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れぷリカ!  作者: よも
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第三章 いっしょにいた日◆「Have A Nice Day」

■■■ 第三章 いっしょにいた日◆「Have A Nice Day」 ■■■


 ああ、新緑がきれいだ。天気も良い。

 陣場はジーパンの膝を抱えて、ぼんやりと空を見上げた。

 空気は澄み、目の前に広がる湖も、その奥に横たわるなだらかな山脈も、梅雨入り前の清々しい晴天に輝いて、見る者の心に安らぎを与えてくれる。

 はずなのだが。

 ゆっくりと目を閉じて、陣場はがくりと頭を膝の間にうずめた。

 鵬工業高校を二十キロほど離れた、山中にひっそりとたたずむバス停である。周りには、古びた待ち合い所と、湖と、険しい岩山しかない。

「ね、独歩。美味しい漬物ができたから、親戚の春山さんに届けてきてちょうだい」

 陣場の母・幸子からの電話が、そもそもの発端だった。高校から山ひとつ越えた向こう側の街に住む、親戚の春山おばさんの家に、母お手製の漬物を陣場独歩に届けて欲しいというのだ。

「面倒臭いなあ。宅急便で送ればいいじゃん」

「ほら、春山さんに長いこと会ってないでしょ。高校生になった独歩に会ってみたいって話になってね。もう決まったのよ」

 要するに、陣場独歩自らが、漬物デリバリーとして岩山ひとつ越えて届けに行くことを、母親が勝手に決めてしまったというのである。

「ったく。今どき文房具だって配達してくれる世の中なのに」

 愚痴りながら、陣場は土曜日の朝に早起きをして、バスで実家に戻った。

「じゃ、春山おばさんによろしくねえ」

 相変わらずのほほんとした母から漬物の入った包みを受け取って、山の向こうへと走るバスに乗り込んだ。

 夏の気配が近付く、新緑の季節。空は晴天。

 山へと向かう国道を走るバスの車窓から、何台かのツーリングライダーたちが見えた。身軽にマシンをひらめかせて、バスを追い越していく。最近流行りのビッグスクーターが多く、次いでネイキッド、アメリカン。レーサーレプリカやオフロード車は、ほとんど見かけない。

 あいにく運転免許を持っていない陣場は、そうしたライダーたちを羨望の眼差しで見送った。ひざの上には、漬物の包みを押し込んだデイバッグ。心なしか、ぬかみその匂いが漂ってきそう。

 陣場はため息をつく。

 それでも、バスが山に入っていくにつれ、澄んだ空気や山の木々の気配が窓から流れ込んでくると、コンクリートやアスファルトに覆われた空間で過ごす日常から、心身が解き放たれるような心地好さを感じてくる。

 面倒臭い、という感想は譲らないけれど、たまには山に出かけてみるのもいいかな、と陣場はいつのまにか車窓の景色を楽しんでいた。

 峠付近で、複数のバスの路線が交差する。目的地の街に向かうには、バスを乗り換えなければいけない。

 ここまでのバスの料金は、のぞき込んだ財布の中の小銭の数とちょうど同じだった。

 お、なんかちょっとラッキーみたい。そう思って陣場は料金を払ってバスを降りた。まだ紙幣がいくつか残っている。

 バス停で飲み物でも買おうかと、自販機を探す。同時に、紙幣は何枚あったかなあと財布をもう一度のぞき込んだ。

 悲劇が起こった。

「……ウソだろ」

 紙幣は入っていなかった。すでに使ってしまっていて、補充するのを忘れていたのだ。小銭はちょうどバスの料金に消えたところだ。平塚が幽霊のくせに、陣場の食料を横取りして食べてしまうので、余分に食費がかかっていることを失念していた。あの幽霊め、バイトさせて金を払ってもらおう、と陣場は復讐を誓う。

「そ、そうだ。誰かにお金を届けてもらおう」

 悲劇は重なるものである。携帯電話も忘れた。

 バンジ急須って、どんなお茶を淹れるのかなあ、などと泣きながら、陣場は膝を抱えてバス停にへたり込んだ。ちなみに「万事休す」は茶器ではない。

 うららかな天候の下、家族連れを乗せたセダンやワンボックスカー、ツーリングライダーたちがバス停の前をさっそうと走り過ぎていく。

 空のタクシーが通りかかってくれればいいが、こんな山奥では望み薄だ。

 仕方ない。覚悟を固めて、陣場は生まれて初めてのヒッチハイクに挑むことにした。

 本来のスタイルならば、行き先を太ペンで書き付けたスケッチブックでも持っていればサマになるのだけど、あいにく持っていないから仕方がない。

 ぐっ、と親指を立てて、差し迫った困り具合を表情にみなぎらせると、バス停の前から道路側に身を乗り出して通りかかるSUVを見詰める。

 けたたましいクラクションを響かせながら、巨大な四輪駆動車はディーゼルの悪臭を残して走り去っていった。

 くそう。笑顔がないのがまずかったか。陣場は両頬を軽く叩いて、にまりと笑顔の練習をしてから、もう一度トライ。

 うまい具合にネイキッドバイク五、六台の集団が通りかかる。バイク好き同士、通じ合えるかもしれない。チャンス。

 ぐっ、と親指を立てて、韓流スターと見まがうほどのさわやかな笑顔で身を乗り出す。

 バイクの集団は、全員がぐっと親指を立ててそれに応えると、さっそうと走り去っていった。誰がそんな見ず知らずの旅人同士の心温まるハートフルコミュニケーションを望んでおるか。陣場はうずくまる。

 やはりダメだ。人のいるところまで行って事情を話して助けてもらうしかない。もと来た道と、目的地と、歩いて行くにはどちらが近いだろうか、と考え始めたとき。

 爆音が近付いてきた。音からするとバイク。かなり高速で移動しているようだ。走りが目的で峠に通っている手合いかもしれない。

 わざわざ止まってはくれないだろうな、と半ばあきらめながらも、陣場はバス停から顔を出す。

 アメリカンの黒いバイク。黒のメットにジャケット、革パンを身にまとったライダーが、結構なスピードで近付いてきていた。

 陣場はやけくそ気味に両手を振った。

 バイクは素晴らしい勢いで、陣場をスルー。巻き上がった風が、ジーパンの裾にほこりをぶつけた。

 ダメか。仕方がない、歩こう。そう思って荷物を背負おうと、バス停の中に戻りかけたとき。

 タイヤが路面の砂利を蹴散らして停車する音が響いた。バイクの爆音がアイドリング付近にまで落ち、Uターンを決めて戻ってくる。

 黒のバイク、カワサキのエリミネーター250が、並列二気筒の鼓動を響かせながら、バス停の前に乗り付けた。レプリカとは違うマシンの重厚感に、陣場は思わず後ずさる。

 黒のライダーが、じっと陣場を見詰めた。

「お前。ここで何をしている」

 あまり友好的な感じではない、いぶかしむような女性の声。エンジンを止め、マシンを降りたライダーは、ヘルメットを脱いだ。

 ライダーは、女子二輪部の谷崎悧河だった。つまらなそうに、陣場をにらむ。

「あ、……ちょっと、ヒッチハイクを」

「ふん。のんきだな。お前の趣味か」

「そうじゃなくて。お金がなくなっちゃってさ。仕方なく。初めての経験でいろいろ勉強になる」

 陣場は、谷崎にタメ口で答えた。谷崎もとがめない。学校の外では。

「のんきなうえに、間抜けときている。男二も先は長くないようだな。どのみち、私が再起不能にしてやるから結果的には同じだが」

 よりによって、最悪な人物を呼び止めてしまったようだ。つくづく今日はついていないと、陣場はうつむく。

 立ち止まって損をした、というようにため息をつきながら、谷崎はバス停の中を見回す。陣場の荷物に目が止まる。

「……どこまで行くのだ」

「隣町。親戚のところまで」

「春山さんか」

 陣場の心の中の目的地を、谷崎は言い当てた。どきりとする。

「くそ。いまいましい。ここでお前を見捨てていったら、私が卑怯者みたいではないか」

 ツイてないな今日は、と陣場と同じような感想を漏らしながら、谷崎がエリミネーターのリアシートにくくりつけてあった荷物を解く。中からガンメタのフルフェイスヘルメットが出てきた。近寄ってきて、陣場の胸に押し付ける。

「仕方がない。被ってみろ。私のサイズだから、内装をはがしたほうがいいかもしれん」

「え……」

 とっさに谷崎の意図が読み取れず、陣場は言葉を失う。冷たい目で、谷崎がにらみつけてくる。

「後ろに乗せてやると言ってるんだ。のろまは嫌いだ。早くしろ」

 被り心地が良いアライのヘルメットも、内装がなければただの樹脂製のカブトだ。頭のサイズが異なるので仕方なく、陣場は丁寧に着脱可能な内装をはがして、谷崎のヘルメットを被った。ぐらぐらして、さっぱり安定感に欠けるが、ノーヘルで走るわけにもいかないので、やむを得ない。ヘルメットの中は、新品のスポンジの匂いに混じって、少し甘い香りがして、どきどきする。

「オーケーだ。あごひもさえ結んでおけば」

 あまった荷物をバイクのサイドバッグに詰め込んで、タンデム用のステップを起こすと、谷崎はマシンにまたがる。

「乗れ。行くぞ」

 谷崎にうながされ、エリミネーターのリアシートに乗り込む。まさか女の子が運転するバイクの後ろに乗ることになろうとは。だが、陣場は免許を持っていないし、谷崎よりうまくバイクを走らせる自信もなかったので、大人しく言うことを聞いた。

 左右にバンクするバイクに乗る際、運転者はタンクやフレーム、ステップなど身体を支えるための場所がいくつかあるが、リア側にはステップしかない。おまけに谷崎のエリミネーターには、アメリカンではよく取り付けられる背もたれのカスタムパーツもなければ、グラブバーも着いていない。

 マシンから振り落とされないようにするためには、目の前にある谷崎の身体につかまるほかなかった。

「あのー、谷崎……」

「お前が落っこちて、私のせいにされたらたまらん。つかまれ」

 念のため、谷崎の両肩に手を乗せてみた。びっくりして肩をすくめた谷崎が、次の瞬間、鋭いひじ撃ちを放つ。陣場のわき腹にクリーンヒット。息が詰まる。

「そ、そんなところにつかまるやつがあるか! 気色悪いっ。男二はタンデムもできんのか。くそう、腹立つ」ちょっと困ったような谷崎の声。メットに隠れて表情が見えないのが残念だ。「わ、私の腰につかまれ。……言っておくが、変なところを触ったら、警告なく湖に蹴り落とすからな」

「……分かったよ。気をつける」

 陣場は谷崎のジャケットの上から、彼女の細い腰に手を添える。

 エンジンを始動させる。軽くスロットルをあおって、急発進。思わず陣場は谷崎の腰にしがみついてしまうが、彼女は意に介したそぶりも見せず、エンジンを盛大に回していく。スーパートラップのマフラーから爆音がとどろき、ギアチェンジのショックなどまったく感じさせずにシフトアップ。

 タンデムしていることに気を使うようでもなく、サーキットほどではないにせよ、谷崎は結構な勢いでエリミネーターを走らせる。

 道路はまだ混雑しているほどでもなく、前を車が走っていないことを幸いに、あまり交通法規にうるさい人には見られたくないような速度が出ている。前後の車輪の軸間距離、いわゆるホイールベースが長いため、小さなコーナーをクリアするには不向きだとされるアメリカンバイクだが、谷崎は軽快にマシンを操って峠道を駆け抜けていく。

 陣場は、リアシート上からの光景に、目と心を奪われていた。

 後ろに乗せられてはいるものの、陣場はバイクで公道を走るのが初めてだった。

 山の空気が直接、全身を打ち、ヘルメットの隙間を土と緑の匂いが流れていく。

 路面のに転がる砂や落ち葉。峠道の行く手から現れて後ろへと過ぎ去っていく、木々や岩肌。湖の輝き。ガードレールや、斜面を覆う金網にいたるまで。

 まるで初めて見るもののように、陣場には新鮮に感じられた。バスや自家用車などといった、鋼の箱に覆われた車内から、「外」の世界を眺めていたに過ぎなかった自動車道路が、今、直接、肌に伝わってくるかのような間近に、陣場を取り巻いている。

 ヘルメットから見える視界いっぱいに、世界が広がっている。

 その中を、まるでバイクがふたりを乗せて飛翔しているかのような。

 まるで、自分自身が両腕を広げて、路上に開かれた空域を羽ばたいているかのような。

 開放感と躍動感が、陣場を包んでいた。素直な感動が心を揺さぶっていた。とてもクルマの中に座っていては、感じることができない「自由」があった。

 楽しい。

 バイクって楽しい。


「あー、渋滞してんな」

 谷崎のぼやきがかすかに聞こえて、陣場はわれに返った。

 目線を前に向けると、自動車の列の最後尾に追い付くところだ。車列は延々と伸び、峠のワインディングの向こう、ブラインドコーナーの奥側にまで連なっている。軽く一〇〇メートルくらいありそうだ。

 爆音を響かせるバイクに後に付かれて、目の前のファミリーカーを運転するおじさんの困惑した目が、バックミラー越しに陣場たちを見ている。谷崎は遠慮して、車間距離を開いて後に続く。時速四〇キロを切るくらいの速度だ。

 ものの数分で、エリミネーターの後方にも車列ができあがった。週末に観光気分で車を走らせる、ペーパードライバーが渋滞の先頭にでもいるものらしい。

 その、さらに数分後。

 まがまがしい爆音を立てながら、数台のバイクが追い越し禁止車線も目に入らないようすで、対向車線のど真ん中を突っ切って、渋滞を追い越して接近してくる。

 折り悪く対向車が現れて、そのバイクたちは陣場と谷崎が走っていた、自動車の狭間に割り込んできた。

 CB1300にZZ‐R1100、GSF1200という、大排気量とハイパワーが身上の三台。騒々しい排気音をまき散らしながら、対向車の列が通り過ぎるのをやり過ごすつもりらしかった。

(なんか、ガラの悪い連中だな)

 それが陣場の率直な感想だった。

 白銀色に輝く肩当てやらプレートやらを革ジャンのあちこちに付け、足元はつま先とかかとにメタルカップが装着されたバトルブーツ。革パンの左ポケットの辺りには、シルバーのチェーンが幾筋かのぞいていて、ヘルメットには世紀末的なアンデッドモンスターがペイントされている。全部の装備がおそろいなのが失笑を誘う。ライダーだかコスプレイヤーだか判然としない。まあ、それはそれでバイクの楽しみ方のひとつではあるのだろうけれど。

 ZZ‐Rが、陣場たちを振り返った。

 ぎくり、と陣場の心の中がうずく。嫌な予感がする。谷崎は意に介したようすもなく、前を走るセダンとの車間距離を保ったまま、道路の左端で平然とバイクを走らせている。

 目障りだから、さっさと行け。無言の谷崎の背中がそう言っているように陣場には思えた。

 対向車が途切れたが、三台は先に行くようすはなく、ZZ‐Rが露骨に幅寄せをして、谷崎の顔をのぞきこむような仕草を見せ始める。

 ひと目見れば分かるのだが、とくに身体の大きさに合ったものを身に着けるライディングスーツでは、肩幅の広さで男女の区別が容易に付くことが多い。ライダーが女性で、タンデムしているほうが男性という取り合わせは、残念ながら、ちょっと滑稽ではある。

 CB1300が目の前で蛇行しながら、空吹かしを始める。

 GSF1200が後方の車間を稼いでから、ウィリーしながら突進してきて、陣場たちの真横へ音を立ててフロントを接地させる。GSFは中低速トルクが分厚いウィリーマシンなので、こういうパフォーマンスをやらかすライダーがたまにいる。

 要するに、排気量が大きいから自分たちのほうが強くてえらい、と錯覚している気の毒な人たちだった。

(な、なんというチンピラ……)

 陣場は恐怖した。絡んできているライダーたちに、というよりは、完全に無視を決め込んでいる谷崎に、である。

 いつ、気性の荒い女二のエースがぶちキレて、右側から異常接近しているZZ‐Rを蹴り飛ばすのではないかと、冷や汗をかいていたのだ。

 と。

 谷崎は左ウインカーを点灯させ、路肩に現れた退避スペースへエリミネーターを寄せた。未舗装路の砂利がばりばりと乾いた音を立てる。

 三台のバイクはとっさのことでうまく反応できず、陣場たちを振り返りながら、車列と一緒に先に行ってしまった。

 谷崎がエンジンを止める。

「ったく……」

 またがったまま器用にサイドスタンドを出して、車体を傾ける。谷崎はうんざりしたように、ヘルメットを脱いでサイドミラーに掛けると、前髪をかき上げた。

「なんかいやな連中だったね」

 黙ったままなのも気まずかったので、陣場は谷崎の肩越しに声を掛けた。

「なんかじゃなくて、きっぱり嫌なやつらだ。バイクに乗っているやつに悪いのはいないが、たまにああいう勘違いした連中がいる。迷惑だ」ため息をつく谷崎。のろのろと進む道路の車列を眺める。「どうせ渋滞だし、休憩しよう。……お前が降りないと、私も降りれないだろうが。降りろ」

 リアシートでくつろいでいた陣場は、谷崎の命令で転がるようにマシンから降りる。リアシートに人間が乗っていると、基本的にライダーは身動きが取れない。

 三十分くらいしか乗っていなかったと思うが、狭い空間に身体をかがめていたせいか、膝や腰がじんわりとしびれていた。陣場は伸びをする。

 グローブを外した両手を組み合わせて指を鳴らしたり、谷崎も身体をほぐし始める。陣場がこっそり観察していると、腰の辺りがだいぶ凝っているのか、彼女は背中を反らせたり、上体を回したりしている。毎日の厳しい練習で、身体にはけっこうな負担がかかるのだろう。陣場自身も、前傾姿勢を強いられるレプリカマシンのポジションは、もうちょっと楽になればいいのにと思う。

 何だか急に、親近感が沸く。

「あ、あのさ。ふたりで背中合わせ、しようか」

「?」

 思わず話しかけていた。きょとんとした顔の谷崎。

「ほら、体育の時間の体操みたいにさ。背中を合わせて、お互いに背中で相手を持ち上げるやつ。腰の辺りがほぐれると思うよ」

「……」

 少し考え込むようにうつむいた谷崎が、ふと陣場の背中のほうに自分の背中を近付けかけて、どきりとしたように振り返った。目が怒っている。

「おいっ。私たちは仲間じゃないぞ。今の状態は呉越同舟的なものであって、協力関係にあるわけじゃないんだ。勘違いするな」

「でも、谷崎、少し辛そうだから。じゃあ、おれが背中で持ち上げてあげるから、のびーってしなよ」

「う、うるさいっ。なんだか私が年寄りみたいじゃないか。お前とは年齢は変わらないんだからな! いまいましいッ!」

 そうなのだ。陣場は思う。

 谷崎は三月三十一日生まれ。

 陣場は四月一日生まれ。

 同じ年に生まれ、誕生日は一日しか違わないが、谷崎は上級生、陣場は下級生。学年は別になってしまった。

 そこまでのふたりの事情を知っていて、ふたりの関係を正確に把握できる人間は、学校にはいない。陣場は、学校を出てしまうととくに、谷崎との上下関係を意識できなくなってしまう。むしろ学校の中で、谷崎に対して意識的に敬語を使うことにけっこうな努力を注いでいるくらいだ。

 誰にも話していないが、実のところ、ふたりは幼馴染だった。家もそんなに離れていなかったし、幼稚園も同じだった。谷崎と仲が良かった陣場は、お互いよく一緒に遊んでいた。

 小学校に上がる前に陣場の家は引っ越してしまい、高校入学直前に、またもとの街に引っ越してきた。谷崎との再会は十年振りといってもいいくらい。もう過去形の関係と言ってもいいだろう。

 再会した谷崎は、思い出の中の女の子とは、まるで別人のようだった。昔はもっと女の子らしいところがあったように思う。元気のよさは相変わらずのようだけれど。

 女子二輪部のエースが谷崎悧河と聞いて、そして実際に遠くから見ても、同姓同名の別人だと思ったくらいだった。思い出の中の谷崎は、自転車に乗るのもおっかなびっくりの、どちらかというとおとなしいタイプだった。

 それがどうして、こんな殺気がみなぎる氷の剣みたいな少女になってしまったのか。

 その理由は知らないけれど、少しずつ分かっていければと思う。

 陣場と谷崎は、それぞれ別にひざの屈伸やら肩を回すやらして、適度に身体をほぐして一〇分ほど時間をつぶすと、再びバイクに乗って渋滞の通り過ぎた道路を走り出す。

 すぐに渋滞に追い付く。

 適当に車間を開けながら渋滞に連なって走る。

 一〇分も走らないうちに、左手に舗装された退避スペースが現れる。その場所に、三台のバイクが停車していた。エリミネーターの爆音で、陣場たちの接近に気が付いていたのだろう。ライダーたちは注意を向けて発進の準備を整えている。

 ヘルメットの中で、陣場は舌打ちした。しつこい連中だ。谷崎も同じ感想に違いないと思う。

 牛歩スピードで進む渋滞を無理矢理追い越して、すぐに三台のリッターマシンが陣場と谷崎を取り囲んだ。

 だが谷崎は、無意味な騒音を立てて付きまとう彼らに、一顧だにくれない。完全無視の構えだった。陣場もそれにならう。

 何の反応も示さないふたりに業を煮やしたのか、右隣のZZ‐Rが、拳で陣場の肩を小突いた。あざ笑うようにGSFがエンジンを回す。

「つっ」

 バランスを崩しかけた陣場につられて、エリミネーターの車体がわずかに揺らぐ。

 それが合図のように、左側からCBが谷崎の肩に手を乗せ、右側からZZ‐Rが谷崎の右腕をつかむ。

 一体こんなことをしてどうするつもりなのか、意図は理解できないが、ここまでされて黙っている谷崎ではなかった。

 谷崎が左手で、左にいたGSFの手を払う。同時に、さすがに頭にきていた陣場が、つま先を振り出してZZ‐Rの腕を蹴り上げて、谷崎の腕を解放する。

「行くぞ」

 谷崎が短くいい、スロットルを開ける。

 並列二気筒エンジンの吠え声が、鼓膜を乱打する。勢い良く左へ飛び出したエリミネーターの車体が、GSFの鼻先をかすめて側溝のふたのうえを走り出す。

 渋滞の路肩すり抜け。ただし、法定速度を上回るような速度でやらかすバイクは、あまりいない。

 虚を突かれたリッター三台は、やや遅れて後を追い始める。ZZ‐RとCBは、オレンジのセンターラインを踏み越えて対向車線から、GSFはエリミネーターの走った場所をなぞって、追いかける。

 コンクリ製のふたをにぎやかに鳴らして、二台のマシンが行列する車を追い越していく。道路は緩やかなカーブ。アウト側は湖、イン側は峠の岩肌だ。

 イン側に寄ったクルマがいればアウト側を刺して、谷崎は速度を落とさずにマシンを走らせる。

 行く手にトンネルが迫る。谷崎は前方のトラックのわきを、道路の隙間に対しギリギリの車幅のエリミネーターを操り、まるで針の穴に糸を通すような難しいすり抜けで突破する。

 後を追おうとしたGSFがトラックに迫ったときには、すでにトンネルの入り口に差し掛かっている。追いかけようとしたウィリーマシンは、一段狭くなった路肩に前輪をぶつけて乗り上げ、車体下に取り回した社外品のエキゾーストパイプを傷だらけにしたあげく、身動きできなくなった。

 高い部品だったろうに。遠ざかっていくトンネルの入り口を背に、陣場は少しだけ同情した。

 追跡するバイクは、残り二台。

 イエローの薄暗い照明の中を、エリミネーターは対向車線に飛び出しながら駆ける。対向車が迫るたびに渋滞の列に戻り、急減速、急加速を繰り返して走り続ける。幾重にも反響する爆音がトンネル内にこだまして、追跡者との距離ははっきりしない。考えられる限り、これ以上ないくらい危険な谷崎の運転に引っ張られて、陣場は後ろを振り向く余裕などなかった。

 トンネルを抜ける。視界がまぶしい。

 再び路肩に余裕が生まれた峠の悪路を、エリミネーターは疾走。CBはそのラインを、ZZ‐Rは相変わらず対向車線を、それぞれ追いかけてくる。

 砂利や落ち葉を蹴散らして、ときどきふたの失われた側溝をかわして逃げ続ける。驚いた自動車たちが道を空ける。谷崎が先を走っているおかげで、追跡するCBは徐々に距離を詰めてくるようだ。

 渋滞の先頭が見えた。白い軽自動車に紅葉マーク。小さな老人が、ハンドルにしがみつくようにのろのろと運転していた。

 そのわきを加速しながら、エリミネーターが駆け抜ける。さえぎるもののない道路に、全開加速のエキゾーストノートが轟く。

 ブラインドコーナーが、ものすごい勢いで近付いてくる。

「陣場、地蔵ッ!」

 谷崎が叫ぶ。

 地蔵とは、いわゆるお地蔵さまのことである。

 タンデムするときに、バイクに慣れていない女の子などを後ろに乗せると、コーナー進入時に怖がってアウト側に身体を逃がしてしまうことが多く、その場合は普段のように曲がれなくなって大変、危険だ。

 なので「後ろで地蔵になっていて」というのは、コーナリングの邪魔をするなという意味が込められている。谷崎は陣場がそんな初心者みたいなことはしないと分かってはいるが、かといって体重をイン側に寄せたりして、自分の走りができなることを嫌ったのだろう。

 谷崎が、体重を打ち下ろすようなリーンイン。何かが派手にこすれる音を響かせながら、エリミネーターは思いもよらない速度と鋭さで旋回していく。後を追いかけるCBは明らかにエンジンの回転を落としすぎていることが、耳で分かる。失速してコーナーの脱出は遅れるだろう。

 旧式の航空機を連想させるような爆音を途切れさせることなく、谷崎は容赦なくスロットルオープン。ブラインドコーナーの向こうは、長く続く下り坂の向こうで、また左のブラインドコーナー。投げ飛ばされるような勢いで立ち上がったマシンが、墜落するような加速で次のコーナーへ突入を開始する。

 出遅れたCBは、あわててスロットルを急開する。低回転に落ち込んでいたエンジンは、それでも大排気量の強大な低速トルクにものを言わせて、重量級の車体を強引に押し出す。暴力的な加速で先行するエリミネーターを猛追。見る間に追いついたCBは。

 明らかにライダーの技量でカバーしきれないオーバースピードで、コーナーに突っ込んでしまっている。気がついたときには、手遅れだった。

 ひらりと風に舞う鳥のように身を翻したエリミネーターのラインを大きく逸れて、CBは前輪と後輪をブレーキロックしたまま、ガードレールに真っ直ぐ突っ込んだ。衝突の衝撃で後輪を大きく持ち上げ、ほとんど垂直に近付いてジャックナイフのような姿勢になる。

 ガードレールの向こう側は、十メートルほど落下して、湖。ライダーに数秒間、身の毛もよだつような恐怖を味わわせて、マシンは道路側に倒れこんだ。

 けがでもしてなければいいけど、と振り返った陣場の視界に、のろのろと立ち上がるCBのライダーの姿が見えた。どうやら命は助かったらしい。そして、命知らずな最後のマシン、ZZ‐Rがまだ追いかけてくるのまで見えてしまった。

 普通、ツーリング中に仲間が事故ったら助けてやるようなものだが、すっかり頭に血が上っているらしい。

 谷崎がさらにペースを上げる。そろそろ、地蔵を載せていてはコーナーをクリアできなくなると思い、陣場は谷崎と一緒に、体重移動をシンクロさせる。がりがりがりという擦過音。どうやらステップがアスファルトに接触しているようで、谷崎のブーツの辺りから火花が散っている。

 コーナーを抜け、短い直線。

 エリミネーターがマンホールを避けると、後続のZZ‐Rも同じようによける。センターラインをまたげば、同じラインを通り、ブレーキランプを点灯させれば、警戒して車間を空ける。妙な暗示にでもかかっているみたいだ。

 コーナを抜けると、なだらかな下り坂が続く。道路は右へ一度曲がったあと、左への急カーブ。ガードレールの向こうに、カーブミラーが立っているのが見える。左手の山側は未舗装で、草木の茂る地面が小山になっている。その小山をまたぎ越えるように、草地がはげあがったような細い道ができていた。

「つかまってろっ」

 谷崎の声が聞こえた。何のことか分からなかった陣場に、左にステアリングを切ったエリミネーターが、これから起きるとんでもないことを教えてくれる。

 猛然と加速しながら道路を飛び出し、未舗装の地面をエリミネーターは走り出す。

 谷崎にしがみついた陣場が、悲鳴を上げそうになる。

 オフロードの斜面を駆け上がったエリミネーターは、小山を飛び越えて、ジャンプ。

 山の向こうは、草地についた小道を延長するように、カーブを抜けた道路が延びていた。ただし、道路はむき出しの斜面を三メートルほど下った場所。

 人間の背丈をゆうに越える高さから跳躍して、フロントを上げながら道路に着地。どがんと音がしてマシンがバウンドし、サスペンションが悲鳴を上げる。

 狐火に誘われるように後を追ったZZ‐Rは、小山を飛び越える直前にわれに返り、スロットルを全閉してしまう。勢いを失ったマシンは前輪から垂直に墜落し、砂利と土の地面に突き刺さった。

 墓標のように直立したマシンを見上げ、ライダーはぐったりと座り込んだ。

 ハンドルにしがみついて運転する老人を乗せた軽自動車が、のろのろとその前を通過していった。


「あの道は榊部長のお気に入りだ。カーブミラーを確認して、安全なときだけ使ってる」

 追跡者を置き去りにして、しばらく走ってから谷崎はそう説明した。

「榊部長はオフ車の名手なんだ。知らなかったか」

「し……しらない」

 背の高い榊先輩なら、オフ車が似合いそうだ。とは思ったものの、陣場はおしりが痛くて涙が出そうだった。小山を飛び越えるときに、思い切りしがみついてしまった谷崎の身体の感触の記憶は、どこかに消し飛んでしまっている。

「しかし、とんだ休日だ」

 女子二輪部最速の少女は、つまらなそうに言った。

 峠を離れ、街に入る。谷崎流のマイペースな安全運転で(陣場から見ると急行みたいなものだが)、目的地に到着した。

「あ、ありがとう……」

 よろよろと地面に降り立つ。山中で一文無しになったことなど、まったく大したことではないような試練を乗り越えて、親戚の家に無事に到着したことを神に感謝したいと陣場は思う。おぼえてろよ。

「春山のおばさんか。懐かしいな」

 ヘルメットを脱いだ谷崎が、いかにもごくふつうの中流家庭、といった中くらいの庭を抱えた中くらいの家を見上げる。

「届け物していくんだけど、一緒に行かないか」

 漬物が入ったDバッグを背負い直し、陣場はバイクの傍らにたたずむ谷崎に声をかけた。

「……ああ。そうだな」

 少しぼんやりとした感じ。谷崎は几帳面にメットホルダーにヘルメットを施錠し、春山家の玄関に向き直る。

「ふたりとも、大きくなったわねえ」

 数年ぶりに見る親戚のおばさんは、何だか小さくなったように見えた。陣場が大きくなっただけのことなのだが。

「ごぶさたしてます。あの、ウチの母が、」

「なんだかにぎやかな音が外から聞こえたけど、リカちゃんのバイク? 見たいわあ」

 漬物を取り出しかけた陣場から注意を逸らして、おばさんは、谷崎を引っ張って玄関からいそいそと出て行く。門のほうから「あらあ」とか「んまあ」とかいう大声が聞こえてくる。

 自分が邪魔者のように思えて、陣場は玄関の上がりかまちに腰掛けて、膝を抱えて待つ。ちょっぴり哀しい。

 しばらくして、谷崎とおばさんが戻ってきた。陣場は漬物が入った包みを差し出す。

「母からです」

「ありがとう。ごくろうさま」

 おばさんはにっこり笑った。

「陣場も上がっていったらどうだ」

 そのわきを、谷崎がライディングブーツを脱いで上がっていく。おばさんも陣場を促して、中へ。

 苦笑して、陣場はスニーカーを脱いだ。


 小さな子どもたちが並んでいる。半ズボンの男の子、短いスカートの女の子、日焼けした顔に白い歯をのぞかせて、ピースサインを出している少年もいる。子どもたちの後ろには、少し細く見える春山のおばさん。

「懐かしいわねえ。独歩くんが引っ越しちゃう前だから、もう十年も経つのねえ」

 用意されていた昼食をごちそうになって、陣場と谷崎は、おばさんが本棚から引っ張り出してきたアルバムを眺めていた。

「こんな写真、あったんですね」

 谷崎のていねいな言葉遣いが、陣場を意外な気分にさせたが、それよりもアルバムのページに貼られた一枚の写真に写っている人物に、注意の多くが吸い込まれていく。

 そこには子どものころの、陣場と谷崎が写っていた。たぶん、陣場の自宅に春山のおばさんが訪れたとき、近所にいた谷崎がたまたま遊びに来ていて、記念写真を撮ったものだろう。

 陣場と谷崎は、写真の中で手をつないでいた。

 少し居心地が悪くなって、隣に座っている谷崎の顔を横目でうかがうと、その写真に気がついたようで、わずかに顔を引きつらせているのが分かった。

 やっぱりそうだ。もうおぼろげにしか覚えていないが、子どものころの陣場と谷崎は、仲は悪くなかった。いや、むしろ良かったくらいだと思う。谷崎も陣場の家に遊びに来ていたし、陣場のほうも、谷崎の家に出かけたことがあったはずだ。

 それがまた、なんで今は目の敵にされてしまっているのか。運命というやつなのか、それとも誰かのせいなのか。

「ふたりとも、今も仲良しみたいで、良かったわ」

 おばさんが何気なく言って、お茶をすする。ふたりの少年少女の表情が固くなる。

「ええ、陣場のやつは危なっかしいから、私が見ていないと大きな失敗をやらかしそうで困っています」

 谷崎のせりふに腹が立つ。確かに今日はそんな感じではあったけど。

「まあ、幼馴染の腐れ縁みたいなものですけどね、あははは」

 困ったように笑ってみせた陣場を、谷崎の鋭い視線が刺し貫く。

「あらあらまあまあ。良かったわねえ」

「何が良いんだか……」

 陣場は胸の中でため息をつきながら、風の中を流れていく街並みを眺めている。再び、谷崎が操るエリミネーターに乗り、山ひとつ隔てた隣町を走った。

 行き着いた先は、ちょっとした倉庫ほどの大きさのあるバイクショップ。さまざまなパーツ類、ライディングギア、バイク雑誌に書籍が並んでいる。

 谷崎は陣場からヘルメットをはぎ取ると、前もってはがしておいたヘルメットの内装と一緒に、店内のヘルメット売り場に持っていく。なにやら店員と話し込んでいるので、陣場は適当に近くのツーリング用品を眺める。谷崎の後ろに乗せてもらって、初めて公道を走りたいという気が起こっていた。

 たくさんの荷物が入るパニアケースやツーリングバッグを見ていると、すぐにでもどこか果てしなく遠くまで走りに行きたくなってしまうが、それ以前に陣場は免許もなければ自分のバイクさえ持っていない。

 バイクがなければ、装着できるパーツなど決められないので、惨めな気分になってくる。免許とバイクが欲しい。そうなるとお金が必要だ。教習所に通う時間も作らなければいけない。それを考えると、いきなりサーキットで存分に走ることのできる二輪部は、すごく恵まれた環境なのだということに気が付く。

 しかしそれも、谷崎に勝つことができなければ、ひとときの夢まぼろしとして消えてしまうかもしれない。

 勝てるだろうか。

 勝たなければいけない。

 振り向いたら、少し後ろに谷崎が立っていた。

「……」

 やっぱり勝てる気がしない。

 それよりも、なぜ谷崎と戦わなければいけない流れになってしまったのだろう。幼いころのように、手をつないで仲良くするようなことはできないのだろうか。

 陣場と数瞬の間、目を合わせて、谷崎はくるりときびすを返すと店の外へ歩いていく。

 同じバイクに乗って、同じ風の中を走ってきたのに、お互いの距離は、実際にはなんだかひどく隔たっているような。

 十年前の、アルバムの中の写真のような友情みたいな気持ちは、色あせて失われてしまった。そんな気がした。

 谷崎の後を追って、陣場は店の外へ出る。

 エリミネーターの傍らに立って、ヘルメットを手に谷崎は空を見上げていた。レザーのジャケットにパンツの黒い姿が、周囲のビッグスクーターやルーズでラフなかっこうのライダーたちの間で、いっそう精悍な印象を際立たせている。

 彼女の実力がそう感じさせるのか、それとも実際にそうなのか。陣場には、谷崎がものすごくかっこよく見えた。細くて華奢な印象の少女と、ハードで無骨なバイクの組み合わせが、こんなに絵になるとは思わなかった。

 空は、いつの間にか重苦しい雲に覆われていた。

「やっぱり降ってきそうだな。早く帰るか」

 独りごとみたいに言って、陣場にヘルメットを差し出す。ガンメタのフルフェイス。ここに来るまで着けていたものとは違う。

「預けてきたんだ。内装の厚みを調整してもらって、来週までにベストな装着感が得られる状態にしてもらう。常連なんで、代わりのメットを貸してもらった」

 そういうことらしい。陣場は受け取って被る。ぴったり。内装なしの樹脂帽とは、雲泥の差がある被り心地だった。

「用事は済んだ?」

「ああ。帰るぞ」

 短く答えて、谷崎はマシンを方向転換。エンジンスタートした車体に陣場が乗り込んだ途端、車道の風になる。


 今日は本当についていない。

 雨だ。

 もと来た道を引き返し、峠に差し掛かった辺りで降り始めた雨は、進むに連れて激しさを増してくる。路面や、山肌や、ガードレールの上端までもが、降り注ぐ雨が弾けて水煙にかすんで見える。

 ヘルメットの内側が曇るので、ふたりともシールドを数ミリ開いて走る。冷たい空気が流れ込んで、曇りを取り除いてくれる代わりに、雨粒も浸入してくる。バイクに乗ることなどまったく想定していなかった陣場は、薄手のシャツとジーパン姿だったのでたまらない。

 谷崎が陣場を拾った、頂付近のバス停に差しかかる。谷崎はバス停にエリミネーターを突っ込むと、シールドを全開にして振り返った。

「雨宿りするか」

 陣場は両腕を抱いて、うなずいた。歯が震えて音を立ててしまいそうなくらい、寒かった。

 古びた雨よけの屋根の下で震えていると、外灯が黄色くくすんだ光を投げかけた。バス停の周辺だけが、山の中の暗がりに浮かび上がる。まだ午後六時前だというのに、なんだか真夜中みたいに辺りは暗い。

 ベンチに腰を下ろして、両手に息を吹きかける。衣服にじっとりと染み込んだ雨が、体温を奪っていく。

 谷崎はバイクのサイドバッグからタオルを取り出すと、陣場に放ってよこした。

「使え。ずぶ濡れになってるぞ」

「あ、ありがとう」

 腕や頭をぬぐう。ベンチの隣に谷崎が腰を下ろす。雨が地面を打つホワイトノイズのような音が、ふたりを包む。

 ふと、陣場はバイクのサイドバッグからのぞく、青い布袋に気がつく。円筒形のそれは、レインウエアの入った袋に違いなかった。急に、とても申し訳なくなる。

「あのう……ごめん、気を遣ってもらって」

「ん?」陣場の目線を追って、苦い表情になる谷崎。「別に……着るタイミングを逃しただけだ。お前に気を遣ったわけじゃない」

 降りしきる雨。木の葉がぱらぱらと雨粒に打たれる。

 沈黙。

 峠を流れる風が、わさりと、雨の煙幕を揺さぶる。バス停の雨避けに守られた地面にも、雨水が浸入しようとする。

「あの。谷崎」落ち着かなくなって、陣場は口を開いた。「すまない。おれのせいで遅くなって。雨に降られちゃって」

「……」谷崎はベンチの隣に座ったまま、バス停の向かい、暗く沈んだ湖のほうを眺めている。無言。「……」

「来る途中に絡んできたバイク。嫌だったな。帰ってくる途中には何も残ってなかったから、バイクもライダーも無事に引き上げたんだろうけど」

「……」

「まあ、でもバイク乗りがみんなああいう、悪いやつなんかじゃないよね。秋田先輩や山形先輩は、バイクに乗っているところは見たことないけど、でも漆原や榊部長は親切だし、」平塚の顔が思い浮かぶ。彼女も親切だ。谷崎には話せないけど。「谷崎も」

「お前」くちびるだけを動かして、谷崎がつぶやく。「なぜ二輪部に入った?」

 不意を突かれて。

 陣場は谷崎の横顔を見る。外灯の薄暗い光を間接的に浴びる顔には、何の表情も浮かんでいないように見えた。

「それは……学校にサーキットがあって、女二の公開練習を見に行ったら、バイクで走るのがとてもカッコ良かったから」

 あやふやな文脈で陣場は答えた。

「谷崎は?」

「私は、ほかのバイク乗りがどんなやつだろうと興味はない」

 陣場の質問など耳に入っていないように、答える。

「私は、自分の実力を示すために走っている。バイクはその手段に過ぎない。私ひとりでも、誰にも負けないで戦っていけることを、証明しているんだ」

 自分に言い聞かせるように、薄暗い湖を見詰めながら、谷崎ははっきりと言った。

 誰にも、口をさしはさむ余地を与えまいとするかのように。

「そんなに強くなって、谷崎はどうしたいの?」

 ぴくり、と谷崎の肩が揺れた。

「ひとりで走るより、みんなで走ったほうが楽しいよ。きっと」

「他人なんてあてにならない。実力のないやつ、根性のないやつ、努力しないやつ、言い訳をするやつ。そんな連中をたくさん見てきた。これはお前たち男子二輪部のことだ。そんなやつらと走って、何が楽しいんだ」

「ひどいなあ。おれ、少しは努力しているつもりなんだけど」

 谷崎が氷のような視線を向ける。冗談を聞いてくれる雰囲気ではなさそうだ。どきりとした陣場は、思わず谷崎の顔からわずかに目を逸らせてしまう。そのせいで、谷崎がばつが悪そうに視線を湖へ戻すのを見逃した。

「……人間は、ひとりでいるのが本来の姿なんだ。ひとりで生まれて、ひとりで死ぬ。死んだ先は、闇の中で永遠にひとりのままだ。これは誰にも変えられない。人は必ずいなくなる。いつまでもいてくれると思っていた平塚先輩もそうだった。十年前だって、」

 谷崎が口ごもる。

「十年前。何?」

「なんでもない……とにかく、私に相手にされたかったら、実力を証明しろ。さもなくば、消えてもらう」

「谷崎って、何をそんなに怒っているの?」

「私がひとりでに怒っているんじゃない。お前たちが私を怒らせているんだ。バイクレースは厳しい世界だ。命の危険だって伴う。中途半端な好奇心で首を突っ込むなら、そのまま切り落とされるくらいの覚悟はしておけよ」

 過去の二輪部の男子と、女子二輪部はいさかいがあったと聞いたが、谷崎の怒りはそれだけが原因なのだろうか。陣場にはどうもそうは思えなかった。

 山中のバス停で、夕闇の中でふたりきりだったから、陣場は思い切って尋ねてみる。

「谷崎ってさ、何かおれに恨みでもあるの?」

「……別に」

「……なにか、すっごくあるって感じがするんだけど」

 谷崎はそれには答えず、濡れた髪やジャケットをもう一度タオルで拭い始める。

 なんとなく会話が途切れる。陣場はくしゃみをする。寒さに身体を震わせると、立ち上がってバス停の隅のほうへ歩いていき、シャツを脱ぎ始める。上半身裸になって、上着を絞ると、大量の雨水が滴った。力いっぱい絞ってから、もう一度身に着ける。

 陣場と谷崎は、ベンチに並んで腰かけながら、なかなか止まない雨を眺めた。

 またしても沈黙が苦しくなってきたので、陣場は口を開く。

「あのさ。おれ、二輪免許取ろうと思うんだけどさ」

 谷崎がめんどくさそうに顔を向けてくる。陣場は言葉を継ぎかけて、あれ? といった顔で固まる。

「なんで谷崎は免許持ってるの?」

「あのな。教習所は誕生日前から通えるんだ。実技も学科も退屈すぎて話にならなかった」

「ふ、二人乗りは……?」

 バイクの二人乗りは、免許取得後一年以上経過したライダーのみが許される。違反した場合は、道路交通法によれば二点減点で違反金一万二〇〇〇円、さらに十万円以下の罰金刑に科せられる。

「私は今日は地蔵を拾って、リアシートに載せただけだ。二人乗りなどしていない」

「今、話をしている相手も地蔵かよっ」

「そうだ」投げつけるように谷崎は言って、小さく舌打ちする。「地蔵はしゃべるな。さっきからうるさいぞ」

 くそう。お巡りさん、こいつを逮捕してください。まあ、そもそも山の中で一文無しになるおれが悪いんだけど、と陣場はうなだれる。

 しかし、そう考えると、谷崎はそのあたりの違反を覚悟のうえで、陣場を拾ってくれたということだ。まあ、警察に見つかったら蹴落とすとか振り落とすとかされたかもしれないけれど。

「谷崎って、実は優しいよな」

「な……何を言い出すんだ」

 気味悪がっているような、戸惑ったような表情の谷崎。陣場はしんみりと谷崎を見つめる。昔を思い出させる写真を春山家で見たこともあって、なんだか谷崎が男子二輪部の存亡を脅かす敵には思えない。

「なんで谷崎って、そんなふうになっちゃったの?」

「そんなふうって、なんだ。私はもともと、こういう女だ」

 そうじゃなかったはずだと陣場は思うのだが、記憶はあいまいだし証拠もないので、黙るほかない。

 重々しいディーゼルの音が、雨音の中、近付いてきた。峠の向こう側に行くバスで、帰る方向とは逆だ。停車して、バス停を見下ろした運転手が「乗りますか」と声をかけてくる。谷崎は黙ったまま。陣場が「いいえ。すいません」と答えると、バスは走り去っていった。

 再び、雨と夕闇とに閉ざされた時間が満ちる。

「あきらめないのか、サーキット」

 身動きせずに、谷崎。ぼんやりしていた陣場は、それが自分への問いかけであることに気がつくまで、数瞬を要した。

「女二と平等に使うための勝負? ……あきらめてないさ」

 自信はあまりなかったが、バイクを教えてくれる平塚や、秋田と山形の期待を考えると、逃げ出すわけにはいかない。

「お前が気の毒だから、前もって教えておいてやる。私には絶対に勝てない」

 谷崎は冷徹に宣告した。

「お前が来る一年も前から、私はあのコースで月に百時間以上走っている。そして今も、私とお前が使うことのできる練習時間には、決定的な隔たりがある。私に追いつくのは不可能だ」

 背中のあたりが冷たくなっていくのを、陣場は感じた。

「私が、サーキットの練習を限定的に許可したことや、女二のRVFを使っていいという条件を出したのは、お前に勝ってほしいからじゃない。できるだけ平等な条件でレースをして、完膚なきまでに敗北させるためだ。実力の差を思い知ることで、お前に本物の絶望を味わわせてやりたいからだ」

「……」

「サーキットを外から見ているだけじゃ、レースの崇高さは理解できない。誰もが、手の届きそうな次元の出来事に思えて、手を伸ばしてみたくなる。だが、その崇高さに触れたとたん、火傷をする。下手をすれば触れた手を失うか、命まで焼き尽くされることだってある。サーキットはライダーのプライドが、人間とマシンの限界を引きずり上げてぶつかり合う、戦場なんだ。私と同じコースに降り立って初めて、お前は本当の恐怖を知ることになる」

 本当の、恐怖。それは、埋めることができないほどの、実力の差ということだろうか。

「今に分かる。……そのときが来れば」

 いつの間にか、雨が上がりかけていた。雲間からのぞいた月が、山々を夜空の中にほの青く浮かび上がらせている。

「そろそろ、行くか」

 再び、出発の準備を整え始める陣場と谷崎。

 ふと、陣場はエリミネーターのステップに、きらりと輝く部分を見つけた。

 かがみこんでよく見ると、ステップの末端部分が、刃物で切り落とされたようになくなっていた。コーナリングのとき、擦過音がして火花が散っていたのを思い出す。

 谷崎のエリミネーターのステップは、コーナリングの際に接地して、路面に削り取られて三分の一近くが失われていた。陣場はぞっとして谷崎を見上げる。一度や二度のコーナリングで、こうはならない。マシンを極限まで操り、峠を走り込んだ結果だろう。だが、谷崎は免許を取ってまだ数ヶ月のはずだ。彼女の実力は、レプリカマシンとサーキットという特殊な環境以外でも、すぐに発揮できるくらい高まっているということか。

 ナイフの切っ先のようにとがったステップが、月の光を受けて青く輝いた。

 雨は小降りになり、霧のように煙って辺りを包み込んでいる。エリミネーターのヘッドライトが闇を押しのけ、轟く排気音が静寂を突き破った。

 谷崎と陣場はエリミネーターの背にまたがり、峠を街に向かって駆け下りていく。走っている間も、信号待ちでも、ふたりは言葉を交わさなかった。

 男子寮に近い校門がある少し手前で、谷崎はバイクを止めた。ほかの生徒に見られたくないのだろう。意をくんで、陣場はバイクを降り、ヘルメットを返す。

「あの。今日はありがとう」

 陣場は少しためらって、手を差し出す。

 メットの奥に表情を隠したまま、谷崎は差し出された手に顔を向けた。だが無言のまま、背を向けてバイクに乗ると走り去っていった。

 陣場は、霧雨のなか遠ざかっていくテールランプを、道路の交差点を曲がって見えなくなるまで、見送った。



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