第2話:ようこそ、無限旅館へ
霧の中に忽然と現れた、どこまでも果てしない高さや広さを見せつける、常識を超越するほどの巨大な和風の建物――それが、関本良太と言う青年が3泊4日の泊まり込みで職場体験をする事となった『昼辺・瑠斗無限旅館』であった。
その威容に愕然とする良太を乗せ、彼の母が運転する車は旅館の門構えを潜り抜けた。
そして、そこには更に広大な空間が広がっていた。
無数の石が丁寧に敷き詰められた石畳の先に待つ、唐破風造りの玄関。
その軒下にぶら下がっている夥しい数の金色の行灯が、旅館を包む霧を払うかのように灯されている。
建物に近づけば近づくほど、ますますその現実離れぶりが分かるようだった。
「……なんだよ、これ……」
つい心境を口に出してしまった良太を、車を運転しながら彼の母は窘めた。
これからしばらく働く事になるこの場所で、失礼な物言いはしないように、と。
分かっているよ、とどこかふてくされたように返す良太の口調は、職場体験に対して抱く面倒臭さと、常識外れの空間への不安さを醸し出すようだった。
そして、車は巨大な自動扉の近くに停まった。
助手席の扉が開くのに合わせて、良太は仕方なさげな態度で腰を上げ、母と並んで旅館の正面へと歩みを進めた。
背筋を伸ばし、若い頃と変わらない整ったスタイルを見せつけるかのように進む母とは対照的に、良太はいかにもやる気が無さそうな雰囲気を見せながら、扉の向こうへとゆっくりと足を踏み入れた。
その時まで、良太はこう思っていた。
確かに外は滅茶苦茶凄いかもしれないけれど、内部は大したことが無い、普通の旅館なんだろう、と。
だが、自動扉の先に広がる景色を見た瞬間、その考えはまるで霧が払われるかのように消え失せた。
そこには、『和』で彩られた空間が広がっていた――いや、『空間』と簡単に呼べるような生易しいものではなかった。
日本風の建築とホテルの構造を組み合わせたようなその光景の中には、木目調の美しい床や天井、それらを支える木造りの柱が果てしなく続き、どこまでが壁なのか、どこからが通路なのか、判別がつかない程に広大だったのである。
それは、まるでこの光景の中に巨大な得体のしれないものが宿り、圧倒的な威厳や存在感を見せつけているようであった。
自身の目に映る光景が信じられず、再び唖然としてしまう良太の一方、母はそんな凄まじい光景に慣れているかのような余裕の笑顔を見せていた。
それに気づいた良太が、一体何がどうなっているのか、この場所は何なのか、慌てて尋ねようとした時だった。
「ようこそ、昼辺・瑠斗無限旅館へ」
柔らかく、耳に優しく残り、それでいて凛とした声が辺りに響いた。
その方向を向いた良太の目に映ったのは、彼と母の前に立つ、1人の女性だった。
桜の花びらのような飾りを付けた深い緑色の着物をふわりと身に纏い、漆黒の長い髪をゆるやかに伸ばした姿。
はっきりとした輪郭を持つ整った顔立ちには、彼女を存在を魅了しそうな優しげな瞳と、疲れや混乱を癒すような穏やかな瞳が浮かんでいる。
そして、母と同じぐらい、30代から40代辺りの年齢を思わせるその風貌からは、まるで和風の絵巻物から抜け出したかのような、可憐と威厳が漂っている。
そんな、今までに見た事が無い『美』の雰囲気を醸し出す和装の女性に、良太は思わず見入っていた。
やがて、そんな彼の様子を確かめるかのように、女性は先程と同じ、優しくも凛々しい声で語り始めた。
「お話は既にお伺いしております。この度は、わたくしの旅館での職場体験を選んで頂き、誠にありがとうございます」
そして、丁寧な一礼をしたのち、彼女は上品に言葉を続けた。
「わたくしはこの旅館を預かっております、『仙台千代』と申します。以後、お見知りおきを」
そう言いながら優しげにウインクを見せる彼女――旅館の女将である仙台千代の姿に、良太はどこか戸惑いのような感触を覚えていた。
当然だろう、彼女は何の気配も拍子も無く、無限に続く空間の中から不意に現れ、まるで自分たちの事を見透かしているかのような風貌で、丁寧な自己紹介を行ったのだから。
どこか人間離れした、いや、まるで『別の世界』の存在のような女将に対して不思議で奇妙な感覚を抱いていた良太の隣で、母は一歩近づき、親しげに声をかけ始めた。
「お久しぶりです、千代さん。相変わらずお元気そうで何よりです」
「ふふ、そちらこそ変わらずお美しいですね、美門さん」
(えっ……千代さん……?美門さん……?)
良太が驚くのも当然だろう。摩訶不思議な雰囲気を持つ美人女将である仙台千代に対して、ごく普通の人間であるはずの彼の母こと『関本美門』が平然と視線を交わし、下の名前で呼び合うほどに仲良く接していたのだから。
もしかして、母さんはこのヘンテコな旅館に何度か泊まった事があるのだろか、と疑問を抱いた良太であったが、それを口にする前に彼はちゃんと挨拶をするよう母に促されてしまった。
そして、彼は目の前の美女に対し、ぎこちなく挨拶を行った。
「あ、あの……関本良太です……。よろしくお願いします……」
その声は小さく、語尾も尻つぼみで、いかにも無理やり言わされているような雰囲気を醸し出していた。
そんな様子を見ながら、折角この素敵な旅館を選んだというのにずっとこういう調子で申し訳ない、と苦笑しながら謝る母に、女将こと仙台千代は優しく首を振った。
「いえいえ。初めての環境と言うものは誰でも緊張するものですわ。美門さんも息子さんも、どうぞお気になさらず」
「……それもそうですね、千代さんがそう言うのなら」
女将の言葉は、良太の心の緊張を解きほぐすような優しい響きを秘めていた。
しかし、周りに広がる無限の大広間を見ていると、良太にはとてもそのような気分にはなれなかった。
そんな様子を見た彼の母こと関本美門は、怖気づく息子を励ますように背中を軽く押した。
「それじゃ、千代さん。4日間、うちの息子をよろしくお願いしますね」
「はい、しっかりとお預かりしますわ」
「しっかり頑張って、良い経験を得るのよ。良太」
「……うん、分かった……」
そう言って去っていく母を見送りながら、良太は心の中でため息をついた。
こんな無茶苦茶な場所の職場体験なんて、さっさと終わらせて帰りたい――彼の心の奥底には、そんなネガティブな思いがずっと根を張り続けていたのである。
母の姿が消えた後、旅館の広すぎる玄関には、女将である仙台千代と、これから職場体験を始める事になる男子学生の関本良太、2人だけが残された。
すると、女将は良太に声をかけた。まず、この『昼辺・瑠斗無限旅館』、人呼んで『無限旅館』の案内を始めたい。
広大な空間の中ではぐれないよう、自分にしっかりついてきて欲しい、と。
「は、はい……」
そして、彼女の言葉に頷いた良太は、その背についていった。その直後、奇妙な心地が彼を包んだ。
無限に広がっているはずの空間なのに、女将に付き従って歩いた途端、僅か十数歩だけでその『端』――壁が見える場所に辿り着いてしまった。
歩いている間に経過する無限の時間を省略した、『瞬間移動』のような事態が、実に呆気なく起きたのである。
「え、え、え……?」
混乱する良太であったが、彼を待っていたのはそれ以上に常識外れな光景だった。
「さあ、ご覧ください」
女将の言葉に促された良太の視界に入ったのは、『廊下』だった。
それもただの廊下ではない、見渡す限り果てしなく続く、桁外れの長さであった。
そして、廊下の右側にはどこまでも景色を移し続ける窓が、左側には客室らしき扉が、どれも寸分違わぬ同じ意匠で並び続けていた。
ずっとずっと遠くまで、全く同じ景色が、文字通り『無限』に、世界の果てにまで伸びていたのである。
「……な、なんじゃこりゃ……」
こうして、良太は本格的に『無限旅館』へと足を踏み入れる事となった。
その先に何が待っているのか、この時点の彼には想像すらできなかった……。




