第六話
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
彼はもう追ってこない。
なら、何故走るのか?
それは、今の私が人に見せられない顔をしているからだ。
泣いたせいで目元は赤く腫れ、汚いことに鼻水だって垂れている。
こんな顔、誰にも見せられない。だから一人になれる場所に行くのだ。
幸い、私はそういった場所を学園内で一ヶ所だけだが、あることを知っている。
学園にある庭園の奥。木陰に隠れているのと、普通なら見つかる場所まで行かないので、他の人は来ない、小さな小屋。
私が一人になれる、安らぎを得られる場所だ。
走った勢いのまま小屋の扉を開け、中に滑り込む。そして念のため、鍵を閉めた。外から開けられるような鍵は、ない。
「はぁ……」
窓から入ってくる、沈みかけの日の光を頼りに、ランタンがどこにあるか探した。どうやら、小屋の唯一のテーブルの上にあるようだった。
日が沈んでからでは遅いので今のうちに手元に寄せておこうと手を伸ばすが、その手――正確には、指の先の爪に赤いものが付着しているのを見て、罪悪感を思い出した。
彼を傷つけた。たくさん。
人を傷つけるために言葉を吐いたのは、もしかするとあれが初めてだったかもしれない。
走ったから酔いが醒めたのか、胸が重圧感に押し潰されそうになっている。
しかし、ああ、今度こそ。
今度こそ、彼は私を見限るだろう。きっと、見限ってくれる。
あれほど自分勝手に喚いて、傷つけてしまって、嫌わない方がおかしい。
あの時は必死だったから色々と勢いで口走ってしまったが、それで良かったのだろう。
これで全ては正常だ。
妹が傷ついた彼を慰めれば二人の仲はより良好なものになるはず。幸せに生きていけるはずだ。
私は私で、普通の貴族令嬢としてどこかに嫁ぐか。それとも先程彼を傷つけたのが問題になって、裁かれるか。
どちらにしても構わない。彼から離れられるなら、それがいい。
裁かれるにしたって、私は生きることに執着があるわけでもないのだから、極刑でもいい。そうでなく庶民に落とされるとしたら、それもそれだ。
疲れたら一人、どこかで舌でも噛み切って死んでしまおうか。死後の世界がどのようなものなのか、不安はあるけど、人はいずれ死ぬのだ。それが早いか遅いかの違いだけ。
「はぁ……ふぅ」
ある程度息が落ち着くと、考えも纏まってくる。
取り敢えず、自分の人生は流れるままに。どうなろうと、構わない。
彼は今頃、妹に慰めてもらっているのではないだろうか。あの子はきっとパーティ会場からいなくなった彼を探して、あの場所で見つけてくれる。
優しいあの子に癒されれば、彼だって今度こそ本当に私より妹を見てくれるだろう。
――あんな、全ての希望を失ったような彼の顔は初めて見た。
それは、その顔は、私がさせたのだ。
あれほど傷ついたなら私を嫌う。そう信じて行った行動だが、落ち着いた今では、嫌われることに恐怖すら覚えている。
なんて勝手なんだろう。気持ちは愛されたいと叫び、理性は嫌われるべきだと呻いている。
私は、理性を取る。取ったのだ。
何も変えられなくなった。そう、終わり。
これでシアワセが見つかるのよ。
「ふふ……うふふ……」
虚無感と安心感に声を出して笑う。
それと同時に、止まったはずの涙が再び溢れてきた。
感情は、私を気遣ってくれない。いつだって偽ることができない。
「うぅ……」
力の抜けた体で、薄汚れたソファへ歩んだ。
そこに座り込んで、やるせない自分を嘲笑い、泣き続けた。
「ん……」
何かの音が鼓膜を震わせたので、私は身動ぎした。
目を開けると周りが妙に暗いので、慌てて体を起こした。――いつの間にか、横になっていたらしい。
時間は、もう夜になったように見える。月明かりが日の光の代わりとなって小屋の中を窓の外から照らしている。
さぁっと全身の血の気が引いた。
どうしよう。こんな時間になってしまったなんて。家族に迷惑をかけることは、望んでいないのに。
迷惑をかけ、嫌そうな目で私を見る両親が脳裏に浮かび、ぎゅっと目を瞑った。
――とにかく、帰らなくては。
手元に寄せておいたランタンを持ち、足元に気を付けながら歩き出す――そうしようとして、私の目が覚めた原因である音がもう一度、聞こえた。
――こんこん。
それはドアから聞こえる。正確には、ドアをノックする音が。
誰だろう。ここに来る人はいないと思っていたのに、どうして。
辺りが暗いからか、相手が誰なのか分からない事実に怯えてしまう。
大丈夫、だろう。この学園に、不埒な者が入ってくるはずない。大丈夫、大丈夫。
震える体を抑えて、ノックに返事しようと口を開き――
『――ソフィア』
え……?
嘘、でしょう?
だってこの声、は。
『ソフィア……そこに、いるんじゃないか? 君であるなら、ノックだけでもいい。返してくれ。君であるなら、無事であることを知らせてほしい』
ドア越しに聞こえるくぐもった声は、明らかに彼のものだ。
少し焦っているように聞こえる彼の声は、確かに私の身を心配している。もう夜なのに、会場に戻らなかったからだろうか。
屋敷に帰っている可能性もあったのに、わざわざ探してくれた……?
どうしても喜びを感じてしまい、しかしそれをすぐに抹消させる。
ここで喜んでは、駄目だ。彼は、そう、将来の義姉を心配して探しに来てくれたのだ。
そうであってくれないと、困る。
心配させてしまって申し訳ない気持ちもあるので、こちらからもノックを返そうとドアに近づく、が。
『愛しているんだ、ソフィア……』
「っ……」
いけない。その言葉を聞いてしまったら、私はノックできない。
だって私は、彼を憎んでいるはずなのだから。
妹の婚約者ではない、私を愛しているとほざく彼を、憎んでいる。
どうして?
あんなに傷つけたのに。
どうして……私を選ぶの?
どうして、何故、分からない。理解できない。
婚約者になったばかりの数年前、私は彼に、何故私なのか聞いた。
すると、一目惚れだと答えられたが……つまりそれは外見の話だ。中身がこんなのだと分かっても、何故彼は……。
『憎んでいるのは、分かっている。俺がしっかりしていなかったばかりに苦しめてしまって、本当に……すまない』
私が返事をしなくとも言葉を続ける彼。
果てしなく重く響いたそれに、私は思考を巡らせた。
このまま黙っていれば彼は勝手に去るかもしれない。だが、早く帰らなければならないこの状況でその選択肢を選ぶのは得策ではない。
なら、返事をするか。それなら――
それなら、もっと酷いことを吐き捨てなければ。
じくじくと痛む胸を両手で押さえ、息を深く吸い、酷薄に笑んだ。
「その通りね、ノエル。貴方のせいで私は苦しんでばかりだわ」
私の返事に息を呑む彼の吐息が、ドア越しなのによく聞こえてくる。
「急に味方だの、愛しているだのと、そんな虚言を囁いて。挙げ句に勝手に事故に遭って勝手に記憶をすり替えて。身勝手にも程があるわ」
心と正反対の嘘に、自分自身が痛くなる。
しかし私以上に、彼は苦しんでくれているだろう。
「愛していると未だに言ってくれるなら、どうか私の前に二度と現れないでくれないかしら。貴方を見ると……憎しみで、身が壊れてしまいそうだわ」
違う。愛しくて愛しくて堪らない。
だからこそ私なんかから離れて、神に愛された世界へ行ってほしい。
「最初から、目障りだったのよ。私の世界にズカズカと生意気に入ってきた貴方は。私の心を弄べて、面白かった? 楽しかったのかしら? 残念だけど、今の私に情なんてないわ。貴方のせいで消えたのよ」
ろくに息継ぎもせず話したので、少し息が切れた。
整え、また口を開くと――それより先に、ドアの向こうからの、声。
『俺の行いが君を傷つけたのは分かった。君が、とても苦しんだことも』
彼の声が予想よりしっかりしたものだったので、私は思わず目を瞬いた。
ここから上手く切り返してくるのだろうか。社交界で上手に生きている彼なら、どのようにでも理屈を捏ねてくるだろう。
『なら、聞こう。――そんなに俺を想ってくれていたなら、何故、本当は自分が婚約者なのだと、一度も言ってくれなかった?』
「ぁ……」
そう、来たか。
予想できた。しかし考えたくなかった。
だってそれについて、言い訳できる何かを私は持っていない。
『一言でも言ってくれれば、あるいは思い出せたかもしれない。最初から俺は、君の言動を……気にしていたから』
気にして、いた?
『君は、逃げたんだろう? 俺の記憶が混乱していて、リリア嬢を婚約者だと思い込まされたあの時。言っても俺が思い出さないかもしれないと強く思い、そして状況に流された。苦しんだなら、何故苦しみから逃れるため、もがかなかった? 君は自分のために闘おうとも思わなかったろう……』
その通りだ。
真実を伝えたとして、思い出さなかったら?
意味のない行動を取り、怪しまれたら?
もしもの恐怖に襲われ、取れなかった行動を、彼は別の原因があると思ったらしい。
『ああ、違ったかな? 本当は、君は苦しまなかったんじゃないか? 俺を何とも思っていなくて、妹に押し付けようとしたんじゃ――』
「違っ……」
違う。妹を隠れ蓑にしようとしたんじゃない。
ただ、怖かった。自分が動くことで何か変わるかもしれない、何も変わらないかもしれない。ただただ、怖かった。
でもそれを、本当のことを言ってはいけなかった。
先の彼の言葉に『そうね。合っているわ。分かっているなら妹と結婚してちょうだい』とでも言えば良かっただろうか?
私が最初からから彼を嫌っていたと勘違いしたままで、勘違いさせたままでおけば、もう本当に私に近づかないのだろうか。
『……何が、違うと言うんだ?』
「……ちが、く」
ない。違っていないと、言えばいいのに。
「ぁ、あ……」
懐疑的な彼のくぐもった声が私を非難しているようで、今まで私に甘い声をかけてくれた声が、今は怖くて。縛りつけてくるようで。
『――俺には、君が分からないよ』
分からない。
私にも、分からない。
分かりたく、ないのかもしれない。
彼の低く呟かれたそれが頭の中で何度も反復し、かき消そうとするのに、消えてくれない。
苦しくなっていく息を必死にして、頭を両腕で抱え込んだ。
何度も何度も深呼吸をしてようやく落ち着いた頃には、ドアの向こうからは何も響かなくなっていた。