第二ボタンの別れ
「お疲れー。校長の話、長かったねー」
「おーい! 俺たちカラオケ行くんだけど、一緒に行かねぇ?」
「ずっと友達だからねっ。連絡するからねっ」
卒業式当日の日程が予定通り全て終了し、大勢の生徒や保護者に教師連中で賑わっている昇降口前。校舎を囲むように植えられた満開の桜の下で、あちこちから女子の涙ぐむ声やら男子グループの元気な掛け合いが聞こえてくる、まるで絵に書いたような卒業式後の光景だった。
俺は「これぞまさに青春!」といった雰囲気に溢れている、そんな空間に参加しようとはしなかった――誤解されてもかまわんが、べつに俺がいじめられっ子だったりするわけじゃあない。断じてない。
その集団の中に、わざわざこちらから出向いて別れの挨拶をするような関係の相手が見当たらなかっただけのことだ。そしてそれは何の問題もない。クラスメイトの連中とは先ほど最後のホームルームで別れを済ませたし、この後で帰路を一緒にする友人と待ち合わせだってしている。……相手は違うクラスの男子だけど。
とにかく俺は、それらの人混みを遠目にぼんやりと眺めながら校舎の外壁に背を預けて、合流する予定の友人(残念だが男だ)を待っていた。自分にとっては特にありがたみも感動もなく受け取った卒業証書。それを収納した黒の丸筒で肩を叩きながら、もう何度目か忘れたあくびをし終えた時である。
「せ、センパイっ!」
視界外、方向的には俺の左側から。おそらく初めて耳にしたであろうその声に俺は顔を向ける。
手を伸ばせば届く、そんな至近距離にその小柄な少女はちょこんと立ち、俺の顔を見上げていた。いつからそこに居たのかはわからないが、卒業生一同に配られた桜柄の名札が制服の左胸に見当たらないということは、彼女はまず間違いなく下級生なのだろう。たった今、俺のことを「先輩」と呼んでいたし。
「あの――えっと、ご、ご卒業おめでとうございますっ!」
「え、あ、はぁ……どうも」
精一杯振り絞ったと思われる声量でお祝いの言葉を送られ、俺は戸惑いながら一応の返事を返した。
少女の背丈は百五十センチに届くかどうかといったところ。綺麗な黒髪のショートカットだ。頬がやや紅潮気味に見える可愛らしいその顔には見覚えがないのだが、それは単に俺が忘れてしまっているだけだろうか。
「あのっ、その、えっとですね……」
どこかで会ったことがあるだろうか。脳内の人物カタログを最高速で検索してみる……その間、少女は言葉に迷っているのかうつむきながらモジモジと右を見たり左を見たり。短気な人間からみればじれったくて頭にきそうな態度だ。
「あの……何か?」
さすがにそのままの状態で何分も過ごすのは不毛だと思い、俺は少女に訊ねてみることにした。話しかけてきたということは、何かしらの用件が俺に対してあるはずだから。
「ああっ、す、すみません……ひょっとして、忙しかったですか?」
連続で繰り出したら腰を悪くするんじゃないかと思えるほどペコペコと頭を下げる後輩少女。出来れば謝るよりも話しかけてきた用件を言って欲しかったのだが、とりあえず相当うろたえているようだ。俺はそこまで目つきは悪くないはずだから、怖がらせてしまったというわけではないだろうが。……たぶん。
「いや、べつに急いでたりはしないんだけどさ。その、何か用かなって」
「あ、えっと……その、ですね」
またしてもうつむき黙ってしまう少女。よほど引っ込み思案なのだろうか。気のせいか彼女は最初よりもさらに顔が紅潮し、パッチリとした両目はどこか潤んでいるようにも見えた……ってちょっと待て。もしかして泣かれる一歩手前だったりするのか。もしそうなら俺が泣かせたことになるのだろうか。何も悪いことしてないのに。
「あの、突然なんですけど……その」
俺は彼女から答えを聞くより先に、自分の思いつきにハッとなった。たしかこんな場面を前に漫画で読んだ気がする。その通りだったらさすがにヤバイと思い、こっそりと目線を下げて自分の股間あたりを確認……大丈夫だ。社会の窓が全開のフルオープンだったりはしていない。
恥ずかしい予想が外れてくれたことに感謝と安堵を覚えながら深くひと呼吸していた俺に、少女は驚くべき言葉を口にした。
「せっ……先輩の……先輩の第二ボタン、くださいっ!」
その瞬間、俺とその少女を取り巻く空気や時間が止まったような錯覚に陥った。「凍りついたような」と言ってもいいかもしれない。叱責を受けたときとは違うだろうが、それに似たようなショックと全身の硬直を感じる。
けれどなんの返事もなく黙っているわけにもいかない。思考がしっかりと働いていたわけではなかったが、俺はとりあえず思った通りの疑問を口にした。
「……俺? 誰かと間違ってない?」
「ま、間違ってませんっ! 先輩の第二ボタンです!」
人違いでないとなると何だ。友達との罰ゲームか何かだろうか……そんな考えが頭に浮かぶが、さすがにそれを口に出して聞くと間違っていた時に傷つけてしまうかもしれないと思い、押し黙った。というか、それならそれで仕掛けられるこちらとしては結構傷つくのだが。
「ダメ……ですか?」
ああいかん。考察している暇があるなら返事をしてやらんと、本当に泣かれてしまいそうな雰囲気だ。
幸か不幸か俺の第二ボタンは予約が入っていたりはしないドフリーな身の上だったし、他に受け取って欲しい相手もいなかったので目の前の少女に希望通り進呈することにした。
「いやいや、べつにかまへんよ」
いかん。何をトチ狂ったのか下手くそな関西弁になっとるやないか俺。
とりあえず少し落ち着け。お前は生まれも育ちも中部地方だろう。
「えっ……い、いいんですか! 本当に!?」
だけどその少女は俺の似非関西弁にツッコミを入れたりせず、顔をぱあっと明るくして素直に喜んでくれたご様子だった。
「うん。べつにあげる人もいないし……むぅ」
善は急げだが、慌ててもカッコ悪いだろうと思い、そう見えないよう振る舞いながら制服の第二ボタンに手をかけるが……これが意外と縫ってある糸が頑丈で、ちぎれなかった。ドラマや漫画なんかでは簡単にブチッと取って相手に渡すものだが、現実はそう上手くはいかないようで。
「あっ、ちょっと待ってくださいね……」
何か思いついたのか少女はその場で膝をかがめて、手に提げていた学生鞄を膝上に乗せるとその中をまさぐり、小さな小物入れらしきものを取り出した。薄桃色で、ウサギのぬいぐるみストラップが取り付けられた……まさに女子の持ち物らしい、カワイイやつだ。
「あの、よかったらこれ、使ってください」
そう言って少女がその小物入れらしきケースから取り出したのは、手のひらよりも小さなハサミだった。どうやら小物入れの正体は携帯型の裁縫セットらしく、他にもまち針やら縫い糸やらが見え隠れしている。
「じゃあ……借りるね」
「はいっ!」
そのまま続けていても手でボタンをちぎることは悲しいかな出来そうになかったので、ありがたくそのハサミを使わせてもらうことにした。もう少し毎日の筋トレでもしておけばよかったかな。でも文明の利器をこうして使えば問題無いんだから、べつにいいか。
さしたる苦労があるわけでもなく……まぁハサミ使ってるんだから当たり前だが、制服の生地とボタンを繋いでいた糸は拍子抜けするほどあっさりと切れる。
「よし。取れた……じゃあこれ」
ほどけた糸くずはこちらで回収して、取れた第二ボタンと借りたハサミを少女へと返す。渡す時に触れた彼女の手のひらはスベスベとしていて、暖かくて柔らかだった。
「あ……ありがとうございますっ!」
お礼を言って、物を受け取ってすぐに。余韻を感じるような暇もなく……少女はせき止められていた水が流れるように、ともすれば俺から逃げるように背を向けて駆け出していった。
俺はしばし呆然としていたが、なんとなく少女の行く先が気になり彼女のあとを追って校舎の角の向こう側を覗き込んでみる。
距離にすれば、およそ数メートル先に少女の姿があった。さらに彼女の友達だろうか、他に二人の女子と共にキャアキャアと飛び跳ねるような元気さで騒いでいる。そしてよくよく見れば俺の第二ボタンを手にしていたあの娘は泣いていて、彼女の友達二人がその肩を抱いて笑顔で祝福している様子だ。
耳をすませば彼女達の会話も聞き取れるとは思うが、さすがにそれは無粋だろうと思いとどまり、さっきまで俺が立っていた場所にそっと戻ることにした。
「おいーっす。この僕をほったらかしにして、どこ行ってたんだよぉ?」
戻ってきてみれば、そこには俺が当初から待ち合わせていた友人(非常に残念だがこいつは男だ)の姿があった。相変わらず見た目からしてチャラチャラとした軽々しいオーラを放っている。根は悪くないヤツなんだが。
「ちょっとそこまでな」
「もう少し出てくるのが遅かったら捜索願出すところだったぜー? FBIかCIAあたりに」
出せる人脈があるなら出してみやがれってところだ。
ふとそいつの胸元を見ればたった今手放した俺と違い、制服の第二ボタンはしっかりと残っていた。記憶違いでなければ「愛しのあの娘に第二ボタンと熱いキスを献上してくるぜ」と宣言して俺を待たせていたはずなのだが。
「……お前、第二ボタン残ってるじゃん」
「いやね、僕のお眼鏡にかなうだけの婦女子がいなくてさー。まぁ、高校なんて狭い世界ですからねー」
ハッハッハと乾いた笑い声を出す友人に、俺は何も言わなかった。「お前が女子達の眼鏡にかなわなかったんじゃないか」というツッコミはあえてしない。きっと一番自覚というか、ショックを受けているのは誰でもない本人なのだろうし。
「仕方あるまい。なればこの僕の第二ボタンは、特別に親友のお前さんに贈呈して……」
「寒気しかしないからやめれ」
一部の女子が喜びそうな展開へ移行するのを、俺はキッパリと拒否した。たとえ土下座されてもお断りである。
「ってあれ……? お前さん、第二ボタンはどうした?」
しかしそいつは目ざとくというか、やはりというか。俺の制服の第二ボタンがなくなっているのに気付いたらしい。相変わらずいらんところは鋭敏なヤツだ。
「さっきあげてきた」
「誰によ?」
「後輩の女子……」
「っぬぅわんですってぇ!?」
そいつは声を荒げると同時に、わざわざ鞄の中からハンカチを取り出すとどこぞのお嬢様よろしくそれをかじって「キーッ!」とかんしゃくを起こした。見ていて非常に気色悪い。
「私という者がありながら……なんて太ぇアマですの! 許せませんわ!」
うん。やっぱり気色悪い。いっそ蹴り飛ばしてやろうか。
「なんでお前が怒る」
「なんで……なんで、だと? お前こそ、なぜ僕を通さないで勝手に第二ボタンを渡したっ!? 裏切りか! 忠臣蔵か! 泣いて馬謖を斬ったのかぁ!」
「全部意味がわからん。お前を通す必要が一体どこにあるんだ。俺の勝手だろう」
「まぁーあ! 無二の親友に向かってなぁんて言い様でしょう!?」
そう言い放ち、再びハンカチを思いっきり噛み締めて心底悔しそうな表情を浮かべた。本当に気色悪いからやめてくれないかな。制止したところでどうせやめないだろうけど。
「一夜を共にした仲だというのに……私のことなんて、遊びだったのね……!」
「修学旅行の部屋割りが同じだっただけだろうが……だいたいそれなら、同室のヤツは他にもいたわ」
「……んだよつれねーヤツ。もうちょっと『貴族お嬢様の赤裸々恋物語ごっこ』に付き合えよ」
なんだその青少年の教育上大変よろしくなさそうな遊びは。金もらってもやりたくないぞ。
「あーあ。お前さんの第二ボタンは、僕に贈られると思ってたんだけどなー。ショックだなー。僕の見立て違いだったかー」
「今日中に人類死滅するより確率低いからそれ。っていうか絶対ないから安心しろ」
「しゃーないな。愛しのお前さんからの第二ボタンプレゼントは諦めてやるけどさ……」
「気持ち悪いからやめれ……そして離れろ。顔が近い」
遠慮なく近づけてきたそいつの顔面を俺はグググッと両手で押しのけた。いくら親友だからって、鼻息を感じられるほど近づかれれば気分がいいものではない。異性ならいざ知らず、むさくるしい男同士なんだから。
「ってかさ、誰にあげたん? 第二ボタン、誰にあげたん?」
「だから顔が近いっつうの……後輩の女子だってさっき言っただろうに」
「あ、そっか。んで知り合いか? 可愛いのかその娘は」
「いや、初めて見る娘だったけど……」
そういえばどうだったかなと、俺はあらためて先ほどの少女の容姿を思い返す。
ぶっちゃけ小柄だった事と、顔と髪型くらいしか覚えていない……覚えていないというよりは、緊張していたせいでまじまじと観察したり出来なかったと言う方が正しいだろう。というか緊張してようがいまいが、あまりジロジロと全身を見られるのも相手からすれば気分がいいものじゃないだろうし。
「まぁ、可愛かった……かな」
「そうかそうか。可愛い交際相手が見つかって、おじちゃんはうれしいぞ。うん」
偉そうに腕組をしながらうんうんと頷くアホがここに……絶対に何か勘違いしてやがるなこいつ。
「んで、どうなの? Aまでいった? それともCまで? もしかして、Ωまでイっちゃったりしたの? キャーこの変態ムッツリスケベー」
「変態はお前だ……っていうかΩってなんだ。……そもそも、交際って仲まで行っとらんわ」
「えっ」
おそらくは予想だにしていなかったであろう俺からの答えに、これ以上ないほどのマヌケた面を見せてくれた……っていうかなんだそのわきわきとした両手の動きは。気色悪いことこの上ないのだが。害虫扱いで駆除してもいいんじゃないかな。
「えっ? だってお前、第二ボタンあげたって……」
「あげたよ? 直接。手渡しで。裁縫セットのハサミ借りて」
「……最後のはよう分からんが。ようするにあれか? 第二ボタンあげて、それでお終いだったんですか?」
「ん。……まぁ、そうなるな」
本当はそこの角を曲がった先にまだあの娘がいるかもしれなかったが、それについては言及しないでおいた。聞いたところでこいつは余計なことをしそうな予感しかしないから。
「えっ、じゃあなに? 付き合うとか、そういう話は?」
「してないよ。第二ボタンあげたらお礼言って走って行っちゃったし」
「ホー。ソウナンダー。ナールホドー」
なんだこいつ。急に顔面が硬直してカタコトになりだしたぞ。
「ふっ……」
「?」
「ふ――っざけるんじゃねえでございますですだよぉぉぉっ!」
おお。なんか今度は急に大噴火して怒りだしたぞ……っていうかどういう語尾だよそれ。――まぁそれはどうでもいいとして、なんで俺胸ぐら掴まれて怒られてんの?
「なんだよ? なにを怒ってんだお前」
「これが怒らずにいられるかよ! 馬鹿なの? お前馬鹿なの? せっかくのバージンロードチャンスをふいにしちゃってさぁ!」
「どんなチャンスだよ……っていうか離せ。お前の口から至近距離で唾液の散弾銃が飛んでくるんだよ」
「普通はさぁ! 第二ボタンを渡して、そこから清く正しい男女間の交際がスタートして、常夏のアバンチュールでビーチにビキニでサンオイルウッハウハでしょうが一般的には!」
「そんな一般的はお前の妄想だけだ……っていうか常夏のあたりから後半ワケわからんぞ」
「ああ妬ましいっ! なんと妬ましいのかぁ! ……ハァ」
ひとしきり地団駄を踏んで騒いだかと思えば、今度は急に落ち込みやがった。まったく忙しいやつだ。
「僕なんてなぁ……僕の第二ボタン欲しい女子ー! ……って叫んだら、汚いものを見るような目を向けられて全員にそそくさと逃げられたっていうのに……」
日頃の行いって大事ですよね。先生。
「仕方ない。やっぱり僕の第二ボタンは、一番の親友であるお前さんに贈呈して……」
「いらん。溝にでも捨てておけ」
「ひっ、ヒドイ……! なんなの? 親友からもこの扱いって、僕は生きていてもいいの? 生きるだけの価値はあるの?」
まぁなんだ。どんな人間でも、生きている以上は何かしらの価値はあると思うぞ。……残念ながら俺には思いつかんが。
「ほれ。卒業祝いにカラオケとゲーセン行くって言ってただろ? 行くならさっさと行こうぜ」
「……そうだな。いつまでも下向いて塞ぎ込んでたんじゃ、せっかくの美顔が台無しだもんなっ」
回復早いなこいつ。……まぁいつものことか。そして根拠のない自信も。
しかしすぐに立ち直ってくれたのは正直助かった。昇降口前でメソメソして地面を濡らしてるなんて、往来の生徒及び保護者の視線というものがあるからな。あのままだと俺まで変人扱いされてしまいかねない。
そうして変な噂が立ってしまったり周囲から注目される前に、俺達は校門へと向かって歩き出した。行く先が野郎二人でのカラオケとゲームセンターってのが悲しいと言えば悲しいが、まぁそれもなかなか乙なものだ。
「しっかしなぁ……やはり勿体無いと思うのだよ僕は」
「さっきの第二ボタンの話か? 交際なんちゃらっていう」
「だってさぁ? 第二ボタンくれっていうのは、ようするにアナタが好きですって告白してるのと同じなんだぜ? それで交際関係に発展しないってのはなー。健全な男女関係……ひいては、日本の少子化問題にも関わって」
「後半はさっぱり分からんが……前半に関してはいいんじゃないか? べつに」
「えー? 告白された当事者がそれ言うかぁ?」
足は止めずに会話を続けていたが、そいつは俺からの答えに心底面白くなさそうな顔を見せた。唇をアヒルみたいにしていたのはなんかムカつくが。
「……そっちのほうがいい場合だってあるだろ?」
「なんだよそれ。第二ボタン渡してそれでお終いなのに、そっちのほうがいいとか僕ちゃんイミワカンナーイ」
親友は両手を広げてオーバーアクション。漫画技法のように頭の上にクエスチョンマークを書いてやったら、さぞかし似合うであろう。だけどやっぱり喋り方はなんかムカつく。いつものことなんだけど。
「あの娘はさ……あっちが今までに俺のこと見てたかどうかはわかんないけど、少なくとも俺からすれば初対面で、面と向かって話したのは今日が初めてなんだよ」
「イイジャナーイ。ウブな恋で、イイジャナーイ」
「真面目に聞け。……第二ボタンをくれって言われたのは嬉しいけど、俺はあの娘のことをほとんど知らないし、あっちも俺のことを……まぁ人づてに聞くとか、どっかで俺のことを目にした程度だと思うんだよ。ようするに、お互いにお互いのことを詳しくは知らないわけだ。……知ってたとしても、表面的なことだけで」
「それだとダメなのか? 脇から始まる恋もあるのに?」
「そんな特殊な恋は知らん。……ダメだって言うつもりはないけどさ。あんまり良いものでもないだろ? その状態で交際始めたところで」
「……ホワーイ?」
わざとらしく首を傾げ、カタコトの英語。……っていうかこいつ、きっと俺の言ってること何も理解できてないな。
相変わらずイライラしてしまう仕草を見せられたが、放っておいてもどうせしつこく聞いてくるだろうから、こっちから説明してやることにした。
「だからさ、今はお互いに相手の上っ面しか知らない状態なわけだ。まぁあの娘がどれだけ俺のことを知ってるのかは不明だけど、たぶん網羅してる情報量は俺とそんなに変わらないだろう。……ってことは今あの娘の中で俺という人間は、憧れ百パーセントなわけだよ」
「それの何がいけないのさ? 憧れられてるんなら、それでいーじゃんべつに」
「仮にだけど正式に交際を始めたとして、だ。本当の俺っていうか、今まで知らなかった俺の姿を知って、幻滅したり傷ついたりする可能性が無いとは言えないだろ? それなら今のまま、憧れだけで終わらせておいて差し上げようって、そういうことだよ」
「……ハァ。そんなことか」
そんなこととはなんだ。俺にとっては重要なことだぞ。……っていうかこいつに面と向かって失望したようにため息吐かれると、すごくイラッとするんですけど。なぜだろうか。
「お前さんってさぁ……奥手なんだか、謙虚なんだか、ドMなんだか」
「優しさって言えよ。異性には気を遣うんだ俺は」
「ハイハイ。ジェントルマン精神ってわけね……そらまぁお優しいこって」
なんだろう。どこか馬鹿にされてるというか、呆れられているように感じるのは俺の気のせいだろうか。
「まぁ、お前さんがそういうヤツだってのは知ってるから多少の理解は出来るけどさぁ……ホントによかったのか? 健全な男子としては。彼女が出来たかもしれなかったチャンスをモノにしなくてさ」
「よかった……と、思う」
少々言葉に詰まったが、俺は肯定しておいた。だってそんなこと、いくら当事者とはいえ今この場で俺に判断出来るわけないじゃないか。人生の選択肢において正解か不正解かなんて、たいていは後になってからわかるもんだ。大事なのはどんな選択をしたとしても、それを後悔しないことだけであって。
「なぁ、ホントによかったのか? ……今ならまだ、引き返して相手の娘を探せばさ」
「よかったんだよ。……たぶんな。っていうかしつこいぞ」
「だってさぁ。お前と今日この場で付き合わなかったせいで、その娘が後で他の男と付き合うようになったりとか、考えないか?」
校門をくぐろうかとしていた俺の前に陣取り、道を塞ぎながらそう聞いてきた。
こいつはどんな心境でも、分かりやすく顔に出るのが特徴だ。ゆえに今のこいつは、この話について真剣に考えているという顔をしていた。「引き返すなら今しかないが、どうするのだ」と。
だから俺もふざけないで答えを返していく。思考がゴチャゴチャとしつつも言葉を選んで、自分の気持ちを確かめながら。
「そうなったらそうなったで……いいよ。俺はそれで」
「なにそれ。自ら身を引くっていう弱気な発言ですか? ちょっと男らしくないんじゃないの?」
「そうじゃない……弱気とか、そういうのじゃないさ」
目の前を塞がれていたのもあったが、俺はなんとなくそれまで歩いていた道を――背後にそびえ立つ大きな学び舎と、未だ賑わう人混みを、振り返って眺める。
ここからでは、彼女の姿は見えない。まだあの場所に残っているのか分からないが、どちらにしろもう一度あの姿を目にすることは叶わなかった。
だけど、後悔はない。それだけは、俺の中でハッキリとしていた。
「あの娘の中でさ……思い出の一つにでもなったんなら、俺はそれでいいよ」
「なんだよそれ。なんか死期を悟ったご老人みたいじゃんか」
「そうだな。そんなカンジかもな」
そんな表現がピッタリかもしれないなと俺は思い、軽く笑って返した。その例えと違う点があるとすれば、諦めといった後ろ向きな感情が今の俺にはなかったことだろう。悲しみや後悔どころか、どこか清々しさすら感じていた。
「だけどそれでいいんだと思うよ。……あの娘がこの先、別の誰かに告白したり……付き合ったりするとしてさ。今日俺に話しかけたことが、あの娘にとっていい思い出になってて……それがあの娘の背中を押したりしてあげられるなら、俺はそれだけで十分だよ」
「……そっか」
それは俺の本心からの発言だった。背中越しにそれを聞いていた親友が茶化したり、からかったりしてこなかったのが、今の俺にとっての救いでもあった。
「ま、お前さんがそれでいいって言うんなら、僕もこれ以上言うのはやめとくとしよう」
「分かってくれたか、親友」
「……よせよせ。なんかお前さんから親友って呼ばれると、どこかむず痒くていけねーよ」
振り向けば俺が親友と呼ぶそいつがいて、まんざらでもない笑顔で俺の背中をバシバシと叩いてくる。――いつもと同じである、その反応が今の俺にはありがたくて嬉しかった。
「……そうだな。まだ俺は、恋愛よりもお前みたいな馬鹿とバカやってる方が楽しいもんな」
「なにそれ!? 人がちょっと気を良くした瞬間に手のひら返して、そこから叩きつけの空中コンボですかアンタ!」
そいつは騒がしく憤り、俺はそれを見て笑う。いつもと変わらぬやりとりで、だからこそ心地よくて、笑顔になれる。
「ほら、さっさと行こうぜ。まずはカラオケだっけか?」
「そういえばそうだったな……仕方ない。大親友のお前さんが失恋した慰めに、僕の美声をプレゼントしてあげようじゃありませんか」
「勝手に失恋にするな。……だいたい、どっちかっていうと失恋したのは俺じゃなくてお前だろうに。それも大多数の女子に相手にされないっていう形で」
「あーあー! 聞こえなーい! 僕には聞こえないもんねー!」
「あ、おい……ちょっと待てって……!」
現実を突きつけられたくないらしく、両耳を塞いで声をあげながら先に走り去ってしまった。あれじゃはたから見たら発狂した変質者にしか見えないだろう。保健所に連絡が行く前に追いつかないとマズイか。
「……しょうがねぇなぁもう」
行き先が分かっていることが幸いで、仕方なく俺も足を速めてあいつの後を追い――途中で足を止め、もう一度振り返った。
校門前の道よりもやや低い位置にある、おれが高校生として三年間通った学び舎。その校舎前の坂道には、今もまだ別れを惜しむ沢山の生徒や保護者に教師達で賑わいを見せている。
彼らもあと少しの時間が過ぎれば、まるで浜辺の潮が引くように一人また一人とそれぞれの道を行き、姿を消していくのだろう。俺の第二ボタンを握りしめていた、あの後輩の少女もまた同じように。はたしてそれは、ただ寂しくて悲しいだけなのだろうか。
誰かが言っていた。もしくは、どこかで読んだ気がする。
――別れは、新しい出会いの始まりでもある、と。
その言葉通り、別れの数だけ出会いがあるならば……それはきっと、寂しいだけで終わってしまうことではなくて。それと同じくらい、喜びもあるはずで。
第二ボタンがきっかけで、俺があの娘に出会えたように。
第二ボタンがきっかけで、俺があの娘と別れたように。
新しい悲しみが訪れたなら、新しい喜びもきっとその先にあるんだと、不思議とそう思えた。
穏やかで暖かな春の風が吹いて、俺の頬を撫で髪を揺らす。
思いのほか優しい風が満開の桜の木々を通り抜け、花びら達が空へと舞って、田舎町の中にあり殺風景とも言える校舎の全景を薄紅色の花びらが彩る。
その瞬間にしか存在しない、春色の景色に心を奪われながら……その景色の中で巡り合った今日までの出来事を思い返しつつ、俺はこれで最後になる通い慣れた通学路を踏みしめて、思い出の詰まった学び舎を後にした。