第七話
遂に、望んだようになった。
なのに、私の心は彼が来る前より荒んでいた。
乾いた心と逆に、目は込み上げてくるもので潤んでいた。
「うっ……ひっく……」
今日は、泣いてばかりだ。
「ふ、う、ひっく」
しゃくりあげて、何度も体を震わせて。
それでも足に力を入れて立ち上がる。
帰らなくては。早く。彼が来てから、随分と時間が経ってしまった。
もう会うことはないだろう。会ったとしてもきっと、あの顔に笑みは浮かばない。
「これでいいから……これが、いいから……。だから立ちなさい、私……」
最終的に幸せになればいいのだ。彼も、妹も。
「これで二人は幸せになるでしょ……愛する人が幸せになるんだから、泣くな、ソフィア」
声に出して自分を叱咤しないと、今にもくずおれてしまいそうなくらい、泣いてしまっている。
泣いてばかりの弱い自分に嫌悪しながら、小屋のドアノブに手をかけた。
ここに来ることもきっとないと、思いながら。
俯きながら外の空気を浴びたその時だ。
急に私の体はたくましい腕に引き寄せられ、温もりに包まれた。
その人の正体はすぐに分かった。だって数時間前も同じように、抱き締められたもの。
だからこそ何をしても抜け出そうと思ったのに。
「っ……!? んんんっ!」
突然塞がれた唇に、何より驚愕が一番に襲ってきた。
開けたままの視界に入ってくるのは、甘く細められた瞳と、柔らかに崩れた微笑み。
一年前まで見知っていたその顔と表情を持つ彼は、今までキスなんてしてこなかった。
大事に大事に、優しく抱き締めるまでだった。理由は、私が断っていたから。
だというのに、今回のこれは何だ。断る暇もなく、こんなの。
彼は更に深く口づけてきて、私の思考もそれに比例して溶けきっていく。
どれだけ暴れても、容易く抑え込まれてしまう。
また酷いことを言うことも、肝心の口がふさがれているので不可能だ。
なら、これが終わるまで待っているしかないではないか……。
やっと唇を解放されたときには、全身の力が抜けてしまっていた。おまけに、息だって切れてしまっている。
「ソフィア、嘘は良くないよ。自分の気持ちはちゃんと話そうか」
肩を上下させている私を抱き締めた彼が、耳元で吐息混じりに囁く。
「俺が君を傷つけたのは、確かだ。君はそれに傷ついた。それは本当だろう。でも君は俺を憎んでいない。そうだろう?」
「……」
黙っていると、顎を指ですいと掬い上げられ、
「ちゃんと目を見て。目を見て、そして応えてくれ」
「……わたし、は」
返答に困り俯こうとするが、彼の指がそれを邪魔する。
「言っておくけど、リリア嬢との婚約は、ご両親に直接断ってきたよ」
「……うそ」
「本当。俺は君以外の人と婚約したまま、君に愛を伝えはしない」
「……あの子の方が、幸せになれるわ」
「俺の幸せは俺が決める」
「……忘れた、くせに」
「挽回のチャンスをくれはしないだろうか?」
挽回……。
私と、もう一度婚約する、挽回?
妹との婚約を、破棄して?
「君が隣にいてくれないと、俺は幸せになれないと思うんだが?」
「……待って」
頭が混乱している。
そもそも、彼は私を嫌ったのではなかったか? ……あれ?
さっき聞いたことは、つまり、嘘?
「分からない、わ」
こうなった状況が。
眉を寄せて悩んでいると、彼が咳払いをし、
「まず、俺が事故に遭って記憶に異常が出ただろう?」
「……えぇ」
「俺に君の両親が、リリア嬢を婚約者だと思い込ませた」
「そう、ね」
「一年間、俺とリリア嬢は交際したわけだ」
「えぇ」
「そしたら君は、俺が君を忘れたので拗ねてしまった」
「……」
拗ねた。確か、不平や不満があって素直な態度になれないという?
「俺はパーティでの君の様子に既視感を覚えて記憶を取り戻した。だから君に近づいた」
「………………そうなの」
「でも君は拗ねてしまっていたので、俺から逃げた。君の両親が君よりリリア嬢を可愛がっていたせいで自分に劣等感を覚えていた君は、リリア嬢の方が俺を幸せにできるというのを理由にして、拗ねた心をこじらせた」
「…………………私は、拗ねていたの?」
「そう。そして生憎、君は頑固すぎた。悪いとは思ったけど、ギリギリまで言葉で追い込んでみたんだ」
「やっぱり、さっきのは嘘だったの?」
「そうだよ。君の想いを俺は疑っていない。君が真実を話してくれなかったのは、ほぼ君の両親に責任があると思ったからそんなに気にしていない」
彼の言う両親についてはまだ理解できないけど……結局、この人は――ノエルは、私以外の人と婚姻を結ぶつもりはないと。
「あとね、考えてごらん、ソフィア。俺がこうして君を愛しているのにリリア嬢と婚姻を結んだとして、誰も幸せにならないよ。君は、自分以外の誰かを愛している男と結婚して、嬉しいかい?」
「……いいえ」
そんなの、嬉しくない。
ということは、私は今まで自分勝手に人の幸せを決めつけて、逃げ回っていただけ?
全部、無駄だったというの?
「でも、あの子の方が、リリアの方が、可愛くて、優しい……」
「君だって可愛くて優しいじゃないか」
「それは貴方の贔屓目で見ているからでしょう?」
不思議で首を傾げると、ノエルは苦笑してやれやれと頭を振った。
「それは違う。リリア嬢は確かに可愛らしく明るい、太陽のような令嬢だが――」
「へぇ……?」
「嫉妬されることは嬉しくて堪らないけど、ちょっと待ってくれないか?」
「……どうぞ」
じとっとした目でノエルを見上げながら、次を待った。
「こほん。――対する君は月のように、穏やかで幻想的な魅力を持つ、他にいないような美人さんなのですよ。そう、記憶がまだ混乱している時の俺だって、君を見て切な気な顔をする男共に気づいたくらいにはね」
「………………………………嘘?」
「本当」
美しい男性に真顔で見つめられ、居心地悪く身動ぎする。
ここで嘘を吐くような彼ではない。長年の付き合いから、それは分かった。けれど到底信じることのできない真実を、いきなりそうかと納得することはできない。
そんな私の思考なんてお見通しなのか、ノエルは仕方がないとでも言いたげに肩をすくめた。
「君の両親が妹を可愛がりすぎたことで、君は他の人もそうなのだと思い込んでしまったんだよ。実際は、魅力的すぎて近寄りがたい君に話しかけることのできる人間がいなかっただけ」
「……信じられないわ」
「だろうね。俺も、他の男が君に懸想してるなんて知ってほしくなくて、言わなかったし」
「……本当、私はずっと勘違いして生きてきたのね」
ほとほと自分に嫌気がさす。
私に魅力が云々というのは全く信じられないけど、少なくとも誰も私を見ていないのではなかったらしい。
勝手に勘違いして、自暴自棄になって。そうやって――
「私は、貴方をたくさん傷つけたわ」
酷いことを言って、心に傷を負わせた筈だ。何がどうであったとしても、その事実は変わらないのではないか。
赤い筋の残っているノエルの首を見て、罪悪感に顔をしかめた。
しかしノエルは朗らかに笑うと、いっそ変態かと思わせるような囁きを落としてみせた。
「君から言われるなら、どんな暴言でも嬉しいかな」
「……変態」
「心外な。一番つらいのは、君の気に留まらないことだ。好きの反対は無関心と、よく言うだろう?」
聞いたことはあるけど、本当にそうなのかは知らない。
知らない、が……こう言うことで、この人は私に負い目を感じさせないようにしているのかもしれない。なら、私はノエルを――愛する人を、信じよう。
「ねぇ、ノエル」
「うん?」
「私が素直に行動すれば、貴方は幸せになれるの?」
「そうだねぇ。それはきっと、俺が進める未来の中で一番幸せな道なんだろうな」
「そう……」
無言で背中に手を回すと、そっと抱き締め返された。
ぬくぬくとしたこの気持ちが喜びなら、ずっとここにいよう。罪悪感はまだ消えないけど、私がいることで愛する人が幸せになるなら、ずっと。
「愛してるわ、ノエル」
上からくすりと笑い声が零れ、髪の毛をすいと撫でられた。
「俺もだよ、ソフィア」
初めて本人に直接言った愛の言葉に自分で赤面しながら、私はノエルの胸の中でゆっくりと目を閉じた。