第9話:無限の後悔
「あ、あの、女将さん……?」
大切な宿泊客へ粗相をしてしまい、女将と共に謝罪をする羽目になった良太。
そんな彼に改めて声をかけた女将は、とある場所へ案内し始めた。
良太の問いかけに応える事が無いその顔には、普段と変わる事が無い穏やかな笑みが浮かんでいた。
しかし、その中に宿る女将の心を、彼は読み取る事が出来なかった。
今まで散々でたらめにダラダラと仕事をし続けてしまった報いが、あの白髪の老紳士からの説教という形で表れてしまった。
そんな自分を見て、女将さんはどう思っているだろうか。
これから怒られるのか、注意されるのか、それとも、もう自分は――流石の良太も、今回の一件は心に堪えるものがあったようで、浮かぶのは自分を責める思いばかりだった。
やがてふたりの視界に見えてきたのは、『関係者以外立入禁止』という文字が彫られている木の札が掲げられた通路であった。
良太は女将と共に、その奥へと足を進めた。
そして、壁に備え付けられたエレベーターに到着すると、女将は静かに指先を添えた。
通常のボタンではなく、まるでタッチパネルのように光を滑らせる、美しくも不思議な操作に、良太はつい視線を向けていた。
「……女将さん、一体どこへ向かうんですか?」
その問いに、ようやく彼女は口を開いた。その顔は、相変わらず笑みをたたえていた。
「『面白い光景』がご覧いただける場所ですわ」
やがて、エレベーターは目的地の階層――『-x階』という奇妙な数値を示した。
扉が開いた時、良太の目の前に現れたのは、普段と変わらない無限旅館の光景だった。無限の廊下が連なり、その横には無数の部屋がどこまでも続いていた。
そして、それらを覆うように夥しい数に増えた女将=仙台千代が、笑顔で楽しそうに『掃除』をしていた。まるで、午前中に繰り広げられていた掃除の時間のように。
お客さんが来ているのにまだ掃除を行っているのか、と彼女たちについ声を掛けようとした瞬間、良太は自分の目を疑った。
「えっ……?」
彼の隣をすれ違ったのは、どこからどう見ても『関本良太』――自分自身にしか思えない青年だった。
その表情、その猫背、その態度。あらゆる要素が、彼のやる気のなさを存分に見せつけているようであった。
「な、なんで俺が……!?」
ここに自分がいるのに、あそこにも別の自分がいる。
一体何がどうなっているのか、と唖然とする良太に、隣にいる『女将』が柔らかい声で種明かしを行った。
ここは、自分たちから見て『過去』の時間に位置する『無限旅館』の光景だ、と。
「か、過去の時間……?」
「今、わたくしたちが見ているのは、旅館に刻まれた『時の記録』。分かりやすく言えば、午前中のわたくしや関本良太さんの行動が、そのまま映されているようなものですわ」
その証拠として女将が指さした壁掛けのレトロな時計は、確かに午前中、ほとんどの客がチェックアウトしている時間を刻んでいた。
「……よく分からないですけど、つまり『立体映像』のようなものですか……?」
「ご名答ですわ。ここに映るわたくしたちへ干渉する事は出来ませんが、観察する事は可能ですのよ」
じっくり見てみましょう、と言う女将の声に促されるように、良太は『午前中の無限旅館』の様子を眺め始めた。
どこもかしこも覆い尽くし、丁寧に旅館の掃除を続ける女将たちの一方、青い作務衣で身を包んだ『関本良太』は、やる気のなさや面倒臭さ、そしてしんどさといったネガティブな要素を存分に溢れさせていた。
適当に廊下を掃き、雑巾を壁に投げるように置いて歩き回り、少し動くだけで眉をひそめため息をつく――。
『ったく……なんで俺がこんな事を……』
――挙句の果てに、文句まで呟きながらダラダラと掃除をする様子は、はてきぱきと掃除をこなす女将の大群の中で、圧倒的に目立っていた。勿論、悪い意味で。
なんだよこれ、ダサ過ぎるだろ。こんなのが、午前中の俺だったのかよ。
自分自身のあまりの醜さに良太はそう感じ、情けなさで目を逸らそうとした。
だが、それは出来なかった。視線を逸らそうとした直前、女将の口から――。
「いけませんわ」
――穏やかながらも、今までにない『厳しさ』のような感情を垣間見せる言葉が発せられたからである。
どれほど恥ずかしくても、過去の自分の姿から目を逸らす事は許されない、という注意には、不思議な説得力が含まれていた。
良太はぐっと歯を食いしばりながら、再びダラダラと掃除を続ける過去の自分自身へと視線を向けた。
そして、そのまま観察を続けているうち、彼はある事に気づいた。
「……あれ、ここって……」
午前中に掃除を担当していたこの廊下に、良太は別の形で見覚えがあったのを思い出したのである。
その様子を見た女将は、立体映像のような『過去の無限旅館の廊下』へ足を踏み入れながら、ある方向を指さした。
「こちらをご覧ください」
そこにあったのは、『51292887110509184109848745287938277号室』と書かれた部屋のプレート。
着替え中につい乱入してしまった、あの女性客がチェックインした場所だった。
だが、よく見ると数字の最期の一桁はほこりなどの汚れで曇っており、最後の1文字である『7』が『9』に見えてしまうような状態だったのである。
その事実に気づいた時、良太は愕然とし、顔を青ざめた。
「……あ……あ……」
確かに、彼は女将から託され、この廊下の区域を担当させられていた。
しかし、面倒臭さが全開になっていた彼は掃除を手抜きしており、細かい所まで意識が全く追い付いていなかった。
その過程で、部屋のプレートの汚れを完全に放置したまま直す事なく、そのまま終えてしまっていた。
結果、良太は自分自身で大きなミスを犯してしまい、客に怒られ、女将を謝らせる事態を招いてしまったのである。
「……じゃ、じゃあ……俺は俺自身のせいで……あんなことに……」
初日からの自分の怠惰ぶりが、巡り巡って自分の首を絞めた――因果応報の事実にようやく気付いた良太は、その場に立ち尽くした。
情けなさ、恥ずかしさ、そして後悔の感情が渦巻き、今すぐその場を走り去りたいほどの状況に追い込まれた。
そして、涙すら出そうになった彼に、女将は静かに手を置き、優しい口調で語り始めた。
「……確かに、貴方がお考えの通り、旅館のお仕事は決して楽なものではありませんわ。地道な作業、力仕事、細かな気配り、その業種は数えればきりがありません。だからでしょうか、わたくしも時には肩が凝ったり、全身が重くてやる気が出なかったりする日がありますわね」
「えっ……女将さんでも……ですか?」
勿論ですわ、と答えながらも、彼女は言葉を続けた。
「でも、それらのお仕事はお客様のためでもあり、同時にわたくしたちのためでもある、とわたくしは考えておりますの」
「……俺たちのため……?」
「ええ。お客様の事を考え、素敵なおもてなしをすれば、やがて巡り巡ってわたくしたちにもそのお裾分けがやってくる。良い事をすれば良い事が、悪い事をすれば悪い事が返ってくる。それが、わたくしの感じる『仕事』のありかたです」
「巡り巡って……俺たちに……」
女将の言葉を繰り返していくうち、良太はその中に含まれた優しくも真摯な思いが胸の中に染み渡っていくのを感じた。
そして、そんな様子の良太に司会を向けつつ、女将は頭を下げた。今回の一件は、決して彼だけが悪いのではない、と。
「そもそも、今回は誰かがあのプレートの汚れに気づけば起こらなかった事。そして、この『無限旅館』の『誰か』というのは、関本良太さんを除けばわたくししかいません。ですから、このわたくし、仙台千代にも責任がありますわ」
「……!」
その言葉に良太は目を見開いた。
迷惑を被ってしまった客に対して謝罪を行ったあの時、女将は決して彼に全て責任を押し付けず、自分に責任があると述べ続けていた。
それは、決して良太を庇うのではなく、自分自身にも責任があると感じた、女将の真摯な行動の一環だったのである。
女将の心遣い、仕事への姿勢を知った良太は、申し訳ない気分が溢れてきた。
いつだって女将は優しかった。自分がどれだけ怠けたりだらけたりしていても、決して叱ったり見放したりする事無く、見守ってくれていた。
大きなミスを犯したときも、責任を共有してくれた。
「あ、あの……女将さん……」
やがて、声を震わせながら、良太は尋ねた。あんなに旅館の仕事を面倒臭がったり嫌がったりし続けた自分を、どうして怒らないのか、と。
その問いに、女将は笑顔のまま答えた。
「当然ですわ。どんな形でこの場所に来たのであれ、今のあなたは『無限旅館』の一員、わたくしの大切な仲間ですもの」
その言葉を聞いた良太の目に、熱いものがこみ上げてきた。
「……ごめんなさい……本当に、今までごめんなさい……!」
ようやく、彼は心から頭を下げられた。『無限旅館』の女将である仙台千代の前で、自分の過ちを認める事が出来たのである。
そんな彼の頭を、女将は優しく撫でて慰めた。
大きくも柔らかな手のぬくもりが、胸の奥まで染みていくようだった。
こうして、関本良太と言う青年は、初めて自分自身の『仕事』に対して向かい合う事が出来た。
それは小さな一歩であったが、確かな『始まり』だった。
「……それでは、行きましょうか、良太さん」
「……はい!」
そして、彼は女将に導かれながら、静かに『過去の無限旅館』を後にした……。




