第7話:しんどさ、無限大
ごく普通の男子学生、関本良太による『無限旅館』での職場体験は、2日目の朝を迎えた。
予想以上に多忙さを極めた旅館の仕事に加え、あまりにも常識外れの事ばかりが相次いだせいで、良太の身体は起きた時点で既に鉛のように重く、昨日の疲れがのしかかっていた。
そのせいで、布団から出て目覚めるだけでも一苦労であったが、時は決して彼を待ってはくれなかった。
朝食を食べ、僅かな時間の休憩が終わった直後から、良太の仕事は始まったのである。
「「「「「無限旅館のご利用、誠にありがとうございます。どうぞお気を付けてお帰りくださいませ」」」」」」
霧の向こうにある無限旅館の玄関には、その日も旅館の女将、仙台千代の姿があった。
千、万、億といった数を使った計測が不能なほどの無尽蔵の数の女将が左右にずらりと整列し、全く同じ笑顔でお辞儀をしながら、旅館での楽しい日々に後ろ髪をひかれつつも旅立っていく客を見送る――午前中の無限旅館で見られる恒例行事であった。
そんな無数の女将の中で、青い作務衣を着ている良太が立ち尽くしていた。
「あ、ありがとうございます……き、気をつけて……お帰りください……」
弱々しい声で何とか挨拶を続ける彼だが、その声はあっという間に周囲の完璧なる調和の中にかき消されてしまった。
そんな彼に、女将は声をかけた。お客様を見送る際に欠かせない、別の仕事を是非とも手掛けて欲しい、と。
そして、女将に案内されて辿り着いた先にあったのは、客の大事な荷物。
これらを、客の代わりに運ぶという、大切な役割であった。
「あ、あの……に、荷物……も、持ちます……」
重そうな荷物を持つ客に声を掛けようとする良太であったが、やはりその声はか細く、無数の女将の声が響き渡る空間では全く聞こえないようだった。
そんな彼を尻目に女将は笑顔で次々に声をかけ、客の大切な荷物を預かっていた。そして、そのうちの一部を、女将は良太に託したのである。
「それでは関本良太さん、こちらのお客様のお手回りをあちらに運んでください」
「は、はい……」
荷物の持ち主は人間だけではなく、ロボットやアンドロイド、獣人、爬虫類、泥のような奇妙な姿をした客、果ては棒人間のような存在まで多種多様。
そんな『無限旅館』の客が持ってきた荷物もまた大小様々であり、中には良太の背丈と同じほどの巨大なケースや、金属の板としか思えない奇妙な形のものもあった。
そして――。
「くっ……お……重っ……なんだこれ……!!」
――その中には、それなりに体力には自信があるはずの良太ですら動かせない程の重さがある荷物も存在した。
意地で何とか持ち出そうとする彼であったが、押しても引いても荷物は全くびくともせず、ただ疲れだけが溜まるだけであった。
こんな荷物、どうすれば良いのか、と思った時だった。
彼の傍にすっと現れ、黒い長髪をたなびかせる1人の女将が、涼しい顔でその重量級の荷物を片手で動かしたのだ。
「お客様、こちらへご案内いたしますわ」
そのまま彼女は、笑顔で荷物の持ち主と談笑しながら、軽々と玄関先まで荷物を運んでいった。
その様子を、良太はつい唖然としながら見守っていた。
その直後に、背後から客の暖かな声が響いた。あの客の非常に重い荷物を懸命に動かそうとするなんて、若いのに頑張って偉い、と。
だが、彼の耳にその誉め言葉は届かなかった。心の余裕が、じわじわと失われていたからである。
(やっぱり俺、要らないじゃん……なんでいちいち俺に仕事を押し付けるんだよ……)
その考えを抱きながら、足取り重く、良太は女将に呼ばれるがまま、次の場所へ移動していった。
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「はぁ……」
荷物運びや客の見送りが終わり、良太には再び休憩時間が与えられた。
その間、彼は気を紛らせるかのように、ラウンジの巨大な水槽のもとを訪れていた。そこには、今日ものんびりと『無限旅館』のマスコットであるカワウソたちが寛いでいた。
彼や女将の多忙さを知らぬかのように、平和な日常を過ごしているかのようなカワウソの様子を見て、良太はつい不機嫌な表情を見せた。
「お前らはいいよな、俺がこんなに苦労してるのに、呑気に暮らしていて……」
彼の愚痴の内容を知ってか知らずか、カワウソはガラス越しに彼を見守り、愛くるしい顔を返した。
どうせカワウソには人間のキツさは分からないか、とため息をついた時、彼の耳に柔らかな女将の合唱が聞こえてきた。
「「「「関本良太さん、そろそろお掃除の時間ですよ」」」」
「はいはい……」
分かりましたよ、やればいいんでしょ、と半ば投げやりな態度で、彼は次の仕事へと赴いた。
そんな良太を待っていたのは、相変わらずどこまで続くのかもわからない、果ての見えない畳敷きの廊下だった。
彼は女将から託された道具を片手に、黙々と廊下を掃除し続けた。
しかし、『無限』の廊下は当然ながら幾ら掃除をしても終わる気配はなく、いつまでたっても終点につく気配は無かった。
汗が額を伝い、腕がじんじんと痛む。やめたい、面倒臭い、もう帰りたい――彼は嫌がっている気分を全身に溢れさせながら、掃除をダラダラと行い続けた。
いっそこのまま逃げ出してもいいんじゃないか、と思った時、彼は自身の周囲に大量の女将が静かに、丁寧に、そして楽しそうに掃除の時間を味わっている事に気が付いた。
そして、すぐ横を通った別の女将は、ほんの一瞬だけ、彼と全く同じ動きで掃除の動作をしてみせたのである。
それは、まるで無数の女将が、大量の目で良太の動きを観察し、じっくりと評価しているような様相だった。
(……女将さん……手際良すぎて逆に怖い……)
良太は観念したように、再び掃除を行おうとした。すると、先程の女将が彼の方を向き、笑顔でこう語りかけた。
「関本良太さん、同じところばかり掃除をしていると飽きてしまうでしょう」
「え、いや……まあ……」
「ふふ、折角ですから、『無限旅館』の大浴場のお掃除も体験してみませんか?」
「……え?」
疑問を抱く間もなく、彼は幾人かの女将に連れられ、更なる空間へと連れていかれた。
そして、あっという間に到着した、大浴場の景色を見た良太は――。
「……」
――その光景に絶句した。
地平線の彼方までどこまでも広がる浴槽と、その横に果てしなく続く桶、椅子、鏡、シャワー。
疲れすぎて入り損ねた、『無限旅館』名物、原泉を使った巨大な大浴場の光景は、良太が立ち尽くすのに十分なほどの凄まじいスケールを見せつけていた。
だが、それに驚いている暇は与えられなかった。
「それでは、こちらの洗い場からお願いしますわ」
既に彼の周りでは、夥しい数に増えた女将がスポンジを用意し、掃除を始めていた。
そして良太も、ぐったりしたまま作業に取り掛かった。
「は、はい……」
桶を持ち上げ、スポンジで丁寧に底を拭く。椅子も同様にひっくり返し、丁寧に拭き続ける。
一か所が終わったらまた別の箇所。それが終わったら、また――大浴場の掃除も、いつまで経っても終わりが見えなかった。
しかし、ため息をつきながら周りを見ると、そこには数千、数万人単位の無数の女将たちが、全く疲れた様子も見せずに笑顔で完璧な掃除を続けていた。
そしてそこからは、廊下と同じような、『手を抜くな』『お客様のためだ』と言いたげな、無言の圧迫感のようなものが否応なしに感じられたのである。
(なんでだよ……なんで俺、こんな事やってるんだ……?)
良太のスポンジを握る手が、嫌悪感で震えた。
(畜生……学校も母さんも、どうしてこんな場所に俺を放り込んだんだよ……!)
視線を落としたまま、彼は自分の置かれている環境に対する苦しさ、辛さ、そして面倒臭さの気持ちを心の中で叫んだ……。




