第19話:無限の喧騒が明けて
(……はっ……)
目を覚ました良太は、しばらくの間、天井を見ながらじっとしていた。
『無限旅館』の従業員が暮らす『√-1階』に用意された、自分専用の仲居部屋。
すっかり見慣れた和風の調度品や淡い照明に包まれた落ち着く空間が、彼の周りに広がっていた。
(……えっと……確か俺は……)
良太の中に残る最新の記憶は、常識では考えられない数にまで増殖した彼の母=関本美門が、その美貌や肉体、そして昔よりもさらに魅力が増したアイドルの本気を存分に発揮させ、彼を熱狂の海に沈めた、と言う内容であった。
そこからどうなったのか彼は一切覚えておらず、気付いた時には仲居部屋で眠りに就いていた、と言う訳である。
(……昨日はガチでヤバかったな……)
脳裏に蘇るのは、万、億、兆、京、いやそのような単位では到底表しきれない『無限』と言う数値に増殖した母の大群。
アイドル時代から変わらない、いやそれ以上に魅力が増したかもしれない母の大群がもたらした圧倒的な存在感は、彼の記憶に強烈な印象を与えてしまったようである。
(うぅ……思い出すだけでくらくらする……)
そんな感じで、布団の中で悶々としていた時だった。
「おはようございます。よくお眠りになったようですね」
その声に心臓が飛び出そうになるほど驚いた良太は、大慌てで跳ね起きてその方向を振り向いた。
そこには、枕元にしゃがんでこちらの方向を笑顔で見つめる、『無限旅館』の女将の姿があった。
「お、女将さん……!?い、いつからそこに……!」
「ふふ、ほんの少し前ですわ。ですから、大慌てされなくても大丈夫ですのよ」
「は、はい……」
気恥ずかしさが抜けない彼は、改めて女将の容姿を見た。
長く艶やかな黒髪、おっとりしたような優しい微笑み、桜のような花の模様を胸元に付けた緑色の着物、そして凛とした佇まい。
間違いない、そこにいるのは『アイドルの母さん』ではなく『女将さん』だ。
見慣れた彼女の姿に、良太は安心感を覚えていた。ようやく日常が戻ってきた事に、安心するかのように。
そして、ふと部屋にある掛け時計を見た時、彼の顔色が変わった。
その時計が示していたのは午前10時。本来なら既に朝ご飯を食べ終え、『宿泊客』のチェックアウトに関する業務が始まっている時間だったのだ。
「やばっ……もうこんな時間……!?って、そうだ!!女将さん、母さん!昨日の母さんたちは!?無限人の母さんは……!?」
「良太さん、落ち着きなさいませ」
急いで立ち上がり、部屋を後にして業務へ向かおうとした良太を、女将は静かに手を差し出して制した。
そして、そんなに慌てなくても大丈夫だ、と彼女は伝えた。
「昨日お泊りになりましたお客様、良太さんのお母様は、貴方が眠っている間に全員ともチェックアウトされましたわ。ご安心くださいませ」
「そ、そうだったんですか……」
ほっとして腰を布団に下ろした良太だったが、それでも一抹の不安が残った。
この無限旅館全体を貸し切り、色々とやりたい放題をやった母の大群だったけれど、彼女たちが訪れたのは自分の仕事を見に来たからという理由があったはず。
客の見送りと言う大切な業務をこなさなくて大丈夫だったのか、と尋ねた良太に、女将は笑顔で返した。
「それにつきましては、お母様たちからご要望がありましたの。あれだけ頑張った良太さんを無理やり起こすのは気が引けるから、そっとしておいて欲しい、とね」
「そうでしたか……」
安心したような、寂しいような、複雑な感情を抱いた彼へ、女将は1枚の写真を見せた。
そこには、満面の笑みをたたえた無数の母――フリフリの衣装を身に着け、当時と変わらぬ魅力を見せつける元・アイドルの関本美門たちに囲まれ、混乱の極みながらも、どこか幸せそうな笑顔を浮かべている良太が写し出されていた。
「素敵な光景ですわね♪」
「い、いつの間にこんな写真を……」
「うふふ、あの光景は夢ではないという確固たる証拠ですわ」
「ま、まあそうですね……」
女将の手際の良さに少しだけ驚きつつ、良太はずっと抱いていた疑問を投げかけた。
結局、あの無数のアイドル衣装の母たちは何者だったのか。どこから来て、どこへ去っていったのか、と。
しかし、女将から返ってきたのは笑顔と共に発せられた、含みのある回答だった。
「ふふ、それに関しては、お客様のプライバシーもありますので深入りはしておりませんの」
「ぷ、プライバシー……」
最後まで謎ばかりの事態に肩をすくめつつも、彼は思った。
(……全く、最初から最後まで母さんと女将さんに振り回されっぱなしだったな……まあ、でも、それでも良いか……アイドルの母さんの…)
「アイドルとしてのお母様のお姿を、たっぷりと目にも心にも焼き付けられて良かったですわね♪」
「ちょ、ちょっと、女将さん……人の心を読まないでくださいよ。俺にだってそれなりにプライバシーはあるんですから……」
「あら、ごめんなさい。でも、これは偶然ですわ」
本当なのかどうか、こちらも謎と不思議ないっぱいの女将は、いつもと変わらぬ微笑みを見せた。
そして、それにつられるかのように、良太も笑った。
しばしの間、『無限旅館』の片隅で、ふたつの笑い声が優しい響きを作り出していた。
やがて、そんな気持ちが落ち着いた頃、良太はぽつりと呟いた。
それを口に出してしまうのは寂しい。でも、時間を変える力は自分にはないし、受け入れるしかない――彼はそう考えていた。
「……今日が、職場体験の最終日なんですよね……」
「そうですわね……。良太さん、『無限旅館』でのご体験、いかがでしたか?」
その問いに、しばらく考えた良太は、正直な気持ちを語る事にした。
「最初は何もかも滅茶苦茶で、常識なんて通じない空間に1人だけ放り出されたような感じになって……。というか、それ以前に先生から無理やり押し付けられて決まった場所ですし、何もかも忙しくて大変で、もう逃げ出したいって何度も思っていました」
「ふふ、その思い、良太さんの態度にしっかり表れていましたものね」
「恥ずかしい限りですよ、もう……。でも、そこからあんな出来事があって、色々な人たちと会って、俺の中の何かが変わった気がします」
その『何か』というのを具体的に表す言葉が見つからない、自分のボキャブラリーの無さが情けない、という彼を慰めるかのように、女将は言葉を発した。
それだけで十分。少しでも良い方向で『何か』が掴めたとしたら、それはきっと素晴らしい体験と言って良いだろう、と。
「そして、それがわたくしの『無限旅館』を舞台として得る事が出来たら、旅館冥利に尽きますわ」
「ありがとうございます、女将さん」
彼女の優しい言葉に、良太が微笑みを返そうとした時だった。
今になって、彼はある重大な事を失念していたのを思い出してしまったのだ。
この『無限旅館』で行われた3泊4日の職場体験を、これからレポートとしてまとめて学校に提出しなければならない、と言う事を。
すっかり忘れていた、と落ち込む彼であったが、問題はそれだけではなかった。
「……この体験、どうやってレポートに書けばいいんですかね……。ロボットのお客さんに妖怪の皆さん、無限の母さんに女将さん、常識外れの事ばかりでしたし……」
ありのままに記しても、先生たちに信じてもらえるわけがない。どうすれば良いのか、と頭を抱える彼の前に差し出されたのは、1冊のノートだった。
「そう言うと思っていましたわ。こちらをご覧くださいませ」
ページを開いた良太は驚いた。そこには丁寧にまとめられた、『普通の旅館』での職場体験のレポートが記されていたのだ。
しかも、手書きの文字や絵柄、図形などは、どこからどう見ても関本良太本人の筆跡だった。
こんなものを書いた覚えがないのに、一体どういう事なのか、と尋ねる良太に、女将はどこか自慢げに答えた。
「ふふ、良太さんがお仕事を頑張っている間に、学校へ提出するレポートを書いたのですわ。良太さんの文字の筆や筆圧も、わたくしが変化の術を応用して真似させて頂きました」
「そ、そうだったんですか……」
「それに、この旅館は人間の常識を逸脱した場所。企業秘密も多いですし、こちらの方がわたくしにとっても都合が良いですもの」
完璧すぎる気遣いに、良太は脱帽した。
「まさか、俺の宿題の代行までやってくれるなんて……」
「良太さんが『無限旅館』で働く事の楽しみに気づいて頑張ってくださったご褒美と捉えてくれれば嬉しいですわ」
「ありがとうございます……!そ、それじゃ別の宿題……は、やってくれないですよね、勿論……」
「勿論ですわ。これは今回だけの特別サービスですもの……ふふふ♪」
「そうですよね……ははは……」
やがて、ふたりは部屋の中に再度笑い声を響かせた。少しだけ、名残惜しさを垣間見せながら。
無限のように長く思えた職場体験の最後の1日は、こうして静かに幕を開けた……。




