第3話:無限へのいざない
「え、えっ……?」
霧の中に佇む、想像を絶する巨大旅館『昼辺・瑠斗無限旅館』、通称『無限旅館』にて、泊まり込みの職場体験をする事となった関本良太。
まず最初に、緑色の着物に身を包み、黒い長髪をたなびかせる美人女将の仙台千代についていく形で、この旅館の中を案内してもらう事となった。
だが、歩けば歩くほど、彼は自分がいる場所が文字通り『異常』である事をまざまざと思い知らされることとなった。
廊下が、窓が、そして客室の扉の列が、歩いても歩いても一向に終わらなかったのである。
右を向けば霧に包まれた森の景色が、左を向けば旅館らしい木製の引き戸が、下を向けば畳敷きの廊下が、どこまでも続いていた。
加えて、客室の扉の上に彫られていた番号もまた、想像を逸脱する値になっていた。
20390号室、39547282471号室、38584189128230580号室、43184982481908418049840481号室――普通に生きている間には到底見る事が出来ないであろう数字が、次々と良太の視界に入ってきたのである。
何故いつまでたっても終わりが見えないのか、こんな場所に入って大丈夫なのか、そもそも一体全体何がどうなっているのか――彼の心には沢山の疑問が湧き続けたが、想像を絶する光景に圧倒されてばかりの状況で、それを言葉にする事はとても出来なかった。
一方、そんな彼の前方を歩き続ける美人女将の千代は、それらがごく当たり前の光景であるかのように歩き続けた。
そして、ふと立ち止まった彼女は、良太の方へ優雅に振り向きながら微笑を浮かべた。
「ふふ、関本良太さん、これがわたくしの『無限旅館』ですわ」
「は、はい……」
心から余裕が失われていた良太は、女将の美貌に頬を染める暇もなく、ただ返事をするだけで精いっぱいだった。
そして、更に廊下を進むにつれて、良太と女将のそばを幾人かの別の存在――この旅館に滞在する宿泊客が彼の目に留まった。
着物姿の老夫婦、複数人の客、どこか異国情緒溢れた風貌の親子連れ。
中には牛や鹿のような顔をしていたり、影のように姿が明確に見えなかったり、明らかに人間とは思えないような姿をした奇妙な存在もいた。
彼らは女将こと仙台千代の姿を見かけると、どこか楽しそうに声をかけた。
日本語、英語、何語かも分からない謎の単語など、様々な言葉が飛び交う中、女将は常に笑顔を崩さないまま、丁寧にあいさつを返していった。
一方の良太の方は、そのような奇妙な客の数々にも圧倒され、会釈する事もできず、ただすれ違うばかりであった。
そして、どこまでも続く廊下の途中で、ようやく景色に変化が現れた。
向かって右側に、古風の木の枠を始めとした和風の装飾で彩られている、エレベーターと思わしき構造物の入り口が現れたのだ。
その近くで立ち止まった女将に対し、良太はようやく自分の中で抱いた1つの疑問を投げかける事が出来た。
「あ、あの……お、女将さん……」
「はい、何でしょうか?」
「さっきから凄い数字の部屋ばかりで、廊下も凄く長く感じるんですけど……。まさか、本当に無限の客室があって、廊下も無限に続いている、なんて訳じゃないですよね……?」
そんな訳はないだろう、馬鹿馬鹿しい話だ――良太は自分の言葉に対してそのような突っ込みを望んでいた。
常識外れの事態が現実に起きるなんてあり得ないという返事を、心のどこかで願っていた。
しかし、女将は笑顔を見せながら、彼の思いを打ち消す言葉を優しい口調で語った。
「ええ、その通りですわ。わたくしの『無限旅館』は、無限の敷地内に無限の客室を有していますの」
「……へ……む、無限……?い、いや、そんな冗談を……」
冗談かどうかは、その身と心で更に堪能してもらった方が分かりやすいだろう――良太の言葉へ被せるように、千代は語った。
そして、エレベーターのボタンを押し、その中に広がる巨大な空間へ良太を案内した彼女は――。
「それでは、いってらっしゃいませ♪」
「え、え、ちょ、ちょっと待っ……!!」
――良太が止めるのを聞かずにエレベーターを操作し、彼を別の階へと導いたのである。
扉が閉まり、静かな上昇音が空間に満ちる。そこまでは、良太が知るお馴染みのエレベーターと同じ要素だった。
だが、表示される数値はあまりにも異常だった。
「な、なんだよ、これ……」
4桁、5桁、6桁、7桁――表示板のデジタル数字の値が、あっという間に途轍もないものへと跳ね上がったのである。
やがて、『9398109821404938410』という数字が表示されると共に、エレベーターの中に女将そっくりの音声ガイドが響き、扉がゆっくりと開いた。
そして、その階に足を踏み入れた良太の視界に入った窓の景色は、先程とは全く異なるものだった。
雲海のように広がる白銀の霞という、まるで空の上にいるような光景の中に、延々と連なる、屋根、屋根、そして屋根。木造建築の屋根瓦が、まるで無限に続く山並みのように、どこまでも果てしなく続いていたのである。
加えてそれらを結ぶように、渡り廊下のような建造物が血管のように張り巡らされていた。
人間の設計ではありえないような、まるでバグを起こしたような光景。だが、それが建物である事は、疑いようもない事実だった。
(……まさか、あれ、全部『旅館』……!?)
そう考え、良太が愕然とした横に――。
「うふふ、関本良太さん、9398109821404938410階へようこそ♪」
「うわっ!?お、女将さん……!?」
――何の前触れもなく、この『旅館』を司る美人女将の仙台千代が姿を現した。
彼女はまるで最初からその場にいたかのように、良太へ向けて微笑みを見せていた。
「な、何が……何がどうなっているんですか、これ……!?」
「ふふ、先程申したでしょう?ここは『無限』に広い『旅館』。わたくしや貴方が思いつく限り、色々な階へ向かう事が出来るのですわ」
「は、はぁ……」
良太に出来るのは、深く理解するという行為を放棄する事のみだった。
それ以降も、彼は千代に促されるかのようにエレベーターに乗り、幾つもの階を巡り続けた。
『3938493849029階』、『418741982198291階』、『5385289389392191823階』――どの部屋へ向かっても、そこに存在するのは、果てしなく伸びる廊下、右側にどこまでも景色を映し出す窓、そして左側に延々と続く客室であった。
加えて、窓の外には、まるで異世界のような景色が映し出されていた。
捻じ曲がり、重力に逆らうように伸びる渡り廊下、不気味に赤く輝く夕焼け空、月面を思わせる荒涼とした砂漠、幾何学模様が複雑に絡み合う異様な空間――良太の想像を絶する光景が、次々に繰り広げられていた。
そして、それらの階へ移動する度に、良太の近くには何故か必ず女将が姿を現していた。
エレベーターに同乗していないにもかかわらず、ずっと傍にいるかのように彼女は笑顔で語り掛けてきたのである。
(な、なんで女将さんが……瞬間移動でも使っているのか……?)
やがて、エレベーターは良太が見慣れた『値』を表示した。ようやく彼は、元の階へ戻る事が出来たのである。
本格的に働き始めるなのにすっかり精神が混乱しきった彼であったが、女将はここからが本格的な無限旅館の職場体験についての案内だ、と語った。
なんだよそれ、いい加減に少し休ませてくれよ――そんな愚痴が心の中に浮かぶもそれを口に出す事は出来ないまま、再び彼はエレベーターに乗せられた。
そして今回は、女将も一緒に乗り込んできた。
「女将さん……俺、これから一体どうなるんですか……?」
何とか自分の中に沸いた疑問を口に出せた良太に、彼女は笑顔で語った。
「ふふ、次は関本良太さんがしばらく寝泊まりする場所へご案内いたしますわ。『他のわたくし』にも、しっかりご挨拶なさいませ」
「……え、他の、わたくし……?」
聞き慣れないフレーズに良太が眉をひそめる中、エレベーターが示したのは、これまた普段の生活ではめったに見かける事のない奇妙な数値だった。
『√-1階に到着いたします』
「ルートマイナスイチ……?」
女将に似たアナウンスの言葉を、イマイチ理解しきれないように繰り返す良太に、女将は簡潔に説明した。
「分かりやすく言えば『虚数階』と呼ばれる階層ですの。関本良太さんも人間の学校で習ったかもしれませんわね。2乗すると『-1』になる数字の事ですわ」
「は、はぁ……」
「そこは、これからのあなたを含めた『無限旅館』の従業員が暮らす場所ですのよ」
理屈になっているようななっていないような、直感で理解しづらい女将の言葉に、良太は首を傾げるばかりだった。
そして、今までの階層と比べて若干薄暗い『√-1階』を歩き続けた良太の前に、巨大な扉が現れた。
そこがこの職員専用の大広間だと案内した女将=仙台千代は、ゆっくりと扉を開いた。
その中に立っていたのは、仙台千代だった。「うふふ♪」
その隣に立っていたのも、仙台千代だった。「うふふ♪」
その隣の隣にも、また仙台千代だった。「「うふふ♪」」
更にその隣の隣も、仙台千代だった。「「「うふふ♪」」」
そして、その隣にも、その向こうにも、その両隣にも、その数メートル後ろにも、その周りにも、その近くにも、その遠くにも――。
「うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」うふふ♪」…
――その空間の中は、『仙台千代』で覆い尽くされていた。
顔も声も髪型も、桜の髪飾りも、緑色の着物も、スタイル抜群の肉体も、そして所作までもが寸分違わぬ『無限旅館』の美人女将・仙台千代の大群が、無限に広がる大広間を地平線の果てまで覆い尽くし、一糸乱れぬ笑顔で良太を迎えいれたのである。
「「「「「「お待ちしておりましたわ、関本良太さん♪」」」」」」」
「は、は、はぁぁぁぁぁぁ!?!?!?」
彼が発した絶叫は、部屋の中で無限に反響していった……。




