妹を王太子妃にするので、婚約者も王宮食糧庫も譲れと言われました――承知しました。ただし、百八十軒の仕入れ契約は私個人のものです
「フローラを王太子妃にする。お前は婚約者だけでなく、王宮食糧庫の管理も妹へ譲りなさい」
父がそう告げた時、私は今年の小麦の入庫予定を確かめていた。
北部から二千袋。西部から千六百袋。南部は長雨のため、昨年より三割少ない。王都の人口と一人当たりの消費量を考えれば、冬越しにはあと八百袋必要だった。
私は帳簿から顔を上げた。
「いつまでに、でしょうか」
父も母も、向かいに座るアドリアン殿下も、少し意外そうな顔をした。泣くか、怒るか、妹を責めると思っていたのだろう。
「戴冠祝賀会まで一か月ある。それで十分だろう」
アドリアン殿下が答えた。
その腕には、妹のフローラが寄り添っている。二週間前、神殿で聖女に選ばれたばかりの妹は、白い衣装の胸元で両手を組んだ。
「ごめんなさい、お姉様。私、殿下を奪うつもりなんてなかったの。でも聖女は国母になるべきだと、神官長様が……」
「神官長は、王太子妃を決める権限をお持ちではありません」
「言葉の綾よ。皆がそう望んでいるということ」
母が優しく言い直すと、フローラは安心したように微笑んだ。
私は六年前、十七歳でアドリアン殿下と婚約した。王妃教育の一環として与えられたのが、王宮食糧庫の管理だった。
最初の年、帳簿上は満杯だったはずの倉庫で、小麦の四分の一が黴びていた。仲買人は質の悪い穀物を混ぜ、代金の支払いは半年遅れ、農家は王家との取引を避けていた。
私は領地を回った。土まみれの農家で同じ黒パンを食べ、収穫前に前金が必要な家には保証人を探し、品質ごとの買い取り価格を決めた。八年かけて、百八十軒と直接契約を結んだ。
「食糧庫の管理は、私でなければならない理由がないとお考えですか」
殿下は眉を寄せた。
「またその話か。倉庫へ運ばれた袋を数え、帳簿へ書く仕事だろう。フローラにもできる」
「でしたら、問題ございません」
私は鞄から二通の書類を出した。
「こちらが婚約解消への同意書。こちらが食糧庫管理官の辞職届です」
「もう用意していたのか?」
「昨日、殿下からお話があると伺いましたので」
フローラがぱっと顔を輝かせた。
「お姉様、分かってくださるのね!」
「はい。三十日で、王家所有の倉庫、在庫、鍵、帳簿をすべて引き渡します」
「それでいい」
「ただし、百八十軒の仕入れ契約は私個人との契約です。管理官の地位には付随しません」
部屋が静かになった。
殿下が、意味を測るように私を見る。
「王家の倉庫へ納める契約だろう」
「納入先は毎年の合意で決めます。王家が支払いを遅らせた過去があるため、農家の皆様が王家との直接契約を拒まれたのです。私が支払いと検品に責任を持つことを条件に、契約してくださいました」
私は契約書の写しを机へ置いた。
「継続を希望される場合は、各農家と改めて契約を結んでください。紹介状と住所録は引き継ぎ資料に添えます」
「ならば問題ない。王太子の名で命じれば済む」
「契約は命令ではございません」
「同じことだ」
殿下は笑った。
私はそれ以上、何も言わなかった。
◇
三十日間、私は一日も休まず引き継ぎをした。
倉庫ごとの湿度管理。穀物を積む高さ。古い袋から先に出す順番。鼠の痕跡の見分け方。産地ごとの収穫時期と、雪で道が閉ざされる日。
フローラは最初の三日だけ来た。
「こんな細かいこと、全部覚える必要があるの?」
「冬の食事に必要です」
「でも私は聖女の務めがあるわ。あとは倉庫番に任せればいいでしょう?」
四日目からは、侍女が書類を受け取りに来るだけになった。
私は農家一軒ずつへ手紙を送り、王宮食糧庫を辞めること、新しい管理官から契約の申し出が届くかもしれないことを知らせた。どこと契約するかは、農家が決める。私から断るよう求めたことは一度もない。
返事は百八十通届いた。
そのうち百六十七通に、同じ問いが書かれていた。
『次は、どちらへ納めればよいでしょうか』
辞職の日、私は最後の鍵をフローラへ渡した。
「在庫は予定どおりです。南部の不足分だけは、来月中に追加契約が必要です」
「分かったわ。長い間お疲れ様、お姉様」
妹は新しい管理官の金徽章を胸につけていた。
「ところで、お姉様はこれからどうするの?」
「北方へ参ります」
「そんな寒いところへ?」
「ええ。必要としてくださる方がいますので」
王宮の門前には、一台の地味な馬車が待っていた。
扉を開けたのは、北方辺境伯ギデオン・ヴァルハイト様だった。背の高い人で、濃紺の外套には長旅の埃がついている。
「八年ぶりだな、エヴェリーナ」
「あの時は、吹雪の中で荷車を出してくださり、ありがとうございました」
八年前、王都の食糧が初めて不足した冬。最も早く救援の小麦を送ってくれたのが、当時まだ辺境伯を継いだばかりのギデオン様だった。
彼は私の手を取り、馬車へ導いた。
「礼を言うのはこちらだ。ようやく、北方穀物組合の長になってくれる」
「まだお引き受けするとは申しておりません」
「百八十軒分の契約書を持って馬車に乗る人間の台詞ではないな」
「正確には、百六十七軒です」
「ますます逃がせない」
私は八年ぶりに、肩の力を抜いて笑った。
◇
北方での仕事は、王宮より忙しかった。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
ギデオン様は私の提案を最後まで聞いた。反対する時は理由を述べ、採用した案には必要な人と金を出した。
私たちは領内の古い砦を共同倉庫へ改築した。豊作の年に余剰を買い取り、凶作の地域へ融通する。価格と在庫は毎月公開し、農家への支払いは検品から十日以内。王都と取引を続けたい十三軒にも、同じ条件で倉庫を使ってもらった。
「王都へ残る道を塞がないのだな」
ギデオン様が尋ねた。
「選ぶのは農家です。私を選ぶよう強いるなら、殿下と同じになります」
「そう答えると思った」
彼は満足そうに頷いた。
秋の終わり、例年より三週間早く霜が降りた。
南部では収穫前の小麦が枯れ、西部では街道が凍った。北方の収穫は既に終わっていたが、王都の食糧庫へ入るはずだった追加の八百袋は、とうとう契約されないままだった。
王都から最初の使者が来たのは、初雪の日だった。
「王太子殿下の命により、小麦二千袋を直ちに供出せよ」
使者が読み上げると、組合の農家たちがざわめいた。
私は書状を読み、首を振った。
「価格も支払日もありません。これは契約書ではなく命令書です」
「王都が飢えようとしているのだぞ!」
「ですから、正式な緊急購入契約を結びます。適正価格、十日以内の支払い、輸送費は王家負担。低所得者への配給量も公開してください」
「国難につけ込んで条件を出すのか」
「無条件で差し出せば、次の春に農家が飢えます」
ギデオン様が私の隣に立った。
「この条件は私も保証する。持ち帰れ」
使者は怒って帰った。
二度目の使者は、王都の財務官だった。彼は条件を一つずつ確認し、王印のある契約書へ署名した。
その翌朝、二千袋の小麦を積んだ荷車が北方を出た。
私も王都へ同行した。
門前で待っていた人々は、荷車を見ると歓声を上げた。けれど王宮の大広間で待っていたフローラは、私を見るなり涙を浮かべた。
「お姉様が農家を連れていったせいで、こんなことになったのよ」
「私は誰も連れていません」
「皆、お姉様としか契約しないと言ったわ!」
「新しい条件を提示なさいましたか」
「王家へ納めるのは当然でしょう?」
それが答えだった。
国王陛下は、食糧庫の帳簿と引き継ぎ記録を調べさせた。私が不足を予告していたこと。農家の住所も契約例も残したこと。フローラが管理会議を十一回欠席し、殿下が緊急購入の予算を戴冠祝賀会へ回したことが明らかになった。
「倉庫は空でも、祝賀会には金の皿を三百枚用意したのか」
陛下の低い声に、アドリアン殿下は青ざめた。
「聖女の権威を国民へ示すためです」
「民が皿を食べられるなら、よい案だっただろうな」
祝賀会は中止された。金の皿は売却され、小麦の代金と配給所の費用へ充てられた。
フローラは食糧庫管理官を解任され、神殿で本来の聖女の務めに専念することになった。アドリアン殿下は王室の財務と食糧政策から外された。
陛下は私へ、王宮へ戻るよう命じなかった。
「戻れと言える立場ではない。代わりに、王国全体の共同備蓄制度を作ってほしい」
「北方穀物組合との契約としてでしたら、お引き受けします」
「それでよい」
私は頭を下げた。
帰り際、フローラが私を呼び止めた。
「お姉様は、私が失敗するのを知っていたのね」
「不足する可能性は伝えました」
「もっと強く止めてくれればよかったじゃない」
「私は三十日間、毎日説明しました」
妹は何も言えなかった。
涙を流しても、空の倉庫は満たされない。けれど学ぶ気があるなら、次の冬は変えられる。
「神殿の施療院にも食糧の担当者が必要です。今度は、ご自分で契約を結んでください」
私は契約書のひな型を一部だけ渡した。
信用そのものは、渡せないからだ。
◇
一年後、王国には七つの共同倉庫ができた。
一か所が不作でも、別の地域から補える。農家は納入先を選べ、王家も貴族も、代金を払わなければ次の契約を結んでもらえない。
北方の倉庫で新麦の入庫を見届けた日、ギデオン様が小さな袋を差し出した。
中には指輪ではなく、黄金色の麦粒が入っていた。
「今年、最初に収穫した麦だ」
「食べずに取っておけと?」
「いや。一緒に蒔いてほしい」
彼は珍しく言葉を探し、それから真っ直ぐ私を見た。
「来年も、その次の年も、君と同じ収穫を待ちたい。仕事の相棒としてだけでなく、家族として」
「求婚の品が麦粒だなんて、辺境らしいですね」
「種麦だ」
「そこは重要なのですか」
「非常に」
思わず笑うと、彼もようやく笑った。
私は袋から一粒を取り、土へ埋めた。
「お受けします。ただし、条件があります」
「聞こう」
「結婚後も、組合長を続けます」
「当然だ」
「支払いは十日以内」
「一日でも遅れたら、君に鍵を取り上げられそうだ」
「よくお分かりで」
春の畑を、柔らかな風が渡っていく。
婚約者も、王宮の地位も、立派な倉庫も、私は求められたとおり譲った。
それでも、何も失わなかった。
信用は、肩書から生まれるものではない。約束を守った日々の数だけ、少しずつ積み上がるものだから。
やがて土を割って伸びた若い麦は、北方の光の中でまっすぐに揺れていた。




