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れぷリカ!  作者: よも
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第二章 お前は虎になるのだ ◆「Eye of the Tiger」


■■■ 第二章 お前は虎になるのだ ◆「Eye of the Tiger」 ■■■


 目覚まし時計が鳴る。

 断続的な電子音が鳴り響く方向へ手を伸ばし、時計を捕まえてボタンを押す。

 かちり、と手応え。静けさが戻り、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 東側の窓から、まぶしい日差しがカーテンを透かして部屋に差し込んでいる。

 朝だ。今日はいい天気になりそうだな。

 寝覚めのひとときは至福のときだ、と陣場は思う。まるで光でできた雲のうえにいるみたいに幸せだ。

 ぼんやりと思いながら、ベッドの柔らかな心地好さの中で、もう一度目を閉じかけたとき。

 にょきりと、視界のすぐそばで何かが起き上がった。

「起きろ少年。授業に遅刻してしまうぞ」

 昨夜の神様の少女がいた。まだいた。朝なのに。

 呪われる。

 気絶モードが作動し、陣場は自動的に意識を失う。

「おーきーろっ!」

 ぐいっと胸倉を持ち上げられる感覚。続いて、びたんばちんごすりと往復ビンタが両頬に炸裂。最後の一発はグーだった気がする。夢の世界にまで届きそうな烈しい火花が視野に散り、輝ける雲は黒煙を上げて爆砕した。

「痛いです!」

「痛くしてるんだよ。二度寝するな、青春は貴重だぜ」

 しびれそうな頬をさすって、陣場は目を開ける。昨夜、部屋に帰ってきたときのままの格好でベッドに横たわっていた。

「いきなり君が気を失ってしまうから、わたしがわざわざ寝床まで運んでやったのだ。感謝しなよ」

「そ、そりゃどうも……って」

 同じ毛布の中に身体をもぐりこませていた神様少女を見下ろして、いっぺんに眠気を吹き飛ばす陣場。

 髪を束ね、ゆったりとしたパジャマに着替えてベッドの上に座っている。

「なんでベッドで寝ているんですか!」

「君ね。私は神様だよ? 床の上で寝ろというのは、あまりに失礼だとは思わない?」

「そ、そういうことを言っているのではなくっ」

 言い終わる前に、神様の姿はこつ然と消え去る。

「あ、あれ……どこ行った」

「早く着替えなよ」

 声がしたほうを振り向く。ベッドのそばに、高校の制服姿に着替えた神様。違和感なく似合っているところが怖い。というか、同年代の女子とふたりきりで自室にいるという、変な緊張を強いられる状況を錯覚してしまう。

「……着替える前に、朝飯食ってきます」

 逃げ出すように、陣場は自室を抜け出した。これ以上一緒にいると、恐怖を通り越して妙な気になってしまいそうで、それもまた恐ろしかった。

 陣場は、学生寮に併設されている食堂に向かうと、手早く朝食を済ませる。盛り付けたごはんのうえに味噌汁をかけ、手早くかき込みにかかる。

「卵焼き、ひと切れちょーだいっ」

「どうぞ……って」

 陣場の隣の席には、いつの間にか神様がいた。驚くより早く、朝食の貴重なおかずを、神様の細い指がかすめ取る。

「はぐはぐっ……うぅーん、おいしい~」

「あーっ!」

 神様の満足そうな歓声と、陣場の悲痛な叫びが食堂に響き渡り、居合わせた生徒たちのいぶかしげな視線が集まる。

「だいじょーぶだよ。君以外には、神様の姿も声も感じ取ることはできないから」

「そういうことを気にしているんじゃありませんっ」

 そうこう言ってる間に、神様が陣場の食料へ次々に手を出してくるので、今までの最速記録を更新するような勢いで、陣場は朝食を採り終えた。

 サーキットの外で最速なんて狙ってないのに。

「うーん、一年ぶりのごはんだ。やっぱり食事って、大切よねえ」

「……そんなに長い間、食べてないんですか」

 陣場は少しだけ気の毒になった。

「うん。まあ、食べないからって、これ以上死んだりすることはないんだけどさ」

 じゃあ、神様のくせに人のメシ食うなよ。

 とは思ったが、卵焼きを食べているときの表情が可愛らしかったので、陣場は沈黙したまま、寮の通路を進む足を速めた。

 もたもたしていると、授業が始まってしまう。

「さあさあ、早く行くぞう」

 陣場の隣、ひざの上くらいの高さに浮遊して移動しながら、神様少女が言う。

「付いて来るんですか?」

「もちろん。なんだね、その顔は」

 つい本心が顔に出て、嫌そうな顔をしてしまう陣場。すれ違った男子生徒が、ぎょっとしたように振り返る。誰もいない空間に向かって、陣場がひとりごとを言ったように見えたことだろう。

 このままでは、毒電波受信塔とか言われて、学校中のうわさになってしまう。陣場は、なるべくひと目のあるところでは、神様のほうを見たり、話しかけたりしないよう、気をつけることにする。

 なんだか、食事のおかずを奪われるくらいのことでは済まないような、嫌な予感がしたのだ。

「なに、悪いようにはしないさ。だいじょーぶ」

 にまにまと、いたずらな笑みを浮かべる神様。とても安心できない。

「一年ぶりに校舎に戻ってこれて懐かしいからさ。いろいろ見てみたいなあって」

「なんですか。さっきからその、一年ぶりって」

「一年ぶりはいちねんブリだよ。サバでもタイでもないんだぜ」

 自室に戻って、着替えてカバンを持って、部屋に鍵を掛けて、陣場は校舎へと走り出す。神様は相変わらず浮遊しながら、ぴったり真横に付いて来る。

「ほら、私って地縛属性だからさ。憑代がないとサーキットから出にくいんだよね。いやいや、君のおかげで助かったよ」

「つまりそれは、おれは取り憑かれているってことでしょうか」

「うーん。大きな目で見ると、まあそういうことだね。厳密には、憑依しているわけじゃないんだけど」

 教室が近付いてきたので、陣場はおしゃべりを中断した。

 ホームルームも授業の間も、神様は陣場の周りをうろちょろと飛び回って、ノートや教科書をのぞき込んだり、じっと陣場のことを見詰めたり、いろいろと気が散る挙動を見せた。

「そこの式は間違っているぞ」

 とか、

「もっときれいな字で書け。ノートに失礼だぞ」

 とか、

「眠そうだな」

 とか。

 静まり返った授業中なので、神様に何か言い返してやることもできない。じろりとにらむので精いっぱいだ。

 昼食はまた例によって、一番美味しそうなおかずを横取りされ、陣場は泣き叫びそうになる。

 昼休み。

 肩で息をしそうになるほどの疲労にのしかかられ、陣場は机の上に突っ伏した。本当は、どこかひと気のないところまで走って行って、神様に猛抗議したかったのだが、とてもそんな気力は残っていなかった。

「どうした、少年。若々しい覇気が感じられないぞ。そんなことでは、超速少女の谷崎には勝てないぞ」

「……なんでそんなことまで知ってるんです?」

 恨めしそうな上目遣いで、神様をジト見する陣場。

「それは」目を反らせる。「神様だからね。おや」

「おい。お前」

 あまり友好的ではない声が教室の端から聞こえてきた。陣場がのんびり頭を上げたとき、教室に残っていた生徒のほとんど全員が、入り口に立つその生徒に注目していた。

「うわさをすれば、だな」

 神様が腕を組む。

 視線の先には、谷崎悧河。女子二輪部のエースにして、学校の有名人のひとり。

 その谷崎は、まっすぐに陣場をにらんでいた。

「そこのお前だ。男子二輪部の新人っ」

 机に伏せていた身を起こして、陣場は自分の顔を指差す。うなずいて、谷崎はきびすを返す。「ちょっと来い」

「……何かしでかしたんですか、神様」

「わたしは、何も」

 谷崎が陣場を連れて行ったのは、サーキットのピットだった。

「あれ、」谷崎が指差す先には、男子二輪、唯一のマシンCBR改。「お前たちのマシンだろう。片付けていけ」

 しまった。昨夜、幽霊騒ぎでとりあえずピットの中の片隅に置き去りにしたのを、すっかり忘れていた。

「すみません。すぐ片付けます」

「まったく。朝練で来てみれば邪魔くさいマシンを放置して。迷惑千万だ。夜中に練習しては良いといったが、ピットを一日貸してやると言った覚えはないからな。物置にされてはたまらない」

 いそいそとマシンを引っ張り出そうとする陣場の背に、谷崎が肩越しに声を掛ける。

「で、……いったいそれは何なのだ」

「は」

「その、フザけたマフラーだっ」

 ああ。山形先輩が作った《消音ちゃんツヴァイ》か。

「あの、夜間走行で近所迷惑にならないようにって、先輩が作ったんですよ」

「そうか。それで、どうなのだ」

「何がです?」

「どんな音がするんだ」

「はあ」

 陣場と目が合って、なぜか谷崎は赤面した。

「そのイカレたマフラーだ! わざわざ純正品を直列で二連装したからには、それなりの成果があったのだろう?」

「うーん。どう表現したら良いものか。ふつうじゃないです」

「少しだけなら、エンジン、掛けてもいいぞ」

「は?」

「べ、べつに音を聞きたいということではないんだからな!」谷崎はさらに赤面した。それを隠すように、そっぽを向く。「お前たち男子二輪部のメカニックの技術を、この私が特別に見極めてやろうというのだ。女二のエースを相手に、まさか不足はあるまい?」

 ちょっとだけ陣場の表情をうかがうように、谷崎は横目を向けてくる。

「うーん。まあいいですけど」

 エンジンスタート。

 ほへー。

 癒し系のゆるサウンドがピットの室内に跳ね返り、シャッターの開口部から青空に向かって流れ出していく。きょとんとした顔の谷崎。

 ヴォンヴォヴォンヴォヴォヴォヴォンヴォヴォン!

 と威嚇的な音を奏でるべく、陣場はスロットルをひねるが、出てくる音は、

 はいりはいりふれはいりほー。

 にしか聞こえないフレンドリーエキゾースト。間抜けである。

「ぷっ!」

 口元を両手で覆って、谷崎が噴き出す。そのまま身体を折り曲げて、くくくくくくと、肩を震わせて笑い出した。

 つられて、陣場も笑う。

 しばらく、二人そろって笑い続けた。立場も、実力も大きく隔たるもの同士が、一般人には理解しがたい一本のスリップオンマフラーの奏でる音で、爆笑している。バイク好きな者同士で通じ合えるものが、そこには確かに存在した。

 ついでに、神様少女も床に転がって、べしべしと壁を叩きながら笑っていた。

「やめんかバカ者! エンジン停止ッ!」

 笑い死にするんじゃないかと心配し始めるころ、はッとわれに返った谷崎が怒号した。

「ま、まったくお前たち男二はっ。そんなくだらんものばかり作って。そんな暇があったら、もっとサスだのキャブだの、セッティングで詰めるところがいくらでもあるだろう! やはりお前たちにサーキットを走る資格はない! 謝れ、CBRの開発者全員に謝れ!」

「皆さん、ごめんなさいっ」

「ほんとうに謝るやつがあるかバカ。さっさとマシンを片付けろ。授業が始まってしまうではないか」

「はい。はい。はいっ」

「いいか新人」谷崎が近寄って声のトーンを落とす。「わたしはお前たちが大嫌いだ。向上心のないやつ、やる気のないやつはうちの学校にはいらないんだ。必ず、わたしがお前たちを駆逐してやるから、覚悟しておけ」

「えー。やる気のない部員は、サーキットを走りたいとか言い出さないですよ」

「うるさいだまれ。悔しかったらわたしたちに勝ってみろ。直ちに撤収!」

 怒鳴り散らす谷崎に背を向けて、ゆるCBRを押しながら陣場はほうほうのていでサーキットから逃げ出した。サーキットが見えなくなる曲がり角、部室棟のそばで振り返ると、谷崎はまだ陣場のほうを見詰めていた。

「うーん、谷ちゃんはずいぶんトゲトゲしくなったなあ。ストレスでも溜まってるのかなあ」

 放課後。

 神様は陣場の隣に浮かびながら、独り言をこぼした。散らかった男子二輪部の部室には、陣場と、彼以外の人の目には見えない神様少女だけ。

 遠くから、エンジンの甲高い爆音が聞こえてくる。サーキットを走る女子二輪部だろう。

「ねえ、神様。名前はなんていうんですか」

 もろもろのうわさを総合し、そして女二の部員にも詳しい点からすると、導き出される答えはひとつしかないのだが、一応、陣場は聞いてみた。

「姓は神、名は様。人呼んで、サーキットの女神さまっ」

 神様少女はとぼけた。

「そうですか」

 陣場はお茶をすすった。神様も、陣場が自分のために最初に入れたのを奪い取った湯飲みに口をつける。

「ところで、平塚先輩」

「んー?」

 ぼんやりと返事をしてしまう、神様。

 ぶ――――――っっっ。

 アスワンハイダムの排水口よろしく、神様改め平塚の口から勢いよく噴き出したお茶が、陣場を直撃した。

「……どうして分かったの?」

「そりゃ、分かりますよ。平塚先輩は伝説的な有名人ですし。どうして隠してたんですか」頭からかぶってしまったお茶をタオルでぬぐう。「こっち向いて吹かないでください」

「うーん。だって、いきなり死んだ人間が出てきたら、君は怖がるだろ? まだ、神様のほうが怖くないだろ?」いたずらがばれたような、子どもみたいな顔。「ごみんね」

「喜べ、ルーキー陣場!」

 突然、部室のドアを開け放して、秋田と山形が入り込んできた。

「どうかしたんですか」

「手芸部を拝み倒して作ってもらっていた、お前専用のライディングスーツがとうとう完成したのだ。ありがたく思え!」

 秋田は手にした紙袋から、白と黒と基調にデザインされた革ツナギを取り出す。

「おおっ。すごいですね先輩!」

 陣場はまぶしく光り輝くようなそれを見る。SFチックな印象を受ける幾何学模様と、機能的に絞り込まれたシルエットがなんともカッコいい。

「合成皮革なのがタマにキズだがな」

 山形の補足説明に、陣場は床に倒れた。

 合皮。ありえないっ!

 万が一、レース中に転倒した場合、衝撃からライダーを守るためにヘルメットやグローブやライディングスーツなどの着用が義務付けられる。

 とくにライディングスーツには牛革や強化化学繊維など、摩擦に強く、裂けにくい強靭な素材を使うのが常識だ。かかった費用の多さを競い合うために見栄で革素材を使っているわけではないので、強度の低い合成皮革を使うなんて、なんというか自殺行為だ。転倒したときの、物理的・精神的なダメージの大きさは計り知れない。もう人として立ち直れない可能性がある。

「あの、なんかおまけに腕のところに『手芸部部員募集中』とか縫い付けられてますけど」

 陣場、滝汗。秋田が、ああこれねという顔をする。

「破格のご奉仕価格での制作だったのだ。多少の広告が入るのはやむをえないだろう。なに、来年の予算が入ったら、ちょっとずつ本物の牛革で作り直してやるから、心配するな」

「げっ! 広告の下に『夜露死苦!』とか縫ってありますよ。族ですか! 頭悪そーっ! おれ、こんなの着て走るんですか!」

 陣場、落涙。

「もう作ってしまったのだ。これを着て走ることで手芸部とは合意、契約済みだ。転ばずに走れ。そして勝ってこい陣場ッ!」

 がっし、と秋田が陣場の両肩を力強く握った。

 床を転げまわって爆笑する少女の声が、涙を流す陣場の耳にだけ聞こえた。


「さあ、レースに向けてのライディングギアも一通りそろったところで、今日もライダーの鍛錬を始めようか」

 秋田が肩を回しながら部室を出る。後に続く陣場。山形は車庫でマシンの整備を行っている。

「お、トレーニングなんてやるんだ?」

 平塚が付いてくる。彼女は退屈そうに部室のかなをうろつき回って、秋田に感づかれるのではないかと陣場をやきもきさせていた。

「ちゃんと二輪部としての自覚に目覚めたんですよ。おれとしては、先輩は部室で大人しくしててくれるとありがたいんですが!」

「固いこと言うなよ~。見学させてよー」

 人懐こい笑顔を浮かべて、平塚は悪霊のように陣場に付きまとった。

「よし。それじゃあいくぞ、ルーキー陣場!」

「はいっ」

 秋田と陣場は、二人並んで走る。四輪車の廃タイヤを引きずりながら。

「……何をしている?」

 地球最後の秘境に棲む蛮族の宗教儀式でも見るような目つきで、陣場の横を飛ぶ平塚が尋ねる。

「足腰の鍛錬ですよ。ライダーには体力が必須だって、秋田先輩が」

 陣場は百メートル走らないうちに、もう息が絶え絶えになっている。

「そりゃまあ……体力はないよりあったほうがいいけど」

「よしっ、次いくぞ!」

 秋田の号令で、腕立て伏せを始める。

「にじゅうー!」

「にじゅういち……ぐおおーっ」

「今度は何?」

 巨大昆虫の神秘なる生態でも観察するように、地べたにはいつくばる男たちを見下ろして、平塚が関心薄そうに問う。

「腕力の、鍛錬です……どんなコーナーでも曲がれるように、いざというときは力ずくでハンドルが切れるようにしておけって秋田先輩が……さんじゅうーもうだめだー」

「がんばれ陣場ァ! さんじゅういちー!」

 平津は頭を抱える。

 万が一のときの交代要員として、秋田もトレーニングを指揮しながら参加していた。二人そろってのトレーニングを監察しながら、平塚の顔は当惑から落胆に、失望から絶望に、呆然から笑顔に変化した。最後の笑顔は、校内に住み着いていた子猫とじゃれあって遊んでいたためで、陣場たちのトレーニングはすでに眼中から一光年くらい遠くにまで追いやられている。

「次、最強のニーグリップのために、ヒンズースクワット百回!」

「はいっ」

「最強のフルブレーキングとクラッチコントロールのために、片手でクルミ割り百個ずつ!」

「はいっ、つうか割れません!」

「最強のペダル操作のために、つま先立ち千回!」

「足がつりましたー! ぎゃあー」

「あのさあ陣ちゃん。バイク乗るのに筋肉はいらないよ?」

 猫遊びにも飽きたようすの平塚が、あくび混じりに陣場に声を掛けてくる。

「そんなこと、ないです。バイクは気合と根性で乗る乗り物だと、秋田先輩が言っています。おれ、それにはけっこう共感してるんです!」

「ふうん」

 平塚の目が細められる。

「まあ、成長のためには挫折も必要か……。じゃ、好きにやってみるんだね」

 すう、と平塚は姿を消した。

 あっけなく引き下がったな、と陣場は意外な感じで、平塚の消えた辺りを眺めていたが、最強のスロットル操作を得るために、中華なべに十キロの砂を入れてスナップし、手首を鍛えるトレーニングが始まったので、そちらに集中した。

 それ以来、平塚は姿を現さなくなった。


 あっという間に三週間が過ぎた。

 夕方は筋トレ、夜は《消音ちゃんツヴァイ》を装着したマシンでサーキット走行を続け、陣場はそれなりに走れるようになった、気がした。

 放課後、夕方から行われるレースを見学に、サーキットにはまばらに生徒を中心にした観客が集まっている。手芸部の女子生徒たちもいた。

「よくぞ辛い修行に耐えた、少年よ。もう教えることは何もない」

 レーザー剣を振り回す老宇宙騎士か、中国のカンフーマスターみたいなことを、秋田は言った。

「これは餞別だと思って受け取ってくれ。役に立つはずだ」

 秋田は円盤状の物体、二枚を差し出した。

「こっ、これは……」

「よく考えたら、そのツナギ、脊椎パッドが入っていなかったんだぜ。予算がないから」

 山形が肩をすくめて言葉を補う。

 脊椎パッドとは、ライディングスーツやジャケットの内側、ポケット状の箇所に、首の後ろから背骨に沿って装着し、万が一の転倒や衝突した際に、脊椎の損傷からライダーを守る、通常、強度の高い樹脂などでできた防具のことだ。

 多くは楕円形をしていて、ベルトで背中から腰にかけて装着したり、ジャケット背面の内側に取り付けたりして用いる。ライダーが前屈する動きをなるべく妨げないように、多くの節を持っているのが一般的だ。

「その通りだ。それで」

「代わりに、これを?」

 秋田の右手にはカブトガニ、左手には三葉虫があった。

 似ている。確かに脊椎パッドには、すごく形が似ている。だが。

「こんなエイリアンの幼虫みたいなやつ、着たくないですっ!」

「そう言うと思ったので二種類持ってきたのだ。好きなほうを装着するといい」

「どっちも嫌です!」

「カブトガニは標本だし、三葉虫は化石だ。生物部の部室から拝借してきたが、どちらもかみついたりしないから大丈夫だぞ?」

「なあ部長。おれ、やっぱり三葉虫のほうが化石で固いから、そっちがいいと思うんだよなあ。歴史も古いから、ご利益がありそうだし」

 山形が突然、青年の主張を始める。

「そうは言うがな。カブトガニのほうがでかいし、何よりカッコいい。実物だったら、遭難したときには食うことだってできる。私は断然、脊椎パッドにはカブトガニを装着することを、全国のライダーに推奨したい」

 秋田と山形が、くだらないことで論戦を開始した。

「と、いうことで」五分後。「陣場の脊椎部分にはカブトガニを、腰椎部分には三葉虫を装着することで、満場一致で可決した。良かったな陣場」

「おれは賛成してないから、満場一致という証言は虚偽だと思います裁判長」

「時間がないからさっさと着けろ」

 異議の申し立ては、認められなかった。

 二匹の節足動物のなきがらをライディングスーツの内側に忍ばせて、心で泣きながら陣場はサーキットに立つ。

 すでにスタートラインには、オレンジ色のマシンとライダーが迎撃体制を整えていた。

「陣場……くんだね?」

 鮮やかなツナギを身に着けた少女が、歩み寄ってきた。陣場には見覚えのある子だ。

「私、今日のレースの対戦相手を務める、漆原このは。フェアプレーで、お互い頑張ろう」

 思い出した。女子二輪の公開練習日に、谷崎に質問をぶつけていた一年生だ。緊張でうまく質問できなかったようなあの子が、努力して谷崎に認められて、ライディングの指導をみっちり受けて、今、ここにいる。

 頑張ったんだな。陣場は素直に感心した。

 差し出された漆原の手に気付き、陣場はあわててグローブを外し、握手を交わした。少し冷たくて、小さくて細い手。同世代の女子の手を握ったのは初めてだった。力を入れたら、壊れてしまいそうな手だった。

 負ける気がしない。

「おれは陣場独歩。よろしく」

 短く告げて、陣場は少女から遠ざかった。全力で勝つ。負ける相手に情を移したくなかった。

 暖機を済ませた二台のCBR250RRに、それぞれのライダーが騎乗する。

 装着したサスペンションやブレーキ類などのパーツは、女子二輪のほうが性能は高いだろうが、陣場には鍛えた身体と気合と根性とがある。

(負けるはずが……ないっ。しかも女の子相手に)

 陣場は力んだ。あおるスロットルに鋭く反応して、《消音ちゃんツヴァイ》を取り外してレース用のサイレンサーに変更したマシンが吠える。本気モードだ。

 ピットで、谷崎が腕を組んで二人を見ている。榊や秋田、山形も一緒だ。

 いよいよ、スタート。

 シグナルが点灯し、――戦いの始まりを告げた。

 エンジンの咆哮が、周囲の歓声をかき消す。

「行けェっ」

 前輪を浮き上がらせそうにしながら、猛然とダッシュする陣場のCBR。視界からは漆原の姿は完全に消えた。

 やった、前に出た。

 そう思った瞬間だった。

 滑るように、漆原のCBRが視界に入り込んだ。するすると前に出て行く。

 エンジンが吹け切り、陣場は二速へシフトアップ。スロットルを急開。

 その間にも、さらに漆原は先行する。手を伸ばしても届かない距離へと、差は広がっていく。

 絶望が背筋をはい上がった。

 速い。同じマシンに乗っているのに、全然追いつけない。なぜだ。

 漆原は加速を続ける。追いつこうと、必死に陣場はスロットルを開け続ける。練習中にも体感したことのない速度域へ突入し、エンジンが悲鳴を上げる。だが、負けるわけにはいかない。三速へシフトアップ。

 絶望が恐怖に取って代わる。速すぎる。

 こんな速度でコーナーに突っ込んで、漆原は自爆するつもりなのか。

 と、思った瞬間、先行するCBRがフルブレーキング。漆原の小さな背中が、眼前に飛び込んでくる。

「おわっ」

 叫び、あわてて陣場は右方向へマシンを逸らせながら急制動。リアタイヤがさらに右へ流れそうになるのを感じたが、漆原への追突を回避するために、マシンを操るので精いっぱい。

 ブレーキをリリースすると同時に、漆原はマシンを寝かし込む。速度とともに低くなっていたエンジンの音が高まるにつれ、マシンのバンク角が深まり、鋭くえぐるようにコーナーを旋回していく。控えめに伸ばした漆原の膝頭が、路面を擦り付けていく。

 だが、その姿はすでに陣場の視界の外に消え去っている。イン側に寄せすぎた状態でコーナーに進入した陣場は、ブレーキングが終わりきらないまま旋回を開始しようとした。

 すぐに違和感に気がついた。

「ま、曲がらない?」

 練習時とは異なる高速でコーナーに突入したため、ライダーの身体よりもマシンをイン側へ倒すリーンアウトでは、とうてい曲がりきれない。さらに、フロントブレーキを引きずっていては、なおさらだった。

 マシンは陣場の意に反して、どんどんコーナーのアウト側に向かって突き進んでいく。

「……話にならんな」

 ピットで、谷崎が顔をしかめた。秋田と山形のいるほうをにらみつける。

「あんな低レベルなライダーを走らせるなんて、危険すぎる。何を考えている」

 その声は忌々しげに、苦りきっていた。

 秋田と山形は、特攻隊員でも見送るような眼差しで、ストレートの果ての第一コーナーを見晴るかしていた。

「やっぱり、私が走ったほうが良かったかなあ」

 ぼやいた秋田を、困惑した表情の山形が見る。

「でも部長、おっかないとか言って六〇キロ以上出せないだろ。スピード違反で捕まるのが夢、みたいな」

「そうなんだが。いくらなんでも、あれよりはマシな気がする」

 第一コーナーでは、コースの縁石を乗り越えた陣場のCBRが、芝生の上をオフロード走行していた。車体がガクガクと揺れるのは、凹凸のある地面を走っているせいだけではない。

 エンジン速度は、極低速域にまで落ち込んでいた。エンストの一歩手前まで減速したマシンが、ノッキングを起こしていた。

(そ、そうか。ギアが高いままだ)

 ギアを落とすことにようやく思い至って、ようやくマシンコントロールを取り戻した陣場は、コースに復帰。

 漆原は、もう三つくらい先のコーナーに向かって進入を開始している。

「追いつかなきゃ!」

 陣場は焦った。スタートダッシュのような勢いで、第二コーナーに向かって猛進。急ぐあまり、甘いブレーキングのまま、リーンアウトでコーナリングにかかる。

 第一コーナーでの教訓が、まったく生かされていなかった。

 自ら遠心力を増大させてしまった陣場は、悲鳴すら上げる間もなく、コーナーのアウト側に向かってマシンごと弾き飛ばされた。

 あっという間に、コース外の緩衝フェンスが目の前に迫る。

 どかーん。

 スポンジ製の障壁にCBRの車体は受け止められ、マシンから放り出された陣場の身体は、大きく宙を飛んでむき出しの地表に叩きつけられた。

 観客席から、どよめきや悲鳴が上がる。

《レース終了! 保健班はすぐに負傷者の手当てを》

 榊の判断で場内アナウンスが響き、チェッカーフラッグが大きく風になびいた。

 コースを疾走していた漆原は減速し、何ごとかとマシンのうえで身体を起こす。

 動揺はピットにも及んでいた。

「あっ!」

 陣場が吹っ飛んだとき、驚いて谷崎は立ち上がった。

「あっ?」

 続いて、秋田や山形がサーキットの外へ向かって走り出すのを視界の隅に捕らえて、当惑の声を上げた。やがて、

「あーっ!!」

 ある事実に気がついて怒声を上げた。

 逃げた。

「おのれ、卑怯者め」

 だが、負傷者の救助が最優先だった。あわを食って動き出した保健班の部員たちを置き去りにして、谷崎はコースへ走り出ると、サーキットの整備に使うスクーターを始動させ、事故現場へと向かう。

「おいっ、大丈夫か!」

 倒れたまま動かない陣場に、谷崎が一番先に駆け寄った。

 声を掛けられ、ヘルメットを叩かれてようやく、陣場はゆっくりと上半身を起こした。復活したてのミイラみたいな声が喉の奥からもれ出る。身体中が痛かった。

「どこか痛いところはないか」

 ヘルメットのシールドを開けて、谷崎は陣場の目をのぞき込んだ。見たところ、意識ははっきりしているようだった。

「せ、背中が痛い……」

 のぞきこむと、陣場の背には、気のせいかやけに薄っぺらいライディングスーツを突き破って、何か見たこともないとがったものが、いくつか飛び出ていた。

「なっ、何だこれは。何が刺さっているんだ。脱いでみろ」

 谷崎は陣場のスーツのファスナーを引き下ろし、革ツナギを脱がせにかかった。

「あ……でも」

「緊急事態だ、恥ずかしがっている場合か。命にかかわったらどうする」

 谷崎はツナギの上半身部分を、ぐいっとめくった。

 陣場のTシャツの背には、得体の知れない不気味な生物が、がっちりと張り付いていた。

 見開かれた谷崎の目が、その怪物がじろりと自分をにらんだような錯覚に陥る。

「きゃ――――――っ!」

 絶叫。常識を覆す恐怖が、谷崎の理性をこっぱみじんに粉砕した。思わず陣場を突き飛ばしてしまう。

「きゃーっ! きゃーっ! いやあああああああああああああああっ!」

 レース中の姿からは想像もつかないような、女の子っぽい悲鳴を上げ続けて顔を覆う谷崎。

 うつぶせにぶっ倒れた陣場の背を見て、駆けつけた保健班の女子部員たちも悲鳴を上げる。

「きゃーっ! なにアレ!」

「虫? 虫なの?」

「誰か、自衛隊呼んできて!」

 苦痛に身じろぎした陣場の腰の辺りから、さらに黒光りする宇宙生物が姿を現して、現場の混乱はレッドゾーンに突入した。

 駆けつけた生徒たちが、手に持ったほうきやモップや特殊警棒を、人類の天敵めがけて振り下ろそうとした、そのとき。

 陣場がよろよろと手を挙げた。

「これには深いわけが……」


 こうして、男子二輪部は部室を失った。


 全身打撲の負傷で、陣場はベッドのうえに横たわっていた。レース終了直後は学校の保健室で寝ていたが、診察の結果、幸い命に別状はないということが分かり、見知らぬ優しい人たちに支えられて、自室に戻ってきた。

 保健室にいる間は、何人かが見舞いに来た。

「まあ若いから、寝てれば治る。しかし惜しかったなあ、ははははは!」

 と、顧問の青森教諭。何がおかしいんだ。

「大丈夫? 本当に大丈夫? バイクに乗るの、嫌になったりしてない?」

 と、対戦相手の漆原。転倒は君のせいじゃないから。

「残念だったね。あ、CBRはどこも壊れてなかったから安心しなよ。ある意味、これはすごい才能かもよ。あははははは」

 と女二の榊部長。だから何がおかしいんですか。

 そして、誰もいないタイミングを見計らったように、谷崎まで現れた。けがは大丈夫か、と尋ねたあとしばらく黙り込む。やがて、肩を震わせて、黒い作業服のひざの上で、ぎゅっと拳を握りこんだ。

「みんなに、きかれてしまったではないか……ふざけおって……」

 これ以上ないくらい赤面した谷崎が、陣場と目も合わせることもできずに、恨み言をこぼす。

「すいません」

 何と答えようか迷ったあげく、陣場はそう答えた。

「貴様のようなやつは、」ぷいと立ち上がって、谷崎は保健室を去っていった。「カブトガニと三葉虫に食われて、地獄へ落ちるがいい!」

 ちなみに、秋田も山形も、保健室には姿を現さなかった。

「見舞いに行かなかったのはわけがある」

 夜になって、陣場が自室に搬送された後、秋田と山形が部屋を訪れた。

 つい、恨めしそうな目で上級生を見上げてしまう陣場。

「念のために言っておくが、お前が女二にふっかけたケンカのせいで、おれたちが部室を失ったことは、永遠に忘れるなよ?」

 山形がヴァンパイアの心臓に打ち込むくらい太くて長い釘を刺す。

「そうでした。すいません」

 陣場は灰になってしまいそうなくらいに凹んだ。

「自由は死すとも男子二輪部は死せず。不死だ。不滅といってもいい。ゾンビみたいなものだ」秋田が言い放つ。「新たな部室を確保してきた。明日から部活動は再開できるから、安心せよ」

 陣場が転倒し、敗戦が決定した瞬間、秋田と山形は、男子二輪部の部室へ走った。そして、あらかじめまとめてあった部の備品を運び出し、誰の目にもとまらぬ迅速さで新しい部室へ運び込んだという。

「つまり、最初からおれが負けるって予想してたんですね」

 陣場、落涙。

「「当たり前だ」」

 秋田と山形の声が重なった。

「勝つつもりで装備に手抜きをしなくて良かっただろう。脊椎パッドがなければ、今頃はお前、サーキットの染みになってるぞ」

「むしろ、二匹のパッドに呪われたような気がします」

「ともかく、しばらくは安静にして体力の回復に専念せよ。ごくろうだった」

 秋田と山形は、ドアを閉じて去っていった。静けさだけが残る。

 戦いは終わった。

 陣場は、負けたのだ。


 ギィ、と耳障りな音を立てて、戸が開く。隙間から男子生徒の頭が入り込んだ。

 建物の中には明かりが灯っていた。人の気配があることに気が付いて、生徒の顔がぎょっとしたように強張る。

「な……なんだ、秋田か。何やってんだ、こんなところで?」

 秋田と山形が、碁盤をにらみながら、向き合って座っている。

 校舎裏手の、物置小屋だ。

「部活動だ。ここは男子二輪部の新しい部室なのだ」

 碁石をぱちりと打ちながら、秋田が応じる。

 天井から裸電球がひとつぶら下がり、その真下には碁盤とちゃぶ台。その周辺に、ポットや湯飲みや、カードゲームなど、男子二輪部の備品たちがほこりっぽいコンクリの床に並べられている。

 そのさらに向こうには、CBRと、その横で虚ろな目をして膝を抱える陣場の姿。

「そ、そうか。部室なのか」意味が分からないがとりあえず無視しよう、という男子生徒の顔。「悪い。四輪部の備品で、タイヤ探しに来たんだ。入るぜ」

 男子生徒の後ろから、後輩らしい男子ふたりが続いて入ってくる。小屋の片隅から、シートが掛けられたタイヤを探し出すと、手際よくキャリアに乗せて運び出す。

「おい、あんまりじろじろ見るな」

 珍しそうに秋田たちを見る後輩に、最初に入ってきた男子生徒の注意が飛ぶ。

「邪魔したな、秋田。頑張れよ」

 戸が閉まる間際、キャリアを押す後輩の生徒が漏らした笑い声が、陣場の耳に深くこびりついた。

 山形が碁石を打つ音が、小さく響いた。


 オレンジ色のライディングスーツに身を包んだ少女たちが、同じ色のマシンを操って、ストレートを駆け抜けていく。競技用のタイヤが、路面との摩擦で焼け焦げる独特なにおいが、風に乗って流れる。

 鼓膜を突く甲高い爆音が、真っ直ぐなライダーの闘争心の表れのように烈しく、熱く、風を切り裂いて飛び去っていく。

 サーキットは閉じられた空戦領域のようだ。

 愛機に搭乗するパイロットたちが、ライバルの隙を突き、追いすがり、死闘の果てに追い越し、――撃墜していく。

 そう例えるならば、撃墜王は間違いなく、ただひとり黒の機体を操る、ただひとりの黒の少女だった。

 誰よりも速く飛翔し、誰よりも鋭く旋回する。

 誰よりも容赦なく肉薄し、誰よりも無情に隙を撃つ。

 誰よりも熱く、誰よりも冷たい。

 こうして眺めている間にも、周回遅れのライダーたちの後ろに着け、攻撃的にプレッシャーを与える。威嚇的なエンジン音。脅迫的な車間距離。

 だが、先行するライダーがミスをしようがしまいが、関係なかった。

 驚異的な旋回速度で抜き去る。恐怖を感じないかのようなコーナー進入速度で敵機に絶望を味わわせる。エンジン特性を知り尽くしたアクセルワークで、どんな状況にあっても、対戦相手を瞬時に置き去りにする。

 撃墜されたライダーたちは畏怖のこもった眼差しで、遠ざかっていく黒い機影を、なすすべもなく見送る。

 谷崎は、戦闘機だった。

 一体、どんな表情をして走っているのだろう――そんなことを思いながら、陣場は観客席から練習走行を眺めていた。

「こら。タダ見は許さないよ」

 いつの間にか、隣に榊が立っていた。陣場はうろたえる。

「す、すいません」

「ふふっ。冗談。撮影しなきゃ好きなだけ見てていいよん」

 笑顔で言って、陣場の隣で観戦し始める。入学当日の『公開練習走行』は、どちらかといえば校外の一般人向けを意識した行事らしかった。観客席には、ほかにもまばらに生徒の姿が見える。

「身体はもう、大丈夫なの?」

「あ、はい。おかげさまで」

「良かった。秋田くんとか、どうしてる?」

「ずっと山形先輩と碁を打ってます。……おれのせいで」

 直線を駆け抜けるマシンが、陣場の言葉をかき消す。

「それは違うと思うなあ」

 流れる風になびく髪が、頬に触れそうなほどの距離。榊はライダーたちの戦いを眺めながら口を開く。

「君がいてもいなくても、彼らは碁を打ってると思うよ。むしろ、君の無茶な挑戦のおかげで、秋田くんも山形くんも変わった。火がついた、っていうのかな。マネージャーとメカニックはいたけど、男二にはライダーがいなかったんだよ。とくに、無茶で熱いライダーがね」

「でも、負けました」

「まあね。けどCBRは無傷で残った。さあ、どうする?」

 いたずらっぽい笑み。傾きかけた日差しに、瞳が茜色に輝いている。

「どうするって……もう、どうしようもないじゃないですか」

「おいっ、貴様!」

 怒号が響いた。ぎくりとしてフェンスの向こうを見ると、ヘルメットを脱いだ谷崎が陣場をにらみつけている。

「そこで何をしている。死にぞこないの男二が、私たちの視野でうろちょろするな。目障りだッ」

「ひっどい言い草だなあ、谷ちゃん。もっと後輩を可愛がりなよ。同じ二輪部だよ?」

 硬直した陣場に代わって、榊がとりなそうとする。

「何が同じだ、汚らわしい。だいたい男二ときたら、部室を剥奪して息の根を止めたと思ったのに、物置に逃げ込んでまで生き延びてるらしいじゃないか。お前らは恥というものを知らないのか。この油虫め」

 ひどい言われようだ。

「あ。虫といえば三葉虫だけどさ。今度、部室に置物として置こうかと思うんだけど、どお?」

「そ、そんなもの、いるかッ」

 榊の提案に谷崎が顔を真っ赤にして叫ぶ。近くにいたメカニックの女子が、くすくすと笑う。

「くそう、いまいましい。とっとと出て行けっ」

 怒れる谷崎が出口を指差し、すごすごと陣場はサーキットを後にした。

 新しい部室に戻る。秋田と山形が碁盤を片付け始める。戸締りをして、部活動は終了。

 秋田も山形も、バイクの話はしない。なんだか空気が重苦しい。

 寮へ戻る途中の道で、腕組みをした人影が待ち受けていた。

 谷崎だった。

「おい、新人」鋭い視線が陣場を射抜く。「ちょっと顔かせ」

「何の用だ絶叫マシーン。わが部の大切な後輩をたぶらかそうったって、そうはいかんぞ」

「誰がそんなことするか。それに何だその、絶叫マシーンって」

「きゃ――――――っ!」

「いやあああああああああああああああっ!」

 秋田と山形が、わざとらしい身振りを交えて、甲高い声で叫ぶ。谷崎の顔が引きつる。

「お、お前ら! あのとき逃げ出してサーキットにいなかったくせに、なんでそれを……」

「レースのようすを撮影したビデオに、しっかり記録されていたのだよ。その筋の間では、あの谷崎を泣かせた一年生として、陣場は伝説的英雄扱いなのだ」

「ちなみにビデオには、とんでもないプレミアが付いて、闇で取引されているんだぜ」

 男二の部長と副部長が、意味もなく胸をはる。

「ふ……ふざけやがって!」

 怒りにわれを忘れた谷崎が、持っていたヘルメットをぶん回して殴りかかる。きゃー、とか、いやあああ、とか挑発的に叫びながら、男二の幹部たちは矢のような勢いで逃げ去っていった。

「くそ、あいつら。いつか殺す」

 怒気がこもったままの眼差しで、陣場をキッと見すえる。

 陣場は、かたずをのんだ。

 何の前触れもなく、谷崎はヘルメットが収まった布袋を力任せに陣場の頭に叩きつけて、彼を気絶させる。陣場が気が付くと、そこはサーキットのコースで、彼自身は荒縄に縛り付けられて身動きができない。縄はコース上にたたずむ黒いRVFに結び付けられており、陣場が覚醒したのを確認した黒のライダーがエンジンを始動させる。猛然と走り出すRVF。アスファルトの上を絶叫しながら引きずられていく陣場。

「フハハハハハァ! 人間ボーリングじゃーい!」

 メットからあふれ出す、谷崎の哄笑。

 第一コーナーのアウト側には無数のドラム缶が立てられており、遠心力で振り出された陣場は鉄製の極太ピンをなぎ倒しながら転がっていく。最終コーナーには巨大なカブトガニと三葉虫が待ち構えており、ウィリーしながら突き進むRVFが、火花を散らしながら怒涛のコーナリングを、

 というところまで陣場は妄想し、卒倒しそうになる。

「陣場。お前、昔、鵬工業団地に住んでいたことがなかったか」

 ふいに、近寄ってきた谷崎が穏やかに言葉を掛けた。何が起きたのか理解できず、あっけにとられて撃墜王を見詰める陣場。

 谷崎はばつが悪そうに目を逸らした。今さらながら、陣場は彼女が自分よりわずかに身長が低いことに気が付く。意志の強さを印象付ける両眉は、今は心なしか当惑したように下がっているように見えた。

 やっぱりそうだった。陣場は近くて遠い、妙な距離感を感じながら上級生を見た。

「住んでいました、十年くらい前に。お久しぶりです、谷崎先輩。……それで、なにか用ですか」

 陣場の言葉に、少し、むっとしたように谷崎がにらむ。今ここで、そんな昔の話を思い出す気にはなれなかった。

「どうするのだ。これから」

「と、いいますと」

「あんなぶざまな負け方をして! お前はそれでいいのか?」じり、と谷崎が一歩詰め寄った。「まさか、バイクをやめるんじゃないだろうな」

 陣場は混乱した。

 何を言い出すのかと思えば。谷崎は、陣場にバイクに乗り続けるよう、説得に来たのか。息の根を止めてやるだの、駆逐してやるだの、男子二輪部をあれだけ毛嫌いしていた彼女が、いったいどういうことなのか。

「でも男子二輪部をつぶすって、谷崎先輩は言っていたじゃないですか。おれがやめれば、野望の実現に一歩、近付きますよ」

「それは……っ」

 珍しく、谷崎が口ごもった。どう答えるべきか、ためらってから、いつもの表情に戻って、指を突きつける。

「その通りだ! お前たち男二を根絶やしにするのが私の望みだ! だから、もう一度勝負しろ」谷崎がさらに一歩、歩み寄る。「さっき、サーキットに来ていたのは、再戦を申し込むためだったのだろう? よかろう、受けて立つ。次はあの物置小屋を賭けて勝負だ。負ければ、今度は物置小屋のスペースを没収する。だがもし万が一、私たちに勝てばサーキットを」

「もう勝負はしません」

 谷崎の話をさえぎって、口をついて出た言葉に、陣場自身が驚いていた。認めたくないのに、認めざるをえないような心の奥底の絶望が突然、目の前に浮かび上がってきたような感じだった。

「サーキットに行ったのは、女子二輪の練習をもう一度間近で見て、おれには決してあんなふうに速く走れないってことを思い知るためです。コースアウトでリタイアなんて、おれの実力は勝負以前、話にもならなかった。これ以上、おれのわがままで秋田先輩や山形先輩に迷惑はかけられないし、それにおれ、バイクに向いてないと思うんです」

「秋田と山形が、迷惑だと言ったのか?」

「そうじゃないです。これは、おれが決めたことです」

「そうか……分かった。もういい」

 谷崎の顔から、表情が消えた。大きく見開かれていた目がすっと細められ、うつむく。

「やる気のないやつが表彰台に上がれるほど、甘い世界じゃない。二度と私の前に現れるな。お前には失望した」

 素早くきびすを返し。

 そして振り返ることもなく、谷崎は去っていった。

 誰もいない物置小屋からの帰り道、陣場は不愉快な気分を抱えたまま、しばらくその場に立ちすくんでいた。

 勝手な人だ、谷崎という少女は。陣場がぶざまな敗北を喫したからといって、さも当然のように再戦のステージに引きずり上げようとする。勝手に男子二輪部を目の敵にして、さんざん苦しめて完膚なきまでに傷つけるまで、攻撃をやめようとしない。

 身に覚えのない憎しみをぶつけられて、陣場自身、平気でいられるわけじゃない。

『お前には失望した』

 吹き付ける風の中、歩き出す。

 勝手な人ばかりだ。頼んでもいないのに。

 勝手に男子二輪部が後に引けないくらい有利な条件を引き出して、勝負のお膳立てをした榊先輩。

 勝手に手芸部をスポンサーにつけ、ライディングスーツを調達してくれた秋田先輩。

 勝手に創意工夫を凝らし、ジャンクパーツをかき集めて前代未聞のスーパーサイレンサーを仕上げてくれた山形先輩。

 勝手にフェアプレー精神をたぎらせ、へぼ男子二輪相手に手抜きもせず、全力で練習を積み重ね、正々堂々と真剣勝負に臨んでくれた漆原。

『お前には失望した』

 誰もかれも、後に引けないようなシチュエーションを完璧に整えてくれる。

 なぜだ。

『お前には失望した』

 なぜだ。

『お前には、』なぜだ、谷崎先輩。『失望した』

 ――なぜ、あんたが泣くんだ。

 谷崎がうつむいて、きびすを返す瞬間、陣場は見てしまった。白い頬にひと筋、しずくが伝うのを。

(……期待していたから?)

 めまいを感じ、陣場はコンクリの地面にひざをついて、うずくまった。

 口ではどういっていても、程度の差こそあれ、皆、陣場に期待していた。この男、何かやってくれるかもしれない、と。

 だから、陣場のわがままに根気よく付き合ってくれたのだ。

『新たな部室を確保してきた。明日から部活動は再開できるから、安心せよ』

 勝負に負けたのに、秋田は怒るどころか、新しい部室を用意して、活動の再開を約束してくれた。

『けどCBRは無傷で残った。さあ、どうする?』

 勝負に一度負けても、まだ終わりじゃない。それに気付かせてくれようとした榊。

『本当に大丈夫? バイクに乗るの、嫌になったりしてない?』

 勝負は、始まりの一歩に過ぎない。漆原は当然のようにそう思っていた。

『サーキットに来ていたのは、再戦を申し込むためだったのだろう? よかろう、受けて立つ』

 勝負は、陣場があきらめない限り受ける。谷崎は、そのつもりでいたのではないのか。

 負けた。

 陣場は今、この瞬間に本当の敗北を感じた。うずくまったまま、陣場は両手をコンクリの地面にたたきつける。

 男子二輪部のライダーとして、レースにかかわったすべての人々の期待を、裏切ってしまった。ふがいない卑怯者として逃げ出す、敗北を選んだ。悔し涙がにじんだ。

 ――いや、まだだ。まだ自分は、ここにいる。

 逃げ出すわけにはいかない。陣場は立ち上がり、走り出した。

 寮の自室に戻る。投げ捨てるように荷物を床に置くと、クローゼットに駆け寄り、戸を開く。

 数少ない私服の間に、ところどころ破れのある、白と黒のライディングスーツが吊り下げられていた。

 男子二輪部の戦闘服に身を包み、ヘルメットを抱えて、陣場は真夜中のサーキットに姿を現す。

 まぶしい照明に浮かび上がるコース。コントロールラインには、オレンジ色のライディングスーツに身を包んだ少女が待っていた。

「勝ちたいか、少年?」

 にまり、と笑顔を浮かべて平塚が問いかける。

 陣場は力強くうなずいた。

「よろしくお願いします、先輩」

「その言葉を待ってたよ。……じゃ、特訓といこうかな」


「じゃあ、まずは普通に走ってもらおうかな。わたしは、後ろで見てるから」

 そう言って、陣場が騎乗したCBRのリアカウルに、平塚は飛び乗った。実体がない存在なので、揺れも衝撃もない。

「幽霊はこういうとき便利だね。じゃあ出発」

 二人乗り、タンデムでの走行は初めてだったが、重さもないしけがもしない幽霊が相方で、良かったような悪かったような複雑な心境。陣場はマシンを発進させた。山形が気を利かせてくれていたようで、部室から運び出したマシンには《消音ちゃんツヴァイ》が、すでに装着されていた。

 マフラーの影響で、高回転まで吹け上がらないエンジンになってしまっている。五速の中回転域でストレートを駆け、第一コーナーに進入。できるだけ減速しつつ、フロントブレーキを引きずりながら、いつものリーンアウトの姿勢で曲がろうとする。

「あー。まずその、リーンアウトは今後やめよう」

 早速、平塚からの注意が飛ぶ。

「えっどうすればいいんですか」

 うろたえる陣場。もうコーナーだ。

「着座位置そのまま。上体をこころもちイン側へ。フロントブレーキ解除。ハンドルを持つ手、腕、肩から力抜く。ぜんぶ抜くー」

 平塚の指示に従って、言われたとおりに。

 コーナーのイン側に傾いた重心がマシンを傾斜させ、ひとりでにハンドルが切れ始める。

「……曲がった」

「そういうこと。前にも言ったけど、バイクに乗るのに筋肉は要らない。体重移動で車体の傾斜をコントロールしてやって、ハンドルはマシンが自然に切るのに任せる。速度が上がれば上がるほど、ハンドルは力じゃ切れないよ」

「なるほど。リーンアウトがダメな理由は?」

「ジョニーたちの練習見てて気が付いてるんじゃない? そんな曲がり方をしている子、誰もいないでしょ。……マシンよりも外側にライダーの身体があって、重心が外側寄りなリーンアウトでは、高速コーナーでは強く働く遠心力に負けて、ライダーもマシンも外に飛ばされちゃうってこと」

「そうかー」

 第二コーナーのS字を、着座位置そのままのリーンウィズで通過。肩や腕から力が抜けたおかげで、マシンの傾斜に合わせてハンドルがひとりでに切れ、面白いように曲がっていく。

「リーンアウトにも利点はあるよ。低速コーナーで小回りしたいとき。鋭くUターンするには必須の技術だね。あとは、サーキットではまずないけど、先の見通せないブラインドコーナーで、できるだけコーナーの向こう側のようすを確認したいとき」

 マシンの中心軸上にライダーがいるリーンウィズや、コーナーに対してイン側にライダーが入るリーンインに比べて、リーンアウトはライダーの視点が外側に来るため、イン側の障害物の向こう側が見やすくなるということだ。

 以前に比べて楽にコーナーを通過できるようになって、陣場は平塚への質問を加える。

「フロントブレーキを解除する理由は? 万一の場合に備えて、すぐ停止できるようにブレーキを引きずっていったほうが安全だと思うんですけど」

「いい心がけだけど、コーナリング中はやめたほうがいいね。試しに、次のコーナーでブレーキしてみ」

 車体がバンクして旋回する最中に、フロントブレーキを強くかけてみる。

「ウボァアッ!?」

 バンクしていたマシンが、勢いよく起き上がった。陣場は驚いてブレーキをリリースしてしまったので、マシンは止まらずに、そのままコーナーのアウト側に向かって突進する。

「と、いうことで」落ち着き払った声の平塚。「旋回中に、遠心力と傾斜した車重とでバランスしていたバイクは、フロントブレーキを使うと起き上がる。なので、どうしてもスピードを落としたいときはなるべくリアブレーキを使おう。強くフロントブレーキを使うと命取りになるから、気をつけようね」

「先にそれを教えてくださいっ」

 コースアウトして、地面の凹凸で跳ねる車体をコントロールしようとあがく陣場が悲鳴を上げる。陣場の両肩に手を乗せて、浮遊しながら付いていく平塚は、けぱけぱと笑っている。

「でも、このコーナリング中のフロントブレーキは、応用が利くんだよ。多角コーナリングとかね。これは後で説明するから、まずは基本的な走り方を、一通り覚えてしまおう」

 もへえーと、気の抜けた低音を響かせながら、陣場と平塚を乗せたCBRは、次なるコーナーに向かって走っていく。

「コース上のどこをマシンに走らせるか、目算を立てることをライン取りっていうけど」陣場の背中に張り付く平塚が、ヘルメットを寄せて話しかける。音が耳に入ってくるというよりは、平塚の意思がそのまま心に入って伝わるような、奇妙な感覚。「コーナリングの基本はアウト‐イン‐アウトのライン取りだよ。分かる?」

「分かりません」

 素直に答える陣場。

「じゃあ次の右コーナー。なるべくコース左側から入って、一番曲がったところでコースの右端に付けて、そのままコーナー出口ではコース左端に付くような感じで走ってみてちょん」

 言われた通りに走ってみようとするが、ややコースの左寄りの方から進入し、何となく右端に張り付き、そのままイン側にべったり張り付いたライン取りで脱出してしまう。

「……」

 うまくいっていないのは分かっているのだが、どうすればいいのか、何が原因なのかがよく分からない。陣場は気まずく黙り込む。

「うん。スピードが遅い。だから、何となくなライン取りでも曲がれてしまっている」

 何気ない平塚の指摘に、ちょっと傷付く陣場。

「何となくなライン取りじゃ、曲がれなくなったりするんですか」

「つうか、曲がれる限界までスピードを上げてるってことだよ。女二のレーサーはみんな、ね。試しにやってみる? 身体、借りるけど」

 身体を借りる? 何をするつもりなんだ。陣場は戸惑ったが、速く走れるようになりたいという願いが、ためらいに勝った。「……お願いします」

「じゃ、おじゃましまーす」

 背中に触れていた平塚の感触が消失する。ついで、背筋にぞくりとした寒気。すぐに身体の内側から、少しだけ違和感を覚える温もり。

 右手がひとりでに動き、スロットルをあおる。ブレーキレバーの感触を確かめる。クラッチレバーをわずかに引き、左つま先がシフトペダルを蹴り下げる。

 にやり、と陣場の口元がゆがむ。何が起きたんですか、と言おうとした口は、まったく思いもよらない言葉をつむぐ。

「陣場独歩選手に代わりまして、平塚一羽、いっきまーす!」

 あごを引く。スロットルをぐいと開ける。沈み込んだ視野の下側で、タコメーターの針が跳ね上がるのが見えた。

 加速。

 コース周囲の景色が左右後方へ吹き飛ぶ。スピードメーターの針がすごい勢いで上昇する。

 《消音ちゃん》を装着しているせいで、いまひとつ迫力に欠けるが、まともに爆音を聞いていたら、陣場の心臓は縮み上がっていたかもしれない。

 あっという間にコーナーに向かって突進。ブレーキレバーを絞り込むように握って急減速しながら、スロットルを器用に操り、シフトダウン。エンジンの回転域は、中回転付近に保ったまま。

 急減速と同時に、陣場の着座位置は車体左側へ大きく身構える。車体はまだ直立のまま。左コーナー進入開始時点、マシンはコース右に寄っている。

 ブレーキリリース。同時に、身体はマシン左側面へ沈む。スロットルオープン。

 サーキットが、視界の中で大きく傾斜した。マシンに騎乗していながら、陣場は遠いところで悲鳴を上げる。

「だいじょーぶ。じゅうぶん曲がれる」

 平塚が陣場の口を借りて、つぶやく。

 燃料を吸い込んだエンジンが、烈しく暴れる。駆動するリアタイヤが路面を蹴り、力強くマシンを推進させるのが体感できた。

 白刃と化したマシンが大地を切り裂くような、鋭いコーナリング。

 ハンドルにかけた右手だけがスロットルを開け、そのほかの余分な力はまったく入っていない。車体左側に、ぶら下がるようにコーナーのイン側に体重を預ける陣場の右ひざ、右のくるぶしが、しっかりとマシンをホールドしている。マシンと一体になるというのは、こういうのを言うのだろうか。

 深いバンク角に倒れこみながら、高速で動く車体は、遠心力と車重の間で、しっかりと安定している。このバンク角、このライン取り以外では、遠心力か車重か、どちらかにバランスが崩れて走りが破綻してしまう。それが体感できた。

「視線はもっと先。アウト側なんか見たら死んじゃうよ?」静かな平塚の言葉。「車体の行く先じゃない。自分が行きたい方向を見るんだ」

 速度を増しながら、コーナーの出口に近付くにつれて身体を引き起こし、マシンがそれに付いてくる。

 コーナーを脱出。シフトアップ。レッドゾーンに接近していたタコメーターの針は、中回転域に戻り、加速が再び力強さを取り戻す。

「吹けないエンジンだなあ。いや、マフラーのせいか。夜中だからしょうがないとはいえ……」

 平塚が陣場の口から愚痴る。全力で走れないのが不満らしい。

 そのまま、いくつかのコーナーと直線を鋭く駆け抜ける。陣場の走りとは、速さも切れ味も格段に違った。こんなふうに走れるようになるだろうか、と陣場は動揺した。

「じゃ、今の要領を意識しながら、走ってみて。ゆっくりでいいよ」

 平塚が陣場の身体から抜け出す。急に五感がはっきりと戻ってきて、なんだか陣場は今まで夢でも見ていたような気分になる。

 その先は、陣場の後ろから平塚が細かいアドバイスを授けた。

「おーい陣ちゃん。コーナリングのときは、もっとリアタイヤに体重を預けるように」

「ねえ陣ちゃん。スロットルを開けないと、バイクは曲がらないよ」

「あ、そうだ陣ちゃん。パワーバンドって知ってる? こないだのレース、最初の直線で漆原ちゃんに負けたのは、陣ちゃんがパワーバンドを超えて一速で引っ張りすぎたから。彼女はもう二速から三速へ入れるところだったね」

 などなど。初歩的なことが多かったが、それだけ陣場が何も知らずに走っていたということだった。

「……エンジンの回転数を上げれば上げただけ、パワーが出るものだと思ってました」

 谷崎から見れば、ぶざまを通り越して、対戦相手である女子二輪部をおちょくっているような負け方だったことだろう。よく再戦を受ける気になったものだと、陣場は自分の無知が恥ずかしくなった。

「さて、《消音ちゃん》は活躍してくれたけど、もう子どもは帰って寝る時間だ」

 サーキット場の時計は、午後十一時が近いことを示していた。吹き寄せる風が冷たいことも手伝って、確かに帰ったほうがいいだろうと陣場は判断した。

 サーキットの片付けをして、マシンを物置小屋に戻し、寮に戻る。

「って、付いてくるんですか?」

「ええっ!」平塚は陣場の疑問に、憤りを込めて驚愕した。「まさか大切な先輩を外に寝かせようていうの?」

「だって、神様でしょう。今まではどうしてたんですか」

「神様である以前に君の先輩・平塚だって突き止めたのは、陣ちゃんだろー。プライバシー保護のため、これまでの生活についてはお答えできませぬ」

 結局、住居侵入や未成年者略取など、もろもろの罪に問われない幽霊の特権を利用して、平塚は強引に陣場の部屋にやってきた。

「お風呂借りるよー」

 言うが早いか、平塚はバスルームに姿を消す。

「えッちょっといきなり男子寮の風呂を使うなんて着替えはどうするんですかわふー!」

 じゃわーと湯を使う音が聞こえてくる。うああどれを着てもらえばとか叫びながら陣場はクローゼットやタンスをひっくり返す。恐慌寸前。

「借りたよー」

 ずばーんとバスルームの扉を豪快に開けて、平塚が出てくる。ああっそういやバスタオル用意してなかったぞひいィ、と悲鳴を上げて陣場は両手で顔を覆う。指の隙間がちょっと空いているのは仕様だった。

 そこにはすっぽんぽんの平塚が、などということはなく、変幻自在な特殊能力を使って、すでにパジャマ姿に変わっている。長めだった髪は小さくまとめられ、湯上りでほんのり紅い頬が色っぽい。

「……」

「ねえねえ。今、がっかりしたでしょ?」

「そんなこと、ありませんよ」

 無表情で、図星だったけど陣場はそう答えた。

「えー、そうなの? ま、じゃあ陣ちゃんもお風呂に入っておいで☆」

「はい、じゃあ、お言葉に甘えて」

 着替えを持って、そそくさと風呂へ。っていうか、ここおれの部屋だよな、とシャワーを浴びながら陣場の脳裏に当然の疑問が横切る。

 しかしこの風呂場を、先輩で幽霊とはいえ、つい今しがたまで同年代の女子が使っていたなんて。妄想すると鼻血を噴出して失血死しそうな兆候が感じられたので、陣場はひたすら三・一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六と円周率の暗誦を始めて気を鎮めたもののπという単語に思い至り、すべては水泡に帰してしまい落涙する。

 誰か、認めたくない若さゆえの過ちを、一度だけ許してくれる法律を作ってください。

「ねーねー陣ちゃん。この部屋、どこにもお酒がないよー?」

 風呂から戻ると、平塚が家捜しを始めており、冷蔵庫や戸棚などが荒らされていた。

「うわー勝手に荒らさないでくださいっ」

「なんでだよー酒盛りしようぜ。シュチニクリンしようぜ。陣ちゃん肉の役ね。わたし食べる役」

「やめてくださいっつうか飲ませないでくださいっつうか先輩も未成年なんですから飲まないでくださいッ」

 ついでに酒池肉林は演劇じゃないです。

「いーじゃん。いっぺん急性アル中で搬送されるの体験してみたかったんだよ~胃洗浄とかどうなんだろうねー気持ちいいのかなあ? 今なら死なないし」

「どうせなら、もっと有意義なことに青春使いましょうよ」

「もう、わたしの青春は終わったんだよ」

 ぎくり、と陣場は身体を強張らせる。平塚は顔を背けて、うつむいた。

 昨年、高校二年生のときにレース中の事故で、青春に終止符を打たれた平塚。やりたかったこと、やり残したこと、果たすことのできなかった志、とても語りつくすことはできないだろう。少女の無念を思うと、胸が痛んだ。

「すいません、先輩……あの、お酒はちょっと無理ですけど。おれにできることは、なんでも」

 部屋にあるもの食べていいことぐらいですけど、と続けて言おうとしたとき、両目と口を三日月形に細めた平塚のにまり顔が眼前にあった。

「なんでもしてくれるの~? 陣ちゃん、やさしいなあ」

「えっ」

「じゃあ、えっちな本見よう。一度見てみたかったんだ~どこにあるのかなー」

「そ、ソンナモノハ、アリマセン」

「ベッドの下かなぁ?」

「そ――こ――は――ダ――ァ――ア――メ――ェ――え――ェ――ッ!!」

 思わず絶叫してしまう。自分で場所をばらしてしまった、と気付いたときにはもう遅かった。

「いいじゃん。見せなよ、減るもんじゃなし」

 平塚がベッドに向かって素早く近寄ろうとする。

「だ、ダメですっ。絶対ダメっ」

 赤面しながらディフェンスする陣場。ここでゴールを奪われると、自己のアイデンティティを喪失しかねない。平塚の動きにあわせ、右、左、右右左と、女子二輪部の元エースを相手に、素晴らしい反応速度で守る。

「やるな陣ちゃん。これでどおだ。はあっ」

 平塚は床に向かって左腕を突っ込んだ。何のまねだ、と陣場が警戒したとき、真後ろの壁から現れた平塚の左腕がにゃるるるると伸びて、陣場のえり首を引っつかんだ。

「ぎゃふ?」

 そのまま背後の壁に引っ張られ、陣場は動きを封じられてしまう。

「えへえへえへ。さあて、陣ちゃんはどんな女の子が好きなのかなあ~?」

 いやらしい笑みを満面に浮かべて、左腕を床にめり込ませたまま、平塚がベッドの下をまさぐる。

 戻した平塚の手に、一冊の本が握られている。

「こっ……これは!」

 抵抗をあきらめた陣場が、顔を覆う。平塚が腕を戻し、驚愕の眼差しを向けながら両手で本のページをめくる。

「きゃあっ。す、すごいっ」

「ああっ、見ないで……!」

「なんて過激なっ。一糸まとわぬ豊満な裸体っっ。しかも修正一切なしッッッ」

「(嗚咽)」

「気高く、そして美しい。恥じらいを超越し、開かれた肉体っ……女のわたしでも、つい見入っちゃう」

 本の背表紙には『世界美術名鑑シリーズ七 印象派の画家たちが描いた裸婦画』とあった。

「つうか、何なのよコレ。格調高すぎるでしょ」

「だって……えっちな本は恥ずかしくて買えないんですもの」

 泣く陣場。

「つまんないにょろー」

 後輩男子のプライバシーをズタズタに引き裂くだけ引き裂いて、あっけなく飽きてしまい部屋を物色する平塚。

「えっちなDVDはないの?」

「カンベンシテクダサイ」

 青春真っただなかのふたりの夜は、無駄に更けていった。


「サイセンって、神社にある箱のこと?」

 真顔で問い返した榊を、陣場は恨めしそうに見上げた。身長一七五センチに達する彼女は、女子二輪部では一番背が高い。

「そうじゃなくて、再戦です。また勝負してください」

 高校の中庭。

 サーキットに足を向けて、谷崎に見つかるのは少し怖かったので、同学年の漆原に榊部長を呼び出してもらったのだ。

「うん。分かった」あっけなく、笑顔で榊はうなずいた。「一応、谷ちゃんにも聞いておくけど、まあ、うまくまとめておくよ」

 頑張りなよ、と肩を叩いて、榊は悠々と立ち去っていった。

 大丈夫だろうか。陣場は、なんとなく胃の辺りが重くなったような錯覚に陥る。

 一応、女二に再戦を申し込むにあたり、秋田と山形には事前に話を通した。

「サイセンだと? 神社にある箱のことか?」

 部長というのは、どこの部に所属していても発想は同レベルらしい。山形と碁盤をはさんで向き合う秋田は、目を丸くして陣場を見た。

「もう一度、女子二輪部と勝負したいと思います。……やっぱ、ダメ、ですか」

 当然のごとく、猛反対されると思っていた。だが。

「分かった。やれ。そして勝ってこい。奪われた部室を取り戻すのが、お前の責務だ」

「幸い、マシンも壊れてないし、部室を移るときに運びきれなかった備品を売り払ったから、少しはパーツに予算が回せるんだぜ」

 うなずいて、山形が不敵な笑顔を見せた。陣場は少し目頭が熱くなったのを感じて、頭を下げた。

「ありがとうございますっ!」

「今度、負けてこの場所を没収されたら、次の部室はお前の部屋な。これは部長権限による決定事項だ」

「あ、それいい! 負けてもらったほうが居住性も利便性も向上するぜ」

 陣場には、谷崎が秋田や山形のことを殺すとか口走る理由が、少し分かった気がした。

 ともかく、こうして陣場からの再戦の意志は、女子二輪部に伝えられた。

「なに、再戦だと?」

 マシンを降りて、ピットに戻ってきた谷崎は、声を荒げた。

「そうか、やはり来たか!」

「お。うれしそうだね?」

「ばっ、ばかを言わないでくれ。いまいましい」顔を寄せてきた榊に、うろたえた谷崎はあわてて顔を背ける。「懲りないやつらめ。あれほど実力の差を思い知らせてやったのに、肉体的に再起不能にしてやらないと気が済まないようだな。やむをえん」

「谷ちゃん。それ、犯罪だから」

 榊の苦笑交じりの突っ込みも、怒れる女子二輪エースの耳には届かない。

「よし、次の勝負では、連中の最後の根城・物置小屋のスペースを賭けに出させよう。負ければ没収だが、やつらが勝ったら、男子二輪の部室を返してやる。レーサーは漆原だ。勝負は再来週だ」

「ほいほい。男二に伝えておくね」

 このようにして、男子二輪部、とくに陣場は、背水の陣で再戦に臨むこととなった。

「本当に、勝てるんだろうか」

 夜中のサーキットを走りながら、陣場はつぶやく。幽霊の平塚がそれを聞き漏らすことはなかった。

「んん? わたしのこと信用してない? 悲しくなっちゃうなー。憑依して、全開加速でフェンスに突っ込んでやろうかしら」

「失言でした。だから殺さないでください」

 だがすでに遅く、平塚は陣場の身体を操って、ストレートをウィリーで駆け抜け、コーナー直前でハードブレーキングをかけてジャックナイフを決め、前輪だけで十秒間近く直立してみせた。内臓を押しつぶすような加速・減速の洗礼を受け、陣場の身体が悲鳴を上げる。

 サーキットでの夜中の練習は、最初からずっと《消音ちゃんツヴァイ》をマシンに装着している。鈍重な印象を受ける低音を響かせてコースを走っているのだが、おかげで夜中のサーキットから牛の鳴き声が聞こえるといううわさが立っているらしい。

「なに。それとも三回転マックスターンの途中で、交代しよっか?」

「おれが吹き飛ばされるのがオチなのと、タイヤがダメになって山形先輩に怒られるのでやめてください」

 冗談みたいな会話を交わしながら、いいペースでコースを走り抜けていく。平塚の特訓が始まる前に比べたら、飛躍的な進歩を遂げている。

 が、それでも女子二輪部のレーサーたちに太刀打ちできるかどうか、疑わしかった。しかも、対戦相手は新人の中から選りすぐられたレーサー、漆原このはだ。彼女はきっと、女二のプライドにかけて必勝を期する谷崎の厳しい指導のもと、懸命に練習をこなしているに違いない。

 夜中に、ほんの二時間程度しか走れない陣場と比べれば、どちらが有利かは自明だった。

 だが、それでも。平塚はあきらめろとは言わない。

「さあ、今夜も張り切っていってみよおか?」

 市販車であればリアシートがあるはずの部分、シングルシートカウルに横座りして、平塚が陣場をけしかける。

 周回を終えたマシンが、ホームストレートのしじまを蹴散らしながら加速する。

 陣場の目が大きく開かれる。日常で使う感覚では対応できない、対応する必要もない非常識な高速度域。動体視力で認識できる限界に達し、焦点を中心に、視野は急速に狭まる。まして、薄暗い夜間ではなおさらだった。

 胸の鼓動が早まる。ヘルメットの中にこもる自分の呼吸が、陣場にはずいぶん大きく聞こえる。

 フルブレーキングから、車体右へせり出した身体に合わせて車体をバンク。コーナリング。

「……」

「うーん」

 すぐに到達する第二コーナーをやり過ごしてから、平塚がうなる。陣場は小さく息を吐き出す。分かってはいるのだ。

「もっと速く曲がれるね」

 思った通りの指摘を、平塚はした。

「フルブレーキング開始の場所を、もう十メートル遅らせても間に合う。コーナリング開始までの速度も落とし過ぎてるし、もっと車体をバンクさせても大丈夫」

「はい」

 アドバイスを聞きながら、連続コーナーをクリアする。

「怖いのは臆病だからじゃなくて、防衛本能が働いているっていう証拠。それで正常なんだよ。危険から身を守ることを考えないライダーは、腕を上げる前に命を落とすことだってある」

 急に、平塚が真面目な口調で話し始める。『恐怖は訓練で克服できる』と話していた谷崎の言葉を思い出す陣場。

「だから、少しずつ自信を付けていくしかないね。陣ちゃんが特別に、ってわけじゃなく、誰でも突き当たる壁だし、だいたいの子は乗り越えられるから」

 サーキットの神様を自称する平塚の言葉には、なにやら妙な説得力があった。

「でさ、どういうとこが怖いわけ?」

「スピードもそうなんですが、何かこう、車体をバンクさせたら、そのまま急に滑って転びそうな気が」

「こぼれたオイルのうえだとか、ぬれたマンホールの上でも走らない限りは、意外にいきなり転倒っていうのはないと思うけど。サスのセッティングを見てみようか」

 コースを周回して、コースのそばに設置された一階建てのピットへマシンを運び込む。男子二輪部のスペースはないので、女子二輪の場所を使うことになる。

「勝手に使ったら、まずいんじゃないでしょうか」

「あのねえ、わたしを誰だと思ってる? 女二の元エースだぜ? 死んでるけどさ」

 死んでちゃだめだろう。と陣場がツッコもうと思っている間に、平塚はピットのシャッターをすり抜けて消えてしまった。

 がたがたとシャッターが揺れ、内側でがちゃりという音。すぐにシャッターが押し上げられた。

「お待たせ。ようこそ、女子の秘密の花園へ。入場料ごまんえん」

「どこのぼったくりバーですか。じゃあ外で待ってます。工具だけ貸してください」

「冗談だにょろー。はやく入っておいで。さみしいよう」

 壁をすり抜けられる幽霊のくせに、平塚は器用に陣場の腕をつかんで、ピットの中に引き入れた。CBRを押して中に入る陣場。

 平塚は室内の照明を点けて、シャッターを閉めた。

「うふうふうふ。ふたりっきりだねえ」

「な、何言ってるんですか。おれの部屋に住み着いてて、いっつもふたりきりじゃないですか」

「……つまんないなあ、陣ちゃんは」むにゅう、と平塚はくちびるを突き出す。「さて、サスのセッティングは、と。ふふん、思ったとおり最強になってるね。レース仕様だ」

 平塚が、CBRフロントとリアのサスペンションをのぞき込む。カスタムパーツに換装されており、ダイヤル式とダブルナット式の調整機構を確かめる。

「全部、最弱にしちゃおう。タイヤのグリップ感を分かりやすくして、マシンに対する信頼感を得てもらうためだよ」

「どういうことですか?」

 基本的に、バイクのパーツに関する知識はあまりない陣場が尋ねる。

「今のCBRに付いてるサスのセッティングは、急加速、急減速、急旋回といった、急激な運動で生じる高い負荷に耐えられる状態になってるの。ひとことで言うと、硬いサスってイメージかな。この状態だと、高速走行でふらついたり、落ち着かずに揺れたりするようなことはないんだけど、反面、タイヤのグリップ感だとか、マシンのわずかな挙動だとか、そういった細かい感覚がライダーに伝わりにくくなってしまう」

「その、マシンの状態が伝わりにくい状態が、ライダーの不安を大きくする、ということですか」

「そゆこと。とくに初心者のね」

 平塚は、備え付けの工具セットの中からマイナスドライバーを取り出すと、セッティングの変更を始めた。さらに専用工具も持ち出してきて、スプリングのプリロードの設定も変更。

「すごいなあ。平塚先輩って、メカにも詳しいんですね」

「……こんなのメカのうちに入らないからね? 基本だぜ陣ちゃん?」

 陣場はうそだと言って欲しかったが、本当らしかった。バイクにまたがって、ただ速く走れば良いというものでもなさそうだ。

「さて、サスのセッティングはこれでよし。何かほかにいぢるところは、と。お、さすがわれらが女二は備品が充実してるね。CBR用は……ブレーキパッドもエンジンプラグも、高級品が置いてあるぞ。むっ、鋳鉄ブレーキディスクの予備まである。入れちゃおうか?」

「窃盗じゃないですか!」

「公平なレースのためだよ。ただでさえ練習時間と予算で差がついてるんだし。私が許す。やっちゃえ」

「でも、無断で使うのは良くないですよ。ひきょうです」

「……?」

 今、どこかで坊さんがボンゴを叩きながらお経を詠む声が聞こえた? とでもいうような呆けた表情で、平塚は陣場を見詰めた。やがて、にまりにまりと顔をゆるめて、身体がくっつくくらいの距離にまで近寄ってくる。

「ふうん。今どき、ヒキョウなんていう言葉を使う子が、ほかにもいるなんてね……。分かったよ陣ちゃん。君が思うフェアな条件で、存分に戦ってくれ。協力は惜しまないよん」

 ぽんぽんと肩を叩かれる。陣場はなんだかからかわれているような気がした。

「じゃあ、工具は元の場所に返して、練習の続きをしましょう」

「あいよ」どすんと、わざと陣場に肩をぶつけて平塚は白い歯を見せた。「がんばろうな、少年」

 セッティングを変更したマシンは、陣場にとっては意外なほど乗りやすくなった。平塚の言うとおり、マシンが路面に対してどのような状況にあるのか、前後のサスが柔らかくなったおかげで体感しやすくなった。

 極端な言い方をすれば、レース用の溝がないタイヤではなく、練習用に一般道走行向きのタイヤを装着していたのだが、その溝ひとつひとつが路面を噛む感触まで感じられる気がするくらいだ。

 高速コーナーで車体をバンクさせたために、急に滑って転倒するのではないか、という陣場の恐怖は、すぐに消えた。陣場ができる限り速いスピードでコーナーリングしても、リアタイヤはしっかりと路面に対してグリップしていて、滑り出す気配がほとんどないのが分かったのだ。

「どおよ。まだまだいけそうでしょ。ペースが上がってきたら、またサスのセッティングは強いほうに戻していくからね」

 真夜中のサーキットを全速力のつもりで走行する陣場の後ろから、リアカウルのうえに横座りした平塚が、声をかけてくる。居間でテレビでも見ているかのように、のんきな声。

「はいっ」

 力強く答えて、陣場はスロットルを開ける。燃料を注ぎ込まれた鋼の心臓がメインフレームの中で躍動し、マシンを加速させる。

 低く、くぐもった排気音が、のどかな牧場で草をはむ子牛の声のように、サーキットの中を流れていった。


 三週間後。

 男子二輪部、というよりは陣場自身が、背水の陣で臨む決戦の日。梅雨入り前の空は初夏のように晴れ渡った。

 練習を休む日を持たない女子二輪部は、朝からサーキットのコース上でマシンを操り、疾風のように駆け巡っている。甲高い排気音が幾重にもこだまし、旋回から立ち上がり加速する機体が、風を鋭く切り裂いていく。

 超高速でストレートを駆け抜けていく女二の機体に、日差しを受けて鋭いハイライトが輝く。爆音を残して飛び去るマシンたちを見送って、陣場はかたずをのんだ。緊張にとらわれて、そわそわと身じろぎしている。

「落ち着け。今日までしっかり練習してきたじゃないか。いつも通りに走って、実力を出し切ればそれでいいのだ」

「そうそう。実力以上の速さを出そうとするな。いつも通りに、ミスしないように走れば勝機はあるってものだぜ」

 秋田と山形が、陣場の両となりで腕を組み、コースを眺めながら言う。

「まるで練習を見てたみたいに……、まあ、いいです」

 陣場は、ライディングスーツに包まれた肩をすくめる。秋田と山形は、結局、夜中のサーキットでの練習には顔を見せなかった。例の、幽霊騒ぎの一件以来、夜中にコンビニに行くのさえ渋るようになったらしい。

 それでも、部活動に何の貢献もしなかったわけではない。秋田はまた手芸部に掛け合い、ライディングスーツを修繕しただけでなく、肩やひじに補強を入れ、膝にはニースライダーまで装着してくれた。これでコーナリング中に路面に膝を擦っても、スーツが破けてけがをする危険性はない。むしろ、今までなかったのが不思議なくらいではあるのだけれど。見た目がアイスホッケーのパックを加工した手作り品っぽいところは、気にしないことにする。ついでに、スーツ上、手芸部の広告スペースが倍に増えた。『夜露死苦』も倍だ。くどすぎる。『神風惨状』、『市電一閃』とか、余計なフレーズまで増えている。絶対、わざと間違っていると陣場は思う。

 山形は、カブトガニや三葉虫ではない、正真正銘の脊椎パッドを手に入れてきた。これはリサイクルショップで入手したらしく、前回のレース後に、事情を知った榊が「プロテクターぐらい、ちゃんとしたのを買ってあげなよ」と、手を回して買わせたらしい。代わりに男二の備品のいくつかが、ネットオークションで引き取られていった。

 ホームストレートの傍らで、チェッカーフラッグが振られる。練習走行が終了する合図だ。黒の機体を先頭に、次々と二、三年生のレーサーたちがコースから離脱していく。

 間もなく、勝負のレース。

 いつの間にか観客席には、まばらではあるものの、五〇人くらいの生徒たち。懲りずに手芸部の女子たちも来ているようだ。前回のレースのことを思い出して恥ずかしくなり、陣場はうつむく。たぶん、陣場ではなく自分たちの作品であるライディングスーツが走っているさまが見たいのだろうとは思うけれど。

 秋田と山形に守られるようにして、陣場はCBRとともにスタートラインに向かって進み出る。

「……完走目指して、頑張って」

 握手を求めてきた漆原にまで、心配される始末。磨き込まれて輝くマシンにまたがって、レースの開始を待っている。

「では陣場、新しい部室で会おう」

「バイク壊すなよ」

 勝手なことを言って、秋田と山形は離れていった。

 場内アナウンスが響く。

「これより、女子二輪部と男子二輪部の交流戦を行います。クラスは二五〇、レギュレーションは高校選手権大会のルールに準じます」

 次いで選手の紹介。漆原のときは女二サイドから大きな声援が起き、陣場の番では男二人の野太い喚声と、手芸部部員たちの拍手とが響く。

 コースを三周。先にゴールしたほうが勝ち。汗ばみそうなグローブの手を、握り直す。数メートルの距離を隔てて身構える漆原のマシンが、自らを鼓舞するようにスロットルを小さくあおった。

 スタート準備。……シグナルが明滅する。

 発進。

 爆音が、周囲の喚声を押しのけた。

 二機のCBRは一斉に路面を蹴って、猛烈にダッシュ。レッドゾーンめがけて、タコメータの針が駆け上がっていく。軽量化された車体に、公道走行の規制を受けないパワーユニットの組み合わせが、強烈な加速を生み出す。放たれた矢のような勢いで、ストレートを切り裂いていく。

 一速のパワーバンドを使い切る直前に、二機がほとんど同時にシフトアップ。

 二速で加速。シフトアップ。

 技量は伯仲していた。陣場と漆原の直線勝負では、わずかに漆原が前へ出たが、ほとんど差はない。漆原を追う形で、陣場は第一コーナーに突入に備える。

 さすがに速い、と陣場は漆原の直後を追いながら思う。二度目の対戦だが、手ごわいという印象は変わらない。

 だが一方で陣場は、自分が乗るマシンの変貌ぶりに小さな驚きを感じていた。夜間走行用のマフラーを競技用のものに変更するだけで、排気音ももちろんそうだが、エンジン特性もだいぶ変わり、力強く吹け上がるようになった。期待以上に、CBRは走ってくれそうだ。

 コーナー突入。フルブレーキングからブレーキリリース。倒れこむように車体をバンクさせ、もつれ合うように鋭くコーナに切り込んでいく、二機のCBR。

 漆原のすぐ後ろ、ややアウト側を追いかけながら、陣場は彼女の後ろ姿に、つかの間目を奪われた。

 前回のレースでは余裕がなくて気が付かなかったが、ひどく漆原は小柄だ。身長は一五五センチ程度だったと思うが、ふだんの制服や体操着の姿とは違って、身体のラインが目立つライディングスーツに身を固めていると、小さくて細い体つきが今さらながら意識される。小型な車格のCBR250RRが、ずいぶん大きく見えるくらいだ。

 レース用の車両で重要視される要素のひとつが、重量だ。レーサーに限らず、一般ライダーもそうだが、鉄のパーツはアルミに、マグネシウムに、カーボンファイバーにチタニウムにと、ほんの数グラムの軽量化のために、高価な新素材をホイールにエキゾーストパイプにマフラーに、あるいはボルト、ナットに至るまで惜しげもなくつぎ込む。

 とくに、二輪の高校選手権では、規則によりエンジン本体には手を加えられないため、あとは排気管とマフラーの変更や軽量化、足回りの強化に力を注ぐことになる。

 そう考えたときに、女子には圧倒的なアドバンテージがある。ライダーが小柄なため、操縦者を含めたマシンの《装備重量》は、男子に比べて相当に軽量なのだ。陣場も大柄なほうではないが、それでも身長一七〇センチ。漆原と体重を比べたら、十五キロか、二〇キロくらい差があるかもしれない。この余分な重量を積んでバイクを走らせれば、どのような差が出るかは明白だ。

 十数時間、あるいは数日におよぶ耐久レースであれば、体力や持久力のある男子に有利かもしれないが、たった三周で勝敗を決するレースでは、持久力はあまり関係ない。

 つまり、もし技量で互角ならば、陣場は漆原には勝てない、ということだった。女子二輪部の恐ろしさが、今さらながら陣場の心に冷たい風のように忍び込んできた。

 だが、それでも。平塚が毎晩のようにつきっきりで教えてくれたライディングの技術があれば、勝機をつかむことができる。陣場はそう信じたかった。

「もう負けたく……ないんだっ」

 オレンジ色のCBRに食いつくように、白と黒に彩られたCBRが旋回。二機の排気音が甲高く沸きあがり、コーナー立ち上がりの加速を競い合う。

 一分間に一万九〇〇〇回転を突破できるCBR250RRの超高回転エンジンが、陣場の意のままにマシンを駆動させ、先行する漆原を猛追する。

 一方の漆原も、果敢なアクセルワークで鋭く加速する。フロントタイヤが浮き上がるほどの急加速を見せ付けて第二コーナーに突っ込み、急減速から流れるようにフルバンク。ニースライーダー付きの、女子二輪部公式のライディングスーツだが、漆原は上品な女子なのか、膝を開いて路面にこすりつけたりせずに、旋回していく。

 第二コーナーを脱出。サイドミラーのないレース車両では確かめることはできなかったが、漆原はすぐ後ろに陣場のCBRが食い付いていることを感じ取った。さすがに、前回のように第二コーナーでリタイアするような生半可な相手ではなくなったということだ。

 ヘルメットの中で、漆原は微笑する。

(そう、こなくちゃ)

 二匹の鋼の獣が、吠え声を上げながらサーキットを駆け抜ける。


 一周目は、先行した漆原が逃げ切る。陣場は直線でもコーナーでも、漆原を押さえて前へ出る機会をつかめずにいるようだった。

 二周目も、同じ展開。漆原のライン取りのややアウト側をトレースするような、陣場の走り。レッドゾーン近辺を行き来しているだろう二機のCBRのエンジンには、これ以上の余裕はないように見えた。

「ううむ」

「どうかしたかい、部長」

 腕を組んだまま、陣場の走りを見詰めていた秋田がうなり、山形が顔を向けた。

「いや、気のせいかもしれんが。なんだか陣場のやつ、走りに余裕があるように見えるのだが」

「そうか。実は俺もなんだぜ」

 CBRたちがトップスピードを叩き出して、ホームストレートに走る稲妻のように駆け抜けた。

「一周目よりも、二周目のほうがコーナーでアウト寄りに付けているみたいだぜ。なのにしっかり食い付いていけてるということは」

「おおっ」

 秋田が大声を出して、組んでいた腕をほどく。

 ふたりのダニーは、大きく身を乗り出していた。

 三周目の第一コーナーで、陣場が仕掛けた。

 コーナー脱出で、アウト側から鋭く追い込む。烈しさを増したエンジン音と、視界の隅にのぞいた機影とに漆原が気が付いたときには、陣場は真横に並んでいる。

 スロットル急開。回転数を競い合うエンジンの雄叫びが共鳴し、死力を尽くすような加速が第二コーナーへの直線でぶつかり合う。

 わずかの差で、陣場が漆原の前へ。左コーナーのイン側を刺すと、陣場はマシンと路面に挟まれるようにして、鋭角的に旋回していく。

「いけない……」

 漆原が驚きと、絶望の入り混じった声を漏らす。陣場の旋回に追いつくには、漆原の旋回速度では足りなかった。

 コーナーの立ち上がりで、陣場は容赦なく逃げる。漆原が追いすがるが、陣場は漆原が欲しがるライン取りを占領して逃げ続ける。二周する間、陣場は漆原に追従しながら、彼女のライン取りを観察し、その線上に立つことで追撃を阻む作戦に出たのだ。

 観客席の生徒たちが立ち上がる。驚嘆の声が沸き起こる。

 形勢は、逆転した。


 フィニッシュ。

 まだ勝利が信じられないように、ヘルメットのシールド越しに周囲を見回しながら、ホームストレート上にマシンを流す陣場。

 肩を落としたまま、漆原がステアリングから手を離し、上半身を起こす。

 雄叫びを上げながら、秋田と山形が陣場を追いかける。手芸部の女子が歓声を上げる。そのほかの観戦者が騒然としながら、フェンス際に集まってくる。

 一体何が起きたのか。

 発足以来、ほとんど日の目を見なかった弱小男子二輪部が、全日本高校選手権で無敵の強さを誇り、最速の名をほしいままにした女子二輪部を、初めて下した瞬間だった。

 ようやく、その歴史的なレースに立ち会ったことに気が付いた観客たちは、選手の健闘をたたえて拍手を送り始める。

 ライダーは、お互い無名の新人ではあったけれど。

 観客席から送られる賞賛の拍手や、女二部員たちの驚嘆や敵意や好奇の眼差しが、すべて自分に向けられていることを知って、陣場はうろたえる。

 レースを終えたばかりで、火でも噴きそうなくらい熱いマシンを押して、逃げるようにピットへと走る。

「陣場ァっ!」

 どぼっ、と鈍い音を立てて、駆け寄ってきた秋田のラリアットが陣場の首に炸裂した。ちょうどマシンをスタンドで立てかけたところで良かった、とのけぞりながら陣場は思う。

「やったな、ついにやったぜ」

 背後から飛び掛ってきた山形のラリアットが立て続けに決まる。

「なぜにこの仕打ちですか」

 床にぶっ倒れたまま陣場は先輩に問う。

「祝福のダブルラリアットだ。おめでとう」

「マックでも最上級なスペシャルメニューはダブルなんとかと相場が決まっているんだぜ。最近はメガとかギガとかがあるみたいだけど、それは次の戦いにとっておくんだぜ」

 そんなダブルバーガーは金輪際食いたくないと陣場は思う。

「って、次の戦いってなんですか」

「喜べ。もう次のレースがセッティングされているぞ」

 陣場を見下ろしながら、秋田が腕を組む。

「ついさっき、女二から連絡があったんだぜ」

 山形が秋田を見る。

 妙な違和感を陣場は感じる。秋田も山形も、笑っていない。まるで敗北に打ちのめされたよう。

「……次の対戦相手は誰です?」

「うむ。実は……」


「す、すいませんでしたっ」

 谷崎のもとに歩み寄ってきた漆原は、口を開くなり深々と頭を下げた。谷崎の怒りを恐れて、ほかの部員たちが心配そうな表情で遠巻きに見守っている。

「ごくろうだった」レースが終了したサーキットのコースを、鋭い眼差しで眺めていた谷崎はわれに返ったように、目の前の漆原に視線を向けた。「良い走りだった。あとは、私に任せろ」

 目を丸くして顔を上げる漆原。谷崎の背中が遠ざかっていく。

 谷崎の意識の中には、サーキットを駆ける陣場の姿が映っている。思わぬところから現れた伏兵に、烈しい敵愾心が胸を焼くように燃え盛っている。

「……私が、やつを叩き潰してやる」


「た、谷崎先輩ですかッ!」

 陣場はもう一度、床に崩れる。死刑を宣告された罪人を引っ立てる刑務官のように、その両脇をとらえて秋田と山形が引き起こす。

「何を今さら恐れおののいている。最初に女二にケンカを売ったのはお前で、谷崎に挑戦したのも同然なのだぞ?」

「だ、だってあの時は、女二がこんなにレベル高いなんて思わなかったから……」

 それと同時に、バイクを操るというのが思った以上に難しく、そして怖いということをようやく陣場は実感から理解し始めていた。今日のレースでさえ、リードを得た漆原が三周目に油断しなかったら、勝つことができなかったかもしれない。

「もう後戻りは、できないんだぜ」

 低い声で、山形が切なげに言う。

「レースは高校選手権に女二が出場するスケジュールがあるので、三週間後。なんとマシンは女二のスーパー四〇〇、RVFを借りられることになったが、まあ使う使わないはお前の自由だ。ちなみにウチには四〇〇のマシンはないし、CBR250RRじゃ勝ち目はないから、そのつもりでな」

「なおRVFにキズひとつでも付けたら弁償だってさ。立ちゴケ一発で、女二帝国のシベリア収容施設で強制労働だから気をつけろよ」

「なんですかそのすでに罰ゲーム状態。負けてもコケてもコースアウトしても、破滅しかないじゃないですか」

「うむ。コケてコースアウトして負けたら、恐ろしい複合ハイブリッド地獄が待っているということだ。拉致されて働かされて、出席不足で卒業できないかもしれん。死ぬ気で頑張れ」

 死んだほうがマシかもしれない、と思いかけて陣場はかぶりを振る。死んじゃダメだ。

「死んじゃダメだよ、陣ちゃん。悪い先輩の言うことは、真に受けちゃだめだよん」

 いつの間にか榊がピットに姿を現していた。

「なんだ榊か。ウチのエースを篭絡しようたって、そうはいかんぞ。われらは義兄弟の契りを結ぶのだ」

 気色悪いことを言いながら、秋田が陣場をぎゅぎゅうっと抱きしめる。ダブルラリアットをはるかに上回る精神的ダメージが陣場を襲った。

「気持ち悪いなあ。BLはいかんぜよ? 冗談は置いといて、RVFは練習で使う? 陣ちゃん」

 榊が何を言おうとしているのか計りかねて、陣場はしばらく考え込む。榊が申し訳なさそうに口を開く。

「あのねー、実はウチも選手権近いからさー。練習でマシン使いたいんだよね。大会が終わってからでもいい?」

「そういうことなら、女子で使ってください。もともと女二のものなんだし。おれ、CBRで練習しますから」

「ごめんねえ。で、どう? 勝てそう?」

「おいおい、誰に向かって口を聞いてるんだぜ?」山形が胸を張る。「男子二輪部だぜ? 勝てるわけがないんだぜ?」

 なんという鬱発言。

「まあ、良くて引き分けかな」秋田がため息をつく。「いきなり体当たりするとか」

「谷ちゃんなら、敵が上から降ってきても避けれるね。つうかペナルティくらって判定負けだって、そんなの。おまけにマシン二台分弁償だから全員、強制労働だよ?」

 三人の男たちは、首をすくめた。

「ま、大会終わってからRVFが必要になったら、声をかけてね。じゃ、今日のところはおめでとう」


「おめでとう、勝ったじゃない。ごほうびにちゅーしてあげるよ。ほっぺがいい? それとも、もっとステキなところにしてほしい?」

 寮の部屋に戻るなり、平塚が抱きついて祝福した。何の感触もないのだけれど、陣場は大いに赤面する。

「お、おおげさですってば。ちゅーしなくていいです」

「えー?」平塚がくちびるを尖らせる。「いいじゃん、させてよ。ちゅーくらい。減るもんじゃないだろ? ……あ。まさか、したことないとか?」

「………………な、なにをそんな。シタコトクライ、アリマスヨ」

「絶句時間が通常のザクの三倍くらい長いぞ。そうか、初めてかー。うへへへ。どうりでかわいい。あ、よだれ出ちった」

 陣場は部屋の奥に逃げた。レースで汗だくになっていたので、素早く着替えを用意して、風呂場へ立てこもる。

「おーい、開けてよ陣ちゃーん」

 外からドアをがんがん叩いて、平塚が声を上げる。陣場は狼狽する。

「汗かいたから、シャワー浴びさせてくださいっ」

「今日は練習、する?」

「あ、はい。後でお願いします」

 静かになった。陣場は熱い湯を頭から浴びる。漆原に勝つことはできたけれど、次のレース、谷崎との対戦を考えると、勝利の高揚感などはあっという間に雲散霧消してしまった。

 とりあえず、今だけは何も考えたくない。汗と一緒に、不安も洗い流してしまいたかった。

「そうか、すり抜けちゃえばいいんだった」

 間近で平塚の声が聞こえて、飛び上がりそうなほど驚く。思わず振り返った陣場は、十八歳になるまでは見てはいけないものを見てしまう。

「背中流してやんよ。一緒に入ろう」

 タオル一本。だけ。

 鼻からほとばしる熱いパトスが思い出を裏切る。かくなるうえは、神話にでもなんにでもなりますから前を隠す猶予を与えてください神さま。ああもう手遅れ。

「うををっ?」平塚の眼差しが、陣場の下半身に注がれる。「な、なんと立派な伝説巨神!」

 平塚の声を遠くに聞きながら、陣場は意識を失った。

 が、風呂場の壁面に後頭部を強打し、運悪く覚醒してしまう。ホームストレートを全開加速するCBRのような勢いで跳ね起きると、湯も張っていない浴槽に飛び込む。

「み、見ないでください……」

「見ちゃった」

 真面目な顔で、平塚が言う。陣場は恥ずかしくて見返すこともできない。

「なに、それくらい気にするな。男の子なんだから正常だよ」

「……いくらおれが真面目でシャイな男子だからって、限度があります……」

 平塚に背を向けて鼻パトスを大量に流しながら、陣場はわなわなと震えた。

 平塚が部屋に押しかけてきてからというもの、彼女は根は寂しがり屋なのか、いつも陣場と同じベッドで眠っている。実体化しておらず触れることができないため、実力で排除することもできないし、陣場がほかの場所に移動してもいつの間にか付いてくるので、あきらめてベッドで寝るようになった。

 しかし、触れることができないとはいえ、ふと夜中に目を覚ますと、同じ布団の中、目の前に美しい少女の寝顔があったりしたら平然とはしていられない。

 だが、繰り返すが、触れることは一切できないので、どうしようもなかった。生殺しのような責め苦を負いながら、陣場は理性を失わず今日まで生きてきた。

 だが、まさに今、このシチュエーション。

 殺す気ですか。フルチャージのパトス爆発でおれを。

 そっと、平塚の手のひらが陣場の肩に触れた。

 ふ、触れている? 平塚は意図的に身体を実体化させているのか。

「分かってるって。頑張った成果が出て勝てたんだ。よく修行に耐えた。今日はごほうびに、させてあげるよ」

「さ、させ?」

「ちゅーを」

「……ちゅー?」

「うん。だから、ちゅーさせてあげる」

「……」

「な、なに。違うの? いったい何がしたいんだ! おい!」

 平塚の両手が陣場の肩をがくがくと揺さぶる。涙を流しながら、陣場は目を閉じて悲嘆に暮れた。今、振り返ったらひとたまりもなく、理性も伝説巨神もパトス爆発してしまう。それだけはダメだ。人間として。

「陣場ぁあっ! 応答しろー! ちゅーじゃないのかッ?」

 少年は「ドナドナ」を静かに歌い始めた。

 結局、仔牛が十五頭ほど市場に売られていくくらいの時間が過ぎて、陣場の鬱積したパトスは、すべて鼻から流れ出てしまった。

 その晩、変な夢を繰り返し見て、陣場が眠れなかったのは言うまでもない。



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