第8話:無限旅館のひとつの事件
『無限旅館』での2日目の仕事は、あっという間に午後の日程に入っていた。
様々な仕事が与えられ続けた良太は、少しの休み時間の自由も、昼に食べたまかないの美味しさも、エレベーターの中で彼を囲む女将の肉体美も、全く感じる暇がなかった。
「「「ふふ、関本良太さん、一緒に頑張りましょうね」」」
「……」
女将たちはそう笑顔で励ましながら次々に持ち場へ向かった一方、良太は不機嫌そうな表情を隠さないまま、無言で次の作業が待つ場所へ向かった。
どうせ自分がここで嫌だと言っても、無理やり仕事をしつけられるんだろう。分かっているんだから――そんな感情を態度で示すかのように。
そして予想通り、彼にはやる事が沢山待ち構えていた。
フロントでの接客、帳簿への記録、ラウンジで寛ぐ客への様々な物品の受け渡しなど、相変わらず休む暇はほとんど与えられなかったのである。
女将が笑顔を隠さない傍ら、良太は不愛想な態度を客に示すようになっていた。
彼らが良太の態度に対してどこか心配や不安と言った感情を女将にぶつけていることなど、知る由もなく。
そんな中、1人の女将が不貞腐れているような良太へ向けて歩み寄り、あるものを渡した。
「関本良太さん、こちらは『51292887110509184109848745287938279号室』にお泊りのお客様へのお届け物です」
それは、漆塗りの重箱に似た、どこか異国風の装飾が施された奇妙な箱だった。
これを持ってきて欲しいと注文されたお客様は、この旅館の中でも特に大切なご用達の方。決して阻喪が無いよう、大切に運んでほしい、とどこか念を押すように良太へとお願いした。
「……分かりました……」
やればいいんでしょ、やれば、という文句のような言葉が出るのを遮るように、女将は部屋の番号を忘れないよう数字を刻んだメモを良太に渡した。
そのあまりにも長い部屋番号を見た瞬間、彼はめまいがするような心地を覚えた。
(51292887……1105……09……1……。なんだよこれ……疲れてる人が覚えられる訳ないだろ、こんなの……)
それに、大切なお客様と言うのなら、少しばかり失敗しても許してくれるはず。
どうせ配達するだけだから、適当に当たりを付けて届ければ良いだろう――そう考えながらエレベーターを操り、目的地の階へ辿り着いた彼は、そこが午前中に担当した掃除場所である事に全く気付かなかった。
やがて、歩みを進める彼の視界に、非常に長い数字が記されたプレートが見えてきた。
だが、それらは一部が汚れており、一部の数字が見えづらい状況だった。
(えーと……5129288711050918410……なんだっけ……とにかく、ここだよな……)
最後の数字がかすんで見えづらいけれど、きっとこの部屋だろう。
そう確信した良太は、そのまま扉を開けた。開けてしまったのである。
「失礼しま……!?!?」
「キャーー!!どこを見てるのよ!!変態!!」
その中には、悲鳴のような叫び声をあげる、チーターやヒョウのような顔に、幾つもの斑点がついた美しい金色の毛並みを持つ、いわゆる『獣人』のような姿の女性客がいた。
そして、彼女はこの無限旅館で用意された着物に着替える真っ最中だった。
じっと睨みつけられている事に気づいた良太の顔は、彼女と同様、あっという間に真っ赤になってしまったのである。
「ご、ごめんなさい……!」
彼は何とか女性から目をそらしつつ、慌てて届け物の箱を差し出そうとした。
だが、返ってきたのは予想外の返事だった。
「何よこれ!?あたし、こんなもの頼んでないわよ!」
「えっ……!?」
「いいから扉を閉めて!恥ずかしいでしょ!!」
「で、でも、これ、貴方が頼んだはずじゃ……」
「知らないって言ってるでしょ!とっとと出ていきなさい!」
「そ、そんな……」
そんな文句を言われても、こっちだって訳が分からない――そう良太が返したせいで言い争いが激化しようとした、その時だった。
「その荷物、私のものではないかね?」
彼の耳に、別の声が聞こえてきた。
その方向を向くと、近くの部屋の扉が開き、そこから『無限旅館』特製の着物に着替え済みの白髪の老紳士が顔を覗かせていた。
分かったのなら早く出て行って、という怒りの言葉を浴びせられながら『獣人』の女性の部屋を追い出された良太は、改めて扉の上のプレートに記された番号を確認した。
そしてメモと照らし合わせ――。
(……う、嘘だろ……)
――最後の1桁の数字が異なっているという事実に、ようやく気が付いた。
そう、女将が託した荷物の受け取り主の部屋は『51292887110509184109848745287938279号室』であるにもかかわらず、良太は誤って『51292887110509184109848745287938277号室』――チーターやヒョウが直立歩行をしているような姿をした女性客の部屋に入ってしまったのである。
流石の良太もこの事実には顔を青ざめ、慌てて『51292887110509184109848745287938279号室』――白髪の老紳士が待つ部屋へと向かった。
「ご、ごめんなさい……こ、これ、お届け物です……」
そして、頭を下げながら老紳士に荷物を渡した彼が、そのまま部屋を去ろうとした時だった。
「待ちなさい、君に話がある」
そう言われ、足を止めた良太に、老紳士は尋ねた。昨日、部屋の布団敷きを担当したのは、もしかして『君』かね、と。
昨日も色々な事が重なって疲れ果ててしまい、どこを担当したのかはっきりと覚えていなかった彼だが、老紳士の言葉を受け、非常に長い数字が扉のプレートに刻まれていた事を薄々と思い出し始めていた。
「……た、多分、俺です……」
直後、老紳士は呆れと怒り、そして悲しみが混ざったようなため息をつきながら、まるで説教をするかのように語り始めた。
「そうか……そうだな、千代さんがあのような事をする訳がないからな」
「……どういう意味ですか?」
「この無限旅館は、無限に連なる全ての部屋で最高のサービスを提供するのが当然だと聞いていた。だが、昨日の布団は最悪だった。敷き布団も掛け布団もしわだらけで、シーツはごわごわ。非常に見栄えの悪いものだったな。あのような布団の上で客が満足して眠れると本気で思っているとしたら、呆れるばかりだよ」
「あ、呆れるって……で、でも……!」
「『でも』、とは何かな?」
老紳士の声に、あたりの空気が震える感触を覚え、良太は続きの言葉を口に出す事が出来なかった。
「君はこの『無限旅館』に勤めておきながら、客に不快を与えて平気なのかね?言い訳だけを述べて、へらへらした顔で過ごすつもりだったのかね?」
「そ、そんな厳しい事を言われても……。俺、職場体験でこの場を押し付けられただけなのに……」
「職場体験?学校行事で行うという、各地の職場に赴いて仕事を体験するというものか?」
「そ、そうですが……」
「だから何だ?」
「!?」
『職場体験』という重要な行事に参加しておきながら、そう言った態度を示し続ける。
それは自分の首を絞めるだけではなく、この『無限旅館』、職場体験の場を与えてくれた『学校』、果ては応援してくれるはずの『親御さん』の評判を陥れる愚かな行動だ。
その自覚が、君にはあるのか――老紳士が放つ『正論』には、良太の心をナイフで突き刺すような厳しさが含まれていた。
「そ、そんな……!お客様は『神様』だ、みたいな事を……!」
そんなクレームをいきなり突きつけられても困るし、そもそも自分に責任なんて無いはずだ――良太が無我夢中で反抗しようとした、その時だった。
老紳士の瞳が、鋭く光ったのは。
「……私がその『神様』に近い存在だったら、どうする?」
その瞬間、良太の全身は凍り付いた。
目の前の老紳士は、ただの『人間』ではない、と本能が警告しているようだった。
彼に出来るのは、老紳士の前で全身を震え上がらせ、無言で立ち尽くす事しかなかった。
一体どうすれば良いのか、誤って許してくれるものなのか。恐怖や絶望、不安な気持ちが溢れ、涙まで出そうになった時――。
「お客様、お話は伺いました」
――良太の傍に、1人の女将が現れた。そして彼女は、ゆっくりと頭を下げながら、自分たちの無礼を謝った。
「この度は、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。責任はすべて当旅館にございます」
今後はこのような事態が起きないよう、しっかりと対応する――そう語り続ける女将の口からは、決して良太が『職場体験中の学生』である事を利用した言い訳や、彼が仕事に慣れない『新人』である事を理由に責任の押し付けのような言葉は一切発せられなかった。
真摯に謝る女将の姿を、老紳士は無言のままじっと見つめた。そして、ゆっくりと頷いたのち、言葉を発した。
「……分かった。今回は千代さんに免じて、水に流そうとしよう」
「了解いたしました。こちらこそ、貴重な助言のほう、大変感謝いたします」
そして、老紳士に一礼するよう促された良太は、無言で頭を下げ、部屋を後にした。
続けて、女将は彼がうっかり乱入してしまった部屋――『51292887110509184109848745287938277号室』へも赴き、同じように深々と頭を下げて謝罪を行った。
部屋を間違えたばかりか、不快な気分を味あわせてしまい、大変申し訳ない、と。
「ここの女将さんが謝るなんて、珍しいものを見たわね……。仕方ないわ、許してあげる。でも、次は気を付けなさいよ、あんた」
こちらの獣人の女性客も、女将こと仙台千代が丁寧に頭を下げると、先程までの怒りはどこへやら、振り上げた拳を下げるかのように快く謝罪を受け入れてくれた。
丁寧に挨拶をし、扉を閉めた女将の様子を見て、つい良太は呟いた。
「……女将さんが謝ったら、みんな許してくれる……凄い……」
すると、彼女は笑みをたたえながら、静かに言った……。
「……少し、お時間を頂けますか?」




