第20話:それは無限の未来のひとつ
「ふぅ……」
自分以外誰も入っていない、下手なプールよりも遥かに広大な面積を持つ露天風呂。
湯煙の向こう、霧が若干晴れた景色の中に広がる、どこまでも果てしなく続く緑の山々を眺めながら、良太は心の底から大きく息を吐き、数日の間に疲れが蓄積した体を癒し続けていた。
3泊4日で職場体験を続けていた、『無限旅館』の△階に位置する、文字通り無限の面積や容量を有する大浴場や露天風呂。
その常識外れの場所に、彼が落ち着いて身を沈める事が出来たのはこれが初めてだった。
この大浴場自体に足を踏み入れた時は何度もあったが、それらはほとんどが床や様々な備品の掃除のため。
夕食後に入る機会もあったが、多数の仕事で疲れ果てた良太は大浴場に向かう気力が湧かず、部屋に備え付けのシャワーだけ浴びて寝てしまっていた。
それに、3日目の夜は無数に押し寄せた人気アイドルこと母の大群を前に魅了され過ぎてしまい、入浴どころではなかった。
結果、ようやく最終日になって、女将の好意に甘える形でのんびり浸かる時間を得られたのである。
『無限旅館』の名物と銘打たれている温泉だけあって、体の芯まで温かくなり、全身に活力が湧くように良太は感じていた。
(本当に気持ち良い……。というか、この温泉も水平線が見えるぐらいでかいし、『無限旅館』は本当に広すぎて全容が分からないな……)
そんな感想を抱きつつ、彼は霧を突き破るようにそびえ立つ、ひときわ大きな2つの山を見つめた。
この露天風呂や大浴場のお湯の原泉が湧き続けている、『昼辺山』と『瑠斗山』という、少し変わった名前の山々。
以前女将が教えてくれた、この旅館を支えてくれているという霊峰である。
(確か女将さんが言ってたな……。あの山々があるからこそ、『無限旅館』は『旅館』として成り立っている、って……)
常識外れのこの旅館も、何でも出来そうな万能の女将も、様々な存在に支えられながら生き続けている。
それはきっと、自分にも当てはまるかもしれない――温泉の効能からか、どこか良太は自分の頭が少し冴えてきているようにも感じた。
そして、彼は存分に貸し切り状態の温泉の心地良さを全身で堪能したのであった。
やがて、すっかり疲れが癒された良太は、ゆっくりと大浴場を後にし、更衣室へと向かった。
そこには、4日間ずっと着続けていた作務衣と並ぶ形で、普段着が置かれていた。
風呂上がりの良太が袖を通すのは、もう青色の作務衣ではなかった。
長いようであっという間だった職場体験も今日で終わり。
今の彼は『仲居』ではなく、1人の『客』としてこの旅館で過ごす身になっていたのだから。
(……なんだか寂しいけど、仕方ないか……)
名残惜しさを心に感じつつも、彼はゆっくりとシャツやジーンズを着て、『日常』へ戻る準備を行った。
ドライヤーで髪を乾かした後、男性用の更衣室を出た彼を待っていたのは、普段と変わらない優しげな笑顔を見せる女将だった。
そして彼女は、瓶に入ったコーヒー牛乳と、ふんわりとした見た目の饅頭を手渡した。
「良太さん、温泉の後にはこちらがおすすめですわ」
ありがとうございます、と頭を下げた良太は、早速女将の好意を存分に頂いた。
コーヒー牛乳の冷たく甘い味わいが喉を潤し、柔らかなあんこの甘みが火照った心によく染みた。
客として食べるだけでも美味しいものばかりだったが、その裏で奮闘する女将の事を冠考えると、より美味しくなる――そう良太は感じた。
その後、彼は女将に案内され、玄関近くのラウンジへと向かった。
昨日『無限旅館』を貸し切っていた『無限人』+『無限人』の団体客は既にチェックアウトを済ませており、内部はがらんと静まり返っていた。
いるのは、水槽の中で今日ものんびり寛いでいるカワウソ――無限旅館の女将こと『仙台千代』の本当の姿であるニホンカワウソのみ。
まるで旅館そのものが、昨日の喧騒が終わった事で落ち着きを取り戻し、ゆったりとした時間を演出しているようだった。
(……いよいよ、終わっちゃうんだな……)
面倒臭さや嫌気でいっぱいだった初日には想像もつかなかった感想が、ラウンジの椅子に座った良太の心に溢れていた。
色々な出来事を経て、様々な『非現実』を体験して、折角愛着がわいたのに、ここから去ってしまうなんて――そう感じた時だった。
玄関にある巨大な自動扉が、静かに開いたのは。
「「「「「「いらっしゃいませ、無限旅館へようこそ」」」」」」」
大群になって左右にずらりと並び、いつも通りの笑顔で出迎える――良太がのんびりしている間にも、千代たちは普段通りの業務を日常としてこなしていた。
そして、彼女たちに歓迎された来客を見て、良太はどういう訳か、妙な心地を感じた。
(あれ……?)
そこにいたのは、20代ぐらいの年齢と思われる1人の若い男性。
どこか落ち着いたような雰囲気に、旅慣れた風情を醸し出していた。
眼鏡が似合うどこか整った顔つきに、どこか懐かしさのようなものを感じる目元や仕草――間違いなく、良太はその男性を知っているような気がした。
でも、彼の名前は何なのか、そもそも彼が何者なのか、思い当たる節が一切無かったのだ。
どういう事なのだろうか、と悩んでいた時、良太はふと男性が抱えている鞄が気になった。何が入っているかは分からないが、見るからに大きくて重たそうだった。
そして、考えるよりも先に良太の体は動きだし、彼のもとへ歩みを進めていた。
「あ、あの……!その荷物、俺が持ちましょうか……?」
その言葉が口に出た瞬間、良太はしまった、と言う表情を浮かべてしまった。
当然だろう、今の彼はもう『無限旅館』の仲居ではなく、ごく普通の一般客として過ごしている身。
親切心からとは言え、そんな存在に突然声をかけられてしまっては、客は勿論、女将も驚かせ、迷惑をかけてしまうかもしれないからだ。
そして案の定、男性もまたどこか驚いたような表情を見せてしまった。
すいません、と慌てて謝る良太だったが、その男性はすぐにその表情を笑顔に変えながら、こう言った。
「ありがとう、親切なお客さんだ。でも大丈夫だよ、俺でも十分持てるからさ」
「え、でも……」
「それに、君は『職場体験の最終日』。それまで色々あったんだろ?今日は少し、ゆっくりしておきなって」
「……!!」
なぜ見知らぬ男性が、出会ったばかりの自分のここまでの状況を把握しているのだろうか。
突然の言葉に驚く良太を尻目に、男性はたくさんの女将たちへ一礼をし、チェックインを終えた後、旅館の無限の空間へと消えていった――。
「千代さん、早く来過ぎちゃってすいません」
「いえいえ、全然構いませんわ。わたくしに会うのを楽しみにしていたのでしょう?」
「えへへ、実はそうです……」
――女将と顔馴染みの仲である事を示すような会話と共に。
やがて男性が去った後、良太は先程の行動を女将たちに謝った。
「すいません女将さん、つい癖で……」
「お気になさらず。素晴らしい心掛けですわ」
不安な心を落ち着かせるような笑顔にほっとした良太は、この機会だからと先程自分が抱いた奇妙な思いの理由を尋ねてみた。
あの客はいったい誰なのだろうか、どこから来た人なのだろうか。
「……と言うか、初めてあったはずなのに、どこかで見た事がある気がするんですよ……。プライバシーに関わるかもしれませんけど、あの人は一体……?」
すると、女将はどこか楽しそうに語り始めた。
「良太さん、覚えていますか?この『無限旅館』にあり得ない事はあり得ない。あらゆる場所やあらゆる世界に繋がっていると言うのも十分起こりうる事ですわ。それに、『あらゆる時代』にも、ね」
「……あらゆる、時代……?」
「ええ。それは良太さん、『貴方の未来』も、例外ではありませんのよ」
「俺の未来……え、じゃ、じゃあ……!?」
その言葉に、良太はようやく気が付いた。
あの『男性』に既視感を抱いたのも、どこか慣れ親しんだような雰囲気を感じたのも、そして彼が自身の事を何でもお見通しのような感じだったのも、実は当然の話であった事に。
「……そうか、あの人は……って、『大人の自分』を他人呼ばわりするのはなんか変ですね」
「うふふ、またの御来客、いつでもお待ちしておりますわ、『関本良太』さん♪」
自分が再びこの場所を訪れるという『未来』を、良太ははっきりとその目に焼き付けた。
ただ、その『未来』を本当に掴めるかどうか、その確証はない。もしかしたら、別の世界の『過去』からやってきた存在なのかもしれない。
それでも、1つだけ、彼は確実な事を得る事が出来た。
(『無限旅館』は、いつでも俺を待ってくれるんだ……)
胸に広がるその思いを、良太は幸福に感じた……。




