01:始まり
ジリリリリリ――。
突然鳴り響くベルの音に反応し、目をゆっくり開いた。大量の光りが一気に目に入り、反射的に開いた目を瞑る。
鳴り響く音だけを頼りに、ベルの発生源に向かって腕を伸ばす。
何度か手で探り、目的の物、目覚まし時計を掴み取った。
上部にちょこっと突出したボタンを押すと、鳴り響いていたベル音がピタっと止まる。
その目を擦りながら、目覚まし時計の差す時間を確認する。
「六時……半か」
目覚まし時計を元の位置に叩き付けるように乱暴に置くと、ドンッと重い音が部屋に響いた。
上半身をベットから起こし、ぼうっと呆けるように視線を泳がせながら、頭を、体をフラフラと揺らす。
眠さの余韻を楽しむように暫らく呆け、起き上がる。机の上に置いてある小さな鏡に顔を向け、移る自身の顔を見る。
鏡の中には、まだ若干の幼さを残す少年の顔が映りこんでいた。
寝癖と本来の癖の相乗効果によって暴れ回っている髪を見て、億劫そうに目を細め、無造作に髪を掻く。その不機嫌さを隠そうとする事もなく。
「――シャワー浴びるか」
押入れの扉を開け、アクリルで出来ている衣装ケースの口を引く。バスタオルを取り出して肩に掛け、最初に目に付いた下着を鷲掴んだ所で、ふと思い立ったように、その動きを止めた。
目線を壁に向ける。正確には、壁に掛けられてある、ひと揃えされた服を。
今日という日のために、一週間前からコーディネートを悩み、挙句の果てには姉にまで頭を下げて教えを請い、揃えた服。
濃い茶色のシンプルなカーゴパンツ、Vネックで黒い無地のシャツと羽織る用にフロントボタン型のシワ加工がされている紺色のシャツ。
少年の脳裏に姉と服を買いに行ったシーンが映る。
あえてシワが出来るように加工されたシャツを勧める姉に対して、何がいいのか解らない少年が訝しみの表情を浮かべる中、姉が黒い笑みを浮かべながら放った一言。
「焔がコレ買わないんだったらお姉ちゃんお金だしてあげないもんねー。どうする?どうする?凪葉ちゃんと
のデートに着ていく服が欲しいんだけど……。って泣き付いて来たのは焔だよね?お姉ちゃんこのまま帰っちゃおうかな~」
顔を少し上げながら、眉をワザとらしく吊り上げ、見おろす様に焔を見つめる。
「分かったって、分かったから。ってか、これで本当に大丈夫なの?」
観念したかのように頭を垂れる焔を尻目に、姉はご機嫌な表情を浮かべ「大丈夫、大丈夫。お姉さんに任せなさいって」その軽い言葉が、焔を更に不安にさせた。
「ああ、そうだそうだ。ちゃんと――勝負下着つけて行きなさいね」
言葉の後ろに音符マークでも付いてそうな口調で言い終え、片目を閉じてウインクをする。
慌てる焔を他所に、姉は「こういうのは気持ちの問題なんだって」と、ケラケラ笑っていた。
視線を衣装ケースに戻し、鷲掴みにしている単色の地味な下着を手放す。そして、黒に赤のストライプが入ったボクサーパンツを掴んだ。
「まあ……念のため。ありえないけど……念のため」
恥ずかしさを消すように、焔が急ぎ足で部屋を出る。小さな部屋を静寂が支配する。
年1回、毎年3月に開催される世界規模のゲーム展示会。
脳に直接情報を送り込み、仮想世界を表現する技術が確立したのが数十年前。
それ以降、仮想世界を利用する画期的なゲームが開発され、一時下火となっていたゲーム業界が爆発的に成長した。その影響もあって、今年は過去最高の来場者を記録するのではないかと噂されている。
入場のハードルも高く、初日は5万人限定。しかも応募抽選に当選した人のみ。
その抽選に、焔は運よく当選した。
当選したのはペアチケット。姉を誘うも「興味ないね」と、一蹴され、返す言葉で「凪葉ちゃん誘えば?」と、促される。
兵藤 凪葉 俗に言う幼馴染であり、焔が特別な思いを寄せている少女。
中学最後の春休み。数ヶ月後には別々の高校に行ってしまう事もあり、焔は勇気と根性を振り絞り、凪葉を誘った。
シャワーから戻ってきた焔がドアを勢い良く開ける。
「今日が来てしまったか」
喜びと嬉しさ、そして同じくらいの不安が混ざりに混ざって、微妙に引き攣ったような表情を焔が浮かべる。
顎を手で撫でながら、壁に掛けた服を見ていると、下の階から姉の声が聞こえてきた。
「髪セットするなら早くしてね。お姉ちゃんも用事あるから、自分でセットする事になっちゃうぞ~」
姉の声を聞き、慌てたように服を手に取り、着込んでいく。
駆けるように慌しく下の階まで降り、リビングに設置された姿見鏡の前に立って服装をチェックする。前、横、後ろと、体を捻りながら全身を満遍なく見る。
唐突に、不意を付いたように、姉の声がリビングに響いた。
「おうおうおう、似合ってるじゃないか」
「茶化すなよ。それより、こんな感じでいいの?」
「いいんじゃないかなー。焔君かっこいい~」
ギュっと、焔に飛び掛って抱きつく。
勢いを止めるために焔が数歩下がり、めんどくさそうに両手で突き放す。
「抱きつくなよ、気持ちワリィ」
「言うね言うね!焔君は反抗期なのかな~」
姉が唇に指を当て、顔を左右に小気味良く振る。
唇に当てていた指を、そっと焔の唇に当てる。
「んふふ~。間・接・キ・ッ・ス」
小悪魔的な笑みを浮かべる。とても満足そうに。
焔は顔を赤らめながら「やめろよ」と、姉の手を振り払と、姉が残念そうに口をへの字に曲げた。
姉が化粧台に駆け寄り、何かを漁り出す。
「姉貴、何してんの?」
「化粧品探してるの。メイクメイク」
予感はある。当たって欲しくない予感。焔は恐る恐る、言葉を紡ぐ。
「化粧?……誰の?」
「あんたの」
「おい!化粧なんてしないから!何きょとんって顔してんだよ!しないからっ!化粧なんてしないから!泣き顔作っても無駄だって!もうその泣き顔には騙されねぇからッ!」
「チークくらい……だめ?」
「ダメッ!!」
渋る姉を何とかなだめ、髪のセットをしてもらう。
ドライヤーの発する音や熱、髪を撫でる感覚は非常に心地よく、焔を包み込む。
「いいじゃん。チークくらい」
「まだ言ってんの?本気でダメだから」
「今の高校生は男だって皆してるよ?」
「ありえないから!騙されないから!」
「てへっ」
あどける姉の姿が鏡越しに目に入る。
「ワックスでいい?」
姉が車輪の付いた小物入れを手繰り寄せ、小さな円状の平たい容器を手に取る。
「なんでもいいよ」
「む~。そんなので凪葉ちゃんをちゃんとリードできるのかなー?」
容器の蓋を回転させて開けて、中のクリームを手に付け、馴染ませるように指で伸ばす。
わしゃわしゃと、焔の髪を掴み、その形を整えていく。
「よっし、終わりっと」
鏡に映る自身の姿を焔は見つめ、満足したかのように表情を緩める。
「姉貴、ありがと」
「いいって事よ」
鏡越しにピースサインをする姉が見えた。
「そろそろ時間じゃない?凪葉ちゃん迎えに行ってあげなさい」
「うん。ありがと」
感謝を込めて。再び言う。
玄関のドアを開ける。眩しい日の光が目に入り、その眩しさに目を細める。
「いい天気だ」
雲ひとつ無く、痛々しい程、青く澄んだ空を見上げる。
心地よい風が体を撫で、奇麗に整った髪を揺らす。
「よしっ、行くか」