コーナーを、これほど高速で曲がれるマシンとライダーが存在することが、嘘のようだった。
陣場は、谷崎より早くコーナー突入に備えて減速を開始したことが、間違った判断には思えなかった。実際、旋回を開始したマシンにも、陣場の心にも、まったく余裕はないように感じられる。
だが、谷崎はそれを上回る速度で急旋回していく。
速い。
谷崎の走りは、《極限》そのものだった。コーナリング中に働く遠心力が、マシンとライダーを見えざる巨大な手でアウト側へ引きずり出そうとしているが、谷崎は刃の上を渡るような危うい拮抗点を探って、マシンをフルバンクさせ、バランスが破綻するぎりぎりの高速でコーナーを突破する。
《極限》。陣場の目にはそう見えた。
追いつかなければ。そう思った。
だが、右手が動かなかった。スロットルを開けることができない。
怖い。
これ以上の速度でコーナリングすることを、身体が、本能が拒否していた。
ブレーキリリースと同時にマシンを倒しこんで旋回。ニースライダーを路面に削らせながら出口を視野にとらえて、加速。
だがコーナを脱出したときには、谷崎との差はさらに開いている。
慄然とした。速すぎる。焦りながら開いたスロットルが強くマシンを押し出すものの、それをせせら笑うように谷崎は、すでに次のS字コーナーへ差し掛かっている。
(「サーキットを外から見ているだけじゃ、レースの崇高さは理解できない。……私と同じコースに降り立って初めて、お前は本当の恐怖を知ることになる」)
谷崎の言葉がよみがえった。
見開いた目に、前を駆ける黒い騎手が映る。それは《恐怖》そのものだった。
勝てない。
谷崎には絶対に勝てない。
限界を知るライダーは絶望し、恐怖を知らないライダーは自滅する。谷崎にとって、第一コーナーとはそういう場所だった。
恐怖は克服でき、限界は押し上げられる。それに気がついた谷崎は、練習を惜しまなくなった。教えてくれたのは平塚だった。
練習すればするほど、タイムは短縮できた。とくに、第一コーナーの脱出速度は面白いように上げることができる。四〇〇ccのマシン、とりわけRVFは、第一コーナーのためにあるようなバイクだと谷崎は思う。エンジンパワー、車体重量、ホイールベースを総合的に見て、これ以上速くコーナーをクリアできるマシンは、おそらく存在しない。いたずらに排気量を上げて、車重を増やしパワーを稼いでも、コーナリングのバランスは破綻してしまう。四輪車と違い、バランスを失えば破綻するのが二輪車だ。
これ以上、速く曲がることは、ほかのバイクにはできないのだ。
今まで戦ってきたどのライダーも、まず第一コーナーで引き離した。経験の浅い下級生や、陣場が相手なら、そこからは本気を出さなくとも十分逃げ切ることができる。
だが、手加減などしない。ヘルメットの中の冷たく冴えた眼差しで、谷崎はコーナーの出口を見すえる。マシンのバンクに合わせて大きく傾いだ世界が、谷崎の操るスロットルに操られて、踊る。左コーナーをクリアしたマシンが右コーナーへ飛び込むのと同時に、世界は右に、左に、大きく揺れる。
大空を制する戦闘機に搭乗したように、RVFを駆る谷崎はサーキットを支配した王者の気分を味わうのだ。
いつもどおりであれば。
だが今の谷崎には、フルバンクもフルスロットルも、いつものような陶酔感を与えてはくれなかった。
目が回りそうだった。
気分が悪い。指先が重く、ブレーキもクラッチも、スロットルさえも重く感じられる。シフトペダルが引っかかるような気がする。ステアリングにも違和感を覚える。すべてがおかしい。
原因は分かっている。自分で行ったメンテナンスのせいではない。徹夜明けの疲労のせいだ。歯を食いしばって気を張っていないと、めまいがし、吐き気を催しそうだ。加速するたびに頭から血の気が失せ、視野に青い霞がかかる。
こんな大事な勝負に、たった一人で挑んだ自分が愚かだった。少なくとも、マシンがいなければ、ライダー一人がサーキットに立ったところでどうしようもない。そんなことにも気がつかないなんて。
今まで、無意識のうちに一人でレースに勝ってきたような錯覚に溺れていた。練習を積んだ自分の実力だけが、勝利につながったという錯覚にだまされていた。
傲慢だった。間違っていた。
だが、今さら頭を下げることはできないし、手遅れだ。あの男にだけは負けたくない以上、勝つほかないのだ。
しかし、勝っていいのだろうか。
私は、このまま先へ進んでもいいのだろうか。
もう分からない。考える余裕などない。
私は谷崎悧香。女子二輪部のエースライダー。
国内最速の高校生。無敵のレーサー。
孤独な、サーキットの幽霊。
第一コーナーで谷崎に引き離された陣場は、だが執拗にRVFを追った。コーナーの旋回速度では劣るものの、直線加速では陣場機は谷崎機に勝った。
コーナー入り口で谷崎との距離を縮めた陣場が、しかし、コーナリングで再び引き離される。それが繰り返された。
ホームストレートに二機のマシンが帰ってくる。二周目に突入。稲妻のような轟音と速度で、コントロールラインを突き抜けた二人が、瞬く間に第一コーナーに吸い込まれ、旋回体勢に移っていく。
一周目のラップタイムが表示される。
女子二輪部の部員たちが、息を呑んだ。
谷崎は自己のベストラップをわずかに更新した。
そして陣場は、やや遅れたものの、更新される前の谷崎の自己ベストに迫るタイムを刻んでいた。
限界だ。これ以上速く走れない。
RFの巨体とサーキットの路面に挟まれて、サーキットの大地は大きく傾斜して見える。膝のニースライダーは路面との摩擦で火を噴きそうな烈しい音を立てている。陣場は先行し、じりじりと遠ざかっていく谷崎の背中を見詰めた。
リアタイヤがグリップの限界を迎えて、アウト側へずるずると滑っていくのを感じる。あとわずかでも加速すれば、あとわずかでも車体をバンクさせれば、そのとたんにマシンがアウト側に吹き飛ばされるか、リアタイヤが流れて転倒するかしてしまいそうだ。そうなれば、すべておしまいだ。
それなのに谷崎は、リアが流れるのも気にしないように加速して逃げていく。後ろから見ていて、明らかにリアタイヤがアウト側に流れているのがはっきり分かる。ほとんど二輪ドリフトだ。旋回性を高めるために計算してやっているとしたら、いや、谷崎ならきっと意図的にやっているはずだ。
どうなってるんだ。恐怖を感じないのか。
すごいやつだ。陣場は今さらながら、谷崎に感心し、改めて恐怖した。
谷崎を育てた平塚は、さらにいまだ破られていないサーキットの最速記録を持つ平塚は、その上をいくすごいライダーだったのだと思う。
幽霊とはいえ、そんな元エースライダーにバイクの乗り方を教えてもらえたのは、感動すべき出来事だったのだ。だから、おれはここまで来ることができた。
……同じ師を持つ谷崎ができるならば。おれにもできるかもしれない。
少しだけ、スロットルを開けてみよう。怖かったり、破綻しそうになったら戻せばいい。
攻めるんだ。追いつくには、それしかない。
……。
私はいったい何をしているのだ。……そうだ。走らなければ。
そう。ここはサーキットだ。私の場所。私だけの場所。私が生きられる唯一の場所。
誰もが私を見る。誰もが私を認める。私はここでだけ、私一人の存在として生きていける。
勝ち続けなければいけない。負けたらおしまいだ。
負けたら、もう誰も私を見ない。
去っていってしまう。
あのときの、陣場のように。
ようやく、またあいつが私のもとに戻ってきた。負けるわけにはいかない。去っていってほしくないから。
いてほしいんだ。手の届くところに。
私を見ていてほしい。
……。
今、何を考えていたのだろう。覚えていない。体力の限界みたいだ。まぶたが重い。さっさと走り終えて休みたい。
RVFの調子は良好。警告灯は灯っていない。水温計も正常範囲内。不調なのは私だけだ。
くそう。陣場め。全部あいつのせいだ。弱小男子二輪部のくせに、サーキットを走りたいなんて十年早い。免許を取ってから出直してこい。まともにコーナリングもできないような連中が、コースを走ったら邪魔なんだよ。すぐにクラッシュされたら迷惑なんだよ。心配させるな。そうじゃなくて!
コースでばらばらになったマシンを誰が片付けるんだ。お前らは保健室にでも病院にでも担ぎ込まれていればいいが、散らばった破片を拾い集めるのだって、人手はいるし時間もかかるし、後片付けが大変なんだぞ。飛び散ったオイルは誰が掃除するんだ。私たちが練習できないじゃないか。身の程知らずが。ふざけるな。ばか。ぼけ。でべそ。
だいたい、お前らのライテクのレベルが低いのは、私たちのせいじゃない。やる気があるなら教習所にでも行け。ライディングスクールだって開催されている。今までお前たちがサボってきたツケを、私たちに払わせるな。サーキットを走りたいなら、それなりに基礎を固めて来い。
サーキットの保守だって大変なんだ。ここらは風が強いから、すぐに路面に砂が浮く。新入生たちは、まず掃除から覚えるんだ。一生懸命コースの掃除して、サーキットの運営と保守を身に着けて、そうして晴れてマシンに触れるんだ。私だってそうだった。
それがお前たちと来たら! 「サーキットを使わせろ」だなんて、ずうずうしいんだよ!
「サーキットの掃除を手伝わせてください。お願いです谷崎さま」。お前らはまず、頭を下げてこう言うべきだったんだ。
確かに、いきなり勝負をけしかけた私も良くはなかったが、売り言葉に買い言葉だ。お前たちが悪い。
結論として、全部、陣場が悪い。
絶対に叩きつぶしてやる。もう二度と、サーキットを走りたいなんて世迷言をぬかせないように、フルボッコにして凹ませてやる。
お前は観客席でうらやましそうに指でもくわえて、応援してろ。それがお似合いだ。
もちろん、私を応援するのだぞ。
だってお前は、私の。
……私の、なんだっけ。
そう、お気に入りだからだ。
いじめてやる。泣かせてやる。お前なんか大嫌いだ。
矛盾なんかしてない。
くそう。腹が立ってきた。
勝つ。絶対勝つ!
……眠い。
二周目の第一コーナーも、一周目の平均的な展開と同じレース運び。だが、コーナーリングでの旋回速度では勝てないことに気が付いた陣場は、一周目ほど動揺していない。
必死の思いでRVFに追走しながら、陣場は思考を巡らせる。
勝ち目があるのは、コースの直線。RFの並列四気筒エンジンのダッシュパワーと、山形先輩がセッティングしてくれた、VC機構が作動する八〇〇〇回転からの高出力に賭けるしかないだろう。いずれにしても高回転域をうまく使わなければ。
それでいて、谷崎のように旋回性を高めながらコーナー脱出速度を確保するには、未体験の二輪ドリフトに手を出さなければいけない。しかし、山形先輩が言っていたように、八〇〇〇回転以上はVC機構のせいで出力が急に増大するため、下手をすると、車体がバンクしたためにタイヤの接地面積が減少した状態で、急な高出力をリアタイヤに与えてしまい、スリップ、下手をするとハイサイドの危険性がある。
そうなれば、即、転倒だ。
つまり、VC機構が作動しない八〇〇〇回転以下で、なおかつできるだけ高回転でコーナリングしなければいけない。もちろん、タコメーターを見ながら走る余裕はない。
やれるか。陣場は自問する。
……やるしかない。
第一コーナーの次に現れるS字コーナー、出口で陣場は旋回中にスロットルを大きく開ける。
リアサスが伸び、後輪に強い駆動力が掛かったのが感じられる。と同時に、リア側がずるずると滑る。心臓が凍るような緊張。思わず、スロットルを全閉してしまいたくなるのを、懸命にこらえる。
リアタイヤの奇妙な挙動を感じながら、ほんの数瞬の間にも祈るような気持ちで車体の状況を、全神経を注いで探る。
だが、マシンは破綻に向かって一挙に転覆するようなこともなく――、陣場が感じたこともない向き変えを見せながら、コーナーを脱出した。
近い。
谷崎の背が、近い。手が届くような距離ではないが、一周目のときより、ずっと近い。
ダッシュだ。開けろ。急開したスロットルに鋭く応えて、RFがダッシュ。S字を抜ければ、高速コーナーが続く。RVFはすでに全開加速に移っている。遠ざかりかけた谷崎の背中を、VC機構を作動させたRFの猛烈な加速が引き寄せる。
突然、谷崎がラインを崩した。驚いて陣場はスロットルを緩めてしまう。そのまま谷崎は、コーナリングには最適ではないライン取りで旋回を開始する。
引き離されて、陣場は気付く。谷崎はラインを崩したのではない。陣場のライン取りをさえぎったのだ。後ろを振り返らなくても、追撃するマシンがどこに割って入ろうとするか、読み切っているのだろう。陣場もRFをバンクさせ、後を追う。
追い越すことも、追い付くこともできなかったが、谷崎のラインを崩すことができた。
揺さぶりを掛けるところまで来たのだ。
後続マシンの爆音が、しつこく後を追ってくる。谷崎はいらだっていた。
どうなっている。なぜ陣場ごときを振り切れない。やつはまともに練習だってしていないはずなのに。
そもそも、やつが漆原に勝った時点で予想外だった。いや、より正確には、陣場の走り方を見ていて、奇妙な感じを受けてはいたのだ。
漆原との第一戦での、ぶざまな敗退のときとは、まるで違う走り方だった。素人がやりがちなぎこちないライン取り、マシンコントロールの姿は消え去り、急に無駄の少ない、いい走りをするようになった。
あえて言うならば、走り方が似ていた。
平塚さんに。
そもそも、陣場に関することでは、おかしいことばかり起こる。短期間で大きく成長し、漆原に勝った。急に平塚さんの遺言状が出てきて、RFは陣場が乗ることになった。峠で陣場と偶然行き会ったのも、まるで誰かが仕組んだことのように思えてくる。
そして、今、RFに乗った陣場は、この私に追いつきそうな勢いで追撃してくる。
後ろを走っているのは、本当に陣場なのか?
こうして、RFに追いかけられていると、まるで、いなくなった平塚さんに試されているような気がしてくる。少しは速くなったのか谷崎。そんなコーナリングで限界なのか、とテストされているかのようだ。
いけない。
これでは、男子二輪部の思うつぼだ。平常心で、いつもどおり全力で走ればいい。追いついてきたところで、前には出させない。ミラーがなくても、後ろを走る陣場の動きなどお見通しだ。
だが、もし。
もし平塚さんが、今の私を見ていたら、何と言うだろうか。
速くなったとほめてくれるだろうか。
それとも、大切なことを教え忘れたと嘆くだろうか。
まるで今、このレースで、平塚さんは何かを私に伝えようとしているかのようだ。
ばかな。ばかな。ばかな。
……たとえ、対戦相手が平塚さんであろうとも、私は全力で走り切るだけだ。
それが私の答えだ。
陣場が二輪ドリフトの感触を、わずかにつかみかけたところで最終コーナーを脱出。二機のマシンがコントロールラインを突破して、最終周回に入る。谷崎が先行し、陣場が追撃する形勢は変わっていない。
女子二輪部がラップタイムに目を奪われる。谷崎の二周目ラップは平塚の記録に並んだ。コースのベストタイムとタイ記録。陣場の記録は、更新前の谷崎の二周目ベストを上回った。
コースを三周するショートレースでの、サーキットの記録が更新されるかもしれない。まさに記録的なレースになる可能性が出てきた。
見物していた生徒たちの間にその情報が伝わり、喚声が場外にまであふれる。
「サーキットの記録が更新されるらしいぞ!」
通りすがりの、二輪車に興味がない生徒まで、何ごとかとサーキットをのぞきこんでいく。
最後の一周が始まる。
風を切り裂きながら、爆音が殺到する。
超高速で突進してきたマシンがフルブレーキングし、低く身構えたライダーの眼差しはコーナーの果てを貫く。
三度目の第一コーナー。これ以上ありえないような鋭さで、RVFを倒しこんだ谷崎はコーナリングしていく。
まるで翼を持った黒い魔物のようだ。追い付けない。
陣場は引き離される。このコーナーだけはどうしようもなかったが、リアを滑らせながら、なるべく距離を離されないように後を追う。出口を射程に収めた瞬間に、スロットを開けて攻め込む。
S字。左へ切れ込み、マシンを起こして流れるような動きで右へ旋回。谷崎は視界から消える。黒い突風のような機影を追いかけて、危ういバランスを保ちながら陣場はRFを駆る。
コーナーの脱出体勢。爆音が近い。加速を強めながら立ち上がり始めたRFのスクリーンの向こうに、谷崎機。
スロットルオープン。VC機構が小さな作動音を上げる。速度とエンジン回転を示す計器類の針が跳ね上がっていく。バンクしたままのRFが滑る。
だがスロットルは戻さない。攻めるなら、直線に見立てられる次の高速コーナーが最後のチャンスだ。
「うおおおおおおおおォっ」
恐怖を振り払って陣場は叫んだ。RFの咆哮が重なり合い、真っ赤な車体が閃光のようにコースを貫く。
RFの追撃を感じ取った谷崎がわずかに身じろぎして、走行ラインを中央寄りに振る。お互いに全開加速のなかにあって、これ以上どうすることもできない。
RFが、ついにRVFに食いつく。
そのまま、高速コーナーに突入。ぶつかり合いそうな至近距離で、左右にうねるコーナーをクリアしていく。谷崎も陣場も、一歩も譲らない。
エンジン回転はレッドゾーンに迫り、鋼の獣たちが烈しくせめぎ合う。接触寸前。
もつれ合うように高速コーナーをやり過ごして、ほとんど並んだ状態で加速。RFが一瞬前に出る。すぐに差しかかった深いコーナーでRVFがイン側に入り、抜き返される。脱出して陣場が谷崎に追いつく。谷崎が抜き返す。お互いの頭を押さえ込もうと激しく争う。
残るコーナーはあと三つ。
最終コーナーのひとつ手前、深くえぐれた左コーナーに差しかかる。
思いがけないミスが、レースの行方を揺さぶった。谷崎の左足つま先が、シフトペダルをとらえ損ねる。
「しまっ……」
谷崎はうめくが、遅かった。
左コーナーで、コントロールぎりぎりの速度域。アウト側には陣場機がいる。コーナー突入のタイミングを遅らせれば、衝突は避けられない。
やむなくフルバンク体勢に。寝そべるような傾斜にもぐりこんだシフトペダルは、路面にはさまれ、谷崎のつま先が入り込むより狭い場所にある。シフトアップできない。
エンジンが吹け切ってしまい、加速が鈍ったRVFの隙を陣場は見逃さなかった。アウト側からねじ込むようにコーナリング。前へ出る。
RVFを置き去りにして、RFがコーナーを脱出した。マシンを起こしながらすぐにシフトアップを終えたRVFが追撃するが、陣場はすでに谷崎のラインを押さえている。
右コーナーをRF先行のまま脱出。最終コーナーへ、陣場が先に飛び込んでいく。
悲劇は、そこで起こった。
先行する陣場を追って最終コーナーに突入した谷崎は、RVFの旋回性能を極限まで引き出して、勝負に出た。深いバンク角で加速を与え、アウト側からRFを抜き返そうとした。
急激な加速で、リアタイヤが横滑りした。コントロールできるドリフトの範囲を超えて、タイヤが空転しアウト側へ逃げていく。
思わず、谷崎はスロットルを戻してしまう。
その瞬間。
グリップを回復したリアタイヤは、マシンのリアサスペンションを急激に圧縮、伸張させる。RVFが猛烈な勢いで跳ね上がった。その背にいた谷崎は弾かれ、コース外へ跳ね飛ばされる。
ハイサイド。
平塚の命を奪ったサーキットの魔物が、谷崎に牙をむいた。
背中を強打し、コース外の緩衝エリアである、砂利を敷いたグラベルのうえへ仰向けに倒れた。
ヘルメットからの視野の中、青空から黒い魔物が降りてくるのが見えた。
RVF。路面に叩き付けられ損壊し、バウンドしたマシンがゆっくりと回転しながら、落下してくる。
ここで死ぬのか。谷崎は他人事のように、ぼんやりとそれを見詰めていた。
「よくやった陣ちゃん。君の勝ちだ。もう教えることはなんにもない」
ヘルメットに叩き付けられる風切り音が急に遠のいて、平塚の声が聞こえた。最終コーナーを脱出して、全開加速に移行するところなのに、音も光も身じろぎひとつしない。まるで時間が止まったかのよう。
おれ、勝ったんですか。信じられない。
「まあ、運も実力のうち、かな。ちょっと谷ちゃんが後ろでトラブってるから、助けに行かなきゃいけないんだ」
えっ。谷崎、どうかしたんですか。
「振り返らなくていい。そのまま進むんだ」どうしても気になって、後ろを振り返りたいのに身体が動かない。「一緒にいられて楽しかった。もしわたしのわがままを聞いてくれるなら、谷ちゃんをよろしくねん」
谷崎を? どういうことですか。
「そのあたりは任せるよ。じゃあ、ばいばい」
不思議なイメージが胸の中に沸き起こる。RFのリアシートのうえで平塚が、鋭く、白い光の矢になって、真後ろへと飛び去っていく光景。
なんだか、もう平塚には会えないような気がした。
ホームストレートの果てに蜃気楼が立ち昇ったように、視界がにじんだ。
最終コーナーの争いを制して、マシンがホームストレートに帰還してくる。RFが先頭だ。
「やったぞ! 陣のやつ、本当にやったぞ」
「し、信じられないぜえっ! 女二に勝った!」
秋田と山形が抱き合って、泣きながら喜ぶ。
そしてRFがコントロールラインを突破し、フィニッシュ――するはずなのだが。
RFは急ブレーキで停止した。
「……?」
秋田と山形は、抱き合ったまま固まった。
RVFが墜落する寸前に、なにか別の大きな音が聞こえた気がする。
谷崎が目を開くと、天国に続くかのように澄んだ青空が、視野いっぱいに飛び込んできた。死後の世界などないと谷崎は思うけれど、その瞬間だけは、空の果てから誰かが自分を見詰めていたような気がした。
およそ天国には似つかわしくない、大きな喚声が聞こえてくる。サイレンの音や、なにかの放送のようなひび割れた音声。
ヘルメットを被ったままの頭で、ゆっくりと視線を移動させていくと、顔のすぐ横に、RVFのフロントタイヤが目に入る。グラベルの砂利を深くえぐった痕跡を残して、黒いカウリングのRVFが、無残に破損して横たわっていた。
あと数十センチ、墜落地点が逸れていたら、軽量化したとはいえ一五〇キロの車重を持つマシンの直撃を受け、ヘルメットごと谷崎の頭は粉砕されていたかもしれない。自分に向かって墜落してくるように見えたが、わずかに逸れたようだった。
肩と背中がしびれたように痛む。動けない。首をめぐらせていくと、垂直に立ったホームストレートが見えた。
その気色の中、遠ざかっていく、RFのテール。
負けた。
敗者に背を向けて、陣場が去っていく。悔しさよりも、寂しさがこみ上げた。
幅の広いRFのテールが、急制動の反応でわずかに上を向く。RFに騎乗したライダーが振り返った。Uターンを決めて、戻ってくる。
「平塚先輩。師匠」
幻を見ながら、谷崎はつぶやく。
最終コーナーまで掛け戻ってきたRFは急停止し、サイドスタンドを立ててライダーが駆け寄ってきた。
「た、……谷崎。だいじょうぶ?」
「……なんだ。お前か」
われに返って、つまらなそうに谷崎は言った。ライダーは陣場だった。
「けがはない?」
「そんなことより、……記録はどうだった。コースレコードは更新したか」
「ゴールしてない」
「……何だと?」
「コントロールライン手前でターンしてきたんだ。まだ時計は止まってない」
「お、ま、え、と、いうやつはッ!」
谷崎は上体を起こして、陣場につかみかかった。
「あのラップタイムを見ろ! 途中までコースレコードを上回っていたんだ。私を追い越したお前なら、コースレコードが更新できたかもしれないんだぞッ。それを……そのチャンスを捨てたと言うのか、お前は!」
フルフェイスのシールドを跳ね上げて、陣場は自分の胸倉をつかむ黒いライダーのシールドを見詰める。
「記録よりも大切なものって、あると思うよ」
しばらく固まって、谷崎は陣場を突き離すと、スモークシールドを上げかけて、やっぱり戻す。
「ば、ばかやろう。……お前が言っても、ちっともカッコ良くないんだよ」
女子二輪部のほとんど全員が、コースに飛び出して駆け寄ってくる。回転灯を瞬かせて、消火作業車が出て走り出すのも見える。
痛む身体を引きずって、谷崎は立ち上がる。ヘルメットを脱いで片手を振り、無事を知らせると、駆け寄る部員たちの表情から、緊張が薄れる。
「すまない。ぶっ壊してしまった」
フロントフォークが曲がり、外装が割れて大破したRVFを見下ろして、谷崎が整備係に頭を下げた。
「いや。谷崎にけががなくて、何よりだよ」
整備係の行幸田が、わだかまりのない微笑を浮かべる。谷崎は恥ずかしくなって、うつむく。やがて顔を上げて、はっきりと言った。
「私は二輪部を辞める」
谷崎の周りに集まった女子部員たちの間に、無音の衝撃が走る。
「今回の敗戦を受けて、という意味もあるけれど、それ以前に私はエース失格だった。今、ようやくバイクレースはチームワークが大切だということを思い知らされた。皆と協力できないエースライダーは、チームには必要ない。私はこの場を去って、より相応しい人間にエースの座を譲ろうと思う」
ひと息に告げて、谷崎は息をついた。ヘルメットをぶら下げて、コース外へと踏み出す。
「世話になった。さようなら」
「待て、谷崎。それはちょっと卑怯なんじゃないか?」
声が呼びとめた。行幸田だった。
「男二に負けたままで、逃げ出すつもりか。敗戦の後始末をわたしたちに押し付けて、のんびり帰宅部なんて虫がよすぎるんじゃないのか? お前の役目は、男子二輪部に負けない、速い女子二輪部を育てることだろう」
「だが、私は……」
戸惑う谷崎の前に、新入生の整備係が並ぶ。
「あ、あのっ。私たち、谷崎先輩と一緒に走りたいんです」
「私たちのマシンで、もっとたくさんのレースで勝ってください!」
「お願いです。辞めないでくださいっ」
「あー、それはわたしからもお願いするわ。谷ちゃん」
聞き慣れた声に、その場の全員が注目する。漆原に支えられて、ジャージ姿の榊が立っていた。暑い気温なのに、病気のせいでかなり厚着をしている。
「谷ちゃんが抜けちゃうと、オンロードのエキスパートがいなくなっちゃうから。せめて、後輩を育ててからにしてもらわないと……ねえ」
漆原が強くうなずく。
「……いいのか」
うつむいたまま、谷崎がかすれ声をしぼる。
「私はここにいても、いいのか……?」
「谷崎先輩」
「谷崎、一緒に走ろうよ」
集まった女二部員たちが、谷崎の手を取る。上級生も下級生も周りに集まって、口々に谷崎の名前を呼ぶ。
部員たちの輪の中で、谷崎が泣き出す。
「すまない。ありがとう、みんな……」
輪の外で呆然と成り行きを見守っている陣場のところに、よろよろと榊が近寄ってきた。
「陣ちゃん、いいレースだったよ」
そう言って、陣場の肩に寄りかかる。柔らかい身体に抱きつかれて、陣場はどきどきする。
「完全に、表彰台を取られてしまいました」
「あらあ。お祝いしたくて、待ってる人たちがいるみたいだよ?」
榊の指さすほうを見ると、コース外の管理道路のあたりに二人の人影が見える。ガッツポーズを決めた山形の隣で、満面の笑顔で秋田が手招きしていた。
「あとで宴会やろう。わたしも呼んでね」
そう言って、榊は陣場から離れて女二部員たちの方へ歩いていく。陣場も、女二部員たちに背を向けて、秋田たちの方へ走っていく。
「分かった、けじめを付けよう。私を殴れ」
涙をぬぐった谷崎が、表情を引き締めて行幸田に向き直る。きょとんとした顔で、整備係のリーダーは、エースライダーを見返す。
「この間のことは、これでおあいこにしよう。さあ手加減なく、殴れっ」
「いいのか?」
「ああ。怒らないから、やってくれ」
行幸田はうなずく。そして谷崎に近付くと、いきなり彼女を抱き寄せ、ほほにくちづけした。取り囲んでいた女二部員たちの輪が、一歩退く。
「私に、女の子を殴る趣味はないよ。これでおあいこだ」
顔を真っ赤にした谷崎が、目を白黒させて、その場に座りこんだ。破損したRVFに向かって歩いていく微笑を残して立ち去る行幸田の姿を、部員たちが凝固したまま見送った。
■■■ 終章 ■Finish■ ■■■
谷崎とのレースが終わって、サーキットの片付けやら期末試験やらが慌しく押し寄せて去っていった、一週間後のある日。
陣場が部室でバイクのメンテナンスマニュアルを眺めていると、秋田が暗い顔で入ってきた。
「どうしたんですか先輩。顔色が悪いですよ」
陰鬱な眼差しをさ迷わせながら、秋田が陣場の向かいのいすに座る。
「うむ……。悪いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
「……じゃあ、悪いニュースから」
「この間のレースは、ドローだ」
「は?」
「谷崎はコースアウトしてリタイアだが、お前はコントロールラインでチェッカーフラッグを受けないまま帰ってしまったので、試合放棄とみなされた、ということらしい」
「じゃあ、勝負の決着は」
「ついていないままだ」
あんなに怖い思いをして走ったのに、なんの結果も残っていないとは。ゴールしなかったことを谷崎が責めた気持ちが、今なら分かる気がする。陣場は机のうえに脱力しきって伸びる。
そういえば、あのレース以来、平塚は姿を表さない。成仏してしまったのかもしれないし、あるいは別の理由で姿を見せられないのかもしれない。いずれにしても、谷崎との勝負は付いていないし、もっと教えてほしいこともあるし、一緒に過ごすのも悪いことばかりではなかったし、また会うことができればいいな、と陣場は思う。
「で、もうひとつのニュースというのは?」
「男子二輪部は消滅する」
「えー!」
「でもねえ。それは女子二輪部も同じなのよ」
ドアを開けて、榊が部室に入ってきた。なぜか笑顔だ。
「あ、風邪はもう治ったんですね。って、えー! 二輪部はなくなるんですか?」
「いや、そういうわけでもないんだぜ」
山形もドアの向こうから姿を表す。いぶかしんで、陣場は一同を見回す。
「先輩がたみんなそろって、首脳会談でもやってたんですか」
「うーん、それについては、まあ関係者みんなに説明しよう思うんだ。サーキットに集まってもらっていいかな?」
榊にうながされて、サーキットのコントロールタワー一階のミーティングルームに向かうと、すでに女子二輪部のメンバーがほとんど顔をそろえていた。陣場たち男子二輪部のメンバーが入室すると、どことなく不審な視線が向けられる。
秋田と山形は正面の名がテーブルの席へ、陣場はイスだけが並べられた部員たちの席に座る。
「女子二輪部と男子二輪部は、合併することになりました」
榊が笑顔のまま、いきなり結論を述べた。
拒絶の悲鳴を上げながら、女子部員たちが一斉に立ち上がる、ということはなく、ほっとしたような雰囲気の中で拍手が起こった。陣場に興味深げな眼差しを向ける生徒もいる。
陣場にとっては思いがけないことだったが、先日のレースで谷崎と互角の走りを見せたことで、女二の中で、陣場の走りについての評価は高まっていた。
「おもな理由は、前向きな点としては練習場所であるサーキットの共同利用が目的。後ろ向きな点としては、予算確保と効率的な利用のためだよ」
要するに、ひとつの部として活動したほうが、練習場所の利用も共同でできるし、予算の使い方にしても、マシンや工具類などは共用することで無駄を省ける。
「そのほかにも、人的資源の交流を図ることで、互いの技術を高めあうことができる、など、まあ合併したほうがメリットが大きいと判断したためです。予算の配分については、実は以前、学校側から合併の勧告があったんだ。男子二輪部が廃部と言ううわさもあったので、ようすを見ていたんだけど」
榊があけすけに発言する。そういうことらしい。
「ということで、男子二輪部の秋田部長、あいさつをお願いします」
「ああ、うん。まあその。今後ともよろしく」
中学生ですか。
「続いて、同じく山形副部長」
「よろしくだぜ」
小学生ですか。
「じゃあついでに陣ちゃんも」
「あ、はい。陣場独歩です。これからは」
「ありがとさーん」
そんなところで切りますか。
「合併に伴い、チームカラーが変更になります。とりあえずライディングスーツの試作品が出来上がってるので、お披露目します。協力は手芸部です。ではモデルの方、どうぞー」
ミーティングルームの後ろのドアが開いて、ライディングスーツを着た女子生徒が入室してくる。
谷崎だった。なんと、着ているスーツは黄色だった。顔は少し赤い。
今まで黒一色で通してきた谷崎の、思いがけない衣装替えに部員たちから歓声と拍手が上がる。
「サーキットでの目立ち度を考慮に入れて、チームカラーはイエローにしたいと思っています」
榊の説明に、谷崎はうなずいた。
「今後はチーム一丸で、力を合わせてレースに参加したいと考えている。そのための意気込みを示そうと思って、まず率先してチームカラーを身に着けることにしたんだ。みんな、よろしく」
黄色のスーツに、黒の鋭角的なラインが走って少し恥ずかしそうにしながら、谷崎は所信表明。拍手が部屋に満ちる。
「われらがエースライダーの谷崎選手は、率先してマシンもチームカラーに変更しました!」整備係の新入生が、部屋の前側の両扉を開いて宣言する。さらにほかの生徒が、マシンを押して部屋に入ってくる。
入ってきたのは、エリミネーター。完全に黄色い。谷崎の表情が石化する。
「お、お前ら。それは私のマシンじゃないか!」
「え? だって先輩『私のマシンをチームカラーに変更しておいてくれ』って」
「それはRVFのことだ……」
新入生の整備係全員が、硬直する。
「……す、すいませんでしたっ!」
変わり果てた姿のエリミネーターを見下ろして、谷崎は肩を落とす。榊が笑い出して、席に座っていた部員たちも笑い出す。
「谷崎先輩、変わったでしょ」
いつの間にか、隣に漆原が座っていた。陣場はうなずく。
「うん。少し明るくなったみたいだ。良かった」
「陣ちゃんは、なにか変えるの?」
「うーん、そうだなあ。これから考える」
「……一緒に教習所、行かない? 免許取ったら、ニチジョーとか変わりそうだし」
うつむき加減で、漆原が照れくさそうに言い出す。すっかりそのことを忘れていた陣場は思わずひざを打つ。
「そうだ。教習所行きたかったんだ。おれ、こっちに引っ越してきたばかりでよく分からないから、教習所の場所とか教えて」
はにかんだ笑顔の漆原が、うなずいた。
「こら、陣のすけ」
呼び止められたので、振り返った。谷崎が相変わらずの鋭い視線でにらみ付けていた。
「じんのすけって、なん――ですか」
寮を出て、校門に向かう途中の並木道。まだ校内なので、とっさに言葉遣いを敬語モードに。
「どうせ暇なんだろ。ちょっと付き合え」
谷崎は背を向ける。仕方なく、後に続く陣場。
「似合ってたよ、ライディングスーツ」
思い出し笑いをこらえながら、陣場。
「他人事みたいに言うなよ。お前も着るんだぞ。……そういえば、部のマスコットキャラなんだが」
「キャラ? そんなのいたっけ」
「薄情なやつだな。お前が乗ってたCBRに描いてあっただろう。うなぎの絵が」
思い出した。秋田が描いてくれていたのだった。うなぎじゃなくて龍らしいけど。
「で、合併後の新しいマスコットは『サンダーバード』なんだそうだ。黄色いチームカラーに似合っているといえば、まあそうだな。『鵬』、という学校名からもイメージしやすいし」
「以前のフェニックスと比べて、谷崎はどう思うの?」
「どっちでもいい。私はチームとともに走る。その気持ちは、マスコットキャラやチームカラーで左右される程度のものじゃない」
今なら谷崎は、ショッキングピンクのライディングスーツも着てくれるだろう。
「じゃあ、おれたち鵬高校サンダーバーズだね」
「そうだ。私の目の届くところでチンタラ走ってたら、蹴飛ばすからな」谷崎はそっぽを向く。「……よろしく頼むぞ」
陣場はうれしくなって、ほほを緩めながらうなずく。
谷崎は校門を出て、国道沿いに歩いてく。陣場や谷崎の家がある方角だ。いつもは寮で生活しているので、用事のあるときか長期休暇に入らない限り、実家のほうへ足を向けることはない。
「この場所だ。覚えているか」
そこは住宅街のなかにある、小さな公園だった。
「ああ。小さいころ、よく一緒に遊んだね」
懐かしい思い出が、そここに落ちていそうな場所だった。谷崎と追いかけっこしたり、砂場で山を作ったり、滑り台を何度も昇ったり降りたり。
でも、なぜ谷崎は、陣場を連れてこの場所に来たのだろうか。
「十年くらい前、」谷崎は公園の一角を指差す。木製のベンチが置かれていた。「あの場所に、バネですえつけられてた遊具があったの覚えてるか」
「……ああ。そういえば」
太さ三、四センチくらいありそうな鉄線でできたバネが地面から伸びて、そのうえに木製の乗り物が付いている遊具だ。飛行機や、動物や、いろいろな形のものがあった気がする。
「その中に、バイクの形をしたのがあった」谷崎の目は、今もそれがその場所にあるように、一点をじっと見詰めている。「お前はとくにそれがお気に入りで、この場所に遊びに来たら、必ずそれに乗っていた」
「確かに。そうだった気がする」
そんな子どものころからバイクが好きだったなんて。と言いたいところだったが、子どものころはそれが自転車だかバイクだか、良く分からず乗っていたと思う。
「お前が引っ越していなくなった後、私はよく泣きながら、そのバイクに乗ってずっと時間をすごしたんだ。何日も、何週間も。少なくとも一年くらいは、この公園に来ては、お前のお気に入りだったバイクに乗っていたんだ」
えっ……。
陣場の心臓が、ひとつ、大きく拍動する。
「お前が急にいなくなって、私はどんなに辛かったか。泣いてばかりだったんだぞ。毎日。ずっと忘れられなかった」
拳を握りしめて、谷崎は陣場を見詰める。夕陽が照らし出す彼女の顔は、神秘的な力を秘めた妖精のように美しかった。
「ご、ごめん。谷崎。おれ、ちっとも知らなくて」
ほほが熱くなるのを感じる。これってまさか、告白モードなのか。
「今からでも、まだ、間に合うかな」
「ああ、今なら間に合う。許してやる。ちょっと、恥ずかしいけどさ」
のどが渇く。緊張して、ひざが震えそうだ。
「分かった。じゃあ、やり直そう。それにしても、ちっとも気が付かなくてごめん。谷崎がおれのこと好きだなんて」
「……?」
「デートはどこに行こうか。やっぱりツーリング? それともサーキット? 結婚はいつにしようか。新婚旅行はパリ・ダカールレースの観戦とかいいよね。いや、いっそのこと参戦するのも楽しいかな。ああ、国際免許取らなきゃ」
「ち、ちげーよ、ばか! なに寝言言ってるんだ」
谷崎が顔を赤くして、怒声を上げる。
「私が言っているのは、十年前にお前に貸したままだったゲームソフトを返せっていう話だよ! 借りっぱなしで引越ししやがって」
「……は?」
「私の超・お気に入りのレースゲーム『ソニック・ライダー』だ。あまりにもマイナーすぎて、今、どこを探しても手に入らないんだぞ。まさか捨てたんじゃあるまいな」
「あーあーあー。あったような……」
冗談でも捨てたなんて言ったら、サーキットをRVFで引きずり回されかねない。
「すぐ家に行って取ってこい。いや、私も付いていく。逃げられてはかなわないからな」
「逃げないって。えーと、……鵬工業団地ってどっちだっけ?」
「お前の家だろ。近くじゃないか」
「いや、十年ぶりに帰ってきて、すぐに学校の寮に入ったから、地理がよく分からなくてさ」
「情けないやつだなあ」
あきれ返った顔で、谷崎は見下すように陣場へ冷たい視線を突き刺す。そして、自然に陣場の手を取ると、先に立って歩き出した。
「こっちだ。私に付いてこい」
「あ、うん」
陣場の手のひらを包む、谷崎の指は思いがけず小さく、細くて柔らかい。
手をつないだまま、一緒に歩き出す。
「はぐれるなよ。はぐれても、私を追ってこい。どこまでも」
「うん。分かった」
先行する谷崎。追う陣場。
二人の距離は、やっと手が届くほどに近付いたけれど、追いかけっこに決着が付くのはいつか、誰も知らない。
(了)