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20/22

破壊の剣

 

 小説「斜陽」に登場していた彼女は、この陽を見てどれほどの思いを募らせ、また心のうちに秘めたのか。

 西日が地上へ吸い込まれる寸前の、逢魔が時。

 私には秘めたるものなど無い。いや、もう秘める必要など無いのだ。この夕日と共に消えていくと思うと、不思議なことに自然と口元が笑む。

 予定より少し遅れたけれど、気にするほどではない。


 さく、さく、と積もり始めた落ち葉を踏みしめながら、死に場所を探す。風で揺れ動く木々の隙間から日差しが薄らと入り込んで、まだらに足元を照らした。大好きな景色。鼻腔に感じる秋の少し寂し気な匂いもたまらない。

 そうして歩き続けると、少しだけ拓けた場所に出た。足元は落ち葉の絨毯となり、少し他より地面も高くて小さな丘のようだ。周りの景色が見渡せるのに、奥まった場所ゆえか当時の子ども達はあまり寄り付かなかった。だからこそ、隠れ家みたいで好きだった。


 肩掛けの鞄に手を入れて、木の柄を握って引っ張りだして、地面へ落とす。もう鞄は不要だ。砲丸投げみたいに肩紐を握り、ぐるぐると回してえいっと飛ばす。軽くなった鞄は勢いよく飛んで行って、見事背の低い木の枝に引っかかった。思わず笑ってしまう。自分の笑い声が空に響いて消えていくのが心地よかった。


「あはは、最高!」


 積もった落ち葉を蹴り上げるようにして、落ち葉を耕しながら歩き回る。暫くそうしていたが、満足したので次は大の字になって寝転がってみた。

 視界いっぱいに広がる空は、暖かいオレンジ色から紫へと変化していた。夕日はどうやら沈んだらしい。気づけば木々の間から差し込んでいた光の筋も消えていた。

 相変わらず今日は風が強くて、ざぁざぁと葉が揺れる音が木霊している。


「もう、十分だよ」


 ぽつりと呟いた自分の声がかき消される。それでいい。


「もう、ダメなの。わかってるの、臆病者なの」


 歪んでぐちゃぐちゃになった心は矯正できない。


「寂しい、なんて」


 つまるところ、私は馬鹿なのだ。

 目を瞑ってゆっくりと、深呼吸をする。

 瞼の裏に浮かぶは置いて行った私の家族。ごめんね、皆の気持ちを背負って生きようとした私は限界だ。

 強張っていた身体は弛緩したが、ぐっと冷え込んできた空気を感じてまた縮こまる。

 あぁ、この時間なら帰ってきて手紙を見つけた頃かな。もしかしたら慌てて電話を掛けているかもしれない。私が住んでいた家まで探しに来ているかもしれない。ふふ、もう居ないのに。いや、もう悟って探さないでいるかも。動けないでいるかもしれない。


 そこまで考えを巡らせていたことに気づいて、打ち消すために首を振る。未練がましい自分にまた嫌気がさした。図々しく手紙まで出したのに、まだ断ち切れないとでもいうのか。

 伸ばした手の先に触れたものに視線を向ける。革の鞘に収まっているナイフは綺麗な木製の柄を此方へ向けていた。大きさはフルーツナイフより一回り大きいくらい。

 これで充分だ、首の頸動脈を切ってしまえば死ねるのだから。

 ゆっくりと起き上がって、ナイフを拾い上げると鞘のボタンを外す。中から出てきた銀色は、暗くなってきた空の下では鈍色に光って見えた。


 さようなら、全てのものたち。

 さようなら、わたし。


「さよなら、亜純」


 ぐっと柄を両手で握りこんで、首を傾ける。頸動脈の場所は調べて把握しているから、外さないように慎重に、けれど勢いよく。

 深呼吸を最後に一度して、ナイフを掲げた時だった。


「まだ私は言ってない!」


 つんざくような悲鳴が後方から上がった。鳥が一斉に羽ばたく音が響く中、心臓も身体も大きく跳ね上がって驚いた私は、反射的に振り返った。

 小高い丘へ力強く上がってくる足音。口を一文字に結んで私を見据えるぎらぎらとした眼差し。一瞬にして私の頭の中は混乱した。


「な、んで」

「まだ悠理に、さよならって言えてない」


 落ち葉を踏みしめながら亜純はこちらへ近づいてくる。いつにないその様子に、自分の行動を止められるのではと背筋が冷えるような恐怖を覚える。

 その迷いない歩みに邪魔されたくなくて、気づけばナイフを盾にするように構えながら後退していた。


「止めるために、わざわざ来たの?望んでいないのに?」

「まさか」


 ふっと零すように笑った亜純は、笑いかけるように目を細めた。二人の距離はどんどん近づいて、やがて向けたナイフの切っ先が触れてしまうほどに近づいた。

 そしてあろうことか、亜純はナイフの刃先を握りこむようにして掴み上げたのだ。唖然として見つめた先で、握りこんだ亜純の手から鮮血が流れ落ちていく。


「あ、すみ」

「止める為に来たんじゃないよ。私はさよならを言うために来たの。私がこの手で、あなたを殺すために」


 私を、殺すために。

 ここまで来たのは、自殺したい私を殺すため。亜純は私を殺したいと思っている?


「私だって、悠理に最後のわがまま、聞いて欲しいのよ」


 困ったように亜純は笑った。殺人という大きな罪を背負うかもしれないのに、その重みを感じさせないような笑顔で。その軽さを含んだ笑みに驚いたが、すぐに違うと悟る。違う、けっして軽くなどない。寧ろその逆だ。その笑顔を浮かべられるほどの覚悟を既に背負っていて、それを重荷とせずに自分の一部として受け入れているのだ。


 自然と、私のナイフを持つ手は離れていた。亜純は代わりに空いた柄の部分を掴むと、赤く傷ついた手を離して持ち替えた。


「本当に、殺してくれるの?」

「うん」


 真っ赤に染まった手が、私の頬へと触れた。生暖かく濡れた手の感触と、鼻腔をくすぐる血の匂い。その匂いにどくどくと心音が激しくなる。自然と私たちは微笑を浮かべていた。見つめあう顔が近づいて、唇が重なる。触れるだけのキスは、すぐに離れていく。


「亜純のわがままは、私にとってのご褒美だよ」

「それはどうかな」


 にやりと笑った亜純は、今度は噛みつくように唇を塞いできた。首に回された血だらけの手で痛いくらいに引き寄せられて、ナイフを持った手は器用に私の肩を掴む。息を付く間も与えてくれないような激しいキス。求められるまま、されるがままに受け入れていると、肩を掴んだ手がコートと共に滑り落ち、そのまま着ていた私のコートは地面へ落ちた。

 薄手のブラウス一枚となった上半身が寒さで震える。すると温めるようにきつく抱きしめられた。そうして背中をゆっくりと撫でられる。


「丁度良い服だわ、破きやすそう」

「え?」


 亜純の言葉の意図を掴めず聞き返す。密着していた身体が離れると、右手を握られる。そのまま肩の高さほどに持ち上げられると、私の肩付近をめがけてナイフを振り下ろした。脇下から引き裂かれる音がする。唖然としている私をよそに、亜純はナイフを振った場所をじっと見つめ、今度は二の腕の服を掴むと下から上にナイフを振るった。服を引っ張られ体制を崩したが、お構いなしに亜純は切れ目からびりびりと音を立てて服を引き裂いた。

 意図が全く分からないまま引き裂かれていき、右腕がほぼ露出された状態になると漸く手を止めた亜純は満足げに微笑んだ。


「悠理、死ぬって言うのにそんな顔してていいの?」

「…唐突すぎて、何が何だか」

「次は最初で最後、息の根止めてあげる。殺される準備はいい?」


 楽し気に刃物を此方へ向けながら話す姿は、まるで愉快犯だ。そんな亜純が面白くて笑いがこみ上げてくる。


「ふふっ、あはは!亜純、最後まで最高だよ!」

「当り前でしょ?ほら、もたもたしてると殺すわよ!」

「もたもたしなくても殺すくせに、ふふっ……いいよ、きて」


 毒気を抜かれた私は、何もかもが馬鹿らしく感じていた。こんな楽しく殺される人なんているだろうか。私はもしかしたら幸せ者なのかもしれない。

 紫の空が深い藍色に移り変わっていく。風が私の髪の毛を揺らしていく。

 全てを感じながら、ゆっくりと両手を広げた。全てを、亜純を迎え入れるように。


「さよなら、亜純」

「えぇ、さよなら、悠理」


 ナイフ頭上へと持ち上げられていく様が、まるでスローモーションのように感じる。ゆっくりと目を瞑る。視界が真っ暗になる。


「囚われて生きてきた悠理を、殺してあげる」


 ひゅん、と空気を切る音。

 次いで身体にぶつけられる衝撃。

 たたらを踏むように足元がブレる。

 そうして次にくるのは鮮烈な痛み。

 けれど、その痛みが起こった場所を認識した瞬間、私は頭が真っ白になった。

 見開いた瞳が移すのは、首じゃない、先程引き裂かれた服の下。


「な、んで…?」


 そこにある、自分の全てを形作っていたもの。

 二の腕に私の生きる証として存在していた、トライアングルのタトゥーと、中に入っていた私。その上に、真っ二つにするように入った鋭い痛み。家族とのつながりを映していた、私の贖罪。

 堰を切ったように流れ出てくる血が、タトゥーを覆い隠していく。


「足りない?」

「――あああっ!痛ッ…!」


 目の前で、今度は刺すように血濡れた場所にナイフを刺しこまれ、傷を抉るような容赦ない痛みが私を襲った。

 まさか、まさか。

 膝が言うことを聞かなくなって、地面にべしゃりと座り込む。

 亜純は「あぁっ!」と叫びながらナイフを地面に投げて刺すと、私の前に立った。見上げた私に、爛々と輝く双眼を突きつける。


「あなたの今までを、これで、殺した」


 落ちていたコートを拾い上げて私の腕に巻き付けると、そのままぎゅうと私を抱きしめた。


「ねぇ悠理。望み通りに殺してあげたよ」

「あ…」

「だから次も私の我儘。これからの悠理を私に頂戴」


 じくじくと痛む腕から、私を良くも悪くも呪っていた感情が血となって流れ落ちてゆく。まるで浄化されていくようにじわじわと。

 この証と共に死のうと思っていたのに。それがどうだ、今目の前で、私ひとりじゃじゃできなかったことをやってのけた女が、空っぽなのに歪んだままの私を欲している。

 そう理解したとたん、ぱりん、と自分の根底が壊れた音がした。合わせて決壊したように込み上がってくる感情で視界が歪む。痛む腕がとてつもなく愛おしく感じるのは、全て、亜純のせいだ。


「あ、すみっ…。わたし、汚い人間なの…っ」


 絞り出した声が震えてまともに話せない。そんな私を今度は気遣う様に、背中に回された手が優しく撫ぜた。


「知ってる。倫理的におかしいし、性格だってなかなか悪いわよ。それでも欲しいんだ。殺したいほどに、悠理が欲しい…っ!」


 ぼたぼたと涙がとめどなく流れ落ちていく。亜純の肩が血と涙で濡れていく。亜純が顔を寄せた私の肩も濡れていた。お互いの血と涙で染まる部分から麻薬のような多幸感を享受する。ぽろりと、口から言葉が漏れ出だした。


「私を、一人にしないで…」


 一拍置くような間があって、抱きしめられる力が強くなる。


「私も…一人に、しないで」


 ぐしゃぐしゃになった顔で、ただ泣きわめく。私たちは互いの熱を感じ合う。このまま混じり合ってしまえばいいと思いながら。


 救急車のサイレンの音が遠くから聞こえてくる。

 この場所に人が来るまで、私たちは抱きしめあって身体を温めあった。










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