第五話
終わる。終われる。
何度もその言葉を繰り返して、穏やかに笑った。
結婚すれば、何も変えることはできない。それが今では何より待ち遠しい。
「うふふ……」
酒を飲んでから何度も声を出して笑ってしまっている。
けれどそれを咎める人は誰もいない。私の小さい笑い声なんて聞こえないのだろうし、無礼講であると皆が飲み、笑っているのだから、咎められない。
そう、結局は、誰も私を見ていない。
それで、いい。
と、その時だ。急にどこからか視線を感じたのは。
それは普段感じられないもの。感じないものを急に感じて、恐怖さえ覚えた。
誰だろうか、この強い感情を送ってくるのは。
以前は彼がいた。でももう、あの彼はいない。
家族だって私を見ることは本当に稀で、しかもパーティ会場で私を見るはずないのに。
得体の知れない視線の根本を探そうと辺りを見回すが、酔いが回っていて頭がよく働かない。
視界がぐらぐらして、首を回す度に体がふらつく。
けれど、見つけた。
それは有り得ない人物のはずで、しかし今もしっかりと私を見つめている。
酔った私を心配しているのでは、ないだろう。いくら将来の義姉とは言え、妹を放っておいて私をずっと見つめるなど、あってはならない。
それに、彼の瞳が違う。さっきまでの彼ではない。そう、まるで、あれは――
「――っ」
遠くにいる彼の足が確実にこちらへ動いたのを確認してから、私もすぐに動いた。
ここにいてはいけない。
彼に捕まってはいけない。
過去に戻ってはいけない。
二度と、失ったと思いたくない!
パーティのためのヒールが高い靴が不便で仕方ない。
この、逃げるための場面には相応しくないものだった。
彼がどれほど追いついてきているのかも確認せず、私ははしたなくドレスの端を揺らしながら走った。
諦めたものをもう一度手に入れたとして、きっと虚しくなるだけだ。
いいや、そもそも手に入れていない。だから私のもとへ彼が来るのは大きな『間違い』なのだ。彼は再び『異常』になろうとしているが、それはこの世界の理に反している。
やめて。戻ろうとしては、いけないのだから。
パーティ会場の大広間から抜け出して、走り続けて、渡り廊下に出た辺りだ。
皆会場にいるせいで、誰もいない――私達以外は。
高いヒールのせいで存分に動くことのできない私と違って、彼は歩きやすい靴を来ているのだろう。
それに、ひ弱な女の私が全力で走っても、鍛えている彼より速く動けることはない。
後ろの、すぐ近くから聞こえてくる足音を無視してひたすら足を前へ動かし続ける。少しでも離れられるよう、話しかけられないように。
しかしやはりと言うべきか、彼には追いつかれてしまった。
彼の大きな手が私の手首を掴み、もう逃げられないようにと強めに引っ張られた。
「……どこに行くんだ、ソフィア」
その名を呼ばれるのはいつぶりだろう。妹は私をお姉様と呼ぶし、使用人にはお嬢様と呼ばれる。両親はもう何年も私の名を口にしていない。
だから、一年ぶりだ。彼しか呼ばなかった私の名を聞くのは、やはり彼が彼であったあの時まで。
しかしこのように低く不機嫌そうな声で呼ばれたことはない。もっと甘く、ゆったりとした呼び方だった。
緩慢な動きで後ろを振り返ると、そこには眉をしかめさせている彼が私をじっと見つめている。
だから、見られるのは、嫌なのに。
「……私が、どこかへ行ってはいけませんか? ノエル様」
「――ノエル、と」
顔を歪められ、呼び捨てるようにと言われる。
しかしそんなこと、もうしない。呼び捨てとは、親しい間柄の人達がすることだ。
私と彼は現在、妹を介して血縁になる予定の、赤の他人だというのに。
「手を放してください、ノエル様。少し、一人になりたいのです」
「ご一緒しても?」
「一人になりたいのです」
極めて無機質に、無感情に彼に受け答えする。
酔いはまだ醒めない。まだ、ふわふわしている。
だからこそ、つらさが少なくなっている今だからこそ、ここで終わらせなくてはならない。
本当の本当に終わりが来なくては、私に安息は訪れない。
「妹が貴方を待っているはずです。行ってあげてください。寂しがっていたら可哀想でしょう?」
にこりと、外向けの笑みを浮かべて彼の背後を手のひらで示す。そちらにあるのは、パーティ会場だ。
妹を心配する姉という役を演じながら、彼の瞳をしっかりと見つめ返して自分の言葉に偽りがないことを訴えた。
行って下さい。妹のために。愛されるべき可愛い人のところに。貴方の婚約者なのだから。
「君は、本当に……?」
悲しそうに何かを問う彼に、私はただ首肯する。笑顔のまま。見つめ返したまま。
さぁ、もう行って。私を自由にさせて。
「それなら、どうして泣いているんだ……!」
「っ……!?」
血を吐くかのような問いかけに、動揺したのは私だった。
泣いている? 私が? そんな、まさか。
慌てて目元に手を当てると、確かにそこから流れ出る液体に触れた。
「嘘……」
全然、気づかなかった。
呆然としていると、彼がそっと私を抱き寄せた。
抵抗すべきなのに、体が動かない。それは、その理由は? 分からない。何も、分からない。
「すまない……本当に……。俺は、俺は、君だけを――」
――愛している。
耳元でその言葉を囁かれ、体に声という存在が流し込まれ、私の体は芯から震えた。
喜び? 違う。
これは、毒だ。
内側から侵食してくるその毒を拒否すべく、私は息を荒く吐いて首を振った。
「やめて……」
「ソフィア」
「嫌……」
「頼む。本当に」
「嫌ぁ!」
「ソフィア!」
更に私を強く抱き締めようとする体を押し退けようとしても、まったく敵わない。女が男に勝てるわけないということか。
いや、私だから勝てないのか。
「一人にさせてすまなかった。だから」
「嫌、嫌、嫌……! やめて。もう嫌よ。終わって。終わったはず。そうだと思っていたのに。もう失いたくないのに。嫌なのに。嫌い、嫌い、貴方なんか嫌い。嘘つき。大嫌い。放して。触れないで。何も与えないで。自由にさせて。自由にさせて……」
私利死滅な言葉をただ並べ立て、彼から逃れるべく腕を伸ばした。
ちょうど手が当たったのが彼の首だったが、もうそこでいい。どこでもいい。私はありったけの力を込めて爪を立てた。
「っ……ソフィア」
「貴方なんか、地獄に堕ちてしまえばいいのよ……!」
体の奥に燻っていただけのはずの醜い感情を思いきり込ませ、呪詛のような言葉を囁いた。
すると流石の彼もぴくりと反応した。
この際、いくら彼を傷つけてしまっていい。終わるなら。
終わってほしい。その一心で、私は呪いを囁き続ける。
「そうよ、地獄に堕ちてしまいなさい。私を不幸にして何がよかったの? そんなに私が憎い? 良かったわね、私は今苦しんでいるわ。こんななら庶民の生活をして飢えた方が余程ましよ。そうして死んだら、いつかきっと貴方を呪ってやるわ!」
思っていない。そんなこと、思っていない。
けれどこう言えば終えられる。
現に、彼の腕の力は私が囁く度に弱くなっていっている。
あと、ちょっと。
「私は」
これを言えば本当に、終わる。それで、いいの。
「貴方が」
これが最良の選択だと、信じている。
「憎くて仕方ないわ」
最後の最後。
彼が絶望の表情を浮かべているのを確認してから、私は先へと走った。
彼のことはきっと、天使のような妹が癒してくれるだろう。それくらい優しい子だから、きっと大丈夫。
あぁ、――これで、終わったのね。