(1)だとしたら悪いことしたな
春だ。春が来た。
甲府盆地東端の山々の稜線の上から、朝日が駅前通りを明るく照らしている。
昨夜はとてもいい夢を見ていたような気がするが、目覚まし時計より三十分も早く目が覚めてしまった。
(朝倉さんと同じクラスかあ…)
昨日から高校二年の一学期が始まった。
クラス分けの掲示。二年二組に俺、結城 直人の名前と朝倉 陽菜さんの名前が書かれていた。
(だからなんだ、って話だけどさ。)
席が隣になったわけでもないし、まだ会話を交わしたこともない。
でも、この一年間は同じ教室で高校生活を過ごせるのだ。
そう思うだけで通学の足取りは軽くなる。
中央本線、塩山駅は、大菩薩嶺登山の玄関口でもある。
登山口に向かうバスが、駅前ロータリーで発車を待っていた。平日の朝だが、登山客が何人か乗っているようだ。
(よし、いつも通りだな。)
駅前広場の時計を見るまでもなく、このバスが停まっているならいつもの電車に乗れる。
塩山始発の韮崎行き。塩山から沿線の高校に通う高校生はたいていこの電車を利用する。
さまざまな制服の生徒たちと一緒に駅の階段を昇っていく。
「よう、結城。」
階段の途中で声を掛けてきたのは同じ中学から甲府の私立高に進学した高野 周平。
ときどき、駅で会う。
「おはよ、高野。久しぶりだな。」
春休みの間は顔を合わせなかったから、二週間ぶりくらいか。
といっても、こいつとの会話は長く続かない。
なぜなら、階段を上がったところで高野は毎朝、同じ制服の彼女と待ち合わせをしているからだ。
(リア充爆発しろ!)
呪いの言葉を心の中でつぶやきながら、俺は先に改札に入る。
(憧れの人と同級生になったくらいで浮かれてちゃダメか。)
とはいえ、これといった取り柄もない凡人の俺が、校内の五人美女に数えられる朝倉さんとどうこうなる、なんてことはほぼ考えられない。
(同級生になったら会話くらいできるのかなあ…)
俺はいわゆる陽キャではないが、陰キャでもない。たぶん。
一年の時も、同級生たちとは普通に会話できていた、と思う。
(そう思ってる時点でモブなのは間違いないけど。)
内心で苦笑しながらホームに降りると、県立甲斐高校の制服を着た女子が電車を待っていた。
同じ中学から唯一、同じ高校に入った氷見 詩織だ。
一年の時は別のクラスだったから、駅で見掛けても挨拶しなかったのだが、今年は氷見も同級生になった。
しかも、席が俺の一つ前だ。
(氷見は朝倉さんと仲がいいんだよな。)
氷見と話すようになれば、朝倉さんとの会話のチャンスがあるかもしれない。
(だけど、こいつには俺の恥ずかしい秘密を知られてるからなあ。)
あれはたしか、中学一年の時だったか。
(俺が気にしてるだけで、こいつは覚えてないだろう。三年以上も前のことだしな。)
そんなことを思いながら、氷見の、二人分ほど後ろに並ぶ。
(ん…?)
氷見の肩にかかった黒髪が、なぜか微妙に揺れていた。
よく見ると、黒い革靴の踵もリズミカルに動いている。
音楽を聴きながらリズムを取っている、といったところか。
普段は大人しいタイプの氷見にしては少し意外に思いながら、ぼんやりと見ていたら、「ふふっ」と笑うように肩を震わせて、それから慌てて口元を手で隠すような仕草をした。
(やっぱり、なんか嬉しいことでもあったのかな。)
ついだらしなく笑ってしまって、人前だったことに気づく、なんて経験は俺にもある。
というより、今の俺自身がまさにそんな気分だ。
(まあ、挨拶くらいはしとくか。)
電車がホームに入ってきてドアが開くと、列が乱れて「椅子取りゲーム」が始まる。
氷見は少し出遅れて、ロングシートの中ほどの席を確保して、座った。
俺は空いていても席には座らない性質だから、他の乗客たちに追い抜かされながらのんびりと乗車して、氷見の前の吊革に掴まった。
「おはよ。」
うん、完璧だ。さほど親しくない、顔見知りの同級生にする朝の挨拶。
氷見が反応しないから、音楽で聞こえなかったのか、と思ったら、一拍置いてゆっくりと顔を上げた。
「ああ、結城君か、おはよう。同じクラスだね。」
という返事が当然返ってくるものだと思っていたのだが、氷見は驚いたように目を見開いて、それから弾かれたように席から立ち上がると、俺の横をすり抜け、後ろの車両に走っていった。
(えっ…?)
周りの乗客も、何ごとかという感じで、走り去った氷見から俺に視線を戻してくる。
「なに逃げられてんだよ。」
唖然としている俺の後ろで、高野が笑っていた。俺の後ろから乗ってきて、今の様子を見ていたらしい。
「え、いや、何がなんだか…」
俺としてはそうとしか言いようがない。
「今の、氷見だよな。」
「ああ。今年は氷見と同じクラスになったからさ、挨拶しただけなんだけど。」
「そういえば同じ高校だったな。うちの中学からはお前ら二人だけだったよな。」
高野の彼女さんも驚いた顔をして、氷見が走り去った車両のほうを見ていた。
「あ、ここ、空いたからよかったら座って。」
彼女さんに、さっき氷見が確保した席を譲ると、素直に頷いて座った。
一度名前を聞いた気がするけど忘れた。隣の中学出身の子で、去年から高野と付き合っている。
「結城、氷見になんかしたのか?」
高野は彼女さんの前に立って、俺と並んで吊革を掴む。
「いや、してないって、挨拶しただけだぞ?」
「それは見てたけどさ、なんか嫌われるようなことでもやらかしたんじゃないのか?」
(うーん、どうだろう…)
同じ高校になったとはいえ、この一年はまるで会話はなかった。
毎朝のように駅では一緒になっていたけど、別のクラスの女子に馴れ馴れしく話しかける俺ではないし、高校でも女子たちから嫌われているという自覚はないのだが。
「自覚はないけど、絶対にないとは言い切れないな。」
物事には絶対はない、とかそういう次元のことではなく、高校生活の中で俺がしたことに、何かしら問題があったのかもしれない。
『やだあ、なにあの人、大っ嫌い』
とか、
『チッ、なにこいつ、キモ。』
みたいなやつだ。
(こ、これはまずい…)
俺が何かしでかしていたとすると、氷見の口から朝倉さんに伝わる可能性が高い。
『あの人、同じ中学から来たんだけど、変な人だから気をつけてね、陽菜ちゃん。』
『そうなんだ、うん、わかった。』
そんな風にインプットされていたら、好感度を上げるのは大変だ。
(大変というか、ほぼ無理だよなあ…)
いや、むしろ、先に朝倉さんが気がついたこともあり得る。
『あの人、詩織ちゃんと同じ中学の人でしょ?視線がやらしいんだけど。』
『そうなの、中学時代から気持ち悪い人なのよ。』
なんて、言われていたら最悪だ。
「あの…」
俺たちの前に座っている彼女さんが、控えめな声で言った。
「ん、どうした?」
高野が猫なで声、とまでは言わないが、優しい声音で返事をする。
「うん、私もさっき見ていたけど、そういう感じはしなかったな、って。」
「そういう感じって?」
「嫌いな男子から逃げ出す、っていうのじゃなかったと思うの…びっくりしただけなんじゃないかな。」
(なるほど…)
女子の意見はとても参考になる。
「言われてみれば、駅でしょっちゅう会うけど、挨拶したのは初めてだったな。」
「あー、それでだな。これまで無視だったのに、同級生になった途端に声掛けてきやがって、的な。」
「え、そういうこと?だとしたら悪いことしたな。」
「周君、そんな言い方したら結城君がかわいそうだよ。たぶん、ただ驚いただけだと思う…。」
彼女さん、いい子だった。ごめんよ、爆発しろなんて呪って。
「だってさ、結城。学校着いたら謝ったほうがいいぜ、驚かせてごめん、って。」
「お、おう、そうだな、そうするよ。」
それでまた逃げられたら困るけど、前の席なんだから氷見に逃げ場はない。
(でもそんな俺の前の席なんて、氷見もちょっと気の毒だな。)
氷見にとっての救いは俺が「すぐ後ろの席」だということだ。一番視界に入りづらい、という考え方もある。
そうポジティブに考えてくれればいいけど。
電車が次の東山梨駅に停まり、発車すると、高野と彼女さんは二人の世界に入っていった。
どうやら先週末は東京に遊びに行ったらしい。
(……まあ、いいや。)
高野たちのことは放っておこう。
この時季、中央本線の車窓からの景色は一年で一番美しい。
沿線の果樹園で、桃が一斉に咲きそろうのだ。
桜よりも濃いピンク色の花が、「くだものの国・甲州」の春を告げる。
ところどころ桃の木の下に咲いた菜の花の黄色が、春の彩りをいっそう華やかにしていた。
これから秋まで、サクランボ、モモ、ブドウなど、多彩なフルーツが順々に旬を迎え、多くの観光客を呼びこむ。
俺は車窓からの風景をぼんやりと眺めながら、学校に着いてからの氷見との会話をシミュレーションしていた。
(まず、『さっきは驚かせてごめんな』だよな。)
それから、話ができるようなら、氷見から事情を聞きたい。
他に気に障るようなことがあったのか、とか、俺が何か不始末をしていたのか、とか。
もし誤解があるなら解いておきたいし、不始末があったのなら謝って説明させてもらおう。
少なくとも、故意に嫌われるようなことをした覚えはない。
氷見に対して悪い印象を持っているわけではないのだから、たぶん話せばわかってもらえるだろう。
それでも怒っているようだったら…
(『同じ中学のよしみで今回だけ大目に見てくれ!』だな。)
最後は情に訴えるしかない。
なんとか覚悟が決まって、俺は暗澹とした気分から抜け出した。
高野と彼女さんに感謝だ。
一言お礼を、と思いながら高野たちに視線を戻すと、高野は前屈みに彼女さんに顔を近づけ、その耳元に彼女さんが楽しそうに何か話している。
(やっぱり爆発しろ、お前ら)
今度は本気で呪った。




