序 ~ 第一章 サーキットの幽霊◆「Thriller」
■■■序章 ■Ready■ ■■■
――きいぃこ。きいぃこ。
陣場独歩はその音でわれに返る。いつの間にか、見覚えのある公園の中にいた。
夕暮れ時だ。黄金色の日差しが、立ち並ぶ遊具の影を細長く地面に描いている。
音は規則正しく続いている。視線を巡らせると、公園のなかで、ばね式の遊具のひとつが揺れているのが見えた。
そのうえには、小さな女の子。うつむき加減で、ときおり、目を手でこするしぐさを見せる。――泣いているようだった。
女の子が乗っている遊具は、木製の二輪車をかたどっていた。一列に並んでいるばね式の遊具には、ほかに馬や象や犬みたいなもののほか、UFOみたいなものまであった。陣場は、なぜその女の子が二輪車の遊具に乗っているのか、気になった。なぜ気になるのかは分からなかったけれど。
公園には、ほかに子どもも大人の姿も見えない。
泣いている女の子は、ひとりぼっちだった。
もう遅いから、おうちに帰りなよ。そう声をかけてあげようと思い、陣場は足を踏み出そうとするが、身体が動かなかった。
そうか。おれはここにはいないんだった。
矛盾する状況なのに、陣場は妙に納得して、女の子に申し訳なく思う。
ごめんよ、――。
陣場は目を覚ます。
団地の一室、自分の部屋。朝の穏やかな日差しが、カーテンから漏れて差し込んでいる。時計を見ると、目ざましが鳴り出す十分前。
どこかでばねがきしむような音を聞いたように思う。陣場はもう、先ほどまで見ていた夢の内容を、はっきりとは思いだせない。
アラームのスイッチをオフにして、ベッドから降りる。窓の外をのぞくと、青く透き通った春の空が広がっている。
今日から、新しい生活が始まる。
珍しく朝早く目覚めたのが、とてもさいさき良いスタートになりそうな予感がする。陣場は伸びをして、壁にかかった真新しい学ランを見る。
親の転勤で、幼いころ過ごしたこの街に十年ぶりに戻ってきた。
今日は記念すべき、高校生活の初日だ。せめてこの日ぐらいは、母親にたたき起こされないようにしよう。すぐに寮生活が始まるわけでもあるし、親に起こされているようでは先が思いやられるというものだ。
通うことになるのは、鵬工業高校。
自動車、飛行機などを製造する、世界的なメーカーの本社や工場がいくつもあるこの県では、普通科高校よりも人気がある学校だ。
以前、この街にいた幼いころには意識しなかったけれど、大手企業からの寄付などで、高校設備は充実しているらしい。
そんな学校に合格できて、ラッキーだと陣場は思う。
さあ、野暮ったい田舎の中学校時代は終わりを告げ、今日からは新しくカッコいい高校生活が始まる。
陣場は胸を躍らせながら、さっそく登校の準備を整え始める。
――まさか自分が、超高速バイクレースの渦中に首を突っ込むことになるなんて、このときの陣場は思いもよらなかった。
■■■ 第一章 サーキットの幽霊◆「Thriller」 ■■■
サーキットを覆う大気を振動させて、爆音がストレートを駆け抜けていく。
晴れ渡った春空の下、甲高いエンジン音を引きずって鋼の獣たちが疾走する。獣に騎乗し、風圧に耐える騎手たちは、獣の背に這うように身を伏せる。加速と興奮と恐怖の中、遥か先のコーナーを見すえ、獣に命じる。
もっと速く、と。
全開加速でホームストレートの空間を引き裂いていったバイクたちは、恐れを知らない戦士のように、深くえぐれたような曲線を描くコーナーへ凄まじい速度を維持したまま飛び込んでいく。
「す、すげえっ」
陣場は目を見開き、ライダーたちを見送った。思わず、サーキットと観覧席を隔てるフェンスに向かって身を乗り出してしまう。
めちゃくちゃ速い、とか、排気音が迫力があるとか、目の前に繰り広がられる光景を言い表す言葉はいくらでもあるのに、「すげー」なんていう馬鹿みたいな感想しか出てこない。
コーナーの出口に差し掛かったマシンたちが咆哮を上げ、旋回を終えた身体を引き起こして、急加速を開始する。
湧き上がった排気音が共鳴し、大気を揺り動かす。
「すっげーっ!」
陣場独歩は鵬工業高校の一角、二輪用サーキットで驚嘆の声を上げていた。
高校に入学して、最初の日のことだ。
午前中に高校での授業や建物の配置など、ひと通りの説明を受け、午後からは在校生の主催で各部活動の説明会が開催されるということだった。
野球部、陸上部、ソフトボール部に卓球部、ありふれた部活動のほかに、普通自動車部、エコカー部、大型車両部などというものがある。
鵬市立鵬工業高校には、なんとサーキットが併設されていた。同じ市内に、世界的に販売、製造を行う行う大手自動車メーカーの本社があり、気前のいいことに高校生が部活動で利用できるサーキットを造成してくれたのだ。二十年以上も前、日本中が好景気に浮かれていたころの話だ。
そういった背景があり、鵬工業高校では自動車をあつかう部活動が、練習場所に困るということは、基本的にない。
さらに、高校には二輪車専用のサーキットまで備えられていた。
四輪のものに比べると、ややこじんまりとしていて直線の長さも四〇〇メートルに足らないくらいだが、毎年、二輪の高校選手権全国大会が開催されている立派なコースだ。
たかが高校生のためにサーキットをふたつも作ってしまうなんて、余分なお金というのは、あるところにはあるもんだ、と陣場は思う。
「女子二輪部、公開練習しまーす」
「十二時半から、校舎西の二輪サーキットでーす」
そのサーキットで、女子二輪部が公開練習を行うという。朝には校門の前で女子生徒がチラシを配りながら呼びかけていたし、校舎のあちこちにポスターが掲示されていたのを思い出し、何気なく陣場はサーキットへ足を向けた。
高校で入る部活は、とくに決めていなかった。
地元にあったので入学した高校に、たまたまサーキットがふたつも付いていただけのことだった。ヒマなのでただ何となく、確かに「女子」という単語に少し反応してしまったのは認めるとしても、それ以上の興味は、陣場にはなかったのだ。
サーキットでは、集まった生徒たちの注目を受け、緊張した表情の女子部員が二名。仲良くふたりで一枚の原稿を手に持って、開会のあいさつを始める。
「えっと、せーので言おうね」
「う、うん」
「せーの」
「「わたしたちは、鵬工業高校、女子二輪部です。これから、公開練習を、始めます。」」
「わたしたち、あっ」
「最後まで、あっ」
「やーん。間違えちゃった」
「どーしよー」
「もっかい、最初から読も」
「う、うん」
「「せーの」」
と、稚拙な発表をする。
などということは、まったくなかった。
広大な二輪用サーキットの敷地には、すでに物々しい爆音が響き渡っていた。直線コースのスタートラインには、アイドリングする競技車両。車両を鋭く、そして滑らかに包み込むカウルには、車両や部品、オイルのメーカーのロゴがぎっしりと貼られて、まるで本物のレースマシンのよう。
観客席には、大勢の人だかり。学生服を着た生徒以外にも、ネクタイを締めた男、一眼レフカメラを抱えた男、双眼鏡を手にする女など、校外の観客まで大勢いる。
フェンスの向こうには、オレンジ色の作業服姿で動き回っている少女たち。
手にしたチェックリストに目を走らせ、頭にかぶったインカム越しに何ごとか指示を飛ばす少女。
アイドリング中のマシンのメーターパネルをのぞき込み、バインダーにペンを走らせ、記録を取っている少女。
そして――ライディングスーツに身を包み、マシンの調子を身体で感じ取っている、少女たち。オレンジ系がチームカラーなのだろう、統一されたデザインのスーツに身を固め、鮮やかに彩られたマシンに騎乗している。
いや、ひとりだけ、例外がいた。
その少女は、ヘルメットからブーツ、そしてまたがるマシンに至るまで、すべて黒一色に塗りつぶされていた。ヘルメットに包まれたその表情は、スモークシールドのわずかな隙間から、白く細い鼻筋をのぞかせるばかり。緊張も動揺も覆い隠されて、何ひとつうかがい知ることはできない。
彼女は、車列の中で異様な存在感を伴って立っていた。陣場は、観客のうち、相当な数の人間の注意が、その黒色のライダーに注がれているように感じた。
(何だ、あいつ?)
陣場も気を引かれた。身に着けた色彩が異なるという存在感に気が付いた、というだけだったけれど。
時折、ライダーたちがアクセルを開けると、鋭いレスポンスを示してエンジンが吼える。
女子二輪部の部員たちは、サーキットに集まった観客たちのことを、一顧だにしない。黙々と、課せられた作業をこなしている。
身の引き締まるような緊張感が漂っていた。
それらのようすを見守っていた背の高い少女が、時計に目を向ける。
「時間だよ」
そう叫んで、合図を送ったのが陣場には分かった。
競技車両の列に駆け寄って、合図がライダーひとりひとりに伝達される。
黒のライダーがうなずき、シールドを降ろす。伸ばした両手がセパレートハンドルに添えられる。
ライダーたちの視線を集める信号灯が、レース開始が迫ったことを告げる。
やがて――スタート。
轟音。
観客たちがいっせいに喚声を上げる。最前列の何人かが立ち上がり、つられて全員が立ち上がった。
知らず知らず、陣場も席を離れ、フェンスに駆け寄っていた。
強大なパワー。徹底的に軽量化された車体。
誰よりも速く走るために研ぎ澄まされたマシンを操り、ときにライダーの意志に反して暴れる機体をねじ伏せて、少女たちは約二キロのコースを周回した。練習走行のスタート・ゴーツ地点であるコントロールラインに、次々と戻ってくる。
圧倒的な速さを見せ付けたのは、黒のライダーだった。単独トップでゴールしたにもかかわらず、だが、何のポーズを決めることもアピールをすることもなく、表に感情を示さなかった。
風圧に耐えていた身体を起こして、自分の記録に目を向けると、あとはすべてに興味を失ったように、手放しでサーキットの直線を流していた。
「えーみなさん。女子二輪部公開練習にようこそ」
メガホン越しに聞こえてきた少女の声で、陣場はわれに返った。レース開始を告げていた、背の高い少女が観客の正面に立っている。
「私は部長を務めている、機械設計科三年の榊です。どうぞよろしく」
作業帽を脱いで、ぺこりと一礼。拍手が起きた。
「皆さんご存知かと思いますが、本サーキットは、高校選手権全国大会の会場にもなっています。わが部は創立以来十二年、連続で全国大会を制覇しています」
げっ、そうだったのか。知らなかった。と陣場は内心で驚いた。そもそも、自動二輪の高校選手権大会があることさえ、つい最近まで知らなかった。プロのバイクのレースでさえ、テレビでは滅多に放送されていないのだから、高校生の大会なんて知名度は低いに決まっているのだが。
攻撃的なエンジン音が近付く。直線の向こうでターンしてきた黒の少女が、マシンを榊のそばに停車させる。後ろに駆け寄った作業服の生徒が、マシンに寄り添う。黒の少女は整備の生徒にマシンを預け、路面に降り立つ。
「では、わたしたちの部のエースを紹介します。一年のデビュー戦で全国大会準優勝した以外は、すべての大会の個人戦で優勝を勝ち取っています」
新人戦で二位に甘んじたという以外は、負けなしということか。両手のグローブを外し、ヘルメットのベルトに手を掛け、止め具を外しにかかる黒の女子を陣場は見詰める。
どんなおっかない顔が出てくるのだろう。
漆黒のヘルメットが外れ、長く黒い髪が流れ出た。白い肌。わずかに赤らんだ頬。汗で張り付く前髪を気にしながら、素早く手ぐしで髪型を整えた少女は。
戦国武将でも宇宙人でもない、陣場とほとんど変わらないような年ごろの子だった。
意志の強そうな眉の下で、涼しげな両眼がすっと細められた。観客席をざっと眺めて、少し面倒臭そうに視線を落とす。
(……? あの人は)
陣場の心に引っかかるものがあった。
榊からメガホンを口元に差し出され、当惑気味に顔をしかめると、少女は言った。
「総合工学科二年。谷崎」
無愛想。
投げ出すように言うと、谷崎は口をつぐんでしまう。
一方、観客席の新入生の間にはざわめきが走る。野球でもサッカーでも、高校の部活で下級生が大会に出場するだけでも大変だろうに、エースの地位を勝ち取ってさらに連続優勝とは、相当なな実力者であることは間違いない。
愛想笑いを観客に向けながら、榊がひじで谷崎をつつく。しぶしぶ、といった感じで谷崎はもう一度、メガホンに顔を近づける。
「ホンジツはお忙しい中、公開練習にお越しいただき、アリガトウゴザイマス……」
面倒臭そうに言い終えると、榊から一歩、遠ざかる。これ以上、茶番には付き合いきれない、と表情が物語っている。
「えー……ご覧のように、わが部のエースは、ごく普通の高校生です。彼女は二年生ですが、走りに掛ける情熱や真面目さは、部の中でも随一です。やる気と実力があれば、下級生でもレースに出場できるのです」
人懐っこい笑顔を浮かべながら、榊が観客を見渡しながら説明する。
「そのほか、マシンの整備やマネージャー、パーツの設計や強度計算など、レースを支える重要な役割も体験できます。やる気ある新入生の女子の皆さんは、ぜひ女子二輪部に来て下さいね~」
すごい。
陣場は感動していた。
二輪部に入れば何でもできる。何といっても、目の前をミサイルみたいに駆け抜けていった、あのスーパーマシンに乗ってサーキットを思うままに走れるなんて、想像しただけで熱すぎる。楽しいに決まっている。
女子二輪部がこのありさまなのだから、男子二輪部はもっとすごいに違いなかった。きっと二倍くらいすごいのだ。数字に根拠はないけれど。
「それでは質問を受け付けます……はい、そこの白いシャツのかた」
いつの間にか質問コーナーに入ったようだった。挙手している、一眼レフをぶら下げた中年の男が指された。
「谷崎選手。乗っているマシンは何ですか」
「見て分からないのか?」
谷崎は身長一六五センチくらいと、決して低くはないが、大人の男に比べれば小柄だ。にもかかわらず、まるで駄犬でも見下ろすような尊大さで、質問者を視線で射抜いた。
ジョークと受け取った観客の間から、まばらに失笑がもれる。榊が慌てて付け加えた。
「ホンダのRVFです。もちろん足回りや給排気系、外装などは変更していますが、高校選手権大会のレギュレーションに適合する、レース用車両です」
「撮影しても?」
カメラを掲げた男に、榊がうなずく。進み出たカメラの男に続いて、何人かのカメラマンがマシンに近付く。
「こら。そこの線より中に入るな。マシンに指一本でも触れたら、即、退場だからな」
谷崎が愛車を守るように、カメラマンたちに注文をつける。
「谷崎選手、マシンの横に立ってください」
「視線こっちにお願いしまーす」
榊に背中を押され、嫌そうな顔で谷崎がRVFと並んで、カメラの砲列に向き合う。遠くで、女子部員たちが肩を並べ、興味深そうに見守っている。
「もっと笑顔で。前かがみでマシンのシートに寄りかかってもらって、スーツの胸元を開けて……」
カメラマンのひとりが付けた場違いな注文に、谷崎は冷たい視線でにらみつけて応じる。ラジエターの不凍液でさえ、瞬時に凍結してしまいそうな迫力。
男はたじたじと沈黙し、おとなしく撮影を続けた。
とはいえ、洗練されたマシンのそばに、無表情で立っていても谷崎は絵になった。もともと鋭い印象がある顔つきで、戦闘的なレース車両の性格をそのまま人間に昇華したような、静かな気迫に彩られた美しさを感じる。
要するに、谷崎はけっこうな美少女だった。
何台ものカメラを向けられ、ほとんど有名人のような人気だ。
「……もうじゅうぶん、写真は撮っただろう。撮影はおしまいだ」
少し恥ずかしそうに顔を背けて、谷崎が手を振る。カメラマンたちは名残惜しそうに下がる。
「ほかに質問はありませんか?」
「は、はいッ」
制服姿の少女が手を挙げている。榊が指して、少女が前に進み出た。
「えっとあのっ。今日から工業デザイン科一年になりました、漆原このはといいますっ。谷崎先輩に質問があります」
静かに谷崎がうなずく。榊が質問を促す。
「ものすごいスピードで走っていて、怖くはないんですか?」
「恐怖は、訓練で克服できる」
返答は短かった。気おされたように口をつぐんだが、少女は質問を続ける。
「じゃあ、レースの間は、どんなことを考えているんですか?」
「勝つこと。それだけだ」
くそう。カッコいい。陣場は、谷崎の単独記者会見場のようになったサーキットの観客席で、谷崎を見詰めながら、そのカッコよさに思わず嫉妬した。おれもいつか、あんなふうにインタビューされたい。
「ふだんは、どんなことを考えていますか」
「ふだん……?」
谷崎は言いよどんだ。だが、視線をマシンに向けてそらすと、きっぱりと言い放つ。
「マシンのうえにあるときだけ、私はは本来の自分になる。それ以外の自分は、余分なものでしかない」
「……あ、ありがとうございました。すみませんっ」
暗に、今こうしてくだらない質問に答えている時間が無駄だ、と言っているようなものだった。少女は気の毒なくらいに恐縮して、観客の後ろに引っ込んだ。
その後、何人かの質問が続いた。どうやら一般の観客は、他校の二輪部の関係者だったり、雑誌の記者だったりするようで、マシンのパーツの種類だとかチューニングの詳細について、あるいは谷崎のプライベートに関する部分に質問が集中した。
「恋人はいるの?」
という質問が飛んだとき、それをさえぎることなく、いたずらっぽく笑って榊が返事をうながすと、とうとう谷崎は我慢の限界を迎えたようだ。
「……もう練習に戻る。それじゃ」
素早くヘルメットの中に表情を隠すと、両手のグローブの具合を確かめて、マシンに火を入れる。スロットルを軽くあおって、たちまちギヤを入れると矢のように走り去っていった。
未練がましく、望遠で撮影を続けるカメラマンを残し、観客は散っていく。早速、女子二輪入部の受付も行っているようで、なんと受付の机の前には女子生徒の列ができている。
「くっそー。犯罪的にカッコいいぜ!」
陣場は走っていた。手には、生徒会が発行した校舎の見取り図。男子二輪部の部室に向かって、ベストラップを刻む勢いで走る。今ならバイクレースの伝説的王者・マッケイネン・ドワルスキーにも勝てる。陣場の脳内にだけいる、架空のライダーだけど。
陣場は、バイクのことなどまったく知らなかった。レースにもサーキットにも興味はなかったが、感覚的にカッコいいと感じるものには、全力でのめりこんでしまう、悪い癖があった。家の自室では、エレキギターや空手着が押入れの肥やしになっている。
入部だ。ほかに四輪部もエコカー部もカート部もあるらしいが、どう考えても二輪のカッコよさにはかなわないように、陣場には思えた。二輪部に入るしかない。
「入部します!」
男子二輪部ののれんが下がった引き戸を力任せに開け、陣場は叫んだ。
「なにっ、ニューブだと! 聞いたか山形副部長!」
「伸ばしてニューウェイブ! 聞こえたぜ秋田部長!」
部室の中では、ふたりの男子生徒が碁を指していた。
どちらも陣場より背が高く、一七五センチくらい。部長と呼ばれた秋田は、肩幅が広くがっしりした体格で、短く刈り上げた髪型が大リーガーの選手か、さもなくば米軍海兵隊みたいな印象を見るものに抱かせる。ただし、外見的には生粋の日本男児で、顔つきはちょっと愛嬌がある。
山形は対照的に細長い身体つきで、顔も面長。目が細くて垂れているので、なんとなく微笑を浮かべているように見える。声が甲高いので、ロックバンドのボーカルなんかが似合いそうだ。外見的には。
彼らはいっせいに立ち上がって陣場にイスを勧めると、電光石火の勢いで碁盤を片付けて、嵐のような勢いで山形副部長がお茶を淹れ、秋田部長が入部届と筆記用具を机の上に乗せた。
「ここにサインだ!」
「はいッ」
「よし来た。山形副部長、捺印だ!」
「ほい来た。秋田部長、捺印だぜ!」
「さあ押したぞ! 青森先生のところへ!」
「合点!」
そのまま、何の説明もなく、稲妻のような早業で陣場の入部届をつかむと山形は部室から走り去っていった。機械飛脚というの実用化されれば、きっとああいう感じだろうと陣場は思った。
「さて総合工学科一年の陣場独歩君。囲碁と将棋とどっちが好きかね? ああ、お茶が冷めるからどうぞ飲んでくれたまえ」
「将棋なら分かります。じゃなくて、練習走行はいつですか」
「申し遅れたが、私は工業デザイン科三年の秋田博徳だ。男子二輪部の部長をやっている。ちなみに囲碁のほうが得意だ。囲碁お見知りおきを」
秋田は陣場の質問を、ガン無視。
「で、男子二輪部のマシンはどんなのがあるんでしょうか」
「それからさっきのは、機械設計科三年の山形脩一君。副部長を務めている。彼は将棋も得意だから、勝負してみるといい」
「はい。それで、練習時間ですが」
「恋について、どう思うかね。君」
「は?」
「恋だよ恋。池にいるやつでもなければ、わざとすること、でもないぞ」
「はあ」
「切なく、一途な思いだよ。そこには情熱があり、願いがあり、祈りがある。信仰にも通じるな。かの有名な伝説的バイクレーサー、マッケイネン・ドワルスキーは、一九六五年のノルマンディ上陸レースをからくも制し、表彰台の上でこんな言葉を残している。《まな板の上の恋》。これは、自分の情熱がまな板の上で、今まさに料理されようとしていても、最後まであきらめずにいれば、美味しい食事にありつけるものだという意味だ」
なんだかようすがおかしい。陣場は異変を感じ取った。すっ、と秋田は部屋の出口をふさぐように歩を進め、陣場の前に立ちはだかった。
「気が付いようだな。だがもう遅い」
「……何をしたんです」
「君からの入部届を受け付けた。それだけだよ」
「それがなんで、こんなまねを」
「わが部に、マシンはない」
陣場の脳みそにひびが入った。
「もっと言うと、男子二輪部にはサーキットを使用する権利すらない。全国大会を制覇した女子二輪部が幅を利かせていて、予算も練習場所の使用権も、みんなかっさらって行ったせいだ。われわれは地区予選大会さえ通過することができない。何といっても、大会にエントリーすることさえできないのだからな」
陣場の魂が砕け散った。
「取り下げます」
「む?」
「入部届」
「残念だったな。今ごろは顧問の青森先生が正式に受理手続きを取っていることだろう。一度、本入部の届けを出してしまうと、一年間は退部することはできない。私の巧妙な時間稼ぎも、そのためだったのだ」
「ごめーん部長、日付入れてなかったわ」
山形副部長が照れ笑いを浮かべながら、陣場の入部届を手にして引き返してきた。
「しねえええええええええッ!」
山形に襲い掛かろうとする陣場を、秋田が羽交い絞めにする。
「さあ行け、山形! 私に構わず、行ってくれ!」
「すまん部長! 君の死は無駄にはしないんだぜ!」
ペンで日付を書き入れた届けを手に、走り去る山形。無茶苦茶に暴れて抵抗する陣場のかかとが、偶然、背後に立つ秋田の股間を直撃する。
「ウホッ」
悶絶し、床にはいつくばった秋田には目もくれず、陣場は走り出した。ちょうど廊下の角を山形が曲がったところだった。今なら、ノルマンディ上陸レースで最終コーナーを抜けて逃げ切ろうとするマッケイネン・ドワルスキーに追い付いて、撲殺することだってできる気がする。貴重な青春の一年間を、こんな引きこもり部で過ごすわけにはいかない。
「待てコラアアアアアアアッ」
「往生際が悪いぜ、陣場君! あきらめるんだぜ!」
高笑いを響かせて、山形が逃げる。細い体のどこからこんな速力が出るのか、不思議な逃げっぷりだった。
だが、負けるわけにはいかない。高校入学一日目にして、希望に満ち溢れた青春という名の大海原への進路を、好きこのんでバミューダ・トライアングルに向ける阿呆はいないのだ。
陣場は校舎中に響き渡るような雄たけびを上げて、山形に飛び掛った。両腕で胴体にしがみつき、力任せに廊下に引き倒そうとする。
が、山形はツナギの作業服を、しがみつく陣場もろともミノムシのごとく脱ぎ捨てると、Tシャツに短パンの格好で目の前の職員室に飛び込んだ。
「あウォむぉりすえんすえええええええいッ」
「そら来た!」
男子二輪部顧問の青森が、ヘッドスライディングで机の足元に滑り込んできた山形から入部届を受け取り、ばしんと捺印。そのまま奥の部屋に走る。
「校長、お願いします」
「うん」
ずしん。校長の承認印が下され、陣場独歩の男子二輪部への入部届は、完全に受理された。
職員室の入り口で、陣場は燃え尽きたボクサーのように虚ろな目をして、床に沈んだ。
「まあそんなに気を落とすな。生きていればいいことあるさ」
はっはっは、と青森教諭の他人事以外の何物でもない笑い声が、地獄の底から伝わってくるようなエコーを伴って、まだ陣場の耳から離れない。
陣場はぐったりとパイプいすに身をゆだねて、今しがたの悪夢を思い起こしていた。それがただの悪夢ではないことは、目の前で茶をすすりながら碁を打っている秋田と山形を見ればおのずと知れた。
「歓迎するぞ、陣場君。男二にようこそ」
あの後、抜け殻のように脱力した陣場は、山形に引きずられて男子二輪部の部室に戻ってきた。
「ちなみに男二は男子二輪部の略で愛称はダニーだ。女子二輪はジョニーな。連中は自分たちじゃ絶対に言わないが」
ありがたくもくだらない秋田の話を、パイプいすのうえで廃人のようになった意識でもって、陣場は聞き流す。
「さあさあ。そんなところで廃人になっていないで、こっちに来て人生ゲームでもやらないか」
入部してから三日目。もう囲碁も将棋もドンジャラもモノポリーも遊び倒した。悪魔将軍の牌が負け犬のようにみじめな陣場をあざ笑っているかのようだった。
部員は、秋田と山形、そして陣場の三人しかいない。廃部寸前である。
遠くから、二輪とも四輪ともつかないエンジンの爆音が、かすかに響いてくる。
このままではいけない。
「先輩……何か二輪部らしいことしましょう。このままでは、永遠に男子二輪は底辺のままです」
陣場は地獄の底で立ち上がった。
「ふむ。そうか、そこまで言うのならば、とっておきのマシンを見せてやろう」
「えっ。部のバイクがあるんですか」
立ち上がった秋田に、すがるような眼差しを向ける陣場。
「おうよ。見て目をつぶすなよ。あるにはあるんだぜ」
山形も立ち上がる。壁に掛けられた鍵束をつかんで、部室の外へ歩いていく。
「そうだ。あるにはあるんだ」
「あるにはあるんだが」
「だがなー」
「なんだなー」
秋田と山形は、無念そうなうめき声をもらしながら、校舎裏手へと歩いていく。
たどり着いた先は、ところどころ補修が必要な傷みが見える物置小屋。校舎裏庭の雑草が生い茂る一角に、忘れ去られて数十年は経過しているような、荒涼とした雰囲気に包まれている。
南京錠の鍵を開けようと、山形ががちゃがちゃいわせているうちに、ちょうつがいごと鍵がもげてしまった。扉を開ける。
土ぼこりとクモの巣と、カビ臭い匂いの中、暗がりに一台のマシンがうずくまっている。
「ホンダのCBR250RRだ」
「おおっ……って、なぜオレンジ色なんですか」
聞いてはいけない質問かとも思ったが、気がつかないフリもできない。オレンジ系の色といえば、女子二輪のチームカラーだ。
「まさか、無許可、無期限で借りてきたとかじゃないでしょうね」
「人聞きの悪い。強奪してきたわけではないぞ。廃車にするというから、頼み込んで譲ってもらったのだ」
秋田が胸を張る。男二のフラッグシップ・マシンは女二の廃車だというのだから、威張れることではないと陣場は思う。
つうか、むしろ泣ける。
「しばらくほったらかしにしていたから、多少のメンテナンスは必要だろうが。まあ、動かないことはないだろう」
CBRの回りに集まる男子二輪部員たち。タンクやシートに積もったほこりを払ったり、メーターパネルの汚れを指先でぬぐったりする。
「あれ、このバイク、ナンバープレートがないですよ」
「当たり前だ。競技車両だぞ」
陣場の質問に、秋田があきれ顔を作る。
「ナンバー付けてたら、税金はかかるし保険も払わにゃならんし。そんな予算は、わが部にはない」
「へー、そうなんですか。あ、ミラーがない。ヘッドライトもない。ウィンカーもない。部品そろえなきゃダメですね。いくらかかるんだろう」
「サーキット走行に保安部品は要らないんだぜ。……おまえ、よくそんなんでウチに入ろうと思ったな」
ブレーキやクラッチを調べていた山形が、マシンをスタンドから外す。
なんだか死体のように重いマシンを、のろのろと三人がかりで押し歩く。部室棟前の空きスペースに運び込むと、メンテナンススタンドをかませて、車体を直立させる。
明るいところで改めて見ると、カウルのいたるところに傷がついていた。アッパーカウルに擦り傷、アンダーカウルには割れまである。何度も転倒してできたもののようだ。女子たちが相当に使い込んだのだろう。
「じゃ、メンテナンスはおれに任せて、部長はサーキットを使えるように交渉してくれ」
「うむ、任せておけ。もともと同じ学校の生徒同士。ジョニーたちも快く承諾してくれるだろう」
「えー? サーキット使いたいって? 今さら?」
ジョニーの親分・榊部長は、大声を上げて目を丸くした。
これは絶望的だな、と陣場はひそかにため息をつく。隣では、精いっぱいの虚勢を張って腕組みする秋田。
サーキットに併設の、ピットと呼ばれる作業場所の入り口だ。ピットの中と、シャッターを経てサーキットに続くピットの向こう側では、作業服姿の女子部員たちが慌しく動き回っている。コースでは甲高い爆音を響かせながら、女二のマシンたちが疾走を続け、時折にピットに戻ってきては、給油や各部のチェックを受け、再びコースへと出撃していく。
日暮れにはまだじゅうぶん時間があるというのに、空は重苦しく曇っている。
若干ひるみながらも、秋田は言葉を継いだ。
「もともと、サーキットは学校付属の二輪専用のものだ。従って、学校公認団体の男子二輪部にも使用する権利があるのは当然だろう」
「うーん。そりゃそうなんだけどさあ」
困惑した表情で、榊は後頭部に束ねた髪のあたりを手にしたペンの尻でかく。
「わたしはいいんだけどさ。今、カリカリしてる《あの子》が何て言うか」
「部長、雨が降ってきそうだ。予定していたテストのスケジュールを早めよう……何だ、お前ら」
《あの子》が来たようだ。陣場はかたずをのむ。黒いライディングスーツに身を固めた、国内最速の女子高生。
不審を浮かべた表情を隠さず、谷崎の鋭い眼差しが秋田と陣場を射る。それだけで陣場は後ずさりそうになる。
「おお、谷崎。お前からも榊に言ってくれ。我々も、鵬工業高校男子二輪部ここにありと世界に知らしめてやるのだ。そのために練習場所を貸して欲」
「お前らに、ここで走る価値なんかあるのか?」
近寄った谷崎が言葉をさえぎり、至近距離で秋田をにらみつける。うぐ、と言葉に詰まって、ダニーの親分は後ろへよろめいた。
「私たちは鵬工高女子二輪部の名誉に掛けて、全国大会を制覇しなければならない。マシンのセッティングと実走テスト、ライダーの訓練、整備員たちの実戦訓練、やらなければならないことは山ほどある。時間は一秒でも惜しい。それを邪魔するやつは誰であろうと敵だ」
「だ、だとしたら何なのだ。お互いライバルとして正々堂々と」
「わたしより速いのか? お前らは。全国レベルで渡り合えるとでも?」
「……」
沈黙するほかなかった。
谷崎の後ろで、困惑し果てた笑顔を浮かべて、榊が秋田に向かって手を合わせている。
「これ以上、邪魔をするな。失せろ」
有無を言わせぬ鋭さで言い捨てると、きびすを返す谷崎。
「速いって証明したら、サーキットを使ってもいいんですね?」
その場の空気が凍りついた。
声の主は陣場だった。
刃を思わせる黒の少女が振り返る。精密部品のような美しさの白い顔には、何の表情も浮かんでいない。
距離を置いたまま、陣場と向き合った谷崎の眼差しが、見慣れない男子生徒を値踏みするように動く。
おや、というように谷崎は目をわずかに大きくする。
「勝負に勝てば走っても良いんですね、谷崎先輩?」
「お前は……?」
「男子二輪部、総合一年の陣場独歩です」
「ほう。そうか。……いい度胸をしているな」
「あのね、陣場君。今、谷ちゃんはすっっごく機嫌が悪いんだ。勝負とか決闘とか、そういうブッソーなことはナシにしよ。ね? また来週にでも話をしよう」
榊が眉根を寄せて仲裁に入る。その肩を、谷崎の手がつかむ。
「いや、やろう部長。勝負を受ける。男二は目障りだ。カタを付けてやる」
静かな、冷たい炎。無表情のまま榊を押しのけると、陣場に歩み寄る。切れ長で二重のまぶたの奥で、鳶色の瞳が強い光を放つ。
陣場はその視線を、真っ直ぐに受け止める。
「私に勝てば、サーキットの利用時間を公平に分けよう。だが、負けたらお前らの部室をもらう」
「な、なんだとうッ?」
秋田が絶句する。
「そんな勝負、受けられるわけがなかろう!」
「分かりました。やりましょう」
「おいっ陣場、部長は私だぞ?」
「やる気のない男子二輪は、学校の面汚しだ。二輪部はふたつもいらない。いい機会だから、完全に息の根を止めてやる。覚悟しておけ」
あくまで冷たく、切り捨てるように。
谷崎は言い終えると、サーキットへと引き返していった。
「おいおい……子どものケンカじゃないんだぞ」
「もー。これ以上、谷ちゃんを刺激しないで欲しいなあ」
ふたりの部長が頭を抱えてうずくまった。
ひときわ大きな爆音が、ピットのシャッターを揺さぶる。黒の機体が空戦兵器のような加速を見せて、ストレートの果てに消えていく。
どさり、と陣場がうずくまるように倒れた。
「どうしたルーキー陣場?」
「こ……怖かった」
「そうか。サーキットでは五〇倍は怖いから、覚悟しておけ」
「う……」
ついムキになって、勝負を挑んでしまった。陣場は心の底から後悔した。
「ちなみに負けて部室を失った場合は、私と山形とが一〇〇倍の苦痛を味わわせてやるからそのつもりでな」
「え。僕が走るんですか」
「面白い冗談だ。ストレートの真ん中で一〇分寝てろ。無事に帰ってこれたら聞かなかったことにしてやるから」
首根っこを持ち上げられて、コースへと引きずられる陣場。絶叫が響いた。
その後、榊の調停で妥協案が模索された。どう頑張っても、今の男子二輪の実力では、そもそも勝負にならないからだ。
そこで、対戦相手は陣場と同じく一年の新人から選ぶこと。勝負は三週間後。その間、夜八時から翌朝四時までの間に限り、練習のためにサーキットを使用して良いこと。以上の譲歩が女子二輪部から得られた。
「夜八時から翌朝の四時って……寝るなってことですか?」
「要するに、ほかの時間はジョニーたちが使うということだろう。実際問題、近隣の住民に迷惑だから、夜九時以降はサーキットは利用できん。練習のために走行できる時間は、実質一時間だけと考えるべきだな」
CBRのメンテナンスを続ける山形をサポートしながら、秋田と陣場は、榊が提示してきた妥協案について話し合っていた。
女子二輪部には何のメリットもないのだから、ものすごい譲歩である。
当初、男子二輪を廃部にしてやると、頑として譲歩を拒んだ谷崎だった。だが。
「ねえ、谷ちゃん。ろくにバイクでサーキットを走ったことのない男二相手に、全日本の谷ちゃんが本気で相手なんて、勝負にならないよ。男二に練習走行もさせてあげないなんて、ヒキョーなんじゃない?」
「……卑怯? この私が?」
ミーティングルームでヘルメットのシールドを磨いていた谷崎は、その言葉に反応して顔を上げた。
「ふむ、そうだな……確かに、そのような不平等な条件で勝ったところで、男子二輪の腐った性根をぶちのめしたことにはなるまい。むしろ、男二どもは、レースの条件が悪かった、女二は卑怯だなどと、吹聴して回るかもしれん」
かちり、とシールドを閉じて、ひざの上に乗せたメットに手を添える。
「分かった。ここはできる限り、譲歩した条件を提示してやろう。だが、わたしたちの練習に支障がない範囲で、だ。それで言い訳の立たないようにして、男二を完膚なきまでに打ち負かし、再起不能にしてやるのだ」
白く、しなやかな指で拳を作り、闘志を燃やす谷崎。
「よし。部長、レースに出る新人の選抜と教育は私がやる。部長は、男二に条件を伝えてきてほしい」
「というわけなんだよ。了解?」
ことのあらましを語って、榊はわずかに首を傾げた姿勢で秋田を見上げる。
男子二輪部の部室だ。ほかには、榊にお茶を淹れた陣場が緊張したようすでかしこまっている。山形はマシンの整備にかかりきりで、部屋にはいない。
「了解も何も。それで勝負に臨むほうが、われらダニーにとって最良だろう」
「そうねえ。でも、谷ちゃんも本気だから、新人をビシビシ鍛えて、一番速い子を出してくるよ」
「申し訳ないです」
全部おれのせいです、と顔に大書してあるような表情の陣場。
「ううん。谷ちゃん、ふだんは後輩の面倒はまったく見ないからね。こんなラッキーなチャンスは滅多にないよ。ライダー志望の子は気合入れてると思う」
お茶をすすって、榊は微笑を陣場に向ける。やがて、にまりといたずらっぽい笑顔を陣場に近づけた。
「で、どうよ。勝てそう?」
「勝て陣場。ウィン・オア・ダイだ。負ければ死あるのみ。死んでもいいから勝て」
秋田が至近距離から、殺意のこもった眼差しでにらむ。
「そ、それにしても」陣場は三年生たちを見上げる。「なぜ谷崎先輩は、そこまで男二を嫌っているんでしょうか」
「それはねえ。話せば長ぁい話なのさ」
榊は床にはうようにして、机の下や引き出しを物色し始める。「お茶菓子ないの?」
秋田が隠し持っていたポテトチップスをパーティ開けして、榊は話し始めた。
もともと、二年ほど前までは男女二輪部はひとつの部活だった。男女に分離するまでは、男子二輪にも、女子と同じくらいかそれ以上の数の部員がいたらしい。
「とくに二輪部の部員が増加したのが、ドイツから、なんとかいう名前の女子選手が留学してきたときだよね」
榊の問いかけに秋田は腕を組む。
「あー、確か十四歳で一二五クラスのGPで優勝したとか何とか」
「サーキットがある高校なんて、世界広しといえど、そうはないからね。すっごいかわいい子だったらしくてね。見たい話しかけたい近付きたいってだけの男子が入部殺到。幽霊部員だらけになっちゃったんだよね」
「ああ。私もそう聞いている。……留学生はその後、帰国したが、走りの技術を受け継いだ女子ライダーたちのレベルは格段に上がった。今日のジョニーのはしりだな。その流れを継承し、究極に進化したのが谷崎ってわけだ。その先代は、平塚一羽ってことになるのかな」
「ああ、つかぷーで間違いないね。彼女のコースレコードはいまだに破られてないし」
つかぷーというのは、平塚のことらしい。さらに速い人がいるらしいが、陣場は疑問に思う。
「平塚先輩ですか。谷崎先輩が一番速いみたいでしたけど、公開練習では走らなかったんですか」
「平塚は、もういないんだよ」
秋田が肩を落とす。怒ったような、泣き出しそうな複雑な表情を浮かべて、榊は顔をうつむかせる。
「練習中に事故があってね。昨年の夏」
最終コーナーで、ハイサイド。
「ハイサイドっていうのはね、マシンが路面に対して傾いた状態で、リアタイヤがスリップして、その直後に、ライダーがアクセルを戻したりして急激にタイヤがグリップを回復することで発生する。リアサスペンションが急激に沈み込み、その反動でライダーがマシンから大きく跳ね飛ばされる現象なんだ。そうだよね、秋田?」
「ライディングテクニックの話は、分からん」
「こんなのライテクじゃないよ」
榊がくちびるをとがらせる。
実際、各国でレース中にハイサイドが発生し、転倒した事故や、最悪の場合、マシンから振り落とされたライダーが、自らが乗ってたマシンの落下の直撃を受けて、即死した事例もある。
平塚は、マシンもろとも大きく跳ばされた。そして。
「ひどい事故だった。平塚はもう、失われてしまった」
「部のエースだった彼女をなくして、女子二輪は混乱した」沈黙した秋田の後を、榊が受ける。「そのころも、幽霊部員だけ増えて、二輪部としての活動を行わない男子部員への風当たりは強かった。平塚の失踪をきっかけに、当時の二、三年生を中心に、男子を排斥しようという動きが強まったんだ」
「それで、二輪部が男女に分かれたってわけですか」
「そういうこと。ちなみに、当時の一年生の中で、いちばん運動に賛成したのは谷ちゃん。速かったつかぷーのこと尊敬してたし、仲が良かったみたいだし。つかぷーがハイサイドを起こしたのはレースに集中できなかったからで、それは男子部員たちが邪魔だったからだ、って彼女は思ってるみたい。つかぷー、けっこうかわいい子だったから、モテたんだよね~」
「まあ、谷崎とは対照的なやつだったな」
平塚の失踪を境に、谷崎は大きく変わっていく。速さと勝負にこだわるようになり、完璧な走りを追求し始めた。完璧を追い求めるあまり、回りの部員にも完璧を要求するようになっていく。
「レースになると、谷ちゃんはめちゃくちゃシビアなんだよね。マシンの整備にも、ピットでの作業スピードにも高いレベルを要求する。先輩後輩関係なく、時に不遜に思えるくらい。……たぶん、いなくなったつかぷーの分まで、速く走ろうって気負ってるんじゃないかな」
《男☆カワサキ》と豪快に書かれた湯飲みにくちびるを触れさせて、榊は言葉を切る。
「……今は、努力した分だけ成果が上がっているからいいけど、必ず壁にぶつかる。そのとき、谷ちゃんが孤立していたら、やばいな」
「何です?」
陣場が身を乗り出す。われに返ったように、視線の焦点を取り戻す榊。
「なんでもない。ここからは、こっちの問題だから。じゃ、条件の変更は伝えたよ。がんばってね」
そそくさと立ち去っていった女子二輪部長と入れ替わりに、オイルに汚れた作業服姿の山形が、部室に帰ってきた。
「ごくろう山形。マシンのほうはどうかね」
「いやあ。結構、消耗部品がやばいぜ。チェーンは伸びきってるし、リアタイヤの溝はなくなってスリックタイヤに化けてるし、プラグは溶けてるし。ブレーキパッドは石板みたいになってるし、ディスクはCDみたいな厚さになってるし。とどめにバッテリーは完全に逝ってしまっている」
そう言って、天寿をまっとうしたバッテリーを、ごとりと机に置く。一同、合掌。
「ふむ。雨さえ降らなきゃ、走れるな。バッテリーさえ何とかなれば」
「ああ。化学準備室から硫酸を拝借してくるから、中の亜鉛版とかを調達してほしいんだぜ」
「任せておけ」
「……って、バッテリーを作るつもりなんですか?」
秋田と山形の、料理でも作るかのようなのほほんとした会話に、陣場が割り込んだ。
当然だろう、といった顔つきで三年生ふたりが新人を見下ろす。
「買ったら一万円くらいするぞ。お前が払ってくれるのか?」
「うー……」
そんな小遣いは、陣場にはない。
「心配するな。ちゃんと走れるようにしておいてやる。お前は今から修行して、ジョニーどもをぎゃふんと言わせる必殺技でも身に着けておけ」
「必殺……って」
どこのライダーヒーローか。
オレンジ色のツナギを着た戦闘員相手にキックとパンチで立ち向かう正義の味方。ところが真っ黒で凶暴で高飛車な敵ボスが登場し、高笑いとともに超速拳・オメガスマッシャーを放つ。直撃し、爆砕する自分を、陣場はありありと想像して鬱になった。
「あのう。先輩は乗らないんですか」
自分だけ殴られるのは嫌なので、陣場は恐る恐る聞いてみた。
「おれはメカニック担当だから、マシンに乗るのは本来は専門外なんだ。ダニーに三年いるけど、サーキット走ったことないし」と山形。
「いやいや。走ったほうが面白いと思いますけど」
「うーん。速いのはちょっとなあ」
秋田も渋い顔をする。
「あんまりスピードを出すと、危ないんだぜ」
山形が本音に近い感想を漏らす。ようは、高速走行が苦手らしい。なぜこの人たちはここにいるのだろう。
秋田は、「工業デザイン科の私は、マシンのカウリングに命を吹き込んでやる。安心しろ、私はピットから見守っているときも、魂はいつもお前と一緒に走っているぞ」
転倒して傷をつけたら殴られそうだ。陣場は背筋に寒いものを感じた。
翌日。
の終わりが近付いたころ。
夜の闇に包まれたサーキットが、夜間用の照明を浴びてまばゆく輝いている。すでに女子二輪部の部員たちは引き上げてしまっており、人の気配はない。
男子二輪部の三人をのぞいて。
「どう、だ!」
秋田と山形が胸を反らせている。陣場は信じられないような面持ちで、目の前に現れたマシンを見下ろしている。
CBR250RR、復活。
無理矢理に補修したカウルは、補修材の塗装までは終わってはいないものの、それ以外の外見は、フロントフォークもスイングアームも、黒光りするよな前後のタイヤも、まるで昨日まで走っていたような輝きが宿っている。
「どう、だ?」
三年生ふたりが、もう一度声をそろえる。
「この、カウルに描いてある、うなぎみたいなのは何ですか?」
「失礼な奴だな。龍だよリュウ。わが部のチーム名は鵬工業高校男子二輪部ドラゴンズ。チームカラーは黒または白。塗装を安く上げるためだ」
やっぱり泣ける。
「それにしてもすごいです。よく直りましたね」
「ふっふっふ。何とかすると言っただろう」山形が不敵な笑みを浮かべる。「何とかしただけだ。礼にはおよばないんだぜ。あまり車体を傾けると、バッテリーケースから硫酸が漏れてくるから、気を付けろよ」
「ちょ。おしりが溶けるじゃないですか!」
「うひゃひゃひゃひゃひゃ冗談だ!」
「たぶんな!」
山形が笑い、秋田が不吉な言葉を添える。
「そんなことより、必殺技のほうは身に着いたのか。ルーキー陣場」
「そんな昨日の今日で。とりあえず、昨日は夜中にサーキットを走ってみました。自転車で。あとは図書館の二輪車マニュアルに目を通しました」
「じゃあ、もう目をつぶっても走れるな。では早速、このマシンでコースレコードを塗り変えてこい!」
勝利を確信したように、秋田が高笑いを響かせる。陣場が、部の備品のフルフェイスヘルメットを被り、おっかなびっくりCBRにまたがる。
エンジンスタート。しぶしぶ、といったようすで、もたもたとエンジンが目覚める。これだけで股下のバッテリーが爆発するんじゃないかと、陣場は気が気ではない。
ギヤをニュートラルから一速に入れる。ガコッ、と音を立ててマシンが震える。
そっとスロットルを開きながら、腫れ物に触れるようにクラッチをミートさせていく。陣場の全身に緊張がみなぎっているのは、誰が見ても明らかだ。
じり、と車体が前進する。
驚いた陣場がクラッチに掛けた指を緩める。
んがっ、きしゅ。
一度、大きく振動してエンジンが沈黙する。陣場が首をかしげる。
「あれえ?」
「エンストしたか。レースマシンだから、エンジン高回転時の出力を上げるためにパーツを交換してある。エキゾーストパイプに、マフラーにとな」山形が近寄り、車体の前から陣場の顔をのぞきこむ。「その分、低回転時の出力は犠牲になっているから、クラッチがつながり始めたら、構わんからどんどん開けちまえ」
「あのう」もじもじしながら陣場が言う。「エンストってなんすか?」
「面白い冗談だ。タコメーターの針がゼロにならないように、スロットルを開けていれば無問題だ。さあ行け。練習時間は限られている」
秋田の声に押し出されて、エンジンを再始動させた陣場が、再発進を試みる。
右手でスロットルを多めに開けると、威嚇的な排気音がわき起こる。けたたましい音が、ひと気のないサーキットに響き、闇の中へ散っていく。
クラッチレバーを握りこんでいた左手の指を緩めていくと、急にエンジン音が低くなり、タコメーターの針が落ちる。と同時に、スピードメーターの針が首をもたげる。
目線を上げると、薄闇の中の観覧席やフェンスが後ろへとゆっくり流れていく。
(う……動いた。走ってる)
陣場は自走するCBRに騎乗し、直線コースを走っている。自分の足で走っているくらいの速度だが、陣場にとってサーキットを走るのも、バイクに乗るのも初めての瞬間だった。
「シィィィイイフトォ、アアアァアァアアゥォェアアアップウウゥウ!」
シフトアップを指示する山形の声が、ずいぶん後ろから追いかけてきた。あわてて陣場はクラッチを切る。
タコの針が跳ね上がる。スロットルをこころもち戻す。
左足つま先でシフトペダルを引き上げる。がちっ、とギアがセカンドに入るショック。
クラッチをつなぐ。戻していたスロットルのせいでエンジンブレーキがかかり車体は減速するが、右手をひねると、低いうなり声を上げながら再び加速。
ぐいぐいと、車両をストレートの果てに向かって引っ張っていく。ほっとする間もなく、ぐいぐいと、ストレートの果てに待ち構える右コーナーが近付いてくる。
(ま……曲がれ)
陣場は祈りを捧げる。
「陣場ー、コーナー! コーナー!」
「曲ぁがれー!」
秋田と山形の叫びがこだまする。
どうすればいい。ハンドルを切ればいいのか? 陣場は混乱し、とりえあえずスロットルを緩めながら、ハンドルを右に切ろうと力を入れる。
ハンドルはほとんど曲がらない。車体も曲がらず、なぜかマシン全体は左に傾斜する。
どうなっているんだ! くそう、曲がれ!
「マッグワァアアアアーレー!」
陣場はメットの中で叫んだ。
左に傾いていた車体を、コーナー側の右へ傾けようと、陣場は車体左側へ身を乗り出すと、同時に反対側の右方向へ車体をねじ伏せた。
野性の本能で偶然成功したリーンアウトで、奇妙なバランスを維持しながら、CBRはのろのろとコーナーを旋回した。
「おお! 曲がったぜ秋田部長!」
「うむっ! やはりバイクは気合と根性で乗りこなせる!」
間違いだらけの部長と副部長はハイタッチを決める。到底ありえないようなスタンディングポジションでコーナーを脱出した陣場は、シフトチェンジもせずに次のコーナーを目指す。
そうして、多少コースアウトしながらも、すべてのコーナーをリーンアウトでやり過ごし、陣場は無事にサーキットを周回し終えて戻ってきた。
「やったな陣場。初乗りで無転倒なら上出来だ」
「硫酸も漏れてないようだしな!」
秋田がばしばしと陣場の肩を叩き、山形はマシンの各部を見回しながら言う。ヘルメットを脱いだ陣場は、まるで窒息しかかっていたように大きな息をついて、路面に大の字になって転がる。顔面は蒼白だ。
死ぬかと思った。つうかマジ疲れた。陣場の偽らざる感想だった。ガチガチに緊張していたせいで、肩は凝っているし、前傾のライディングポジションを要求するレースマシンのおかげで、いつの間にかハンドルを握る両腕で体重を支えてしまい、手首と腰が痛い。
「うう。それより、記録はどうでした……?」
「ふむ。私の時計によれば、だな」
ラップタイムは、谷崎の記録のおよそ八倍。
「お前が一周する間に、谷崎は八周する計算だが、なに、八倍速く走れるようになればいいだけのことだ!」
「初戦の相手が谷崎の四倍遅ければ、お前は倍速く走るだけで互角だ。いけそうだな」
四倍も遅い女子二輪の部員なんかいないと思ったが、陣場にはもう何も言い返す気力は残っていない。勝利を確信した三年生たちの高笑いを聞き流しながら、陣場はぼんやりと思った。
誰か助けて。
……ゴウ……ゥ。
冷たい一陣の風が、サーキットを吹き抜けていった。
「風が出てきたようだな」
「がんばってるみたいだね」
だしぬけに女の声が聞こえて、三人の男たちは縮み上がった。声のした背後を、ゆっくりと振り返る。
オレンジ色の作業服を着た、少女が立っていた。
「……なんだ、榊か。驚かすな」
「ごめんごめん」
女二の部長は、ぺろりと舌を出して微笑む。CBRに近付く。
「ふうん、よく直ったもんだね。半年くらい動かしてなかったんじゃない?」
「ふん。われわれの実力を見くびるなよ。三週間後には、男子二輪部の底力を見せ付けて、ジョニーども全員にもれなくぎゃふんと言わせてやるから、覚悟してろよ」
秋田がふんぞり返る。意に介したようすもなく、CBRを眺め回す榊。
「うい。期待して待ってるよん。……あ、ここのフレームの傷、あたしがコケて付けたやつだ。なつかしー」
「榊先輩でも、コケたりするんですか?」
意外そうに、陣場が尋ねる。
「そりゃそうだよ、昔はね。誰だって、山ほどコケてうまくなっていくのよ」
「……谷崎先輩でも?」
「もちろん。新人時代には、谷ちゃんが一番転んでるんじゃないかな。それだけ練習量がハンパじゃないってこと。見てるほうは怖くてしようがないけど。そのうち、派手なクラッシュをやらかして死ぬんじゃないかって」
……ヒョォォォオオォゥウ……。
「……風向きが変わったね。ちょうど学校のあるこのへんは、北と東にある山から吹き降ろす風がぶつかる場所でね。よくかまいたちが出るっていうんだ……」
心なしか、低くこもったような声で話し始める榊。
「ほら、そこに風力計があるじゃない。で、その下、風向を見るための吹き流しがあるじゃない?」
高速道路でたまに見かける、緑と白の縞模様の布筒が、風にたなびいていた。ただ、尻尾のほうが切り裂かれ、何本かの帯状になって揺れている。
「最初、アレは筒状だったんだけど、何年もこの場所に設置されている間に、かまいたちにやられて、あんな鯉のぼりのてっぺんにあるやつみたいになっちゃったんだって。かまいたちの仕業なんだよー。だから、このサーキットには魔物がすむ、なんて言われるんだ」
「えー、マジでー……。おれ、聞いたことないなー」
怖気づいたような声色の山形。両腕をさすったりしている。
風が、また向きを変える。陣場は、切り裂かれた吹き流しが自分を指差したように思えて、どきりとした。
「ほんとだよ。このうわさ、秋田も知ってるよね?」
「くだらん迷信だ。あの吹き流しはもともと筒状だったのではなく、予算がなかったから鯉のぼりのてっぺんのやつを拝借してきて、緑と白に塗っただけだろう」
秋田はあっさりと否定する。
「ふふん? ここはサーキットだぜ? 常に危険と隣り合わせの、ギリギリの駆け引きが繰り返される戦場だぜ? 志半ばで倒れたライダーたちの無念の思いが、今夜も、吹き降ろす風に乗ってベストラップを刻もうとあがいているんだぜ……?」
ニヤリニヤリにやにやりん、といやらしい笑みを浮かべる榊。ごくり、と陣場はかたずをのむ。
吹きすぎる風の中に、誰かの遠い叫び声が混じったような気がした。
「……と、いうわけで陣中見舞いおしまーい。じゃ、勝負の日まで、がんばってちょん」
榊はきびすを返し、ひらひら肩越しに手を振って去っていった。
「何しに来やがったんだ、あいつめ。……あっ、もうこんなに時間が過ぎているッ」秋田が、サーキットに備え付けの時計を見上げて叫んだ。「くそ。まんまと敵の策略にかかってしまった。さあさあ練習だ!」
「安心してくれ部長! こんなこともあろうかと、秘密兵器を用意しておいたんだぜ!」
山形がどこからともなく、銀色のでかい筒を取り出す。
「これぞ逆転の発想が生み出したスーパーサイレンサー、《消音ちゃんツヴァイ》だッ!」
なんだそれは。
陣場も秋田も目をむく。
「通常のレース志向のマフラーは、いかに高回転時の排気の抜けを良くするを考慮するあまり、爆音仕様になっていたが、このマフラーはさにあらず。なんと純正マフラーを二本直結し、究極の静粛性を実現させたのだっ。さあ付けてみろ陣場!」
「はあ……お願いします」
受け取ったサイレンサーを、そのまま山形に返す。
「よし来た!」
鬼のような早業で、スリップオンマフラーを交換。排気管はそのままだ。
煙突のように長大なサイレンサーが、にょっきり後方に向かって長く飛び出た、えらくバランスの悪そうなマシンが出来上がった。
「では、エンジンスタート!」
始動。エンジンがマシンのフレームの中で振動する微かな音は聞こえるが、排気音はほとんどしない。
「こ……これは」
秋田が面白そうにスロットをひねる。
ほうー。
と、オカリナの音色のような、はたまた船舶の霧笛みたいな、拍子抜けする癒し系サウンドが、レースマシンから奏でられる。
三人は路面にはいつくばって、爆笑した。
「ひー。おもしれーっ」
秋田や山形が、ぐいぐいスロットルをあおる。その度に、エンジン内でピストンが大暴れし、不平を言うようにマシンが振動するのだが、まるで先ほどまで猛り狂う虎のようだった凶暴なマシンが、子猫か子羊のように愛らしくなってしまったような豹変ぶり。
「どうだ。これさえあれば、真夜中にいくら走ろうと、近隣から騒音への苦情は出ない。さあ、徹夜で走れ陣場よ!」
「そ、そのまえにもうちょっと触らせてくれ」
面白がって、秋田がまたスロットルを開閉する。暴走族よろしく、ぶいぶぶぶいぶぶぶいぶいぶいーとやるが、マシンは、ほわほほほわほほへいへいほうーとのんきである。
「先輩、あんまりやると、マシンが怒りますよ」
「何を言っている!」笑いすぎで泣きそうになりながら、秋田が言う。「こ、こんな面白いもの、遊んでやらなければ、かえって失礼というものだ!」
出し抜けに、爆音が響いた。
「ほら、マシンが怒った」
「ありぇ?」
山形がサイレンサーの辺りをのぞき込む。
「排気漏れか? そんなはずはないんだが」
爆音が、響いてくる。目の前のマシンではない。
「……何だ?」
秋田は音のするほうに、目を向けた。サーキットのコースのほうだった。
突風が吹いた。風力計が狂ったように回転し、吹き流しが一直線に伸びる。その方向から。
高回転を維持して走り来る、バイクのうなり声。
そのマシンは、突然現れたように感じられた。オレンジ色に塗装されたRVF。女子二輪でよく見かけるレース車だ。ただ、明らかに違うのは。
三人の視線が、闇の中から現れたマシンに吸いつけられた。
最終コーナーに猛烈な勢いで突っ込んだマシンは、はいつくばるような低い姿勢で旋回機動。マシンの雄たけびが甲高く、風を引き裂く。
速い。
谷崎に匹敵するほどの、いやそれ以上の高速コーナーリング。レッドゾーンを超えて、さらに突き抜けるような激しい爆音と加速を誇示して、マシンはコーナーを脱出する。
エンジンのパワーバンドを維持したまま、シフトアップ。猛烈な加速を経て、まさにトップスピードを迎えようとするオレンジの機体が、陣場たちの目の前を閃光のように駆け抜ける。細くてしなやかな印象を受ける、小柄なライダーが騎乗していたのが、一瞬、陣場の目には見えた。
爆音と衝撃波を引きずりながらストレートを駆け抜けたマシンが、一瞬でコーナーの入り口に到達。フルブレーキングで車体を直立させ、機上に身体を浮かせたライダーは一気にマシンを寝かし込ませる。
フルバンク。
路面をそぎ落とすような低さと速さ。超高速のコーナリングの中、路面とマシンとに挟まれながら、コーナー出口を見すえるライダーの闘志が伝わってくるかのようだ。
そして、コーナーを脱出したマシンは――、
消えた。
サーキットを照らす照明と照明のはざま、わずかな暗がりの中に溶けて、跡形もなく、姿を消した。
後にはただ、吹き抜ける風の音が響き渡るだけ。
「……」
金縛りにあったように、動けない三人。山形が手にしていたレンチが、甲高い音を立てて路面に転がった。
「出た……」よろけるように後ずさる秋田が、震えるかすれ声を漏らす。「ゆ、幽霊だ!」
「マジなんだぜー!?」
山形が絶叫する。その声に驚いて秋田も叫ぶ。部長と副部長は争うように、我先にサーキットから逃げ出した。
「え、あ。ちょ、ちょっと!」
陣場は一緒に走り出そうとして、アイドリング中のCBRに気がついてエンジンを止め、そのまま走り出そうとして、マシンを放置してはいけないと思い直し、バランスの悪い車体をサーキットのピットの片隅に押し込んで、ついでに山形のレンチを拾って、ようやく逃げ出した。
五分後。
三人は学生寮の秋田の部屋に、震える体を寄せ合って恐怖におののいていた。
「昨年、サーキットで起きたジョニー・平塚の話は、知っての通りだ。だが、この話には続きがあるのだ……」
頭から毛布をかぶり、陰鬱な口調で話す秋田。
「平塚が最終コーナーでハイサイドを起こし、転倒したところまでは知っての通りだ。そして――」
もうひとつ。事故の直後からまことしやかにささやかれる、不可解なうわさがあった。
真夜中の無人のサーキットから、バイクの爆音が聞こえる。
深夜、誰もいないはずのコースをレース車両が走り、最終コーナーの辺りで消えてしまう。
消えるマシンのライダーと目を合わせると、呪われてしまう。
そういったたぐいの、うわさ話だった。
「そして、先ほどわれわれの目の前を走りぬけたあのマシン……ジョニーの競技車両に間違いない」
「の、乗っていたのは……ひ、ひ、平塚、かかかな」
山形の声は、聞きとりづらいほど震えている。
「速すぎて、見えんかった」
秋田も聞きにくい小さな声で応じる。もう触れたくない出来事だと、言わんばかりだ。
「で、どうするんですか。今後の練習は自粛ですか?」
「ばかを言うなっ。ばか」秋田が毛布の奥から、眼光鋭く目を見開く。「超常現象的な脅威と、学校におけるわれわれの存在の危うさとは、まったく別次元の話だ。伝統あるわれら男子二輪部を廃部にすることはまかりならん。今後、毎晩サーキットで鍛錬し、断じて戦い、そして勝て。これは部長命令だ」
地獄の底から響いてくるような声で言い終えると、秋田は毛布の奥に首を引っ込めた。
「私はこの場所で、お前の健闘と交通安全・無病息災・子宝安産を祈っている……」
陣場と山形は、蒼白になった顔を見合わせた。
「やれやれ……」
陣場は脱力しかけた体を引きずって、学生寮の自室に戻ってきた。
あの後、山形と二人がかりで秋田を説得したが、なだめても勇気づけても叱りつけても媚びへつらっても、秋田はもう夜のサーキットには行かないと言って、聞かなかった。
(しかしあのバイク、ほんとうに幽霊だったのか……?)
轟音を立てて疾駆する、幻のレース車両とライダー。奇妙なほど現実感があって、それでいて人間業とは思えない速さ。
何だろう。陣場には、恐怖や怪異というよりは、失われてしまった伝説に触れたような、どこか心浮き立つような高揚感を感じていた。
とはいえ、やはり超常現象は怖い。自室のドアの前で鍵を取り出し、ドアを開錠する。薄暗い通路から、入学して一週間あまりが過ぎ、ようやく馴染み始めた部屋の中へ入る。
すぐ目の前の暗がりに、オレンジ色のライディングスーツを身に着け、フルフェイスヘルメットをかぶった人影が立っていた。
うぎょえわあああああああああああああああああああああッ!
と、叫ぼうとしたが、息を吸い込んだところで、素早く歩み寄ってきた人影の手が、口をふさいだ。強化合成繊維の硬さと、皮革の匂いが生々しい。
「こら。静かにしなよ」
ぶつかりそうな距離にまで接近したメットの中から、少女の声。陣場は遠のいて消えてしまいそうな意識を、かろうじてつなぎとめる。
「君、さっきサーキットで『誰か助けて』ってお願いしただろう?」
沈黙したままの陣場。グローブで口をふさがれているのでしゃべることができない。仕方なく、こくこくとうなずく。
ひとつ、大きくうなずくと、不法侵入ライダーはゆっくりと陣場の口を解放した。そのまま、三歩ほど下がって、ヘルメットのあごひもに手を掛け、
ずるり、と頭部から引き抜く。
茶色の長い髪が、脱いだヘルメットの中かさらりとこぼれ落ちる。窓から差し込む月明かりが、流れる絹糸のような髪の上に艶めかしく輝いた。
「やあ。助けに来たぞ」
白くて小さな顔。鳶色の大きい瞳はやたら可愛らしくせに、意志の強そうなくっきりとした眉のせいで、なんだか少年のような印象を受けてしまう。
「私はサーキットの神様だ。まあ、神様とでも呼んでくれ給え。堅苦しいことは抜きにして、ね」
血みどろスプラッタホラーな展開を覚悟していた陣場は、そのヘルメットの下から現れた可憐な少女の相貌に見とれた。
なんというか、かわいい。窮屈でガチガチな着心地のライディングスーツを着せておくのが気の毒になってくるくらいに。
目の前の少女がけげんな顔をして、ようやく自分が呆けて少女を凝視し続けていることに気が付く。
「え、あ、何。君は、神様なの?」
「そうだよ。わたしが神様だよー」
とんでもなく昔に流行ったコントを、観客もいない自室で演じてしまう。
「えっ。それで、おれを助けに来てくれたの?」
「だから、そう言ってるじゃん。何、馬鹿なの君? 駄目なの? 死ぬの?」
思いのほか毒舌家らしい。
だがともかく、彼女の言うことが本当なら、そして先ほどサーキットで見せたあの走りの実力を持っているならば、自分と谷崎との実力の隔たりを、大幅に埋めてくれることも不可能ではないかも……。
陣場は、少女の前にひれ伏した。
「神様っ、お願いです! おれ、バイクに乗るのがうまくなりたいんです!」
「うふん」
「どうかおれを、バイクでまともに走れるようにしてください神様!」
「いやあん」
「あのー……神様?」
「はぁん……っ……いいわあ、カミサマって響き……。そうよねえ、私のライテクってば、もう神聖な領域に突入しちゃってるものねえ……うふふふふ」
おまけに重度のナルシストのようだ。大丈夫だろうかと陣場は本気で心配になる。
「ねえねえ、もっと神様って、呼☆ん☆で」
「……神様」
「ぁ……んっ」
「カミサマー」
「うひひ」
「お代官様ー」
「ぐへへ。そちもワルよのう」
お約束なやつめ。
「……とにかく、この私が来たからにはもう安心だよ。ぱぱっとマシンを乗りこなして、ささーっとコースレコード更新しちゃうくらいのノリで行こうぜ。よろしくっ」
微笑んで、グローブを外した右手を伸ばしてくる。
「あ、はいっ。よろしくお願いします!」
男子二輪部の部室を守るために、わらにもすがりたい思いだ。陣場は両手を差し出す。
神様の細く小さな手に触れる瞬間、ぞくり、と寒気が指先から背筋まで走る。陣場の両手は、少女の手をすり抜けて、虚空を泳いでいた。
「ありゃ。やっぱりサーキットを離れると、実体化がうまくいかないなあ。地縛霊はこういうとき不便だなあ」
「地……縛?」
陣場の顔が青ざめる。
「うーん、自称、神様なんだけどさ。私、やっぱ幽霊かも」
まあ、どちらにせよ、人ならざるものには違いない。超常であり、怪異であり、あやかしの類なのだ、彼女は。そう陣場は、遠のく意識のなかで思う。
サーキットの幽霊。
志半ばで倒れたライダーの、無念の思い。
目を合わせたら、呪われる。
「……やばいかも、おれ」
陣場は気を失って、その場に崩れ落ちた。