第四章 砕けた、願い◆「Boulevard of Broken Dreams」
■■■ 第四章 砕けた、願い◆「Boulevard of Broken Dreams」 ■■■
ドアを開けて、勝手知ったるわが住まいに足を踏み入れると、制服姿の女子生徒がくつろいでカップラーメンをすすっていた。
「あっ、いた。っていうか先輩、無断で食べないでください」
陣場は情けない顔をして、平塚に抗議する。
「えー。いいじゃん、もう他人じゃない関係なんだしさ」
「誤解を招くような発言を。先輩は幽霊だからいいですけど、おれは食料がなかったら飢えて死ぬんです」
「おおげさだなあ、陣ちゃんは」
食費がかさんだおかげで、山の中で無一文になってヒッチハイクした苦労話を、もっと誇張して言い聞かせてやるんだった、と陣場は後悔した。平塚に反省の色など浮かんでいない。
「先輩、昼間はどこに行ってたんですか。それに、なぜ制服姿」
「お散歩ー。服は陣ちゃんが喜ぶかなあって」
「べ、別に服を見て喜んだりとかそういうのは。そんなことより、すごかったですよ、全国大会。谷崎が優勝しました。大会二連覇です」
今日の昼間、鵬工業高校のサーキットで、二輪レースの高校選手権全国大会が開催された。超満員の観客席で、陣場もレースのようすを観戦した。
結果はといえば、大方の予想と期待どおり、谷崎がぶっちぎりで優勝を飾った。まあ毎日練習している、いわばホームのサーキットなので有利には違いないが、はるばる全国から集まった他校の男女のエースライダーをはるか後方に置き去りにしたあげく、自己ベストを更新してのチェッカーフラッグだ。
谷崎は、日々進化を続けている。地元紙のカメラマンや取材記者に囲まれた女二のエースを遠くから眺めて、陣場は改めて谷崎のすごさを感じた。
ちなみに、陣場たち男子二輪部は大会にはエントリーしていない。廃部寸前だからだ。
「あっそ」
「もっとうれしそうな顔したらどうですか。後輩ですよ。しかも弟子でしょう」
「谷ちゃんが優勝なんて当たり前だし。驚かないよ。うちの学校で高校選手権宇宙大会でも開催されないかなあ」
だめだ。陣場の日常とはスケールが違いすぎる。悔しくなってきたので、陣場もカップめんを取り出して、沸かしたお湯を注ぐ。
「ところで、先輩はどこに散歩に行ってたんですか。大事な用でも?」
「うん。すごいんだぜ。この部屋の三つ隣の木村ってやつ」
「はい?」
「えっちなDVDたくさん持ってた。で、ずっと鑑賞してたってわけ」
人知れず、部屋で勝手に誰にも知られたくない秘蔵のえっちなDVDを鑑賞し続ける、女の幽霊。ふざけている。ある意味怖い。ゴーストバスターズに駆除してもらおう。
「ダビングしてきたけど、見る?」
「見ないですっ」赤面して、陣場は叫ぶ。「つうか違法じゃないですか!」
「幽霊には学校も試験も違法もないのよ」
けけけ、と平塚は笑った。
「で、どうよ。陣ちゃんは谷崎に勝てそう? わたしの関心事は、どちらかというとそっちなんだけど」
「……さっぱり自信ないです」
ため息をつく陣場。カップめんのふたをべりりとはがし、ぱきりと割ったはしでしょうゆ味のラーメンをかき込む。
「ダメだなあ。男の自信は夜に着くって新聞に書いてあったぜ」
「どうせスポーツ紙の広告でしょう。いちおう、レース結果は見てるんですね」
「競馬だけどね。まあ、冗談はともかく、そろそろ梅雨だろ。雨が降ったら、レースも練習もできなくなる。早めに練習しておかないと、日にちがないぜ。勝負は来週だったっけ」
「八日後です……」
「RVFは貸してもらえるんだっけか。いつになりそう?」
「明日かあさって。大会用にライダーの好みにハイチューンしてあるそうなんで、元に戻してから貸してくれるって、榊部長が」
「うん。クセのあるマシンが好きなライダーもいるからね。標準に戻してもらったほうがいいと思う。しかし、……陣ちゃん、四〇〇は乗ったことないんだろ。時間が惜しいなあ」
ラーメンを平らげて、平塚はぱたりと仰向けにひっくり返る。そのまま、泳ぎの練習だかおぼれる演技だか、ぱたぱたと手足を動かすのを、陣場は食事を続けながら見ていた。
やがて、むくりと平塚は起き上がる。
「よし。じゃあ、ちょっと待ってな。秘策を用意する」
そう言い残して、部屋の壁にめり込んでそのまま向こう側へと消えてしまう。部屋に静けさが戻る。
平塚が置きっぱにした、DVD‐Rが床の上に転がっている。おそらく陣場の私物を勝手に使ったものだろう。記録されている内容にまったく興味はないのだが、ほんとうに興味はないのだが、部屋に転がっている以上、陣場の私物であった以上、内容に目を通しておくのが、持ち主としての責務だと陣場は思う。
指紋が付くとまずいと思い、ハンカチでディスクを手に取る。まだ平塚が戻ってくる気配はない。幽霊なので前触れなく現れる危険性は多分にあるのだが。
素早くDVDデッキの電源をオン。起動する時間がもどかしい。全神経を耳に集中し、平塚の気配を索敵しながら、テレビモニターの電源もオン。ボリュームをミュートにセット。
デッキの機動が完了。すぐさまトレイをオープン。めくるめく秘密が隠されたディスクをセット、指で押し戻してトレイをクローズ、渾身の力を込めて再生ボタンをオン。
「そ、そこはらめえええっ! 陣ちゃん、すきすきだあい好き」
「ぎゃあ!」
耳元で平塚の色っぽい声がして、陣場は炸裂する地雷の直撃でも受けたみたいに吹っ飛ぶ。壁にがあんと頭をぶつけて、あまりの痛さに床を転げまわる。
「なんだあ、陣ちゃんったら、ほんとは見たいんじゃん。一緒に見ようよん」
「ちょあのっこれはそのっ。不審物のチェックをっ。わあ再生してしまう」
「あーごめん。それ空ディスクだわ。本物はこっち」
制服の胸元に手を突っ込んで、ディスクを取り出す。なんというとことに収納しておくのか。
「さあさあ見るぞ。女囚メイド花園卒業編と、女調教師愛と青春の決闘編と、それから、花魁大回転レッドゾーンどすえ編と、どれがいいにょろ?」
ぜんぶ見たい。いやぜんぶ見たくない。複雑な男心。
「そんなことより、秘策はどうなったんですか!」
「そうだった。これを用意した」
平塚の手には、一通の封書。
「これを榊に渡せば万事おっけー。さあ、女二がサーキットにいるうちに行こう」
「ゆ、『ゆいごんしょ』お?」
榊が甲高い声を上げる。サーキットのピットにいた榊のほか、数人の女二部員たちが、好奇心にかられて集まってくる。
「あのう。平塚さんから預かったものでして」
陣場が困ったように言う。
「……開けてみよう。いい?」
陣場がうなずくと、榊は封書を開いて、中身を取り出す。一枚のレポート用紙と、カギがひとつ。
「『はいけい。女子二りんぶのみなさま。げんきにしてるかにょろ? わたしはげんきだにょろ。ところで、もし、わたしに万が一のことがあって、じんばどっぽという男の子がたずねてきたら、わたしのバイクをかしてあげてほしいのだ。よろしくねん かしこ 二年三組 ひらつかかずは』……このひらがなだらけの文章と汚い字、いいかげんな文面、間違いなくつかぷーの手紙だわ……」
榊が感慨深そうに、レポート用紙を見詰める。そして、手のひらにあるステンレス製のカギを陣場に差し出した。
「分かったよ。すぐそこにあるから、つかぷーのマシン使っていいよ」
「ちょっと待てっ」
騒ぎを聞きつけた黒いライダーが、ピットに飛び込んでくる。谷崎は敵意むき出しの目で、陣場をにらんだ。
「今さら平塚さんの遺言書が出てくるなんて、おかしいじゃないか。それに、なぜ平塚さんの手紙を、お前が持っているんだッ」
飲み込みの早い谷崎が、かみつきそうな勢いで陣場に詰め寄る。
「ええと、平塚先輩とは、知り合いで」
「なんのだっ? どういう関係なんだ」
「それは……ヒミツ、です。谷崎先輩」
「くそ。榊、見せてくれ。うおっきったねえ字。間違いない、平塚さんの手紙だ」
「……汚なくて悪かったね」
陣場の後ろに立っている平塚がぼそりとつぶやく。もちろん、陣場以外の誰にも聞こえない。
「み、認めないぞ。平塚さんのマシンを、男子二輪が触るなんて!」
「谷ちゃん。でも、遺言書にそう書いてあるんだよ? つかぷーの遺志を尊重しないと」
「でも。偽造かもしれないじゃないか……」
自分で認めておきながら、谷崎が苦し紛れの言葉をもらす。
「じゃあ、このカギが回ったら文句なしだね。陣ちゃんが持ってきた封書の中から出てきたんだ」
そう言って榊は、ピットの壁のほうへ歩く。立てられた何台かのマシンの中から、一番壁際のマシンに近付き、かけられたカバーを取り払う。
大柄で、真っ赤なボディを持ったマシンが現れた。所有者がいなくなっても、部員たちの手で定期的にメンテナンスされているらしく、光り輝いて見える。左右のロアーカウルに、彫り込まれたようなルーバーが印象的なデザイン。
キーシリンダーにカギを差し込み、榊がメインスイッチを入れる。
ヘッドライトが灯った。ピット内にどよめきが満ちた。
「大事に乗ってあげてね」
スイッチを切って、榊が陣場に笑顔を向ける。
「遺言書にあるとおり、貸すだけだからな。壊したら弁償しろよ」
まだ納得できないようすで、悔しそうに谷崎が陣場に食い下がった。
「……それで、平塚さんは私には、何か言ってなかったか」
「ええと……それは」かさり、とポケットに固い感触。手を入れて取り出す。封書がもう一通。平塚がたった今、ねじ込んだのだろう。『谷ちゃんへ』と書かれている。
「見せてくれっ」
震える手で受け取った谷崎は、もどかしそうに開封する。中にはレポート用紙が一枚だけ。
『がんがれ。 ひらつかより』
と汚い字で大きく書かれていた。
ひでえ。それだけかよ。怒るんじゃないか、と思ったが、谷崎は封筒ごと胸に抱きしめて、「し、師匠っ……分かりました、頑張ります」と感動しているようす。くわっと目を開いて、陣場に指を突きつけた。
「きさまを全力でつぶす! 覚悟していろ」
時間を惜しむように、谷崎は足音高くコースのほうへ戻っていった。
そして陣場の手には、平塚の愛車・RF400RVが委ねられた。
「RFゥ?」
秋田と山形が、そろって顔をしかめた。
とりあえずサーキットのピットからRFを引っ張り出し、男二の部室前まで運んできたところだった。陣場は、今一度明るいところでバイクを見回し、叫んだ。
「か、カッコいいっ!」
水冷並列四気筒のエンジンを搭載し、高回転時にバルブタイミングが切り替わるVC機構を備え、低速トルクと高回転での大出力を両立させている。
そして、車格がやたらとでかい。とても四〇〇ccの排気量とは思えない巨大さ。同じフレームに一・五倍の排気量、六〇〇ccのエンジンを搭載した「RF600」というのも製造されたので、でかいのもうなずける。
そして何より、外装のフルカウル。両サイドにルーバーが取り付けられていて、なんだかイタリアのスポーツカーみたいでカッコいい。
「でしょでしょ?」
陣場の隣で平塚が、まるで自分がほめられているみたいに笑顔を浮かべている。陣場にしか見えないが。
「まあ、確かに見た目はでかくて速そうだが……」
「これ、ツアラーだぜ? サーキット走れるのか?」
秋田と山形がケチを付けると、平塚の表情が凶悪にゆがむ。「呪ってやる……」
RFはスポーツツアラーに分類される。長距離を快適に移動するため、大きくて安定した車体、ライダーへの風圧を軽減するカウルがマシン全体を覆っている。一方で、そこそこ峠のワインディングも軽快に走れるよう、レーサーレプリカ寄りの前傾ポジションが設定されており、高速走行時にはアッパーカウルの陰に伏せるようにしながらバイクを操ることができる。
が、いかんせんツアラーである分、純粋に走りを追求するとなると、無駄な要素が出てくる。陣場が乗る前から、秋田と山形はそれを心配しているようだった。
「まあ、本番はRVFだな。貸してもらえるまでは、これで慣らしておいたほうが良かろう」
「RVF用の《消音ちゃんツヴァイ・改》作っておかなきゃなんだぜ。RFは、いらないよな?」
「あ、いえ」平塚に背中を押されて口を開く。「すぐRFで練習したいので、作ってもらってもいいですか」
「オーケー、分かった。急いで作っとくぜ」
山形はさっそく、RF用に消音マフラーを制作するためジャンクパーツを探しに出かけた。
「よおし、じゃあ久しぶりに体力トレーニングだ! まずは軽く、校庭外縁を十周!」
うげ、とうめいた陣場を引きずるようにして部室棟を出た秋田。ぽつりと、ほほに冷たいものを感じて空を仰ぐ。
「雨か」
空一面の雨雲。降り始めた雨に、屋外の運動部員たちがわらわらと部室棟や校舎に向かって引き上げてくる。
「こりゃサーキットでも練習は無理だな。よし、じゃ部室でスクワットと腕立て伏せ二百回!」
ぎええ、と叫ぶ陣場を引きずって、秋田は部室へと引き返した。
コースの舗装に黒い水玉が落ち、つながり、広がっていく。
練習走行終了を合図するフラッグが振られる。それぞれのマシンを操るライダーたちは、戦闘的な緊張から解放されてコースを離脱。凶暴なうなり声で吠え立てていた鋼の獣は、従順さを得て、ひとときの休息に就く。マシンを降りてふつうの女子生徒に戻ったライダーたちは、整備や記録係の生徒たちと一緒に、雨を避けるためにピットへと急ぐ。
コントロールタワーで生徒たちの動きを見下ろしていた榊は、雨が降りしきる中、いつまで経っても撤収しようとしない部員の一群をピット前に見つけた。
その中心には、黒のライダー。
榊はインカムを口元に引き寄せる。
「榊からピットクルーへ。何やってるの?」
《あっはい。ピットの山田です。あのう、谷崎先輩がノーマルタイヤに履き替えさせろって》
思わず、くちびるを苦笑する形にゆがめてしまう。レース用のタイヤはグリップを重視するため、一般的なタイヤのように溝が掘られていない。接地面の排水性が悪いので、雨天時の走行ではスリップの危険性が極めて高いのだ。
谷崎は雨の中、練習を続けるために排水性の高いノーマルタイヤにマシンを換装するよう、ピットクルーたちに命令を飛ばしているのだ。谷崎なら、雷が落ちても練習を続けると言い出しかねない。
「分かった。谷ちゃんの言うこと聞いてあげて。ごめんね」
《いえそんな。もうやってますから》
「ありがとう」
榊は窓際に近寄る。高い位置に設置されたコントロールタワーからは、雨に煙るサーキットの全体が見渡せた。
「暗くなってきたね。コースの照明つけてあげて。全部」
《電源室、了解》
「ありがとう。保守か運営係で手が空いている人。第六コーナーアウト側の排水溝のフタ、開けてきてくれるかな。すぐにあふれちゃうから」
学校のサーキットの溝は、土砂の流入を防ぐため、ふだんはフタで塞がれていた。
《保守係了解。ホームストレートのアウト側のフタも開けますか?》
「ありがとう。そっちもお願い」
《ピット作業完了。谷崎先輩出ます》
報告とほとんど同時に、黒い機体がピットから発進する。ピットロードを制限速度オーバー気味で駆け抜け、メインコースへと進入。路面のコンディションを探りながら、爆音を響かせて加速していく。
雨が本格的な降りになってきた。吹き寄せる風とあいまって、窓に当たる雨粒が音を立て始める。
窓に雨がにじんで、外のようすがよく見えない。榊はコントロールタワー屋上のテラスに出て、双眼鏡を手にコースを監視する。
雨水があふれて、メインコースへ流出していないか。人や動物などコースへの侵入者はいないか。風向きや風力は走行に支障をきたさない範囲に収まっているか。
谷崎が走行に集中できるよう、榊はできる限りの気配りを、サーキット全体に行き渡らせている。
塔を駆け上がってくる足音が近付く。榊は振り返らない。
「榊部長。なにか手伝うことはありませんか」
ビニール傘を差した少女が現れる。漆原だった。オレンジ色のライディングスーツから、同色の作業服に着替えている。
「うん。今んところ大丈夫だよ。ありがとう」
双眼鏡を顔から離し、漆原を見てにこりと笑う。
「あの。傘差してください。これ」
自分の持っていたビニール傘を差し出そうとする。
「でも、双眼鏡があるし、インカムの操作もあるから、両手が空いているほうがいいんだ。ありがとね」
「部長は、いつも『ありがとう』ばっかりですね」
少し怒ったように言い残すと、漆原はきびすを返し、階段を駆け下りていく。しばらくして、ビニール袋を抱えて戻ってきた。
「タオルとレインコートです。顔と頭だけでも拭いて、着てください。風邪引きますよ」
目を丸くして、差し出されたオレンジ色のレインコートとタオルを見る。榊は照れたように笑った。
「このはちゃんは優しいなあ。いいお嫁さんになれるよ」
漆原から受け取ったレインコートを着て、榊は谷崎のRVFが疾走するコースを見下ろし続けた。さすがにコーナリングでの速度は抑え気味だが、それでもウエット時の限界を探ろうと、谷崎は徐々にペースを上げているようだった。
「うひゃあ。タイヤがズルズル滑ってる。思うように走れなくて、谷ちゃんかりかり来てるだろうなあ。ピットのみんなに、谷ちゃん機嫌悪いぞって教えてあげないと」
S字コーナーを脱出する谷崎を観察しながら、榊。漆原が傘の下で、顔を輝かせる。
「じゃあわたし、知らせてきます。インカムで話すと、谷崎先輩にも聞かれちゃいますからね」
そう言って、漆原は背を向けて走り出そうとする。
「うん。じゃお願い」手を振る榊。「ありがとうね」
信じられないことに、山形は四時間で《消音ちゃんツヴァイ・改》を作ってきた。ジャンクパーツを扱う業者の知り合いでもいるのだろうか。爆音仕様のリプレイスマフラーに換装する一般のライダーが多いとはいえ、すぐに廃棄されてしまうはずの純正マフラーを探すのは、結構大変なはずなのだが。
で、夜八時半ごろに、純正マフラー二本を直列接続した《改》をRFに取り付けて、エンジンをかけてみた。
ぽろろろろろーっ。
「ぷっ」
「ぎゃははははは」
サイクロプス級ハト。そんな音がした。サイレンサーの中身に、ぽろろろろーと音がする仕掛けがしてあるらしい。通常の二百倍くらいありそう巨大なホイッスルを弱々しく吹き鳴らすと、こんな音が出るんじゃなかろうかという感じだ。
むろん、全員で笑い転げた。幽霊の平塚も。
雨が上がった夜のサーキットにRFを持ち込み、陣場は走り始めた。《改》の音に気を良くしたのか、秋田と山形も付いてきた。
クラッチをつないですぐ、陣場は驚いた。二五〇ccのバイクとは、まるで別の乗り物のようだった。力強いエンジンが、二〇〇キロ近い車体をこともなげに押し出す。太いトルク、強大なパワーが体感させる圧倒的な推進力に、胸が高鳴る。
興奮気味にスロットルを開けていくと、体感したことのない加速が周りの気色を吹き飛ばす。あっという間に到達した第一コーナーで慌ててブレーキングし、コーナリング。立ち上がりの加速から、S字コーナーへ。
うーむ、速い。陣場は率直に思う。だが、問題点も分かってきた。
RFは車体の重心が高い。なので、コーナリングの最初でマシンをバンクさせると、急にぐらりと倒れるような動きを見せる。また、前輪と後輪の距離、ホイールベースが長く安定したハンドリングを重要視したマシンのため、どうしてもCBRのような鋭い旋回性を引き出せない。
要するに、CBRに比べると曲がりにくいマシンだった。谷崎たちのRVFと比べても同じだろう。RFは楽に長距離を走るための、つまりはツアラーマシンなのだ。
とはいえ。
陣場は高速コーナーを大加速で脱出してみる。スロットル操作に強く反応し、突き抜けるような勢いで路面を蹴るエンジンパワーに、陣場は興奮した。
「どうよ。いいバイクでしょ」
リアシートに横座りした平塚が声をかける。陣場はうなずいて、ホームストレートに到達したマシンを全開加速させる。
タコメーターが八〇〇〇回転あたりを指したとき、エンジンがさらに勢いを増してレッドゾーン目掛けて駆け上がり出した。
「VC機構。ちょっとエンジンが元気になった感じだね」
平塚の声が終わらないうちに、秋田と山形の目の前を矢のように通過、ホームストレートの果てに飛び込んでいく。
車体のバランス感を飲み込みながらマシンコントロールを試みる。
すっかり、陣場は四〇〇クラスの魅力に取り付かれていた。
翌日は、朝から雨だった。
陣場も、谷崎も、それぞれの教室から曇り空を見上げた。分厚い雲は太陽を覆い隠し、地上を雨の歌声で満たしている。
放課後、体力トレーニングの合間に、部室の窓からサーキットの方角を陣場は眺める。今日は爆音が聞こえてこない。女子二輪部の練習走行は、雨で行われていないらしい。練習ができない間に、運転免許を取りに行ったり、学科試験の勉強をする部員もいる。高校選手権春季大会も終わったばかりで、練習に参加しない部員は少なくないのだ。
甘い。甘すぎる。谷崎はいらだっていた。
サーキットに併設された部室の窓には、止む気配のない雨粒。ピットの一室を改装した広い部室では、十数人の部員が本を読んだり、おしゃべりしていたりと、自由な時間を過ごしている。
鵬工業高校女子二輪部といえば、全国に名を知られる強豪だ。ライダーは、校内にサーキットを併設した恵まれた環境の中で、日々たゆまぬ練習を積み重ねて最速の名をつかみ取る。それがこの部の伝統なのだと谷崎は思っている。
春季の全国大会で優勝し、どうにか日本最速の座を守ることができたものの、表彰台に上れたのは谷崎だけだった。専用サーキットを持つという、しかも大会会場をふだんから走れるという圧倒的に有利な条件が整っていながら、入賞二位と三位は他校にその座を奪われたのだ。
お笑い種だった。本来なら、表彰台を鵬工校が独占して当然なのに。表彰台の頂点に立ちながら、谷崎は憤りを感じていた。
ほかの部員たちは何をやっている。
しかし谷崎は、自分が後輩を始めとするほかの部員を指導しないことに、敗戦した原因の一端があることを認めようとしていなかった。もともと、他者との接触を避ける性格の谷崎が相手では、ほかの部員も近寄りがたさを感じていた。今のところ、谷崎の技術をもっとも多く受け継いでいるのは、皮肉にも陣場と対戦するために短期特訓した、新入生の漆原だった。順当に練習を重ねれば、近いうちに二年生をサーキットで追い越すようになるだろう。
谷崎に追い付くことができるのは、誰かに指示されずとも練習し、必死に谷崎の技を見て学び、谷崎の冷たい人当たりに臆せず近寄ることができ、そして谷崎自身がわずかに心を開くようになった限られた人間だけだった。
それが怖くてできない部員の多くは、二年生さえも、漆原からライディングテクニックを学ぼうとしているくらいだ。
情けない。谷崎は思う。だが、自分から女二のレーサーたちに声をかけることができない。
どんなふうに声を掛けたら良いのか、分からないのだ。
「やあジョニーのみんな。オイッスー! 元気がない、もう一度。オイッスー! さて突然だけどライテク向上のために、ぜひみんなに知って欲しいワザがあるんだ。ちょっと一緒に風になってみないか。お代はいらないぜよ?」
そんなこと言えない。言わなくてもいい部分がだいぶ含まれているが、谷崎は気が付かない。
自分自身が速くなるために、無駄なもの、交友関係や人間関係を切り捨て、また自分からも遠ざかるようにして、今日まで来てしまった。今さらみんなと仲良くなんて、できなかった。自分の殻に閉じこもって、身動きが取れないのだ。
今さら自分を変えることなんて、できない。
谷崎は立ち上がる。部員の何人かが、顔を上げる。
「私のマシンのタイヤは、ノーマルのままか?」
整備担当の部員に歩み寄って、いきなりそう尋ねた。
「あ、いえ。スリックタイヤに戻してあります」
「これから走る。レインタイヤに変更してくれ」
その声を聞きつけた整備係の生徒たちが、腰を浮かせる。
「……分かりました。三十分でやります」
「二十分だ」
整備係の返事を待たず、谷崎は更衣室に向かって歩き出す。背後で慌しく部員が動き出す物音が響く。たまにはこうやって、しごいてやるのもいい。谷崎は思う。レース中のピット作業なら、ものの数分でやってのける実力はあるメンバーだ。まして、リアタイヤの交換が容易なプロアームのRVFなら、なおさらだ。
象牙色のロッカーが立ち並ぶ更衣室へ。自分のネームプレートが付いた扉を開くと、黒色のレザースーツ。より研ぎ澄まされた、戦闘状態の自分になれる鎧。
制服を脱ぎ、きゅうくつで邪魔な下着も脱ぐ。吸汗速乾性の黒のインナーを着込み、革ツナギを身に着ける。背中やひじ、肩のプロテクター類の具合を確認し、レーシングブーツに履き替える。グローブとヘルメットをロッカーから取り出し、扉を閉める。
コンマ一秒でも速く。一ミリでも後続車より前へ。そのためなら、どれだけの練習もこなす。限界を引き上げるためなら、危険を冒してもいい。
ロッカーに背を向けて歩き出す谷崎の目つきは、より鋭く、冷たく輝いていた。
スチール製のドアがごんごんとノックされた。
「おーす。誰かいる?」
女の声がして、ドアが開けられる。
「よんじゅうごっ」
「よ……じゅう……がっ」
べちり、と音を立てて陣場が床に突っ伏す。部室の中で腕立て伏せをしていて、ちょうど力尽きたところだった。
「仕方ないな陣め。じゃあ休憩」陣場と一緒に腕立て伏せをしていた秋田が、起き上がる。「なんだ榊か。雨なのに傘も差さずにどうした」
「谷ちゃんが練習始めちゃってね。サーキット保守や運営係と一緒にコースの監視ってわけよ。うー、さぶっ」
困ったような笑いを浮かべて、榊は手に持っていたバインダーを机のうえに置く。流し台に備え付けのタオルを勝手に取って、雨にぬれた手や腕を拭いていく。
「で、なんの用だ。お茶を飲みに来たわけでもあるまい」
「お、気が利くね。いただくわ。ありがとー」
「……陣場、任せた」
「へい」
筋肉痛でもげてしまいそうな両腕に鞭打って、陣場が淹れたお茶を、榊は美味しそうに飲んだ。
「あのね。レーサーの子が教習所通いで練習を抜けるから、空いたRVFを練習時間に使っていいよ。これカギ」
榊はウィンドブレーカーのポケットから、RVFのキーを取り出して、机のうえへ。
「試合当日まで使っていいから。カスタムするのは自由だけど、返却するときは現状に復元してね。ダメな場合は弁償ってことで」
「ちなみに、全損の場合はいくら払えばいいんですか」
陣場が恐るおそる尋ねる。うーんと、と考え込みながら榊は携帯電話を取り出し、計算機モードで部品代を合計していく。
「マグホイールにチタンエキパイとマフラーに、鋳鉄ディスクブレーキにオリジナル外装に、ブレンボのキャリパーにオーリンズの前後サスに……っと、ざっとこれくらいかな」
榊が見せたディスプレイの数字を見て、陣場と秋田の表情が驚愕にゆがんだまま凍りついた。これ一台あれば、男子二輪部全員に市販車のマシンを割り当てたうえにお釣りが来る金額だった。
「まあ、転ばなきゃいいわけだし、お金で払えなくなっても命まで奪ったりしないからさ。楽しんで走ってねん。マシンはピットに置いておくから。じゃ、頑張って」
お茶のお礼を言い残して、榊は去っていった。
楽しむどころの騒ぎではない。現金輸送車を運転したほうがまだ気が楽だ、と陣場は思う。
「おれ、RFで走ろうかな……」
「少しは体裁ってものを考えろよ。埼京線に山手線で勝負を挑むようなものだぞ」
例えが微妙すぎて意味不明だ。秋田が机のうえに目を留める。
「おや。榊のやつ、バインダーを忘れていったぞ」
「あ、おれ、渡してきますよ」
体力トレーニングから逃げ出す下心もあって、陣場はバインダーをつかんで部室を飛び出した。まだ追いつけるかもしれないと思って、走り出す。
部室棟を出て、渡り廊下につながる最初の角を曲がったところで、陣場はぎくりとして立ち止まった。
渡り廊下の中央付近に、誰かがうずくまっていたからだ。オレンジ色の上着。
「榊……先輩? どうしたんですか」
近寄って、顔をのぞきこむ。見たこともないような、苦しそうな顔。顔色が青い。
「う……ああ、陣ちゃん。ちょっとめまいがしただけ。だいじょうぶ」
廊下の屋根を支える柱にすがって立ち上がる。二歩、歩くことができずによろけてしまう。とっさに抱きかかえた陣場の肩に、榊の頭が重くのしかかった。
「先輩? 大丈夫ですか!」
「へへ……やっぱちょっと、ダメ、みたい」
強がりをする子どもみたいに笑って、榊は全身の力を失う。背の高い榊を抱きとめようとして、陣場は一緒になって廊下に倒れてしまう。
「たすけて、陣ちゃん……」
荒い息遣いの中、苦しそうな榊の声。陣場はぞっとした。このまま榊が死んでしまうのではないかという恐怖が、胸を押しつぶす。
「誰か。誰かいませんか!」
陣場は声を張り上げた。こんなときに限って、周りには誰の人影も見えない。雨音だけがふたりを包囲し、孤立させる。
「陣ちゃん……谷ちゃんを、たすけてあげて」
「誰か! 助けてください」
陣場の叫びを聞きつけた教諭と生徒が、校舎から駆け出してきた。榊の小さくかすれた声は、その願いを陣場の耳に届けるだけの力を、すでに失っていた。
遠くに、エンジンが吠える甲高い音が響いた。
消毒薬のにおいと、白い色の部屋。
円いすに腰掛けて、陣場はベッドの傍らにいた。保健室の中だ。目の前には、榊が清潔そうなシーツと毛布に包まれて目を閉ざしている。
ノックの音。引き戸を開いて、人影が入ってきた。革ツナギ姿の漆原だった。ぬれた前髪を額に張り付かせた顔に、不安そうな表情が浮かんでいる。近付いてきて、ベッドに横たわる榊を認めて息をのんだ。
「熱が四十一度あるって、先生が。詳しく診ないとはっきり言えないけど、肺炎になりかけてるかもって。当分、安静にしていないと」
自分のことのように、苦しげに陣場がつぶやく。ずぶぬれの漆原を見上げて、女二の練習の厳しさを再認識する。
「榊先輩、いつもコントロールタワーの外にいて、風が強くても雨が降っても、コースのようすを見て、みんなに指示を飛ばしていたんだ。あたし、もっと気を遣ってあげればよかった……」
陣場は榊へ視線を戻す。女子二輪部の強さの裏側には、榊のような陰で活躍する立役者がいたのだ。
「ほかの、女二のみんなは」
「練習してる。谷崎先輩も」
練習走行に集中するあまり、谷崎はまだ榊の病気を知らないのかもしれない。
「それにしても、ようすが変だった。榊先輩、いつも走行中はサーキットにいるのに、今日はどうして男二のところに行ったんだろう。何か言ってなかった?」
「いや、とくに。RVFが一台空いたから使っていいって。それくらいかな。熱が出て、すこしうわごとみたいなことを言っていたかな。助けて、とか」
「そう……」
ふたりは榊を見下ろした。
「陣ちゃん、ありがとう。後はあたしが看るよ」
「みんなおれのこと、『陣ちゃん』って呼ぶんだな。榊先輩、影響強すぎだよ」苦笑。「それよりも着替えてきたら? 漆原まで風邪を引いたら困る」
ほほを少し赤くして、濡れそぼったライディングスーツを着替えに、漆原は更衣室に走っていった。
その後、用事を済ませて戻ってきた養護の教諭と、着替えた漆原とに榊を任せて、陣場は保健室を出た。柔らかい笑顔が印象的な榊は、発熱ために消耗し、苦しげに見えた。
「だいじょうぶ、命にかかわるようなことはない。まだ死神も来てないようだしね」
保健室の外に出るなり、平塚が姿を現して言った。縁起が悪いのかほっとしていいのか、陣場は複雑な表情になる。
「まあ、なんにせよ女二には痛恨の痛手だね。陣ちゃんにもチャンスが巡ってきたってわけだ」
「? 直接レースに参加しない榊先輩が欠けたことで、ですか」
「分かってないなあ、陣ちゃん。これはとても重要なことなんだぜ。ライダーだけでレースができると思ったら大間違いだ。女子が保守しているサーキットをちょこっと借りているだけの男子には、分からないかなあ」
陣場の隣に浮かびながら、平塚は腕組みしてぶつくさ言い始める。いろいろと苦労の思い出があるようだ。
「そして、谷ちゃんには試練のときだ」
平塚は低く、小さくつぶやいた。
夜のサーキットが、無数の水銀灯に光を投げかけられてまばゆく浮かび上がっている。
コントロールタワーの真下、レースの発着点になるコントロールラインには、陣場と高級パーツの集合体である、女二の主力戦闘機・RVFが立つ。低回転時から強力な推進力を発揮するV型四気筒エンジンが、獰猛なうなり声を上げて息づいている。並列四気筒エンジンとはまったく違う、マシンを揺さぶるような振動が、陣場にエンジンの存在を強く意識させた。
夜八時を過ぎ、男二の練習時間になってすぐにマシンの準備を始めた。とりあえず、標準の状態で走ってみようということで、貸し与えられた状態のまま走ってみることにした。エンジンオイルや冷却水、ブレーキフルードが入っていない、などといういたずらはなかった。
早速、慎重にアクセルオンしながら慎重にクラッチをつなぐ。恐るおそる発進させたので、従順に前へ進み出る車体。
「V型二気筒エンジンじゃないから、そこまで気を使わなくて大丈夫だよ。回してみ」
後ろから平塚の声。うなずいて、ストレートを走るいつものように、スロットルを開く。
加速。取り回したときにも感じていた車体の軽さは、加速するとなおいっそう印象付けられた。怖いくらいの加速性能。暴れながら回り続けるエンジンが、たやすくマシンを支配下に置く。
第一コーナーに突入。体重を少しイン側に乗せるだけで、鋭く曲がりこもうとマシンが反応する。スロットルをどれだけ開けても、ライダーを挑発するように、コーナーをえぐりこんで曲がっていく。もっと速く、もっと開けろと言わんばかりに。
コーナーの立ち上がりは、急に暴れて滑り出すような神経質なものではなく、必要なパワーを必要なだけ発生させる出力特性が走りやすさとして感じられた。とにかく曲がるし、走りやすい。
並列四気筒エンジンほどのダッシュ力はないようだったが、加速する、曲がる、減速するという機動力は、素晴らしく優秀に感じられた。隙のないエンジンパワー、車体の軽さ、ハンドリングの切れ味と旋回性能、どれもサーキットを走るには最適な性能を備えているように思える。
これが、レーサーレプリカマシン。
こんなすごいマシンに、あの谷崎が乗っているなんて。
「勝てる気がしません」
汗だくになってメットを脱いで、陣場はうなだれた。後ろ側へ傾斜した二気筒分のエンジンが熱い、というだけでなく、もっと別な汗が全身を流れている。
「まあそうだろうな。どうした。乗りにくかったか」
コントロールラインに戻ったRVFを見下ろし、秋田が腕組みしたまま聞く。陣場は首を振る。
「いえ、乗りやすいんですが……」
「コケたら弁償じゃなあ。試乗車より乗りにくいだろう」
山形がマシンを見回しながら、しみじみと言う。
「ああっ、キズが付いてるぜ」
「えーっ!」
「冗談だ」
ばたりと陣場は倒れた。
「まあ、とにかく今日はもう遅いから、練習するならRFだな。すぐにRVF用に、《消音ちゃんツヴァイ・改》のアダプターをこしらえて、装着できるようにしてやるから」
そう言って、山形は高価なマシンを押してピットのほうへと引き返していく。
陣場はそれから、夜遅くまでRFでサーキットを走り続けた。
雨。翌日の鵬工業高校にも、濃く染み付くような雨が降り注いだ。昼間に降って、夜には止むという、日照不足の原因になりそうな天気だ。
屋外競技に青春を燃やす運動部員には、憂鬱そうな表情がにじんでいる。
谷崎もその一人だった。
ここ数日、昼間に降りしきる雨のおかげで、まともな練習ができていない。対外的な公式戦はしばらくスケジュールには入っていないものの、自分の技術を磨けないというのは、彼女をいらだたせた。
それでいて、夜間には雨は上がっている。どうやら陣場のほうは、ウエットな路面ではあるがサーキット走行はこなしているらしい。
実力の差は歴然としている。バイクに乗り始めたばかりの陣場になど負けるはずかがない。国内最速の高校生レーサーの自分が。谷崎は自分にそう言い聞かせたが、原因の分からないいらだちは、消えることがなかった。
もどかしい。休み時間中の教室で、谷崎は拳を握りしめる。いつもどおり、全力で走れば負けるはずがない。手加減などを意識するから不安に襲われるのだ。
こんなときに限って。病気で今日も学校を休んでいる榊のことを思う。
榊が倒れた日、練習が終わってすぐ保健室に駆けつけると、榊は目を覚ましていた。
そして、具合を尋ねた谷崎に、榊はこう言った。
「谷ちゃん。みんなと仲良くね」
レースのアドバイスや、サーキットに関する引継ぎではなく、『仲良くしろ』とは、どういうつもりか。からかわれているような気になって、谷崎はその場で沈黙してしまった。
本当のところ、榊の言いたいことは、分かっているつもりではあった。谷崎の苦手な、女子二輪や男子二輪部員とのコミュニケーションの多くは、榊が肩代わりしてくれていた。彼女が復帰するまでは、必要に応じて、自分が直接関わらなければいけない。
怒ったり、にらみつけたり、怒鳴ったりではいけない。それは分かってはいるのだ。
だが、レースでの記録更新、勝利への執念が、他者との一切の妥協を拒むほどに、自分の中で強く深く、意志を支配してしまっている。
練習しないでおしゃべりしているような女子部員。実力のない男子部員。彼らの存在を受け入れるために、自分の時間を割くなど耐えられなかった。
私は、私のやり方で進む。そして最速であり続ける。自分自身の居場所を、守るために。
能力の足りない人間は、邪魔なだけだった。
その日の放課後。久しぶりに雨が上がり、透き通った空が雲間にのぞいた。
「時間が惜しい。すぐに走るぞ。用意してくれ」
サーキットに駆けつけた谷崎は、上機嫌で整備係の部員に言いつけて、ライディングスーツに着替えた。
コントロールラインに用意された黒のRVFに騎乗し、谷崎は鋭いダッシュを見せて走り出す。
ちょうどそのとき、ピットに待機していた整備係の部員たちの間に、騒ぎが持ち上がった。
「あ、あの、先輩」
新入生の整備係三人が、係のリーダーを務める部員に、青ざめた顔で報告に現れた。縁なしのめがねを掛けた三年生のリーダー・行幸田涼子は、悪い予感を覚えて向き直る。
「どうしたの?」
「谷崎先輩のマシンなんですが、その――タイヤの交換に気を取られていて」
「エンジンオイルの交換時期だったので」半べそをかきながら、ひとりの整備係。「古いオイルを抜き取ったんですが、新しいオイルの備品が切れていたので、そのままにしておいたのを忘れてて……」
「オイルなしで出したの?」
声を硬くする行幸田。三人の新入生は、叱責を恐れて身を縮み上がらせる。行幸田はインカムに手を添えて、通信を飛ばす。
「ピットからコントロールタワーへ。直ちに練習走行を中止してください。致命的なマシントラブルが――」
そのとき、サーキットに響き渡っていた爆音が突然、途切れた。場内にいた全員が、息をのんで最終コーナーを見詰める。
コーナーの出口で、黒のRVFが停止していた。その上で、低い姿勢のまま、黒色のライダーもまた、動きを止めている。メータパネルを凝視しているのか、メットに隠された表情をうかがうことはできない。
ゆっくりと顔を上げて、谷崎はマシンを降りる。練習走行の緊急中止を告げるフラッグ。サイレンが鳴る。幸い、まだコースに入っているほかのライダーはいない。行幸田が走り出し、新入生たちが後を追う。
「水温計が異常な値を示している……」
コース上でメットを脱いだ谷崎が、静かに口を開いた。谷崎の前に、行幸田が立つ。
「考えられる原因は、冷却水が規定量入ってないか、あるいはエンジンオイルが規定量入っていないか、さもなくば単純にメーターの故障だ。どれだ?」
「ごめん谷崎。オイルが入っていない。今、分かったところ」
谷崎はうつむいた。髪が流れて、表情を覆い隠す。
こんなときに榊がいてくれたら。
まっさきに、ライダーとメンテナンスの間に割って入って、憎めない笑顔で仲裁してくれるのに。
みんなと仲良く。分かっている。でも。
許せない。
「気が付くのが遅れたら、ピストンが焼き付くところだった。そうなればエンジン交換で、レースはリタイアだ。……誰の責任?」
「わたしの責任だよ。チェック体制が甘かった。本当にごめ――」
甲高い音が鳴り響いた。
縁なしメガネが弾け飛んで、行幸田は路面に倒れる。
谷崎が殴り飛ばしたのだ。
「オイルが入っていないだと? ふざけるな!」
二年生が三年生を殴って、怒鳴りつけた。決してあってはならない事態が起こり、誰もが思考回路をショートさせているかのように身動きできない。
「今後二度と、私のマシンに触るな。いいな!」
行幸田は、殴られた頬を押さえてうつむいている。
「あ、あのう、先輩。すぐに直します」
「やらせてください」
「申し訳ありませんでしたっ」
自分たちのせいでとんでもない事態になってしまい、顔を青ざめさせた新入生たちが、RVFを押し歩く谷崎の前で頭を下げる。
「どけ! じゃまだッ」
怒りの収まらない谷崎が怒号する。音のない落雷に打たれたような衝撃を感じて、新入生たちは道を空ける。
ピットに閉じこもって、谷崎は自分でメンテナンスを始めた。事態を重く見た部員たちが、全員で谷崎をなだめようとピットに入ったが、谷崎にゴミ箱を投げつけられて退散する。
誰にも修復できないように見えるひび割れが、女子二輪部に生じてしまった。
「あれ。珍しい。まだ人がいる」
午後八時。サーキットにやってきた陣場は、ピットの一室に明かりが灯っているのに気が付いた。好奇心に駆られて、中を見ようとしてドアをノックしたが、カギがかかっていてドアもシャッターも開かない。
わきの小窓に手を掛けると、すんなり開いた。中には、作業服姿の谷崎がいた。その向こうには、カウリングを外されてエンジンが露出したRVF。
「……何してるの?」
声をかけると、肩越しに振り返った谷崎が舌打ちする。レンチを握った手を振って、「あっちへ行け」というしぐさ。
「コースで練習していくからね」
そう言い置いて、窓を元通りに閉めると、練習走行のためにコースへ向かう。
「どうしたんだろう、谷崎」
「たぶん、榊が抜けてチームワークが乱れたんだろうね。谷ちゃんにとっては試練のときだ」
陣場の隣に浮かぶ平塚が答える。
「試練って。どういうことです」
RFでコーナーをクリアしながら、陣場。
「もっとおしりを後ろ側にして、少しでもリア荷重を稼ぐんだよ。それと、まだ腕と肩に力が入ってる」平塚が陣場の腰と肩のあたりを軽く叩く。「……谷ちゃんはレースの勝負にこだわるあまり、それ以外のものを軽く見てしまう。最高の結果を追い求めて、チーム全体にも最高の働きを求める。それができない人間は、無能と同列にみなしてしまう」
「なるほど、谷崎らしい」
平塚にはいずればれると思い、谷崎とは幼馴染であることを話してしまっていた。
「どうよ。やっぱり幼馴染としては救いの手を差し伸べたくなっちゃう?」
「出した手を蹴飛ばされるのがオチですよ。……いつの間にか、そういう性格になってて驚きました。昔はそんなんじゃなかったのに」
速度を落として、ヘアピンカーブを後輪を軸にした旋回でクリア。爆発的な加速で脱出し、次のコーナーを目指す。
「まだなんとなくリーンしてるなあ。フロントブレーキのリリースと、イン側荷重をシンクロさせると曲がりやすいよ」
「はいっ。……間接的にでもいいんですけど、谷崎を助ける方法って、ないですかね」
にまり。陣場には、背後で平塚が笑みを浮かべるのが思い浮かぶようだった。
「うふうふふ。陣ちゃんは優しいなあ。なんだかお姉さん、好きになっちゃうなあ。わたしにも優しくしてよう」抱きつかれる。「……勝つことだね、彼女に。そろそろ敗戦から学ばないと、彼女はダメになってしまう。ライダーとしても、ひとりの高校生としても、ね」
谷崎に勝つ。それがどれほど困難なことか。だが、そうしないと彼女を救えない。
「どうすればいいでしょうか」
RFのパワーバンドを維持したままシフトアップ、周回したホームストレートを、フルスロットルで駆け抜ける。
「まず、敵を知ることだね」
大きな風圧がかかっているにもかかわらず、そよ風を楽しんでいるかのような平塚の落ち着いた声。
「谷ちゃんの弱点を突くしかないよ。実力の差は埋めきれないんだから、谷ちゃんに不利で陣ちゃんに有利な条件で挑戦するしかない」
「谷崎の弱点って、なんですか」
「それは自分で調べよう」
「……」
谷崎に弱点なんかあるのか。陣場にはさっぱり思い当たるものなどなかった。
午後十時。
良い子は寝る時間だが、死闘を目前にしたライダーたちは目を覚ましたまま、悪い子になってでも勝利を夢見る。
練習走行を終えた陣場がピットを見ると、まだ明かりが点いていた。作戦を実行するために、陣場は走り出す。
「おおい谷崎」
ピットの窓ガラスを軽く叩く。鉄線入りのすりガラスの向こう側で人が近付く気配があったので、窓が開くのかと思ったら逆にカギをかけられてしまった。
「開けてよー」
懲りずにごんごんたたく。このあたりは平塚の影響が出始めているのかもしれないな、と陣場は思う。
「うるさいな。忙しいんだ。殺すぞ」
窓が開いて、殺気立った雰囲気の谷崎の顔がのぞいた。
「何してるの? 帰らないの?」
「RVFのメンテ。どこで何をしようが私の勝手だ」
「おれ練習終わったんだ。休憩しよう」
「はあ?」
谷崎のあきれた顔の前へ、差し入れのコンビニ弁当が入った袋を差し出す。うぐ、と言葉に詰まると同時に、くうと可愛らしい腹の虫が鳴いたように聞こえたのは耳の錯覚だろうか。
「仕方ないな。入れ」
シャッターのカギが外れて、光が屋外にこぼれた。
ピットの中は想像以上の状態になっていて、陣場は言葉を失った。
部屋の中央で、カウルを取り外されたRVFが、アルミのフレームをむき出しにした寒々しい姿で立ち尽くしている。あるべきはずのエンジンはフレームの中にはなく、コンクリの床のうえに並べた角材のうえに降り立っている。シリンダーヘッドが取り外され、中のピストン、シリンダーがのぞける状態になっている。
エンジン単体でも、少女の力では持ち上げることは難しい重量物だ。部屋の動力付きクレーンを使ってまでして、谷崎はエンジンを下ろして分解を行っている。
そして、マシンの周辺にはサービスマニュアル、メンテナンスマニュアル、工具類、車体から外されたパーツがいくつも並んでいる。
「車検整備?」
「競技車両に車検はない。ただのメンテだ」
本当のところは、エンジンオイルなしで走行したためシリンダー内の焼き付きが不安だったため、念を入れて分解したのだが、谷崎は黙っていた。
「好きなの食べていいよ。この間のツーリングのお礼」
疑わしげな眼差しで、谷崎が陣場をにらみつける。空腹に負けたのか、おずおずと差し出したビニール袋を受け取った。
「はあ。ちくしょう太る」
ちょっと情けない顔をして、ナポリタンを谷崎が口に運ぶ。気にしているところは女の子っぽいのに、同年代の男子がいる前で口に出してしまうのはどうなんだろうと思ったが、突っ込むのは怖いので陣場は聞かなかったことにする。
「飲み物もあるよ。炭酸とスポーツドリンクとどっちがいい?」
「お茶はないのか。甘いのばかりじゃないか。お前将来、メタボで苦しむぞ」
わがまま女め。陣場はにっこり微笑む。
「部室に行けばあるけど。淹れてこようか」
「ウチの部室にもお茶くらいある。面倒臭いから炭酸もらう」
「谷崎ってスパゲティ好きなんだ」
「まあ、どちらかというとな」
陣場が食べているハンバーグ弁当を見て、眉を寄せる。夜中のハンバーグはダメらしい。
「谷崎ってさ」陣場の緊張が高まる。声が上ずった。「ニガテナモノッテ、ナイノ?」
「……なんだよ、急に」
「いや、なんとなく。どうなのかなあって」
われながらそらぞらしい。だが弱点を探るためだ。すまない谷崎、と心の中で手を合わせる。
「そうだなあ。ウニは苦手だ。あと、キムチとか辛い食べ物も」
「へーそうなんだ」
ウニとキムチを使えば勝てそうだ。
ばかな。陣場はようやく、苦手な食べ物を聞き出してもレースに勝てないことに気が付いた。ばかばか、おれのばか。
「じゃあ、嫌いな色とか。ラッキーカラーの反対とかは」
「……黒が好きだ。オレンジとか黄色なんかは好きじゃない」
女二のチームカラーが嫌いか。本当にわがまま女。だが、谷崎は練習でいつもこの色に追い回されて走っているから、今さら弱点にはならない。
「それじゃあ端的に言って、苦手なものとか嫌いなものとか、いやなシチュエーションとか」
「そんなことを聞いて、どうするつもりだ」
谷崎が眉をひそめる。明らかに不審がっている。陣場はこれ以上のリサーチをあきらめた。
「いや、いいんだ。なんでもない」
ふたりは黙々と食事を続ける。ソーダ水をあおった谷崎が、ぽつりとつぶやいた。
「努力しないやつが、嫌いだ」
「?」
「だから、お前も正々堂々と勝負しろ」
なんだか心の中を見透かされているようだった。
「うん」
「そして、潔く敗れ去るがいい。私が最速だと認めて」
不敵な笑みを浮かべる谷崎。冗談なのか本気なのか分からない。実力的には事実なのだろうけれど。
「じゃあ、谷崎もがんばって」
食事を終えて、沈黙に居心地が悪くなって陣場は立ち上がった。見送る谷崎の、少し寂しそうな視線には気が付くことができなかった。
「弱点はウニとキムチでした」
「へー」
平塚はテーブルに頬杖をついて、テレビの刑事ドラマを見ている。
「どうすれば良いのか、まったく分かりません」
ベッドにすがりついて陣場は泣く。
《手がかりがありません。時効成立まであと一日しかないんです。われわれの負けです》
テレビの若い刑事が泣き顔で言う。
「もー。どうしても勝ちたいんでしょ? もっと本腰を入れなきゃ」
《徹底的に洗わなきゃダメだ。必ず本ボシにつながる手がかりがあるはずだ》
テレビのベテラン刑事が、捜査資料を前に重々しく口を開いた。顔を上げる若手刑事。
「でも、どうやって」
《張り込みだ。やつを二十四時間監視するんだ》
「それで彼女の弱点を探るんだよ」
《しかしデカ長。もう時間がないんです》
「学校にも行かなきゃいけないのに」
「ばかやろう! それでも刑事か」
《ガイシャや、遺族の気持ちを考えてみろ。あきらめられるわけがないだろうが!》
「殺された秋田先輩や山形先輩には申し訳ないですが、高校くらいは卒業したいです」
《やつはボロを出すでしょうか》
「谷ちゃんは連続殺人犯に間違いない。あの凶暴な性格からしてきっとそうだ」
《必ず出す。やつももう限界のはずだ》
「分かりました。やってみます」
《きっとやつを逮捕します》
「その意気だ。しっかり張り付いておいで。警察に逮捕されないようにね」
《そのときはおれが逮捕してやる。やつめ、たっぷり可愛がってやるからな》
陣場はぎょっとして、テレビに釘付けの平塚から遠ざかった。
翌日。陣場は仮病を使って学校を休んだ。野鳥観察愛好会の部屋から双眼鏡を拝借しようとしたが施錠されていたので、仕方なく教師の隙をついて地学準備室から天体望遠鏡を無断で借りてきた。
授業が行われている第一校舎、二年生の教室を、向かい合う第二校舎から観察する。
退屈そうに黒板を見ている谷崎。事前の調査で判明済みだが、谷崎の成績は上の中くらい。なかなか優秀だ。
そのころ谷崎は、陣場に観察されていることも知らずに、あくびをかみ殺しながら授業を受けていた。結局、真夜中までRVFの整備をしていたので、軽く睡眠不足だ。
授業の内容は比較的容易なので退屈だった。そのせいで、よりいっそう眠気が襲ってくる。
「えー、ではこの問題を前に出てきて解いてもらおう。じゃ、谷崎」
いきなり指名。虚をつかれてうろたえるが、谷崎は立ち上がる。だいじょうぶ、あの程度の問題なら解答できる。教壇の上へ進み出ると、谷崎は小さく息を吸い込んで、チョークを細い指でつまむ。
ちょうどそのとき、教室後ろの扉が開いて、校長を先頭に、教頭、その他大勢のおじさんたちが教室に入ってきた。授業風景を視察しにきた、教育委員会の幹部たちだった。教頭が黒板の前にいる谷崎を示して、小声でなにごとか告げると、まるで兄弟かクローン人間みたいに、一様にメガネ、七三分けに整えた髪型のおじさんたちは、感心したようにうなずく。
おおかた、「彼女が、自動二輪競技で全国大会優勝の谷崎選手です」とかなんとか、教頭が吹聴したのだろう。部活動が盛んな鵬工業高校だが、全国大会優勝の生徒は、そうはいない。
とたんに、谷崎の指が震えた。何か書こうとして、黒板に当てたチョークが小刻みに音を立てる。膝も震える。何を考えていたのか、頭の中が真っ白になってしまう。本来、視察の対象は教諭の指導方法などであって、谷崎一個人を見に来たわけではないのだが、一度意識してしまった緊張は容易に消えなかった。
だ、だめだ。バイクに乗っていないときの私を、そんなにじろじろ見るな。見ないでくれ。
谷崎の一挙手一投足に、教室中の注目が集まっていた。重く長い空白の時間の果てに、谷崎はおずおずと教諭に告げた。
「わ、分かりません……」
校長が苦笑する。教頭以下、教育委員会のメンバーも、一様に苦笑した。
「ええと、じゃあ誰かほかの者……」
別の生徒を指名する教諭。敗北感を背負いながら、谷崎は自席へと重い足取りで戻った。
くそう、ツイていない。
ようやく昼休みになって、ため息をつきながら谷崎は学生食堂へ。飲み物を買おうと、自販機の前に立つ。
ふと、誰かに見詰められているような気がして、谷崎は振り返る。
素早く、陣場は物陰に姿を隠す。
「気のせいか」
財布を取り出して、どの飲み物にしようか悩む。眠気を払うためにコーヒー牛乳か。でも、昨日、陣場におごってもらった炭酸飲料もなかなかおいしかった。それともバランスよく牛乳にしておくか。あるいはさっぱりと緑茶か。コーヒー牛乳と炭酸飲料は甘いのがいやだし、緑茶はいつも飲んでいるし、牛乳は、ふむ、背が伸びるくらいなら構わないが、体重が増えてしまってレースに影響が出るといやだし……。
「ねー早くしてよー」
はっとして振り返る。いつの間にか、谷崎の後ろに行列ができてしまっていた。あ、あわわ。
とっさに谷崎は目の前のボタンを押してしまう。
出てき飲み物は「わかめジュース」。なんだこりゃ。
「あ、あう……」
不本意極まりない、といった顔をして谷崎が自販機を離れる。
「分かりましたデカ長! ホシはプレッシャーに弱いです! これで容疑が固まりました逮捕しましょう!」
「は? デカ長? ホシ? 容疑? 逮捕? なんのこと?」
部屋で牛丼を食べていた平塚が、目を丸くして振り返る。
「あーっ! 楽しみに取っておいた、おれの牛丼!」
「泣くな。取調べ室名物のカツ丼でも食うか?」
「はい……っていうかカツ丼もおれのです」
ちょうど昼休みに寮に戻ってきた陣場は、平塚と一緒に昼食をとる。
「……で、張り込みの結果、谷ちゃんがプレッシャーに弱いことが判明したと。えらいぞ陣ちゃん」
「ですので、弱点を突くなら、プレッシャーを与えるしかないと思います」
「いいね。だけどここで問題」牛丼を食べ終えて、はしを置いた平塚が人差し指を立てる。「確かに谷ちゃんは、女二に入部したてのころはプレッシャーに弱くて、ギャラリーがいる前では実力を発揮できないことが多かった。でも、彼女は練習を多く積むことで弱さを克服した。レースでのプレッシャーは彼女には通用しないよ。どうする?」
「それは通常のレースでの、ということだと思います」カツ丼を半分ほど食べ終えて、陣場。「競走相手がレースで戦った経験のあるマシンなら、プレッシャーなど感じないでしょう」
「もう対策まで考えたってところだね。念のために聞いておくけど、どう戦うつもり?」
「このまま、いこうと思います」
きっぱりと力強く、陣場は言い切った。
平塚は満足そうにうなずいた。
勝負が、翌日に迫った。
夜、陣場はマシンのセッティングを確認するように、軽くコースを流すと、決戦に備えて早々と引き上げていった。
だが、サーキットのピットの一室には、夜遅くなっても明かりが灯ったままだった。
谷崎だ。
RVFのメンテナンスは、まだ終わっていなかった。そのために、ここ数日というもの谷崎は、サーキットを走れていない。エンジンを積み終えたのが、つい先ほどだ。
ちゃんと組めただろうか。もしエンジンの組みつけに誤りがあれば、すべてやり直しだ。睡眠不足の頭で思い直すと、次々と不安が浮かんでくる。ボルトの締め付けトルクは適正だったか。グリスは塗ったか。ワッシャーはかませたか。スパークプラグは適正な品番だったか。プラグキャップはきちんと接続できていたか。
……もう一度分解して、チェックしたほうがよくはないか。
ばかな、ちゃんとやったはずだ。何を恐れている。谷崎はくちびるをかむ。
女子二輪部に所属する整備係の、平均的水準以上に知識と技術を持っていた谷崎だったが、すべてを独りでこなすのは、想像以上の苦労が伴った。それでも誰のサポートもなく、メンテナンスノートの記録を見てこれまでの整備の履歴を確認し、必要な保守作業を施す。ノート見て疑わしく思ったところは、分解して確認したりもした。問題はなかった。
やっとエンジンを搭載したマシン。まだフレームがむき出しで、前後輪も外れたままだ。明日の朝までに組まなければいけない。それからテスト・ランだ。頭が痛い。
男子二輪部の消音マフラー、名前は何と言ったか。あれが借りられれば、夜中でもテスト走行ができるのに。ああいうパーツの製作を考え付く頭脳の持ち主は、女二にはいない。うらやましい。陣場に頼めば、貸してもらえるだろうか。
知らず知らず、谷崎は弱気になった。後悔が募る。
ばかなことをした。整備係の行幸田を殴ったときの感触がよみがえる。右の手のひらが痛い。下級生の前で殴られて、プライドをずたずたにされた彼女の心の痛みが、皮膚に伝わってきているようだ。
みんなと仲良く。分かっている。でもできない。他人の短所がひとつでも目に付くと、その人間のすべてが許せなくなってしまう。
なんという心が狭くて、いやな女なのだろう、私は。
私はほんとうに、優秀なレーサーなのだろうか。
私はほんとうに、鵬工業高校女子二輪部のエースライダーなのだろうか。
私は……ほんとうは、孤独でわがままな、ただのスピード狂、レースマニアに過ぎないのではないのか。
ただの孤独な、女子高生にすぎないのではないのか。
谷崎は自嘲気味に、くちびるをゆがめる。
サーキットに幽霊が出るといううわさがあった。私はそんなものは信じてはいなかったが、幽霊は存在したのだ。
幽霊は、私だ。サーキットの幽霊。
サーキットの中でしか生きられない、孤独で、みじめな亡霊。それが私だ。
涙があふれた。
さみしい。ひとりぼっちだ。
前にもこんなことがあった。十年前、陣場が急に引越ししてしまった直後の、幼いころ。
大切な友だちだった陣場がいなくなって、私は毎日、さみしくて泣いていた。大好きな友だちだったのだ。
あの出来事以来、私はひとりでもさみしくないよう、誰にも依存せずに強く生きていこうと決めたのだ。
それで、バイクに打ち込んだ。身近にレースをやっている人間がいたから、その人に教えてもらって、オフロードのバイクから始めた。ライダー個人の努力で成績が残せる競技というのも、私の気に入った。
ひとりでも走っていける。ひとりで戦える。だから、がむしゃらにバイクに打ち込んだ。
それが今になって、バイクを始めるそもそもの原因になった人間と、バイクで勝負することになるなんて。神様もなかなか味な皮肉を食わしてくれる。
だが、勝つ。必ず勝つ。
私は陣場を必要としない、独立した強い人間になったことを証明するために。
幼い私を置いていった陣場を、今度は私が置き去りにする番だ。そして、いつまでも私を追いかけ続けろ、陣場。お前の前に、私はいる。
いつまでも、私を追いかけろ。
そうすれば、もう、私を置いてどこへも行かないよな?
谷崎はラチェットレンチを握りしめる。ソケットを差し込んで回転方向を確認し、パーツの取り付けを再開する。
絶対に、負けるわけにはいかない。
ピットの明かりは、夜が明けるまで消えることはなかった。