〜鎌倉の勇者様(1)〜
『ーーいいかい?僕のかわいい理香』
温かなで大きな手は、いつも幼い理香の頭を慈愛深く撫でてきて。
『理香は誰よりも何よりもかわいい妹なんだ。だから、全てのものに跪かれるべきなんだよ』
誰よりも何よりも理香を愛する兄の妹に対する溺愛ぶりは、かなり異常だったのかもしれない。
『だから、理香をいじめた男の子ーーああ、確か圭太くんだっけ?その子は僕が罰したよ。当然だよね、理香に跪かないで、君をあんな酷い目にあわしたのだから』
でも、理香はそんな兄に気づかないふりをした。
優しくて綺麗で暖かい。
兄はそんな人なのだ。
罰したなんて言っているけれども、圭太に理香をいじめるなと怒鳴り、理香がそんな目にあっていると小学校の先生に訴えただけ。
だから、彼から臭う血のような香りは気のせい。
『理香、僕とセレンにはきみだけなんだよ。君が僕たちの小さくて大切な花。だから、花の成長を妨げるような雑草は全て引き抜いておかなくちゃね』
セレン。
それは、理香の姉の愛称だ。
姉が好んでいる外国の物語のキャラクターの名前。
姉も兄同様、妹の理香に強く異常までの愛情を注いでいる。
『僕とセレンのかわいい理香。僕たちだけの箱庭は誰にも壊させない。誰も立ち入らせない。ーー例え、あの女でもね』
(お母さん……)
兄の言葉を聞きながら思う。
今でも自分を必死に捜しているに違いない母親を。
何年も聞いていない懐かしい母親の声を。
優しく理香を抱きしめてくれた母親の温かな手を。
(お母さん、に会いたい……な)
たった一つの願い。
それだけは決して叶えてもらえない。
***
でも、一度だけ奇跡が起きた。
母親がとうとう理香の居る場所を探し当てて、彼女を迎えに来てくれたのだ。
兄と姉がいないうちに。
理香は長く綺麗な髪を乱した母親の手によって"箱庭"から出ることができたのだ。
いや、母親の手だけではなかった。
母親の後ろには、黒のフードを被った少年がいた。
その少年の顔は隠れていて分からなかったが、確かに彼が母親を手伝ったのだという。
その後の少年の行方は分からない。
そして、兄と姉がどうなったのかも。
"箱庭"がなぜ、燃えてしまったのかも。
全てが迷宮入りになったのだ。
本当の温かな毎日を取り戻した理香は母親と共に過ごし始めた。
母親と一緒にご飯を食べ、母親に読み聞かせをしてもらい、母親と一緒にショッピングにも行った。
学校にも行くことになり、友達もたくさんできた。
皆、兄と姉の事に関しては誰も触れなくて。
それが、とても嬉しかった。
嫌なことは忘れたい。
そういうものだから。
それら事があったのはほんの二年前。
人類の敵が現れる二年前。
***
「……ここが、平成」
青の道から降りた所にあったのは、見た事のない形状の建物が無残に壊れた世界だった。
青年がいた鎌倉の時代はもっと緑があった。
この時代の人間が原因なのか。
それとも、
「……そんな事はどうでもいいですね」
何物にも何者にも感銘を受けない自分はただ淡々と請け負った依頼を果たすだけだ。
この世界の事情など知ったことではない。
「……依頼は」
この時代で、【祈りの神具】と言う五つのものを見つける事。
どこにそれらがあるかは分からない。
だが、あの“声主”は渡された石ーーラピスラズリを持っていればその内見つかるだろうと言っていた。
含みのあるその言葉の意味を理解するのはできないが、とりあえず持っておく事にした。
「……」
まずはどこに行こうか。
ここは見知らぬ時代の世界だ。
見て知り得る必要がある。
人がいれば、情報を手に入れられる。
うまくこの世界に順応できるか。
それは、自分の行動にかかっているようだ。
青年は銀の髪を翻し、改めて荒廃した平成の世界を見渡した。
“声主”から聞いてはいたが、この世界を襲う怪物たちは殺しの技に長けた青年にとってもかなりの強敵らしい。
そんな予感がしたのだ。
恐らく、人知を卓越した脅威がこの時代には跋扈している。
果たして、そんな敵に青年の剣が通用するのか。
まだこの時代に行き着いていない他の勇者がこの世に到着するまで自分は持ちこたえれるか。
「……まあ、私は一人の方が好ましいのですが」
そんな事は言っていられないようだ。
発展した様子のこの世界をここまで廃らせる敵が相手だ。多勢に無勢はあまりよろしくないだろう。
「……とりあえず、あちらの方に行きましょうか」
遥か西の遠方。
そこの空が異様に暗い。
「……私より先にこの世に足をつけた勇者もあちらにいられそうですからね」
ーーラピスラズリが小さく光った。